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追悼 月山 桂 先生 Ⅱ~「新憲法と極東軍事裁判の思い出」他 折々の月山先生の思いを読む

 2018年11月6日配信(予定)のメルマガ金原No.3323を転載します。
 
追悼 月山 桂 先生 Ⅱ~「新憲法極東軍事裁判の思い出」他 折々の月山先生の思いを読む
 
 11月2日に配信した「追悼 月山 桂 先生~講演録「月山 桂 弁護士 憲法への思いを語る」(2005年8月25日)を読む」は、思いの他多くの方にお読みいただくことができたようであり、心から感謝致します。
 
 今日は、上記ブログでも少し予告させていただきましたが、月山桂先生が憲法に関わって書かれた短いエッセイを、ご遺族のご了解の下、紹介させていただきます。
 この「新憲法極東軍事裁判の思い出」は、2006年6月に発行された「憲法9条を守る和歌山弁護士の会 創立1周年記念誌 平和のうちに生きるために」の「第3部 会員寄稿~憲法にかける会員の思い~」のために月山先生が寄稿してくださった文章です。極東国際軍事裁判の結果について、「私は,これで良いのだと思った。」と書かれた月山先生のお言葉の背後には、日本国憲法への思いに裏付けられた、考え抜かれた末の深い思索があることを見逃すべきではないでしょう。
 
 また、月山先生は、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」顧問、あるいは「九条の会・わかやま」呼びかけ人として、市民向け講演会などにおける開会挨拶や閉会挨拶を引き受けられる機会も多かったのですが、そのような中から、2005年と2007年に行われた行事での挨拶をご紹介します。
 はじめは、2005年12月9日に和歌山市民会館市民ホールで開催された「リレートーク 自民党改憲案の検証」(主催:憲法9条を守る和歌山弁護士の会)での閉会挨拶、もう1つは、2007年6月2日に和歌山県勤労福祉会館プラザホープ4階ホールで行われた品川正治氏講演会「戦争・人間・憲法九条」(主催:九条の会・わかやま、憲法9条を守る和歌山弁護士の会)における閉会挨拶です。
 月山先生は、私の知る限り、ご自身が講演される場合はもとより、短い挨拶の場合であっても、周到に原稿を用意されるのが常でした。それでいて、一々原稿に目を落とされるというのではなく、ちゃんと聴衆に向かって話しかけられており、法廷での月山先生の弁論ぶりも(私自身はあまり拝見する機会がありませんでしたが)かくやであろうか、などと拝察していました。
 
 月山桂先生は、聖書研究にかかわるご著書を何冊か自費出版されていますが、「平和」についての思いをまとめられた著書としては、2009年5月1日に刊行された『法曹界に生きて平和をおもう』があります。
 自費出版でしたので、入手は困難であろうと思われますので、その「はしがき」の一部を引用させていただきます。
 先日ご紹介した講演も、今日ご紹介するエッセイや集会でのご挨拶も、全てはここに書かれた思いに導かれてのことであったと思います。
 
法曹界に生きて平和をおもう』「はしがき」より
(抜粋引用開始)
 私は、「九条の会 わかやま」の呼びかけ人の一人として、前大戦当時の軍隊時代の思い出を語り、在野法曹として憲法九条改正の動きに反対し、微力ながら何としてもこれを阻止したい。この想いが筆をとる切っ掛けとなった。
(略)
 私は、戦争とか、軍隊というものの実態を知らないまま九条が改正され、日本が再び軍隊を持ち、戦争のできるような体制になることは、前大戦の犠牲となり、現在の平和を購ってくれたあの世代の人たちに申し訳ない。国のために死んでいった戦友たちの死を無駄にすることになる。
 「学徒出陣」の名の下に、軍隊に駆り出されながら、「不思議に命永らえる」ことのできた一人として、北に南に、海に山に、戦死していった同僚たちの死を、何とかして今の世に意義あるものにしたい。そう願い、恥をも顧みず拙文を世に出す次第である。
(引用終わり)
 
 以下に、月山先生が遺されたエッセイやご挨拶を掲載しますが、その前に、11月3日(奇しくも日本国憲法が公布された日)に行われた月山桂先生の告別式に、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」会員一同が送った弔電をご紹介します。
 
日本国憲法9条が最大の危機を迎えた今、月山桂先生を喪ったことは痛恨の極みです。遺された私たちは、9条を守るという重大な責務を必ずまっとうすることを先生の御霊前にお誓いします。」
 
 なお、今回掲載した2枚の写真は、いずれも憲法記念日に撮影されたものです(ともに金原撮影)。
 1枚目は、2013年5月3日、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」が呼びかけて実施された「憲法9条を守り生かそう わかやまアピール行進」の先頭で、「平和憲法9条を守ろう」と書かれた横断幕を持って先導される月山桂先生です(先頭の左からお2人目が月山先生)。 
 もう1枚は、その翌2014年の5月3日、「9条ネットわかやま」と「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」が提唱して、和歌山城西の丸広場で開催された第1回“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”の会場を訪れた月山先生のお姿です(向かって右側は「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」共同代表の山﨑和友弁護士、左側は「9条ネットわかやま」共同代表、「九条の会・わかやま」呼びかけ人の花田惠子さんです)。

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憲法9条を守る和歌山弁護士の会 創立1周年記念誌 平和のうちに生きるために」(2006年6月28日発行)
「第3部 会員寄稿~憲法にかける会員の思い~」から
 
