2018年11月2日配信(予定)のメルマガ金原No.3319を転載します。
追悼 月山 桂 先生~講演録「月山 桂 弁護士 憲法への思いを語る」(2005年8月25日)を読む
先ほど、和歌山弁護士会会員、月山桂先生の通夜式に参列して事務所に戻ってきたところです。昨日午後、和歌山弁護士会事務局から、「本日(11月1日)月山桂先生がお亡くなりになった」ことを会員に知らせるFAXが届き、悲嘆の思いにかられた弁護士は数多かったことでしょう(弁護士だけではなく事務職員も~私の事務所の事務員のように)。
月山桂先生の略歴は、先生が2009年5月に自費出版された『法曹界に生きて平和を思う』の巻末に掲載されたものを、本稿末尾でご紹介しています。
そこに記載されているとおり、大正12年3月31日生まれの先生は、中央大学法学部在学中の昭和18年、学業半ばで応召され、多くの学友、戦友を喪うという体験をされた後、戦後学業に復帰して司法試験に合格され、6年余り裁判官生活をされました。
昭和31年6月から、郷里の和歌山で弁護士としての仕事をスタートされ、長らく第一線で活躍してこられました。
本来の弁護士としての業務以外にも、様々な公職を務められた月山先生が、とりわけ熱心に取り組まれていたのが「人権と平和」であったと思います。
応召後の月山先生は、満州にあった関東軍経理部教育隊での勤務の後、内地の原隊に復帰し、郷里和歌山の護阪師団の主計少尉として敗戦を迎えたのですが、先生は、そのように幸いにも命ながらえた自分には、「戦争とか軍隊というものの勝手気ままな、軍、優先の実態を」「語り継ぐのが私の義務だと思っております。」(後掲の講演録から)という揺るがぬ信念を生涯貫かれました。
2005年5月13日に和歌山弁護士会会員有志が「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」を立ち上げた際にも、その趣旨に全面的に賛同され、進んで顧問を引き受けてくださいました。
また、同年9月に発足した「九条の会・わかやま」よびかけ人も引き受けられました。
月山先生は、単に顧問やよびかけ人に名前を連ねるというだけではなく、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」が提唱して、憲法記念日にJR和歌山駅前で行うようになった9条を守る署名活動にも進んで参加され、また、8月の第一土曜日に開催される紀州おどりに「九条連」を結成して参加するようになってからは、何年も、先頭の横断幕を持って「九条連」を先導される月山先生のお姿がありました。
ここ何年かは体調がすぐれず、お姿を拝見する機会もめっきり減っていたので、心配していたところに接した訃報でした。
今まさに、現職の内閣総理大臣が、憲法尊重擁護義務をかなぐり捨て、自衛隊の幹部会同や観閲式、さらには国会での施政方針演説において、9条改憲への強い意欲を示すという、日本国憲法制定以来最大の危機を迎えています。
この時にあたり、月山桂先生を喪うことは私たちにとって痛恨の極みです。
私たちは、1人1人が自らの責務を自覚し、日本国憲法の平和主義を守るために、なし得る全てをやりぬくことを、月山先生の霊前に誓いたいと思います。
月山桂先生が、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」からの依頼に応え、「憲法への思いを語る」と題して和歌山弁護士会館でお話されたのは2005年8月25日のことでした。
その講演録については、翌年6月に刊行された「憲法9条を守る和歌山弁護士の会 創立1周年記念誌 平和のうちに生きるために」の中に収録され、これを同会創立10周年の日に、月山先生のお許しを得て、私のブログでご紹介させていただきました。
2015年5月13日
憲法9条を守る和歌山弁護士の会・創立10周年の日に月山桂弁護士の講演録を読み返す
ただ、その際は、講演録全文のPDFファイルにはリンクしていたものの、ブログ本体には、抜粋してのご紹介となっていました。
このたび、月山桂先生を追悼するため、この13年前の講演録「月山 桂 弁護士 憲法への思いを語る」全文をご紹介することと致しました。
是非、多くの方にお読みいただければと思います。
なお、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会 創立1周年記念誌 平和のうちに生きるために」の中には、講演録の他に、月山先生のご発言や文章が2つ掲載されています。
1つは、2005年12月9日に「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」が開催した「リレートーク 自民党改憲案の検証」における月山先生による閉会のご挨拶。もう1つは、「会員寄稿~憲法にかける会員の思い」に掲載された「新憲法と極東軍事裁判の思い出」という短いエッセイです。
特に、「新憲法と極東軍事裁判の思い出」については、著作権継承者から許諾をいただければ、あらためて私のブログでご紹介できればと思います。
他に、2007年6月2日に「九条の会・わかやま」と「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」が共催した品川正治氏講演会において、月山桂先生が閉会挨拶をされており、その書き起こしが「九条の会・わかやま」ホームページに掲載されていますので、ご紹介しておきます。
なお、今回のブログに掲載させていただいた写真は、2013年9月8日に「九条の会・わかやま」が県下の「9条の会」に呼びかけて和歌山県勤労福祉会館プラザホープで開催した「第2回 和歌山県「9条の会」交流集会」(撮影:南本勲氏)で開会挨拶をされる満90歳の月山桂先生のお姿です。
日時 2005年8月25日
(引用開始)
○司会 藤井幹雄
予定の時間になりましたので、「月山桂先生憲法への思いを語る」を始めたいと思います。桂先生にお願いに行った者を代表して藤井の方から最初にあいさつさせていただきます。
5月13日に和歌山弁護士会の有志で「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」を発足いたしまして、月山桂先生には、その顧問をお願いして快諾をいただきました。現在、憲法9条を守る和歌山弁護士の会が県内の各層の方々へ呼びかけて、「9条ネットわかやま」というものを立ち上げようと、具体的には11月19日に市民会館大ホール1,500人収容を押さえるという無謀なことを計画しております(注:実際には、2006年2月25日に「9条を守ろう平和の集いinわかやま」として開催された)。