                          新憲法極東軍事裁判の思い出
 
                                       月 山   桂
 
 1948年11月中旬のある日,司法修習生の見学会か何かの催しが蔵前の国技館であり,その帰り,友人たちと別れ,駿河台の英米法研究室に立ち寄るべく,独り蔵前から両国橋近くを歩いていた。焼け野原も徐々に復興し,バラック建てながら店舗が立ち並んでいた。とあるラヂオ屋さんの前で5,6名の人が耳をそば立て佇んでいた。極東軍事裁判の判決の言渡しだ。私も仲間に入れて貰って聞き始めて間もなく,Hideki.Tojo,Death by hanging。ウェッブ裁判長による判決の宣告は,そのあとも続いた。聞いていたひとはみな特別の反応を表わすこともなく,黙って去っていった。私も。勝者が敗者を裁く。占領軍の統治下にあって占領軍が被占領軍の戦争指導者を裁く。インドのパル判事ならずとも,裁判に名を藉りた復讐にすぎない,と,裁判の国際法的な正当性に疑問はあった。しかし私は,これで良いのだと思った。国民の目を蔽い,国民を欺いて正義の戦いと思い込ませ,何百万もの国民を死に至らせるほか,広島,長崎,この東京をはじめ,50を超す都市を戦火により灰燼に帰せさせ,数え切れない犠牲を国民に強いた彼らの罪は,国内的にも許されるものではない。誰かによって裁かれなければならない。しかし果たして日本人が日本の法廷で能く裁くことをなし得ただろうか。悔しい想いがしつつ,私は,これで良いのだと思った。
 私は,その2年前の11月頃だったか,戦後最初の,そして最後の高文試験・司法科試験を受験した。憲法は,新・旧どちらでもよいと言うことなので,私は,新憲法を選択した。準備のできていない私には,印刷された資料といえば帝国議会での草案説明の新聞報道しかない新憲法の方が取り組み易かった。裏表ぎっしり印刷された新聞紙を,コピー機もなく紙質も良くなかった当時のこととて大切に保管し,これに赤線,青線を引いた記憶がある。内容的には殆ど記憶していない。三原則のうち平和主義に出た戦争放棄の九条については,左程違和感なく私には理解された。一つには,ポツダム宣言受諾による無条件降伏,軍の解体,占領軍の進駐前に一刻も早く兵隊を復員帰郷させる,軍用物資全部を進駐軍に滞りなく引渡しする,そういった終戦業務に携わったものとして「交戦権は認めない」とか「陸海空軍は持たない」ということは,やってきた業務の延長線上のものだった。また,それにもまして満州の陸軍経理学校の卒業のとき,校門まで見送って「手を揮って茲より去れば,蕭蕭として班馬鳴く(てをふるってここよりされば、しょうしょうとしてはんばいななく)」の想いで別れた戦友の多くが未だシベリヤから帰れないでいる。戦争とは,何と悲惨な,何とむなしいものか。そんな想いでいた私には,戦争放棄の規定は,理屈なしに受け容れられた。戦争のない世界,戦争をしない国,軍隊をもたない国。戦火によって人間を不幸にしない国。それは人類至高の夢であり,憧れだ。日本をその理想を掲げる国,その栄誉ある国にしたのが,ほかならぬ戦勝国である連合国であり,アメリカであった。アメリカや連合国には,日本を再び自分たちに刃向かうことのできない国にするため,という考えがあったかも知れない。しかし,このような機会がなければ,九条の規定は生まれない。
 私は,2年前に公布された新憲法と,先程聞いた極東軍事裁判の判決の意義を考えつつ,夕暮れ迫る駿河台の坂道を上ったことであった。60年も前のことである。
 

リレートーク 自民党改憲案の検証
日時 2005年12月9日
場所 和歌山市民会館市民ホール
主催 憲法9条を守る和歌山弁護士の会
閉会のあいさつ
 
○月山 桂
 たいへんお疲れでございました。
 私が伺っておりましても、ある意味では難解で、こういう難しいことで憲法九条を守らなければいけないのかなという感じをしたぐらい、難しい問題というふうに捉えられた向きもあったんじゃないかと。尤も、今日お越しの方は、皆さん日頃から勉強されておりますので、聞いておられてもそれほど難しい問題じゃない、ある意味ではもっと高次な考え方をすべきだというふうな方もいらっしゃるかとも思います。
 この九条の問題、これは単なる政治の問題じゃない。また、政治家のみの問題じゃない。国民一人ひとりの問題、命の問題だと。そういうところに原点をおかなければいけないというふうに常々思っております。
 自民党の案では、交戦権を認めよう。戦うことを認めよう。あるいはまた、戦うことの正当性というものを見出そうというふうなことで一生懸命になっているように感じます。自民党のような考え方もあろうかとは思いますけれども、この交戦権を認めた場合の軍隊、その軍隊に組み込まれていく我々国民、それはどういうふうになるのかという点です。戦力に組み込まれる国民。私はその国民の立場に立たなければ、この憲法九条の問題というのは理解しがたいんじゃないかというふうに思っています。
 先程から理論的に立派なお話を伺いましたけれども、私はしょっちゅう感じるんですけれども、憲法九条の問題というのは命の問題だ。そして、この憲法九条のそもそもの制定の由来、これはやはり戦争による悲惨さ、そこから出ているんだというふうに思うんです。我々の親兄弟、あるいはまた子どもたち、これらが戦場で、また銃後で非常に苦しい中を戦い、そして倒れていった。そういうふうな思い。あるいはまた、原爆によるあの広島・長崎の悲惨な状態。それは象徴的なもので、この我々和歌山市民にとりましても、この温かい町の全てが灰じんに帰せられたあの7月9日の焼夷爆弾。死の灰じん。私はそういうところがやはり憲法九条の出発点だというふうに思うんです。憲法九条は、そういうふうな戦争の悲惨さということを背景にしてできた。その点を決して忘れてはいけない。憲法九条を守ろうという出発点はやはり広島であり長崎であり、この空襲で焼けて灰じんと帰した和歌山市の情景だというふうに私は常々思っております。
 だから、非常に難しい問題も学ぶことは大切だと思いますけれども、何よりも戦争の悲惨さ、この点を私どもは出発点におかなければいけないと考えます。
 私は、昭和18年というと、ちょっと古い言い方ですが、1943年でしょうか、東条首相による学徒出陣で代々木の外苑を雨の中を行進させられた1人でございますけれども、その時の私どもの仲間の誓いといいますか、「二度とこういう戦争は…」という強い思いであります。
 また、弁護士というような、これは法曹の中でも在野法曹、私は在野ということに非常に誇りをもっております。また、在野精神、これを忘れては弁護士というものは駄目だというふうに私は思っております。ところがこの頃はみんな賢くなりまして、在野ということについてそれほど誇りをもたない。在野精神というようなことを言うのは古ぼけているというふうに考えているんじゃないかと思われる先生方もいらっしゃると思うんですが。しかし、私は弁護士が在野の精神を忘れたら、もうこれは弁護士じゃないというふうにさえ思っております。これは弁護士、お前達自身が考えればいいことだということかもしれませんけれども、これはですね、決して弁護士だけのことじゃなくて、先ほど申しましたように、この憲法九条を考えるということは、これは自分の問題として考えなければいけない。その点につきまして、私は弁護士ということを一つの例にとって申し上げたわけです。
 私ども弁護士が、この「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」というのを立ち上げたのも、そういうふうなところにあるわけです。駒を振る立場、政治家の立場、総理大臣や、あるいは防衛庁長官外務大臣、そういうふうな立場の人が考えるような、そういう立場に立って考えるんじゃなくて、振られる駒の立場、戦場に赴かされる恐れのある我々の立場、苦しい目にあわされる国民の立場、その立場に立って物事を考えなければいけないというふうに思っております。
 そういう意味で、この9条の会というものが立ち上げられたというふうに聞いております。そういう意味で、今日、大勢の方々がご参加いただきましたことにつきまして、非常に感謝申し上げるとともに、是非とも我々一致協力しまして、九条を守るということに頑張っていこうではありませんか。たいへん長時間にわたり、ご静聴いただき、ご参加いただきましたことを感謝いたします。ありがとうございました。(拍手)
 どうかお気をつけてお帰りください。
 

品川正治氏講演会「戦争・人間・憲法九条」
日時 2007年6月2日(土)午後2時~
場所 和歌山県勤労福祉会館プラザホープ4階ホール
主催 九条の会・わかやま、憲法9条を守る和歌山弁護士の会
閉会挨拶
 
月山 桂 氏
 今ご紹介にあずかりました月山でございます。主催者の1人と致しまして、閉会のご挨拶を申し上げたいと思います。品川先生には、遠路、非常にご多忙の中、私どもの願いをお聞き届け戴きまして、本日このように盛会裡に先生のご講話を承ることができました。厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。(拍手)
 また、ご参加戴きました皆様には、私どもの意のあるところをご了解戴きまして、先生の貴重な体験を通じてのお話を最後まで熱心にご静聴戴きました。これもまた、主催者と致しまして、非常に感謝に堪えない次第でございます。
 時間が押し迫っているところ、私ごとで恐縮なんですけれども、私も先生と同じような歳、私の方が一つ年上でございます。私は、先生よりも甘い戦時中を過ごした、例のあの学徒出陣っていうので、昭和18年の6月から12月まで、満州経理学校、教育隊の方におりました。ところが、原隊復帰っていうことで、早く日本に帰ることが出来ました。で、内地勤務となりました。そういう関係で、先生が体験されたような戦争体験っていうもの、戦闘体験と申しますか、そういう風な体験を全く持っておりません。従って、戦争の時の話、苦しみっていう風なことを話す資格は全くない訳でございます。確かに早く復員することが出来ました。また、復学することも早かった訳で、その上に、司法試験もですね、火事場泥棒と申しますか、(笑)火事場泥棒というのは、例えば憲法にしましても、新憲法は出来たてのほやほやで、教科書も出来ていないという風な状態ですね。それからまた、よく出来た同僚、これらがまだ復学してきていない。(笑)相手は、こんなこと言って非常に恐縮ですけども、まさに火事場泥棒。そういう風な中で、第1回の司法試験に合格致しました。
 そういうことで、それも幸いして、判事補としまして、東京地方裁判所に職を得まして、そこでですね、いわゆる戦後訴訟って言われるものに色々関係することが出来ました。先ほどちょっと先生のお話にも出ましたけれども、戦争による利得、戦時利得、こういうものが許されるべきじゃないんだというような趣旨のこともお話あったかと思いますけれども、それに見合ったようなものとして、戦争中に、中島飛行機が第一軍需工廠というものになりまして、戦争が終わると同時に、第一軍需工廠というものが、これが元の中島飛行機に還った。その間に、軍の援助でですね、非常にたくさんの施設・物資で太っておった。非常な利得を得た。そういう風なところから、戦時補償特別措置法っていうのが出来まして、その利得というものを税金の形で国が取り上げていった訳です。その戦時補償特別措置法っていう税金訴訟にも関係することが出来ましたし、その判決も書かせて戴いた。
 また、刑事の面では、皆様方としてはご承知かどうか、もう昔のことになりますけども、皇居前のメーデー騒擾事件というのがございました。あの事件では、非常に被告がたくさん逮捕されていまして、何百人といた、そういう関係で一つの部で、一つの法廷で審理することが出来なくって、八つの部に分かれて審理しておった。そういう風なことで、中の一つに私も関係させて戴いたというようなことも記憶しております。そういう風なことで、いわゆる戦後訴訟っていう風なものに、私も関係することが出来まして、先ほど先生が色々とお話されていることを伺いながらですね、かつて裁判官として日々仕事に追われながら、判決書きに追われながら、その下でなおかつ新憲法での訴訟制度のあり方、あるいはまた憲法自体を一生懸命勉強した。かつては、本もなかったですから。
 そういう風な勉強をしておった当時のことを非常に懐かしく、先生のお話を承りながら、思い出させて戴きました。そして、あらためて憲法への思いというものを熱くさせて戴いたというようなことでございます。立場は違いますものの、今日お越し戴きました皆さん方も、品川先生のお話を伺って、非常に深い感銘を受けられたという風に私は思います。また、今日先生からお教え戴いたところを、それぞれの活動におきまして、日常活動におきまして、あるいはまた、我々の九条の会の取組にあたりましても、活かして戴くようにする、このことが、先生がわざわざ今日お越し戴いた先生のご苦労に対するご恩返しだという風に思います。是非とも皆様方も、先生のご期待に添うように、私ももちろんそういう風に頑張っていきたいと思いますけども、みんな一生懸命頑張っていこうじゃありませんか。(拍手)
 先生におかれましては、どうぞくれぐれも健康にご留意賜りまして、今後とも憲法9条を守る取組につきまして、とりわけ、先生が仰った9条2項、軍隊を持たない、日本はもう軍隊を持たないぞという風な決意の下での運動、闘い、これにつきまして一層ご尽力賜る、ご指導賜るということをお願い致しまして、この私どものお礼の言葉、そしてまた、本日のこの会の閉会の言葉とさせて戴きたいと思います。どうも大変ありがとうございました。(拍手)

放送予告・ETV特集「写真は小さな声である~ユージン・スミスの水俣~」(2018年11月10日)

 2018年11月5日配信(予定)のメルマガ金原No.3322を転載します。
 
放送予告・ETV特集「写真は小さな声である~ユージン・スミス水俣~」(2018年11月10日)
 