会の活動として、この前、映画「日本国憲法」というのを見たんですけれども、憲法九条については、理念論であるとか、現実の国際情勢がこういうことであるとか、机上でのいろんな話があるんですけども、もう一度、われわれは、先輩方が60年前に経験したことは何だったんだろうかということを、もう一度足を地に着けて、そこから考える必要があると思い、そのために月山先生に今から60年前の今頃どういう思いでおられたかということをお話しいただいて、それをわれわれも共有し、そこからもう一度日本のあるべき姿というものを考えてみたいと思って企画したわけです。
われわれ若輩が、桂先生にこういうことをお願いしに行くということで非常にどきどきしたんですけれども、先生に快諾いただいたときは胸のつかえがすっとおりたような感じでした。それではこれから、月山桂先生のお話をお伺いしたいと思います。桂先生、よろしくお願いします。
○月山 桂
題名がものすごい題名でありまして、私の任にたえるかどうか、疑問に思っておりました。「憲法への思い」といいましても、難しいことを話せるわけじゃありません。今、憲法への思いというのは、九条への思いということだろうと思いますし、同時に私に話せというのは、お前はかなり年寄りだから、かつての戦争のことを知っているやろうということから、ご指名いただいたと思います。
そういう意味で、私が今日お話することは、別に九条についてどうのこうのという、そんな難しいことは到底ようお話しませんし、この九条につながるであろうと私が考えている前の戦争、これに参加したというと、大げさですが、召集された一人として思い出を話させていただきます。
私は、昭和19年11月末、満州で陸軍経理学校を卒業する時に、運良く、原隊復帰ということで内地へ、しかも和歌山へ帰ってきましたけれども、仲間の多くは、満州の各地に関東軍の要員として残りました。もっとも、その満州に残ったものでも、大体、3分の2くらいは、終戦までに本土防衛ということで内地へ帰ってきたということですけれども、運悪くといいますか、最後まで満州に残らされた人たちの殆どはシベリヤに抑留され、その中の大体4分の1くらいは向こうで亡くなったんではないか、というふうな話があります。
その満州での陸軍経理学校の卒業の時に、原隊復帰で内地に帰る者の出発は後回しになりまして、満州でも遠隔の地に行く者から順番に出発して行く。内地組は、雪の中、それを見送るわけです。「此の地一たび別れを為し、孤蓬万里に征く」あの李白の「友人を送る」詩の思いで別れました。当時、あのような終戦の迎え方をすることになるとは思いもよらず、送る者も送られる者も、士官勤務の陸軍経理部見習士官として任官したばかりで、それなりに士気軒昂たるものがありました。ところが、敗戦、その何分の一かの者が、シベリヤで捕虜として故国を夢見つつ死んでいったのです。
そういうふうなことからして、私は、私どもの体験を後の世代に語るのがわれわれの責務だということを感じておりまして、藤井先生の方から話しせよとおっしゃっていただいたんで、ああ、これは宿題を果たせる一つの機会だということで、喜んで参加させていただいたことでございます。
お話をするにあたりまして、戦争を中心に自分の履歴をずっと書いてみました。
書いてみて、兵隊に召集されたのが昭和18年の12月、中央大学の2年生だったと思います。その時に中退しまして、応召した。それ以後、昭和20年8月15日まで。それで戦争は終りましたが、私は主計だった関係上、占領軍に対して軍の物資を引渡ししなければならず、その引渡しが終わったのが昭和20年の10月頃だったと思います。この2年間というのが私の人生にとりまして、非常に意義のある時代だったと思うんです。その時代についての思い出をお話したいと思うんです。
それかといって、これ全部お話したらなかなか時間が足りません。だから、今日お話させていただくのは昭和20年敗戦の年、この年の3月ぐらいから、終戦になって、進駐軍に対して物資の引渡しを終えて除隊になった。その間の思い出についてお話させていただきたいということです。
護阪師団、大阪を守る師団というのが編成されたのは、昭和20年3、4月頃のことと思います。護阪師団の中に歩兵の方としてイ、ロ、ハという3つの連隊があります。私が配属されたのは、3つの連隊の中のロ部隊、部隊の大きさとすれば2個大隊で、約1,000名余りの割合と小さい連隊だった。連隊に2つ大隊がありました。大隊というのが3個中隊からなっている。中隊というのは、1個中隊が3個小隊ぐらいからなっている。1個小隊というのは大体50人ぐらい。一般的にですよ。
私は満州の経理学校を卒業して間もない経理部見習士官だった。主計少尉になる寸前の士官勤務の見習士官で、本来は、第一大隊付主計ということで配属になっておったんです。ところが私どもロ部隊の高級主計、連隊の経理部の最高責任者が貨物廠といいまして、食糧とか、被服とか、そういうふうな軍需物資を大量に集積、管理する軍の倉庫、お役所の出身だったんです。そのため、金銭経理、糧秣経理、被服経理、営繕等すべてをやらなければならない、一般部隊、野戦部隊の主計業務の経験がなかった。
それで、私は第一大隊の主計だったんですが、高級主計の補佐ということで、連隊全部について高級主計の仕事をやることになりました。その当時の私は、関東軍で鍛え抜かれた精鋭の気位があり、高級主計をさしおいて自分が高級主計みたいな顔をして、全部取り仕切ることになった。そういう状態で私は終戦の年の3、4月頃を迎えました。
ご承知かもしれませんが、軍隊は一般社会から完全に隔絶され、兵営とも兵舎ともいわれる宿舎があって、そこで、1000人あるいは2000人の兵隊が集団で生活し、そのなかで、日夜、軍事訓練されていました。一般人(娑婆の人)はその兵営に立ち入ることはできないし、兵隊もまた、演習のときや、とくに外出・外泊を許された場合のほか兵営外に出ることは一切許されませんでした。例えば、みなさまご承知だと思いますが、和歌山には第24部隊(第61連隊)がありました。小松原5丁目をまっすぐ西につきあたったところにある和商や西和中学のあるあたり一帯がそうで、裁判所の葵町宿舎もその一部でした。そしてそれから南は、愛徳整肢園や西浜中学をも含め、小二里までの間が第24部隊の練兵場でした。軍律が厳しく、演習も純然たる銃や剣あるいは機関銃でする、いわゆる軍事演習が行われていました。
ところが、敗戦間近な昭和19年、20年頃には、本土決戦といって、そのような兵舎に閉じこもることなく、軍隊は、上陸してくるであろう連合軍に対する戦闘のため、兵営を離れ、山野に展開することになりました。一つには、動員されてくる兵隊が常時の数倍もあって、とても兵営に収容しきれなかったということもあったと思います。