 写真集『水俣(MINAMATA)』で知られるアメリカの著名な報道写真家、故ウィリアム・ユージン・スミス氏(William Eugene Smith、1918年12月30日~1978年10月15日)を、俳優のジョニー・デップ(Johnny Depp)が演じることになり、来年の1月には日本で撮影が始まると報じられたのはごく最近のことでした。
 
シネマトゥデイ 2018年10月24日 15時11分
ジョニー・デップ水俣病を扱った新作で実在の写真家に!日本でも撮影
(引用開始)
 米俳優ジョニー・デップが、水俣病の問題を扱った新作『ミナマタ(原題) / Minamata』で、実在の写真家ウィリアム・ユージン・スミスさん役に挑戦するとDeadlineなどが報じた。
 本作はウィリアムさんと妻アイリーン・美緒子・スミスさんが共同で執筆した同名著書「ミナマタ(原題) / Minamata」を基に、ハンウェイ・フィルムズが手掛けて映画化する予定。監督は『最低で最高のサリー』で製作総指揮を務めたアンドリュー・レヴィタスで、デヴィッド・K・ケスラーが脚色する。
 第2次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島で活動した写真家ウィリアム・ユージン・スミスさんが、1970年代にライフ誌の編集長ラルフ・グレイヴスの依頼でチッソが引き起こした水俣病の取材をし、その実態を暴いた経緯を描く。
 2019年1月から日本で撮影に入り、その後セルビアで撮影することになっている。(細木信宏/Nobuhiro Hosoki)
(引用終わり)
 
 同趣旨の日本語によるニュースのソースは、上記記事でも触れられているDeadlineによる以下の記事です。
 
Johnny Depp To Star As Photojournalist W. Eugene Smith In Thriller ‘Minamata’, HanWay To Launch Sales – AFM
by Andreas Wiseman  October 23, 2018 8:18am
 
 日本独自の取材による報道として、朝日新聞デジタルの記事を引用しておきましょう。
 
朝日新聞デジタル 2018年10月31日09時00分
水俣病伝えた米国人、ジョニー・デップさん映画で演じる
(引用開始)
 「公害の原点」といわれる水俣病を世界に伝えた著名な米国人写真家の故ユージン・スミスさん(1918~78)を、俳優のジョニー・デップさんが演じる映画制作の計画が進んでいる。米映画関係者が熊本県水俣市を訪れ、水俣病患者らに制作の意向を伝えた。
 スミスさんは第2次世界大戦中、従軍カメラマンとして沖縄などの戦地を踏み、71年から3年間、妻のアイリーン・美緒子・スミスさん(68)と水俣に滞在。母に抱かれて入浴する胎児性水俣病患者の上村智子さん(77年に21歳で死去)らの撮影に共同で取り組み、集大成の写真集「MINAMATA」で世界に衝撃を与えた。今年はスミスさん生誕100年にあたる。
 アイリーンさんや米映画制作会社の関係者が9月に水俣市を訪れ、智子さんの父好男さん(84)や、胎児性患者の坂本しのぶさん(62)らと面会。坂本さんは「本当のことを伝えてほしい」などと伝えた。
 年明け以降、国内外で撮影が本格化し、水俣の風景も盛り込まれる見通し。アイリーンさんは「ジョニー・デップさんの演技力で、ユージンのユーモアあふれる人格とジャーナリズムへの熱意を世界に知らせ、水俣の今と世界中の公害と闘う人々に光を当ててもらいたい」と話している。(奥正光)
(引用終わり)
 
  シネマトゥデイ朝日新聞も、抜粋引用にとどめようと考えたのですが、カットするところが見つけられませんでした。
 
 映画館で映画を定期的に観るという習慣をなくして相当経つ私は、ジョニー・デップ主演作のうち、映画館で観たのは『チャーリーとチョコレート工場』(ティム・バートン監督/2005年)1本だけという有り様ではありますが、これらのニュースに接し、「『MINAMATA』が優れた作品として完成して欲しい、是非映画館で観たい」と思ったものでした。
 そのような気持ちの幾分かは、私自身まだかけ違ってお目にかかったことはないものの、アイリーン・美緒子・スミスさんのお名前が、京都の「グリーン・アクション」代表としてお馴染みであったことによります。
 「グリーン・アクション」のホームページを覗いてみると、私のブログでも開催情報をお伝えした「核のゴミ捨て場「中間貯蔵」はいらない!10・28 関西集会」で採択されたアピールが掲載されていました。
 アイリーンさんの現在の活動(の一端)を知っていただくために、本ブログ末尾にこのアピール全文を転載しておきます。
 
 さて、前置きが長くなり過ぎました(私のブログではよくあることですが)。
 今度のETV特集で、そのユージン・スミスさんを取り上げた番組「写真は小さな声である~ユージン・スミス水俣~」が放送されるのです。
 これは絶対に見逃せません。1人でも多くの方に録画・視聴をお勧めしたく、今日のブログでご紹介することにしたものです。
 
NHK・Eテレ
本放送 2018年11月10日(土)午後11時00分~12時00分
再放送 2018年11月15日(木)午前0時00分~1時00分(14日深夜)
ETV特集「写真は小さな声である~ユージン・スミス水俣~」
(番組案内から引用開始)
写真集「水俣」で知られるユージン・スミス。今年生誕100年を迎えた彼のプリントや撮影時の録音が公開された。水俣に住み込み、患者さんの姿を世界に伝えた素顔に迫る。
公害の原点・水俣を世界に伝えたアメリカの写真家ユージン・スミス。その膨大なプリントや取材時の録音テープが公開された。従軍カメラマンとして太平洋戦争の激戦地を撮影した彼は、沖縄で負傷。戦後、近代化の影で切り捨てられようとした弱者に目を向けていく。妻・アイリーンと水俣に住み込み、患者さんに向き合い続けた日々。初公開の資料や患者さんらの証言から、悩みながら水俣を撮り続けたユージン・スミスの素顔に迫る。
(引用終わり)
 
 以上にご紹介した映画化に関わる報道やETV特集の番組案内には記載されていませんが、ユージン・スミスさんと水俣に関しては、以下のような痛ましい事件もあったそうです。Wikipediaから引用します。
(抜粋引用開始)
1972年1月、千葉県市原市五井にあるチッソの工場を訪問した際に、交渉に来た患者や新聞記者たち約20名が会社側の雇った暴力団に取り囲まれ、暴行を受ける事件が発生する。スミスもカメラを壊された上、脊椎を折られ片目失明の重傷を負う。この事件でスミスは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。その後『ライフ』1972年6月2日号に「排水管からたれながされる死」を発表した。
(引用終わり)
 
 Wikipediaでも引用されていますが、水俣に住み込んでいたスミス夫婦のアシスタントを買って出ていた高校生で、後にフォト・ジャーナリストとなった森枝卓士さんのインタビューが、その当時の現地の状況を彷彿とされてくれます。
 
MANMO.TV 5934号 2017.03.31
インタビュー 森枝卓士
(抜粋引用開始)
問:水俣病というと、公害の原点ともいわれる大変な社会問題でした
もちろんそこに住んでいたのだし、いくら能天気だといっても高校生だったのだから、それがどんなことかはわかっていた。ただ僕はあまりにも水俣という土地になじんでいたから、そのことよりもただ偉いカメラマンが、あのすばらしい写真を撮ったカメラマンがやってくるという、そのことだけで興奮していたと思う。だから、やってきたばかりのアイリーンに街で声をかけた。
問:ユージン・スミス水俣病患者の姿を撮って社会告発するということだったのでしょうか?
公害病」という言い方をするけど、要するに水俣は環境問題の原点であるわけです。そういうことから、さまざまな社会問題をテーマに写真を撮っていたユージンの目に留まったのではないでしょうか。
でも、水俣の人間の側からすると、水俣というのはそのチッソのおかげでみんなが食べていたような町だったんですよ。いくつもの企業があってその中のひとつというわけではなかった。チッソただそれだけ。
僕の父も母もチッソで働いていたし、そのおかげで自分たちがかなわなかった夢だった、東京の大学に僕と弟、妹の3人の子供を送り卒業させた。だから、複雑な感情があったわけですね。
問:それで、あの冒頭のアイリーンさんの文章につながるわけですね?
僕は父に隠れてこそこそと彼らのところに通ってました。家から高校までは電車で行くんだけれど、帰りは電車には乗らずにバスに乗り彼らの住むところに寄るというぐあいだった。
ユージンが住んでいたのは水俣病患者がもっとも多かった地域。何度も通ってアルバイトのようなことをしているうちに、彼らのやろうとしていることを身近で見ているうちに社会に対する問題意識も徐々にもつようになっていったと思う。
新聞もずいぶん熱心に読むようになり、英語しかしゃべれないユージンと直接話したいと英語の勉強もがんばるようになった。
問:でも隠れて通わなければならなかった
前にも言ったように、水俣は「チッソ城下町」のようなところだから。その上、父親はその社員でバリバリの保守系だったから。
僕がそもそも一番最初にユージンと会ったのは、その父親が参加していた保守派の集会で、しかも初めて会ったというのに、ユージンのカメラバッグを持っていっぱしの助手のような顔をしていた。
このときの父親のショックはそれは想像を絶するものだったろうね。家に帰ったら寝込んでいたもの。僕を怒鳴りつけた父親のあまりの剣幕にただただうなだれて従ったふりをしていたが、これからはわからないように彼らに会いにいこうと決心していた。
(引用終わり)
 
 また、アイリーン・美緒子・スミスさんに対する興味深いインタビューもありました。
 
Ko-e magagine online July 2009
Aileen Mioko Smith Text & Interview: Ian Priestley
(抜粋引用開始)
IP. その暴行事件で生活に何か影響はありましたか?
AMS. その事件以来、私たちの生活は一変しました。それ以前にも彼はたくさんの傷を負っていました。太平洋戦争中に3回の飛行機事故を経験し、チッソでの暴行事件以前に30回以上も手術を受けていましたから、もともと辛い状態ではあったわけです。そして彼はアルコールに依存していました。酒の力で痛みを忘れようとしていました。そしてチッソの暴行事件による大怪我で私たちの取材活動はますます難しくなってしまいました。
ユージンは手を上げるという動作をすると時々気を失いそうになっていました。そんなときは私が彼を脇の方へ引っ張って行って私が代わりに写真を撮りました。またあるときは、ちょっと手を上げただけでも失神しそうになるというので口でシャッターを切ろうとしていたこともありました。
彼はひどい頭痛にも悩まされていました。水俣では古い借家に住んでいて暖房には薪を焚いていました。薪を割るのに使う斧があったのですが、ある日彼は「斧を持ってきてこの頭をかち割ってくれ」と言ったくらい辛かったようです。
(引用終わり)     
 
 ETV特集「写真は小さな声である~ユージン・スミス水俣~」を視るための予習としては盛り沢山過ぎたでしょうか。あまり、先入観を持たずに虚心に番組に向き合いたいという方には、余計な情報だったかもしれません。
 それでも、故ユージン・スミスさんや水俣について、多くのことを学ぶ契機となればと思って調べてみました。
 