私たちの連隊は、最初24部隊で編成され、その後間もなく海南高校に連隊本部を移し、下津、海南から以東の野上谷にかけて陣地構築をし、第2大隊は有田の宮原で作業しておりました。もちろん兵営はなく、学校やお寺等を兵営代わりにして分宿していましたが、その後、昭和20年の7月下旬に至って、2度目の移動で、うちの連隊は、構築した陣地や集積した軍需物資は後の連隊に引継ぎ、新たに中貴志の小学校に連隊本部を移し、後に言いますように師団の予備連隊として師団司令部の防衛にあたることになりました。
兵隊の業務は本来いえば敵軍と銃砲刀剣をもって戦うことにありますが、また、そのための演習をすることが本業であると思われますが、この当時の兵隊の業務は、屡々述べますように、専ら土木作業でした。アメリカが上陸してきた場合に、陣地に立て籠もって迎撃する、そのための陣地を構築することにありました。私どもの部隊、ロ部隊は、御茶屋御殿山といいますか、船戸山にできる師団司令部の防衛部隊、ある意味では師団の予備連隊というふうな位置付けだった。そういうことで、御茶屋御殿山、船戸山あたりを中心にして、丸栖、貴志川、貴志、山東、それからもう一つ紀ノ川沿いの田井ノ瀬、布施屋、船戸、あそこらあたりの山へ横穴を掘っていた。私とこの部隊はそういうふうなことで、専ら陣地構築しておったわけですけれども、その他にイ部隊とか、ハ部隊というのがあります。どちらがどちらだったか忘れましたが、一つの方は加太の方ですね、加太から磯ノ浦、孝子、水軒、和歌浦の方にかけての陣地を構築しておったと思います。それからハ部隊の方は、下津、有田、湯浅、由良の方にかけて陣地を構築しておったと思います。陣地の構築というのは先程も言いましたように横穴掘ってアメリカが上陸してきた時に、そこへ立て籠もって大阪へ進出するのを妨げる、防衛すると、そういうふうな役割を担っていたと思います。そういうことのために陣地構築、土木作業をするのがわれわれ護阪師団各隊の仕事だった。
私とこは、師団の予備連隊だったため、移動もあって陣地の構築ということが遅れておった。加太とか有田、ああいうふうな海岸に近いところの連隊は陣地構築も終えて、アメリカが上陸してきた場合は、どこからどこへ上陸させて、どういうふうな方法でやっつける、やっつけるかやっつけられるか知りませんけど、そういうふうな演習もしておったのかな、と思いますけれども、私どもの連隊はまだ穴堀が十分できていないというふうな状態だったために、そこまでいっておりませんでした。
主計の仕事の中には、兵への給与その他の金銭経理というのがありますし、営繕といいますか、宿舎を借りたりとか、いろんな営繕関係の仕事もある。その外、野戦部隊の主計の中心が、糧秣、兵隊に食べさせる食糧ですね、それから陣地構築した場合に、どれぐらいの期間かアメリカと抗戦しなければいけない、その抗戦期間中における物資の確保ですね。
その当時、民間の方では、食糧はほとんど枯渇しておったかと思います。昭和19年の春頃だったと思いますが、藤原銀治郎という軍需大臣がおりまして、「我が国は19年の終わり頃には物資が枯渇するであろう」というようなことを話して物議を醸したことがありましたけれども、そのとおりになって、19年の終わり頃、20年の初め頃には、民間では主食も事欠いてくるというふうな状態でした。
そのような状態でありましたけれども、軍隊の方に対しては本土決戦用としてどんどんと食糧を送ってくるわけですね、カマスに入った米が毎日のように大量に送られてくる状態でした。私の部隊は今の中貴志の小学校へ移る以前、連隊本部が海南高校にあった当時、野上谷の倉庫という倉庫、これを全部借り上げたんです。あそこは造り酒屋のたくさんあるところです。酒屋の蔵は全部借りた。それと同時に棕櫚や笹ものの産物が多いところで、その産物のための倉庫というのが、小さい倉庫ですけれども、そういう倉庫もみな借り上げ、今、申しました食糧をそういう倉庫に貯蔵しました。
私らが今度、中貴志に移動して来てからも同じように食糧がどんどん来るわけです。置くところに困りまして、最後にはやむを得ず、校庭に丸太を組みまして、丸太の上に、カマス、そうですね、今思い出すんですけど、コーリャンを80㎏の麻袋(マータイ)に詰め込んでいるんですけれども、それが貴志川線ですか、あれで送られてくるわけです。それをそれぞれの倉庫の所在地に近い所で降ろしてもらって、それを倉庫まで運ぶわけです。大体その当時の兵隊は最終動員の補充兵というとなんで、年齢も30を越し、あまり体力はない。そういうふうな兵隊にこの80㎏のマータイを倉庫まで運べといってもなかなかいかん。私は自分でこういうふうにやるんだというて、貨車から降ろすときに、自分の背中のところにマータイを背負わせるように落としてもらって、それを50mぐらい先にある倉庫まで、こうして運ぶんだというて見本を示した記憶があります。そういうふうなことでコーリャンなんかを倉庫まで運ぶ。いよいよ、倉庫もなくなったということで校庭に丸太を組んで。それくらい軍は食糧が非常に豊富だった、とにかく困るくらいどんどん送ってきた。
民間があの当時困っておって、すいとん(うどん粉の団子汁)までいっておったかどうか知りませんけれども、麦とか、サツマイモ、そういうふうなもので飢えを凌ぐほどになっていた。終戦直後ほどではなかったにしたところで、かなり急迫しておったことは間違いない。そういうふうな状態であった。
そういうふうな時代、私は、あるとき、連隊長から、「この頃うちの部隊の食餌の状態が悪いぞ、カロリーが落ちてるじゃないか」と。これは師団で各連隊ごとにカロリーを計算したカロリー表というものが連隊長の方まで届けられるらしいんですね。うちの連隊が上位から落ちていると、「月山、これなんとかせないかんな」といわれる。カロリーは充分あるんです。主食はあるんだけれども、カロリーの計算をするときに副食がかなりを占めるわけなんですが、副食については、各隊毎に調達しなければならない部分があるんです。そこで副食を余計目にとらないといかんと。余計目にとるには、結局は、その当時、食肉組合とか漁業組合とか、民需を扱っていた生活必需品協同組合とかと交渉して、民需を横取りしにいくわけです。
そういうことを重ねて他の部隊のカロリーを追い越していくというふうな状態。連隊のための、兵隊のためのカロリーというよりも他の部隊との競争のためのカロリーというふうな、そういうふうなカロリー競争だったんです。そのような競争のために民間の貴重な物資といいますか、そういうふうなものも横取りしに行ったこともありました。
思い出すんですけど、あるとき、ある組合長さんが親しい付き合いの中で、「月山さん、あなたの軍隊も大変だろうけれども、見てみなさい、あそこの工場には学徒動員で来ている女子挺身隊の子どもらがいろんな仕事をしている。あの工場、小さい工場だけれども、そこで、仕事をしている人らを見て見なさい、お昼弁当のご飯だって、お米なんか殆どありませんよ、弁当の中は芋ですよ。銃後の国民はそうしてやっている。休憩になれば、あの子ら腰降ろして休めるかといえばそうじゃなくて、竹槍、アメリカが来た時に、竹槍で抵抗する、そのため竹槍の訓練をする。休憩の時間さえ、そういうふうにして竹槍をやっている。だから兵隊さんもご苦労やと思うし、お腹も減るやろうけれども、民間だってそういうふうなことで」と。「だから兵隊さんあまり無理言わんといて下さい」とまで言われたかどうか、痛いところをブスッと突かれた記憶があります。
その当時、兵隊の場合は、赤紙で召集するわけですね、民間の方では徴用令というのがありまして、徴用令のことを白紙召集、兵隊の赤紙召集に対して白紙召集。さっきの組合長から言われたんですけど、「兵隊さんのように赤紙召集の人も大変だけれども、白紙召集の人もしんどい」ということをよく言われて、確かに白紙召集の方がしんどいなということを私自身も感じたことが幾度となくあります。
危険かどうかという点ですけれども、どちらかといえば、本土防衛部隊に限れば、兵隊の方が危険が少ないんですね、危険が少ないというのは、現に私ら自身が海南高校、あるいは中貴志小学校、山の中で穴掘りしているんですから、やられるはずない、めったに。
僕の弟はその当時、学徒動員で名古屋におったんですけれども、名古屋におって6回焼け出されたんです。空襲で。6回焼け出されて家から代わりの布団よこせというとまた送り、また、代わりの布団よこせといわれて、また送ったと。もちろん空襲で焼かれるわけですから、ただ、単に着るものがないとか、そういうだけじゃなしに命の問題もあります。
和歌山市内でいえば、由良浅(今の本州化学工場)あそこらあたりに徴用令でいた学徒の子らがたくさん働いていました。あそこらも空襲でやはりかなり危険な目にあったということを聞いていますね。どちらが危険かといえばむしろ民間の方が危険だったんじゃないかな。勿論、外地での戦場は別ですよ。
和歌山空襲がありまして、私は和歌山空襲の時に海南高校におりました。その時に、和歌山にある倉庫がどういう状態かと思って視察に出かけたんですけれども、焼夷弾の落ちてくる時のものすごい状態ですね、花火というのをまともに真下で見られたことがおありだと思いますけど、あれの何十倍、何百倍の状態で、ワァーと焼夷弾が炸裂し乍ら物凄い音を立てて落下してくる。普通の爆弾は狙ったところに落として、その破壊によって人間あるいは施設を破壊するということですけれども、焼夷弾というのは、何でもかんでも焼くことが目的なんですね、最初のうちは、アメリカのB-29は施設を破壊する、ところが施設を破壊してもなかなか日本は音を上げないということで絨毯爆撃といいますか、全国各都市を焼き払うという戦法に変えたわけですね。絨毯爆撃。その絨毯爆撃の一つとして、和歌山なんかも空襲にあった。焼くことが目的なんで、別に目標なんて定める必要はないわけですね。とにかく今度は和歌山を焼けと。和歌山の場合はテニアンからB-29が108機飛んできたということですけれども、上から撒くわけですね、下から見てましたらものすごいんですね。私は、最初、毛見のトンネルからよう出なかったんです。一つには連隊本部の許可を得て出てきたわけじゃないんで、もし万一事故でもあったら、申し開きもつかんというようなこともありましたけれども、正直言ってそれよりも怖かった。ところが、その怖さというのを空襲に遭った市民の人たちは、まさに自分の頭で受け止めているわけですね。よく物語で聞くのは、歩兵は、真正面から敵の銃火を浴びる。鉄砲の弾が雨、霰と飛んでくる、これに立ち向かう。ところが、空襲では、それが上からくるわけですね、焼夷弾が。
私の隊は、和歌山市の小二里に倉庫を一つ持っておりましてね、その小二里へ視察に行ったんですけど、焼夷弾というものの現物を見たんです。行ったところ、倉庫の家主が、兵隊さん、一遍見て下さいということで行ってみたら、米俵と米俵の間に柱がある、その柱のところへ焼夷弾が長さ1m余りでしょうかね、突き刺さっているんです。焼夷弾というのは、爆弾のところに、50あるか、100あるかしりませんけど、小さい、爆弾が貼り付けてある。上から落ちてくるときに炸裂してくるんですね、だから小さい爆弾をバァーとばらまきながら落ちてくるわけなんです。普通の場合だったら下へ落ちるまでに小爆弾が全部炸裂して焼夷弾としての目的を達するわけですが、たまたまうちの倉庫に当たった爆弾、よう炸裂しませんでね、米俵の間の柱へ刺さったということです。ワァーすごいなと。倉庫の家主がいうことには、「うちの近辺で、うちだけしかやられていない。これ兵隊さんのものをうちが預かったから狙われたんと違うか」「そんなことない、1万m上からあんたとこの倉庫だけ狙うはずない」というような話もありましたけれども、とにかく焼夷弾で、一般の民間の人たちはやられた。私の家も焼夷弾でやられ、家族は焼け出された。この焼夷弾による被害というのは実にすごかった。
そういうふうなことで、民間と軍とどちらの方が危険だったかといえば、前の戦争の時に、これ外地・戦地に行った人は別ですよ、本土決戦といって内地の防衛に当たったものは、民間の方が危険だったと思いますね。軍の方は山野に展開(疎開)して陣地にへばり付いてさぁこいと言うんだけれども、さぁこいと言ったってね。そういうことで、軍隊と民間とどちらが危険だったかといえば、僕の経験からすれば軍隊の方が危険が少なかった。それに、和歌山空襲のときも不思議に24部隊は厳然として残っていた。そして、空襲中にも、空襲解除後も、24部隊が民間の消火、救助に当ったということは全く聞きません。
話は別ですけれども、貴志へ移って以後のこと、連隊長の方から、倉庫その他に収積している糧秣を、できる限り早く、各小隊に割り当て、陣地内に収容せよ、と命ぜられました。臨戦体制を速やかにととのえよ、というのです。