(参考資料 核のゴミ捨て場「中間貯蔵」はいらない!10・28 関西集会アピール
(引用開始)
 原発の使用済燃料の行方が、いまや差し迫って大きな問題になっている。運びこむべき六ケ所再処理工場の受入貯蔵プールが満杯になっているためである。それに加えて新たに、福島事故以後に進行している老朽原発廃炉が、電力会社にとってきわめて深刻な状況をつくりだしている。
 美浜1・2号の廃炉に伴って、そこの使用済燃料プールも廃止になり、3号炉のプールに移すと現状でもあふれてしまう。同様に、大飯1・2号から3・4号に移すと、そこはおよそ満杯に近くなる。にもかかわらず関電は、無謀にも、大飯3・4号の運転を再開し、美浜3号も運転再開しようとしている。
 大飯3・4号の運転再開を容認するにあたって福井県知事は、使用済燃料を県外に移送するよう要求した。関西電力は、県外の中間貯蔵の計画地点を今年中に公表すると約束し、これを条件として、福井県知事は大飯3・4号の運転再開を昨年11月に容認した。
 その期限までに2か月を残すばかりとなった本日、私たちは関西集会に集い、使用済燃料という名の核のゴミの実情を直視した。
 和歌山県白浜町では「核のゴミはいらん日置川の会」が7月29日に結成され、他の2地区でも、8月に同趣旨の白浜の会が結成された。和歌山県、関西、生協関係の運動団体からも白浜町に反対の申入れがなされてきた。これらを受けて白浜町長は9月町議会冒頭で、それまでの姿勢を転換し、関電から申入れがあっても協議には応じないとの意思をついに初めて表明した。
 青森県むつ市は関電からは受け入れない方針であることを、私たちは9月13日に直接出向いて確認した。兵庫県北部など関電管内のどこも受け入れる意思はないことを、アンケートなどで確認している。
 他方、福井県高浜町長とおおい町長は8月末に相次いで、敷地内乾式貯蔵も選択肢としてあり得ると表明した。9月の福井県議会でも、若狭地域選出議員が知事の県外搬出方針を槍玉にあげている。これらは県外立地の困難を見越し、事実上、関電を援護するものである。ただし、両町とも今のところ、知事の県外立地方針を認め、関電の計画を注視する姿勢であることは10月の申入れ時に確認した。
 本日私たちは白浜町からの報告を聞き、反対組織の立ち上げに踏み切った思いを受け止めた。「ゆたかな海・山・川を子どもや孫たちに残そう、日置川に核のゴミはいりません」がそのスローガンである。
 その思いは、原発立地点の高浜町おおい町の人たちにも共通ではないだろうか。白浜に許されない施設は、やはり高浜やおおいにも許されるべきではない。
 実際、ひとたび貯蔵施設がつくられれば、そこは永久的な核のゴミ捨て場とならざるを得ない。以前に50年の貯蔵期間終了後に運ぶ予定であった第二再処理工場は、現在は事実上消滅している。六ヶ所再処理工場も、寿命が40年なので、そのころには幻と化している。
 中間貯蔵施設も敷地内乾式貯蔵施設も、原発を延命させ、ますます多くの使用済燃料というゴミをつくるための施設である。原発核燃料サイクルの矛盾はいまや誰の目にも明らかである。全国各地の運動は連携を強め、使用済燃料の新たな貯蔵施設の計画に反対しよう。
 福井県外の計画地点の公表ができないよう監視を強めよう。敷地内乾式貯蔵施設も永久的な核のゴミ捨て場となることを、地域の人たちに広く知らせて行こう。
 大飯3・4号の稼働に関する知事の承認は、年末に約束違反となれば事実上無効となる。大飯3・4号を止め、さらに高浜3・4号、高浜1・2号、美浜3号を止めていこう。
  2018 年10月28日 核のゴミ捨て場「中間貯蔵」はいらない!関西集会 参加者一同
(引用終わり)

「止めよう!改憲発議―この憲法で未来をつくる11・3国会前大行動―」を視聴して決意をあらたにしよう

 2018年11月4日配信(予定)のメルマガ金原No.3321を転載します。
 
「止めよう!改憲発議―この憲法で未来をつくる11・3国会前大行動―」を視聴して決意をあらたにしよう
 
 日本国憲法が公布されてから72年となる昨日(11月3日)、この記念すべき日に、全国各地で様々な行事が取り組まれたことと思いますが、東京の国会前では、「安倍9条改憲NO!全国市民アクション」と「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」が主催する「止めよう!改憲発議―この憲法で未来をつくる11・3国会前大行動―」が開かれました。
 いくつかの動画がアップされていますが、一番最初に気がついて視聴し、画質・音質ともとても良好な「Makabe Takashi」さんのチャンネルをご紹介します。
 動画は2本に分かれており、1本目がジンタラムータの皆さんによるオープニングライブ、2本目が「開会挨拶 政党挨拶 各分野からの発言 行動提起」とチラシに予告されたリレートークです。
 是非、全編を視聴して、「止めよう!改憲発議―この憲法で未来をつくる」という意欲を全国で共有しましょう。
 
ジンタらムータ 止めよう!改憲発議―この憲法で未来をつくる11・3国会前大行動―オープニング 2018年11月3日(25分50秒)
 
止めよう!改憲発議―この憲法で未来をつくる11・3国会前大行動― 2018年11月3日(1時間27分51秒)
冒頭~ 開会 司会・菱山南帆子(総がかり行動実行委員会)
1分~ コール1 加藤れいこ氏(憲法共同センター)
〇安倍9条の 改憲反対
改憲発議 絶対止めよう
〇9条変えるな 憲法活かせ
〇安倍政権は 今すぐ退陣
〇戦争法は 必ず廃止
〇戦争したがる 総理はいらない
〇森友疑惑 徹底追及
〇加計疑惑も 徹底追及
〇ウソをつくな
〇国家の私物化 許さないぞ
〇セクハラ発言 許さないぞ
〇人権守れ
増税増税 絶対反対
〇10%は許さない
〇軍事費けずって 暮らしに回せ
〇軍事費けずって 福祉に回せ
オスプレイ飛ばすな どこにもいらない
〇イージスアショア (聴取不能
朝鮮半島 対話で平和
辺野古に基地は 作らせないぞ
沖縄県民の 声を聞け
核兵器なくし 原発いらない
原発再稼働 絶対反対
〇市民と野党の 共闘前進
〇野党は共闘
〇野党がんばれ
〇安倍政権を 必ず倒そう
憲法改悪 必ず止めよう
〇みんなの力で 政治を変えよう
〇あきらめないぞ
〇あきらめないぞ
4分~ 主催者開会挨拶 福山真劫さん(総がかり行動実行委員会共同代表)
(政党挨拶)
19分~ 小池晃氏(日本共産党書記局長、参議院議員
25分~ 有田芳生氏(立憲民主党特命副幹事長、参議院議員
33分~ コール2 加藤れいこ氏(憲法共同センター)
(各分野からの発言)
37分~ 清水雅彦氏(日本体育大学教授・憲法学)
42分~ 小森陽一氏(東京大学教授、安全保障関連法に反対する学者の会)
(政党挨拶)
47分~ 小宮山泰子氏(国民民主党総務会副会長、衆議院議員
(各分野からの発言)
53分~ 高里鈴代氏(オール沖縄会議共同代表)
1時間01分~ 久保田竜子氏(ブリティッシュコロンビア大学教授、カナダ9条の会)
1時間07分~ 川崎哲氏(ピースボート共同代表)
1時間13分~ 濱田すみれ氏(24条変えさせないキャンペーン)
1時間19分~ 行動提起 高田健氏(総がかり行動実行委員会共同代表)
1時間24分~ コール3 加藤れいこ氏(憲法共同センター)
 