連隊長は、イ部隊とか、ハ部隊はほとんど終わっているらしい、うちの連隊は遅いと師団の方で言われたらしいんですね、それで私に早いこと、各小隊、各中隊に配れということだったんです。私も逆らうわけにもいきませんから「わかりました」と言うたものの、連隊長に、「陣地の構築状態を見計らいながら渡すようにします」と言うたんです。それに対し連隊長も、黙って言うこと聞けとまでは言いませんでした。というのが、各隊に渡した場合に、まだ陣地は完全に構築されていない、まだ、地面が湿っているような状態ですね、それどころか、まだ掘削工事の最中です。そこへカマス入りのお米とか、麦とか、あるいは厚紙に入った小麦粉、そういうふうなものを配った場合、みるみるうちに腐敗したり萌芽してくることは、目に見えているわけです。主計にとって、糧秣をいかに安全に必要な時に使用できるように保管するか、これは非常に大きな仕事なんです。そういうこともありましたので、私は「陣地構築の状況を見ながら搬入させるようにします」というて、これを拒否しておったんです。各隊に渡すことを躊躇したのは、次のような事情もありました。主計という関係から民間との接触が多いわけです。そういうことから、民間がどんなに困っているかよく分かっております。同時に、陣地構築というのは、誰の陣地か、誰のための、ということが、常に頭の片隅から離れませんでした。そういうふうな中で、この米を、この麦を、このコーリャンを各隊に渡した場合に、陣地内でこの米とか麦とか、これは誰が食うんだろうかと。私自身の家族がふもとの三毛の方に、和歌山から焼け出されて疎開してきておりました。勿論、その他にもたくさん民間人がおるわけです。その人たちは竹槍で闘うべく頑張っておるわけです。もし、竹槍が折れて「兵隊さんすまんけど、私らもその壕に入れてくれ」と言うて、壕へ駆け込んできたとした場合、あの当時の軍の考え方からして、「みんな入れ、お前らもみんな入れ」と言うたかどうか。「この米も一緒に食おうや」というようなことを兵隊が言うたかどうか。私のあの当時の考えでは、なかなかそうじゃなしに、軍隊は、「すまんけれども、あんたら、もっと、そっちの方で竹槍で頑張ってくれ、ワシらはワシらでこの陣地の中に閉じこもって最後の一兵になるまで頑張るんやから」というようなことで、受け入れることを拒んだんじゃないかと。せっかくの米とか麦とかそういうふうな糧秣を果たして、民間の者にも分かち与えたかどうか。私の家族を含め民間人がこの山のふもとにたくさんおるわけです。それらの思いが、こんな貴重品を陣地の中に急いで入れて腐らせるよりもこのまま置いておいた方がいいなという考えに走らせたことも否定できません。
第2大隊の主計だった森口に、「連隊長あんなこと言うてるけれども、お前とこ、どうや」「いや、ワシとこ、そんなこと、ちょっとね」、どうも第2大隊の主計も同じような考えでいるようで、ゆっくりいこうやということにしました。
昭和20年6、7月頃、海南高校におったときですけれども、あるときに連隊長の話では潮岬の沖合にアメリカの潜水艦が浮上したということです。ちょうどこれは沖縄がやられてしまって、いよいよ本土へ、ということが言われた頃のことです。そこで各連隊から1個小隊(か2個小隊)を補強要員として出撃させるということがありました。そして連隊長の方から主計の方に、兵隊に戦争用の装備をさせるように、ということなんです。お米とか、乾パン、今は見向きもしませんが、あの当時は乾パンというのは貴重品だった。それから氷砂糖。氷砂糖などというのは、戦争でいよいよ死ぬ間際に食う位、貴いものですね、氷砂糖、乾パン。普通食の外にそういうものも持っていかせということなんです。私はその時に言うた記憶があるんですけれども、「お前たち、必ず帰ってくるに決まっているんやから、今渡した食糧、特に氷砂糖とか乾パン、これは必ず返せ」。戦争に出ていく人間にですね、「帰ってくるに決まっているんだから、渡したものを返せ」と言うのもどうかと思いますけど、そういうふうなことを言うた記憶があります。というのは、私、そのとき、兵科の将校に「お前のとこどういうふうな装備でいかすんや」と聞きましたら、「軽機関銃を1丁、それから擲弾筒も持っていかす」「擲弾筒どのくらい持っていかすんだ」「1丁」。擲弾筒というのは、手榴弾というのがありますね、この手榴弾を50㎝~1m足らずの筒の中へ入れまして、下からパンとやれば飛んでいくやつです。せいぜい100m位しか飛びませんけどね。それを持っていかすんです。「機関銃と擲弾筒と、あとは何やね」「あとは三八に決まっている」。アメリカの潜水艦が潮岬の沖、潜水艦が浮上するんですから沖合1000mもあるでしょう。そんなところに擲弾筒と機関銃と三八銃を持っていく、戦争にもクソにもなりません。大体、アメリカが潮岬や新宮辺りに上陸してくるはずがない、そういうふうな状態でアメリカの潜水艦を迎えたというふうなこともありました。
こういうこともありました。海南高校の方におった当時です。私の部隊が。海南の方で穴掘り(陣地構築)をやっている時に、ある小隊の者が電灯か、何か光を出した。空襲警報中だったようで、そのために、焼夷弾じゃなしに本当の爆弾をドンとやられて、それで3人の兵隊が重傷を被ったんです。戦死に近い状態だったと思いますけれども、先程言いました24部隊の方の衛戍病院、軍隊の病院ですね、そこに収容になりました。2、3日後にやっぱりダメだったということで、「主計、3人とも死亡したから迎えに行ってくれ」といわれて、私、引き取りに行ったことがありました。軍隊の場合は生きている間は軍医さん、死んだ場合に主計の仕事になるんでしょうか。おそらく病院にいる間では白衣着てちゃんとした療養看護をしてくれていたんだと思いますけれども、私が行った時にはもう軍服に着替えまして、おそらく戦死だからということで、ちゃんと軍服に着替えさせて私に引き渡したと思います。人間の体というのはみんなそうだと思います。傷口からウジ虫がわくんですね、肩から胸にかけて爆弾でやられたところがウジ虫ですごいんですね。軍服も破裂したままのやつで、外から見れば一見してウジが見える。そういう状態で私は受け取ってきたことがありました。受け取って後に部隊に帰ってから新しい軍服に着替えさせて、それで遺族の方に面会をさせた。面会させたのは副官の方で、もうその段階のことはよく憶えておりませんけれども、とにかく新しい軍服を支給して、新しい軍服に着替えさせたということ、それを憶えているんです。内地の普通部隊の場合でもそういうふうな戦死があったということです。
それからだんだん終戦に近づきましてね、7月9日が和歌山の空襲ですから、8月に入ってからだったと思いますけれども、8月の上旬頃にはP何とかというアメリカの偵察機ですね、下駄履きの偵察機が飛んできまして、丸栖から貴志川辺り、あそこはちょっと低いですね、だから、そこのところを中貴志の小学校の方から見ていたら、ほとんど同じぐらいの高さのところで偵察機が旋回しているんです。まるで我がもの顔にね、日本の兵隊はどうかといったら、「みんな隠れよ、絶対に姿見せたらあかん」。あんなの機関銃でもやっつけられるような状態だったんですけど、「みんな隠れよ、絶対に姿見せたらあかん」と。何のための軍人かな、兵隊かなと思いました。もっとも、その当時、8月に入ってましたから広島、長崎の原爆もあった月ですから、あるいはもう講和の試みがなされていたかもしれません。とにかく隠れよ。私が満州から原隊復帰してきた金岡の輜重隊にいた昭和19年末当時も、B-29が何度も飛んできた。その時にも「みんな隠れよ、隠れよ」といわれて隠れた記憶がありますけれどもね。戦争しに行って、B-29が来たとたんに、みんな隠れよ、隠れよ、何のための軍隊かなというような感じを抱いたことは今も忘れません。