(付記/生かそう憲法 守ろう9条 11.3憲法集会 in 京都)
 11月3日には、全国各地で様々な大型企画が開催されたようですが、そのうち、京都市東山区の円山野外音楽堂では、憲法9条京都の会と安倍9条改憲NO!全国市民アクション・京都が主催する「生かそう憲法 守ろう9条 11.3憲法集会 in 京都」が開かれました。集会での基調講演は、広渡清吾氏(東京大学名誉教授、元日本学術会議会長、安全保障関連法に反対する学者の会発起人)でした。
 この集会とその後のデモ行進が、IWJ京都によるTwitcasting録画で公開されていますのでご紹介しておきます(集会とデモの2本に分かれています)。
 ちなみに、集会での政党挨拶の最後が、メッセージ朗読(それも抜粋)だけとはいえ、前原誠司国民民主党衆議院議員京都府支部連合会会長)からのものだった、というのにはある種の感慨を覚え(ちなみに、立憲民主党福山哲郎幹事長もメッセージでしたが)、思わず文字起こししてしまいましたのでお読みください(これから、来年夏の参院選に向けて、市民と野党の共闘をどう構築していくかに悩んでいる全国各地の皆さん~和歌山を含む~の参考になるでしょうか?)。
IWJ 生かそう憲法 守ろう9条 11.3憲法集会 in 京都 ―講演 東京大学名誉教授・広渡清吾氏ほか 2018.11.3
前原誠司国民民主党衆議院議員メッセージ(代読)抜粋]
   私たちは、現在の日本国憲法の下で世界に誇る平和と経済的繁栄を獲得してきました。敗戦直後の絶望の中にあって、国民が未来に一縷の望みを抱き生活と社会の再建に心血を注いでこられたのは何故か。それは日本国憲法国民主権基本的人権の尊重、平和主義が明記され、その具現化が図られたからであります。「生かそう憲法 守ろう9条 11.3憲法集会 in 京都」がその契機となり、また、私たち国民民主党への、本日ご参集されておられる全ての方々からのご期待を受け止め、ここ京都から取り組むことをお約束し、開催にあたってのメッセージとさせていただきます。

安倍晋三首相による「私は立法府の長」発言4事例+番外「立法府の私」1事例を再確認する~2007年5月11日~2018年11月2日

 2018年11月3日配信(予定)のメルマガ金原No.3320を転載します。
 
安倍晋三首相による「私は立法府の長」発言4事例+番外「立法府の私」1事例を再確認する~2007年5月11日~2018年11月2日
 
 昨日(11月2日)の衆議院予算委員会における審議の中でのささやかなエピソードをご紹介しておきます。
 私がこのエピソードを、裏付けとなる衆議院インターネット審議中継の書き起こしとともにブログに掲載しておこうと考えた問題意識については、後に説明させていただきます。
 
 まず、このエピソードを短く伝えた報道記事を3本ご紹介しておきます。
 
 
毎日新聞 2018年11月2日 20時29分(最終更新 11月3日 10時28分)
衆院予算委 安倍首相また「私は立法府の長」 議場嘆声
 
(抜粋引用開始)
 安倍晋三首相は2日の衆院予算委員会で、「私が今ここに立っているのは、『立法府の長』として立っているわけだ」と答弁し、直後に「行政府の長」と言い直した。首相が国会で自身を「立法府の長」と言い間違えるのは2007年5月、16年4、5月に続き少なくとも4回目。今回は議場の「あー」という嘆声で気付いてすぐに訂正した。
 国民民主党奥野総一郎氏が、消費増税とセットで行うはずの国会議員定数削減が進んでいないと指摘。言い間違えた後、首相は「失礼、すいません、行政府の長として立っており、立法府議員定数について少ない方がいいと言ってはいけない」と述べた。
(略)
(引用終わり)
 
 
しんぶん赤旗 2018年11月3日(土)
3度「立法府の長」発言 安倍氏の無理解極まる
 
(引用開始)
 「ここに立法府の長として立っている」。安倍晋三首相は2日の衆院予算委員会で、自身を「立法府の長」だとする間違った発言をし、与野党議員から失笑を買いました。
 問題の発言は、国民民主党奥野総一郎氏が国会議員の定数削減への取り組みをただしたさいの答弁。直後に「行政府の長」と訂正し、謝罪しました。
 安倍首相が国会で「立法府の長」だと述べたのは、2007年5月と16年5月の答弁に続く3度目です。
 安倍氏は今回、答弁を訂正する際に、「行政府の長」として「立法府の議員の定数について、私が少ないほうがいいと言うのはあってはならないのだろう」と表明しました。
 ところが、安倍氏は今国会での所信表明演説(10月24日)では、衆参両院の憲法審査会で各党が改憲案を示して議論することは「私たち国会議員の責任」だと主張し、「行政府の長」として国会に改憲の大号令をかけました。
 「行政府の長」として、議員定数への言及が「あってはならない」というなら、改憲案審議を立法府=国会に促すこともあってはならないはずです。憲法三権分立原則への安倍氏の無理解ぶりを示しています。
(引用終わり)
 
朝日新聞(大阪本社) 2018年11月3日 朝刊 13版 4面
首相また「私は立法府の長」
(抜粋引用開始)
(略)
 首相は2016年5月の衆院予算委員会でも「私は立法府の長」と答弁。同月の参院予算委でも「立法府の私」と答えた。
(引用終わり)  
 
 上記3紙が、全て先例として指摘している2016年5月の「私は立法府の長」発言というのは、2016年5月16日開催の第190回国会(常会)衆議院予算委員会における山尾志桜里議員(民進党・無所属クラブ)からの質問に対し、「私は立法府立法府の長であります。」と答えたことを指しており、これは当時相当に大きな話題となりましたので、ご記憶の方も多いことでしょう。
 けれども、各紙が指摘している先例はそれだけではありません。今回も含めて時系列順に「私は立法府の長」発言を並べると以下のようになります。
 
1 2007年5月 (毎日が指摘)
2 2016年4月 (毎日が指摘)
3 2016年5月 (毎日、赤旗、朝日が指摘)
(番外)2016年5月「立法府の私」 (朝日が指摘)    
4 2018年11月 (今回の発言)
 