そうこうするうちに、今日は、天皇陛下の玉音放送がある、みんな校庭に集まって聞くようにという命令が出ました。後からいえばそれが終戦のご詔勅だったわけです。中貴志の小学校、その当時、東西に棟が4つ5つ並んでいました。その棟の東側の方の運動場に面したところにラジオの放送器がありまして、おそらくラジオ体操なんかに使ったラジオだと思います。そこへみんな集まって、これから玉音放送があるからということで集まって聞いたんです。玉音放送というので、玉のような麗しいお声だろうと思っていたら、全然聞こえない。静かなんですね、あたりは。中貴志の小学校は静かなところなんですけれども、雑音が入って全然分からない。陛下が放送されるというんだから、いよいよ本土決戦、徹底抗戦ということで「朕のためにお前たちの命を預けてほしい」というふうな、国民に対する、兵隊に対する激励、要望のお言葉かな。しかし周囲の空気というのは、もう日本は戦えない、日本は降伏せざるを得ないというような状態になっておりましたから、それにしてはちょっとおかしいなと言いながら聞いておったんです。聞いている間に、「…耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで…」と、それが不思議に耳に残っているんですけど、どうも耐え難きを耐え、忍び難きを忍びという、あの音調からするとどうも「しっかりやってくれ、私も頑張るから、お前たちも頑張ってくれ」と、そんな口調とぜんぜん違うんですね。どうもおかしい、聞き終わった後で、連隊長もわからななかったと見え、師団の方に問い合わせた上で、伝達するからそれまで平常通り軍務に服するようにというようなことでした。しかし、われわれは、今のはどうも日本は参ったという放送みたいやないか、と言ううち、2、3時間した後に、連隊長の方から無条件降伏したことの放送だったということを聞きました。
夏の静かな真昼、その日も、校庭北隅の竹やぶから、蝉の鳴く音がいつものように聞こえていました。
で、そういうことがありましてから後に、私の方の仕事はすごく忙しくなったんです。これは終戦というものの日本は無条件降伏したわけですね。降伏した。それで、軍を直ちに解体しなければいけない、武装解除しなければいけないというわけです。各隊とも3日以内に兵隊を復員、帰郷させよ、また、軍需物資は、諸帳簿の員数どおり占領軍に引き渡すよう準備せよ、というのです。3日以内という、これは日本が降伏した時の条件に一刻も早く武装解除せよということだったそうですね。ところが、主計の方としましたら1000名以上の兵隊に給与を支払わなければいけません、帰郷するための旅費の計算もしなければならない、それと同時に、当時はお金よりもモノということで、兵隊に衣類と糧秣、5日分の食糧・米を持ってかえらさなければならないというようなことで、それはそれは大変だった。
幸いですね、うちの部隊は各陣地にまだ食糧を入れてなかった、倉庫においたまま、積んだまま、ということだったので、食糧等の引渡しについては、それほどはバタバタしなくてすんだんです。それでも、兵隊たちが帰郷するまでに、占領軍への引渡しをスムーズに行えるよう集積箇所をできる限り集中し、且つ整頓する必要がある。とにかく3日以内にやらなければいかんということで、寝る間もなく大変だったことが非常に強く印象に残っています。
当時、私は営外居住ということで、家族が焼け出されて疎開してきていた下三毛(船戸近く)の自分の家から毎日行き帰りしていました。そうして、終戦を迎えた。終戦を迎えたけれども、私は、主計として、終戦処理業務のためなかなか本当の終戦というふうな感じがしないままに日を過ごしておったんです。ゴルフへ行かれたりしてご存じの方が多いと思いますが、貴志、丸栖の方から船戸の方へ下りる時、非常に印象に残るのは紀ノ川が真ん中に流れておってそれを挟んで北と南に山があります。それまでの間家へ行き帰りするのは、毎日夜8時、9時以前に帰ったことがないんです。帰る時は見渡す限り真っ暗闇で、右側には龍門山、向こうの方に高野山があるんでしょう、その高野山は見えませんで、その向かいの方の金剛山、岩湧山、葛城山そういうのがあって、私の真向かいの方が根来、それの西にずっとつながる先は加太、加太の方に行くまでにこちら側、南側の高積山というんでしょうかね、布施屋の山があってさえぎられる。その間に紀ノ川がずうっと、東から西、右から左へ、あるところでは、太く、あるところでは細く、ずっと真っ白く流れているわけです。その間真っ暗なんです。電灯の光一つない、真っ暗な山裾、そういう中を毎日行き帰りしておったんです。
ところが、終戦後2日目か3日目かですね、いつものように、家へ帰る途中、丸栖の方から船戸の方へ曲がっておりる、角くらいのところでしょうかね、その所へ来た時に、はっと思った。それは、今まで真っ暗だったんです。両側に山があり、その真ん中のところに白く紀ノ川が流れている。その両側は真っ暗だった。ところが、その時に、ハッと気がついたら暗闇の中、電灯が左の方に2つ、3つ、真向かいの方に3つ、4つ、右の方にも3つ、4つ。電灯の光が見えたんです。
これ、何でもないと思いますけれども、その時、私は本当にびっくりしましたね。当たり前のことだと思います。けれども、その時、生まれて初めて「やあ~、光だ」という気持ちになりましたね、その電灯の光を見て。思わず、しゃがみ込んでしまった。その電灯の光がその次の日には、増えるんです。昨日2つ3つだったやつが、6つになる、7つになる。そういうようなことで、日を追うて1週間ぐらいするうちに、この部落、あの部落がというふうに大体昔通りによみがえった。今のように電灯の光がずうっと紀ノ川の流れに沿って連なっているという状況じゃありませんで、各部落ごとの一つの群れがあったんです。
そういう部落ごとの光が1週間ぐらいするうちに全部復活してきた。その時、私がはっとした状態というのは、皆さんにはお分かりいただけるかどうか。今まで真っ暗だった。真っ暗だったのは、どういうことかといいますと、ご承知だと思いますけれども、灯火管制、アメリカの飛行機から爆弾を落とされないように各戸とも家の中を真っ暗にしていた。暗幕というのは、電灯といいましても電灯笠があって、電球があって、というのは、今の子にはわからんような状況だと思いますけど、その電灯の笠に暗幕というのを掛けまして、大体50㎝くらいの暗幕を電燈の笠にかけて垂らすわけですね。それは光が外に漏れないように、空襲があったって、上空から見えないように、爆弾落とされないために。もし光が漏れようもんなら、隣組のおっさんからえらい怒られる。そして暗幕のために、8畳の部屋いっぱいを明るくする電灯の光が下の方の畳の上、直径1mぐらいしか、明かりが見えない、そういう状況で暮らしておった。
私は、あちらの方で、こちらの方で電灯の光が蘇ってきたときに、その暗幕が各家ごとに外されていく、その情景というのが手に取るように分かりましてね。この暗幕が外されていく、それによって光が呼び戻される、光が呼び戻されていくというのは、単に空襲とか何とか言うんじゃなくて、人々の自由とか普通の幸せとか、そういうふうなもの、それまで暗幕によって閉ざされ、失われていたものが生き返ってくるわけです。また私自身が兵隊に引っ張られていたそのような制限、抑圧された状態、そういうふうなものから解放される、暗幕が外されていくということに非常な感銘を受けました。そこで光を見てしゃがみ込んでおった時間は5分か10分ぐらいだと思いますけれども、ああ、平和がもどって来たんだと、じーんと胸に来ました。
私は、玉音放送聞いたとき、ああ、やっぱり負けたんだという思いはしましたが、戦争が終わったんだとか、平和になるんだ、という感じがしませんでしたけれども、真っ暗な紀ノ川平野の中に電灯が蘇ってくる、光が蘇ってくる、これを見て、ああ、平和が来たんだ、本当に終戦だという気持ちが蘇ったことを記憶しております。思いもよらず、これでもう一度大学へ帰れるんかな、というふうなことも、そういうこともありました。この光によって初めて、暖かみといいますか、心の明るさといいますか、平和が帰ってきたという思い、本当の意味での戦争が終わったという感じがしました。
それから後は、進駐軍の方に物資等の引き渡しをしたわけです。その当時、占領軍、進駐軍というのは怖いと思っていましたね。ものすごい怖いと思ってました。ところがその進駐軍に引き渡す当時は、連隊長なんか、どこかへ行ってしまって、いないんです。高級主計も。おるのは連隊本部主計の僕と、第2大隊主計の森口と2人だけしかおりませんでした。進駐軍は怖いらしいぞ、員数が足らなかったら、パーン、とやられるらしいぞと。先に引渡しを済ませた他隊から噂がまことしやかに流れてくる。そういうことから員数の点検、確保に随分と注意を払っていました。各倉庫や集積所毎の明細、表の整備、それと現物が合致するかどうか。復員のドサクサで米など糧秣の員数が足りなくなっている。そんなとき、員数揃えのため、かなりのことをしましたね。お米はカマスに入っていますね、からのカマスを横に置いて、米の入ったカマスへ、竹筒の両端を鋭角にスパッと切ったのを突っ込みます。そうすると、お米がさーっと流れ出てくるんですね。それを空きカマスへ流し込む、それを繰り返して何とか1俵作るんです。かつて兵隊たちから教わったことです。そんなことをして員数揃えしたことも記憶に残っております。
そういうふうなことしていたある日、師団からの引渡しの日時が通知され、ジョージ何とかいう大佐が来ました。ジープ2、3台で。私、その当時、兵隊服は拙い、武装解除されたんだから。というわけで、学生服を着て、帽子だけは軍隊のを被って敬礼したら「ハロー、ボーイ」。「ハロー、ボーイ」と親しみをもってジープに乗せてくれた。そして十幾つかの倉庫を回って、無事滞りなく引き継ぎを終えたことでした。その当時、昭和20年10月頃には、もう、私ら主計以外、兵隊は、勿論、将校も一人もいない。みんな復員、帰郷してしまっていました。私たちも師団に引渡し関係の書類を送付して主計の業務を終え、兵隊生活に別れを告げました。
私にとって、終戦というのは、召集されたときと大違いです。召集され、軍隊へ入営のときは、一つのセレモニーがあり、緊張感があったわけですけれども、終戦の時には何か知らないうちに流れ解散していたという、非常に惨めな復員だったという記憶があります。
(私がお話させていただく時間は過ぎました。藤井先生気が気でなさそうなので、この辺で終わらせて頂きます。)
司会の藤井先生から、「そこで新憲法への思いを」と促されるのですが、今ここで、私にとって、新憲法は、とか戦争の放棄とは、と尋ねられても、一言で整理してお話できるものではありません。たって新憲法といわれるならば、私にとっての新憲法は、司法試験に非常にありがたいものだった。昭和21年の11月頃に筆記試験があったと記憶しますが、その頃は、新憲法が公布されたか、未だされていないかの頃で、新憲法の解説といえば、帝国議会での憲法草案に関する提案理由といいますか、解説についての新聞記事しかない。憲法の試験は旧憲法でも新憲法でもどちらでも良いということでしたので、私は、試験を受け易い新憲法を選びました。私が、司法試験に合格できたのは、そういう意味で、新憲法のおかげだったと思っております。と同時に、先ほどからの戦争の話の続きになりますが、私は、戦争に負けてよかったと、負けてくれてよかったと、心から思ったということです。もし、仮に軍の指導下に、国民が軍の統制下におかれて、万一、戦争に勝っておったならば(そんなことはありえませんが)、どんな日本になっただろうかと思うと、ぞっとするのです。あるいは、当時いわれたように大東亜共栄圏で国際的に国威が発揚できたかもしれませんが、日本の国は神国となり、国民の思想は統一され、軍の横暴は極点に達し、国民の自由と権利は抑圧され、誇りのある非文明国となっていたんではないかと思っております。到底生きてはいけない。だからよくぞ負けてくれたという思いがします。そういう意味で、「戦争の放棄」というのはすばらしいことだと、軍隊、戦力を一切持たないというのは、正にそうあって然るべきだという思いに満たされた。そういう意味で、「第2章 戦争の放棄」、「第3章 国民の権利及び義務」という憲法の組み立ては、私には非常に分かり易い、立派な組み立てであると思われたのです。この思いは、終戦直後も、新憲法制定の当時も、今現在も少しも変っておりません。
先程来述べましたように、私は、応召し、満州へ行き、関東軍に在籍していたとはいうものの、間もなく原隊復帰となり、戦地へ行ったこともなければ、シベリヤに抑留されたこともない。従って、私などは、戦争の苦しみを語る資格はありません。亡くなりましたが、私と同じ年代の岡崎弁護士(元当会会員)は、シベリヤに抑留され、帰ってきたのが昭和23~4年頃だった。そのため、司法試験も少し遅れた。彼に、シベリヤ抑留の話を聞かせてもらおうと思って話しかけるんですが、苦しかったというところまでは言ってくれても、それ以上のことは言ってくれない。私の修習生の同期でインパール作戦に参加した男がいました。彼も戦闘の激しさとか苦しさは話してくれましたが、あるところ以上は話してはくれませんでした。戦争中の人間のもっとも醜いところについては、話してくれない。関東軍の経理学校の同期で「白雲悠々」という上下2冊の思い出の記録が作られています。それによると、「収容所生活というのは、作業に堪え、空腹に堪え、望郷の念に堪える日々であり、いつの日になるか分からない帰国の日をひたすらに待ち続ける毎日であった。」とあります。そのような中で、いわゆる民主教育、共産主義教育が行われる。そして、ノルマを監視するソ連兵に対し、自らが生き残るために、そして、なんとか早く帰れるように、同僚を裏切るようなことが行われるようになったといいます。零下何十度という極寒の中で、お互い温め合うべきなのに。戦争というものは、人間を非情にし、同僚を売るようなことまでさせるんです。これが戦争なんです。軍隊は、戦争は、決して家族を守り、国を守るために生命を捧げるといった、そういう崇高なものばかりでは断じてない。これが実態だということを、私どもは知らなければならないと思うのです。私は、内地での、極めて平穏な軍隊生活、前にもいったように一般の民間人以上に平穏な軍隊生活を送ったものですが、それだけに、戦争とか軍隊というものの勝手気ままな、軍、優先の実態を知り得たという思いです。恥ずかしいことですが、この実態を語り継ぐのが私の義務だと思っております。
以上で一応終わらせていただきます。下手な話を長々、お聴き頂き恐縮しました。有り難うございました。
○司会 藤井幹雄
それでは、これで一応閉会とさせて頂きます。桂先生には予定時間を超えてお話し頂き、大変有り難うございました。また、会員の先生方も長時間ご清聴賜って有り難うございました。一応これで閉会とします。
○月山 桂 雑談(追加)
軍隊とか、戦争といえば、非常に格好のよい、勇ましく、やりがいのあるように思われますが、自分がいざ軍隊に入れば、決してそのようなものでないことがわかります。私は、学徒兵として召集されるにあたって、愈々になれば仕様がないとして、できれば、死の危険に近づきたくはない、ということで、歩兵は第一線で銃剣を交えなければならない。その点、輜重隊は後方支援部隊で、敵とぶつかることはない。できれば輜重隊に、と思って、徴兵検査のときに、「こいつは長距離の歩行は不可能だ」と見てもらおうと思って、偏平足よろしく足の裏に水をいっぱいつけて、板の間に足跡をつけました。検査官は、これを見て、この足ではそれ程歩けまいと言って、図に当って、私は、堺の金岡の輜重隊に入ることになりました。私は、当時、輜重隊は馬部隊などなく、全部トラックだと思っておったところが、何と私の入った部隊は馬部隊、それも輓馬部隊と違って駄馬部隊。荷を車に載せて、車を馬に引かせるのではなくて、馬の背中に弾薬を載せて最前線まで補給に行く部隊。歩兵のような装備もなく、もっとも命に危険のある部隊だったのです。それに、昔からそうでしたが、輜重隊(馬部隊)の兵隊は、「輜重輸率が兵隊ならば、蝶やトンボも鳥のうち」といわれるように馬鹿にされ、見くびられた兵隊でした。朝起きれば、寝藁動作といって、馬房の寝藁を厩舎から運び出して、外に干してやるわけですが、その寝藁たるや、馬が一晩かかって大量の糞と小便で蒸しあげたホコホコのもので、それを顎につかえるぐらい胸いっぱいに抱え上げて、干し場に出す。そのあと、馬の背中や脚、体じゅうを藁でこすってやったうえ、按摩をしてやる。そのあと蹄をきれいに洗ってやる。さらに、水を飲ましに水槽のとこまで連れて行く。大体、ゴクンゴクンと40回くらい飲ませるのですが、馬が素直に飲んでくれないときがある。そのような私たちの動作を一つ一つ、助教といわれる古年次兵が監視していて、馬が水を飲んでくれないときまで、何してる、馬鹿野郎とこちらに怒ってくる。「お前たちは一銭五厘、お馬さんは十円」(兵隊は一銭五厘の赤紙で召集できる。馬は十円もいる)ということで、馬以下の扱いしかしてくれない。当たり前で、馬は20㎏の弾薬箱を2つ背中に背負って何10kmも歩く。人間は到底そんなことはできない。さらにまた、行軍のときに、10kmくらい行ったら小休止になる。我々は銃を叉銃したのち歩兵ならば休むところ、こちらは20㎏の弾薬箱を馬の背中から2つ下ろしてやらなければならない。そして鞍を取り、毛布をとってやって、また藁束で背中をこすってやらなければならない。そのうえ、とんとんと按摩も。そして、やっと馬の世話が終わったころに、ピィーッと出発用意となる。こちらの休む暇もあらばこそです。また、毛布をかけ、鞍を置き、腹帯を締め、弾薬を背中へ置き、ちょっと遅ければ、「あほったれ、馬鹿野郎」と。この怒声を聞かない日はなかったくらいです。そんなことで怒られ、馬鹿扱いされていたときに、ふと、召集を受けて親戚のものや町内会の人たちに万歳万歳と歓呼の声に送られて、勇ましく送られてきた日のことを思い出すんです。みじめで情けなくなるようなことが何べんあったかしれません。そのうえ、軍隊というところは、上命下従、上官のいうことは朕の命令と心得よということで、理屈の有無は問わないところ。それはもっともで、上官が「突撃! 進め!」と命じたときに、部下が、いや、それは間違っておりませんか、などといって命に従わない場合、戦争は成り立たない。軍隊とはそういうところです。輜重隊だけのことではなくって、軍全体に通じることだと思われます。軍隊とは、上官の命に盲目的に従わせる演習の場であり、そのための日常生活です。そのうえに、時間の都合でいえませんけれども、毎夜のように消灯後、内務班でのしごき、いじめがあります。幸い、私たちは、幹部候補生要員であったから、そのような初年兵生活は3ヶ月くらいですみましたが、一般兵はそれがずっと続くのです。
私が、九条を考え、軍について語るとき、将棋の駒を振る立場でなくて、振られる駒の立場で考えなければならないというのは、こういう点もあってのことです。
以上
(引用終わり)
生年月日 大正12年3月31日
学歴
昭和15年 3月 和歌山中学校卒業
昭和18年12月 2年在学中召集を受け中途退学
昭和21年 9月 召集解除により同大学2年に復学
昭和22年 3月 高等文官試験司法科試験合格
軍務
昭和18年12月 陸軍中部第31部隊(輜重隊)入隊
昭和19年12月 陸軍経理部見習士官(士官勤務)任命 原隊復帰
昭和20年 3月 護阪師団〈ろ〉部隊に転属昭和20年9月 陸軍少尉任命
裁判官勤務
弁護士勤務
昭和31年6月~現在
昭和44年、同50年
その他の職歴
など歴任
※以上、月山桂先生著『法曹界に生きて平和を思う』(2009年5月1日刊)より引用
平成30年11月1日 ご逝去