 上記の1、2、3、(番外)の4事例については、私も2年前のブログでフォローしていました。
 
2016年5月19日
2016年6月9日
 
 (番外)を含めた「私は立法府の長」発言5事例の年月日等のデータを一覧にしてみましょう。
 
第1事例
2007年5月11日
第166回国会(常会)参議院日本国憲法に関する調査特別委員会
簗瀬進委員(民主党)からの質問に答えて
 
第2事例
2016年4月18日
第190回国会(常会)衆議院環太平洋パートナーシップ協定等に関する特別委員会
下地幹郎委員(おおさか維新の会)からの質問に答えて
 
第3事例
2016年5月16日
第190回国会(常会)衆議院予算委員会
山尾志桜里委員(民進党・無所属クラブ)からの質問に答えて
 
(番外)事例~「立法府の私」
2016年5月17日
第190回国会(常会)参議院予算委員会
福山哲郎委員(民進党新緑風会)からの質問に答えて
 
第4事例
2018年11月2日
第197回国会(臨時会)衆議院予算委員会
奥野総一郎委員(国民民主党・無所属クラブ)からの質問に答えて
 
 以上からお分かりのとおり、安倍晋三首相による「私は立法府の長」という発言は、「少なくとも4回目」という毎日新聞の記載が正しく、しんぶん赤旗の「3度目です」というのは、2016年4月事例のカウント漏れです。ちなみに、赤旗の記事後半、所信信表明演説での改憲への言及との矛盾を指摘した部分は素晴らしい着眼だと思います。
 
 過去2回ブログで取り上げてはいるのですが、最新事例が加わったのを機に、(番外)編を含めた5事例をまとめてご紹介しておきましょう。
 その際、安倍首相の発言を「何によって」確認したかというと、
 
第1事例 2007年5月11日 参議院
 ⇒参議院会議録
第2事例 2016年4月18日 衆議院
 ⇒衆議院インターネット審議中継、衆議院会議録
第3事例 2016年5月16日 衆議院
 ⇒衆議院インターネット審議中継、衆議院会議録
(番外)事例 2016年5月17日 参議院
 ⇒参議院インターネット審議中継(現在は削除)、参議院会議録
第4事例 2018年11月2日 衆議院
 ⇒衆議院インターネット審議中継
 
となります。
 実は、衆議院インターネット審議中継は、「公開期間は、第174回国会(常会)より継続して公開しています。」(FAQ)ということで、2010年1月召集の常会(第174回国会)以降の動画は全て視聴できますが、参議院インターネット審議中継は、「視聴できるのは、各国会ごとに、会期終了日から1年が経過した日までです。」(よくある質問)という非常に短期間だけの公開にとどまっており、これは至急、衆議院と同様に永年公開継続すべきです。
 以下にご紹介しますが、「私は立法府の長」発言が、安易に「私は行政府の長」と会議録で書き換えられており、これが、衆議院であれば、まだしも動画と対照して書き換えの経過を検証できますが、参議院のようにあっという間に動画が削除されてしまえば、この検証作業自体が不可能になってしまいます。
 実際、上記(番外)事例も、いまや動画で確認することができませんので、公開当時、私が文字起こししたものをそのまま転載しています。
 昨日の第4事例は、幸い(?)衆議院でしたので、1年で動画が削除されることはありませんが、多くの方に情報を共有していただくためにも、書き起こしておくことは重要であると考え、以下にご紹介することとした次第です。
 
 それでは、安倍首相「私は立法府の長」発言4事例プラス番外「立法府の私」を一挙紹介します。
 今回は、昨日の最新事例を先頭に、順次過去に遡って配列します。
 
【第4事例/平成30年(2018年)11月2日】
第197回国会(臨時会)衆議院予算委員会
奥野総一郎議員(国民民主党・無所属クラブ)からの質問に答えて
安倍晋三内閣総理大臣 そこで、しかし、その時代には1議席もですね、削減することができなかった訳でございますが、我々は15議席ですね、15議席これは削減した訳でございます。で、そこでですね、そこでそれが多々益々便宜(?)なのか、削減する議員の定数が多ければ多いほどいいのかという議論もですね、真剣にしなければいけないわけでございまして。私は、まさに今ここに立っているのはですね、立法府の長としてここに立っているわけでございます。(議場ざわめく)その上・・・失礼しました。あの、行政府の長として、行政府の長として立っているわけでありますから、ええ、あの、行政府の長として立っているわけでありますから、立法府の議員のですね、定数ということについて、私が「少ない方がいい」ということがあってはならないんだろうと、こう思うわけでありまして、立法府のことにつきましては、まさにこれはしっかりとですね、議員の定数のあり方については、これは議会の根幹に、議会政治の根幹にかかわることでありますから、重要な課題であり、各党、各会派において、真摯に行われるべきものであろうと、こう思うわけであります。
 
【番外/平成28年(2016年)5月17日】
第190回国会(常会)参議院予算委員会
福山哲郎委員(民進党新緑風会)からの質問に答えて
福山哲郎委員(民進党新緑風会) 事務総長にお伺いします。この議事録が10月に掲載された時に、特別委員会の委員長ならびに委員は、理事は存在しましたか。
中村剛参議院事務総長 昨年の通常国会は9月27日に閉会してございますので、当日、9月17日の会議録が出た時点では、特別委員会は存在しておりません。
福山哲郎委員 総理は国会の判断だと言われましたが、国会の委員長も理事も存在してないんですよ。じゃあ、誰が判断してるんですかね、これ。誰が判断してるんですかね。総理、どうお考えですか。
安倍晋三内閣総理大臣 議院の事務局がお答えしていることについて、私は、立法府の私としてはお答えのしようがないわけであります。
福山哲郎君 事務総長にお伺いします。
 この議事録が十月に掲載されたときに、特別委員会の委員長並びに委員は、理事は存在しましたか。
○事務総長(中村剛君) 昨年の通常国会は九月二十七日に閉会してございますので、当日、九月十七日の会議録が出た時点では特別委員会は存在しておりません。
福山哲郎君 つまり、国会の判断だと、総理は国会の判断だと言われましたが、国会の委員長も理事も存在していないんですよ。
 じゃ、誰が判断しているんですかね、これ。誰が判断しているんですかね。総理、どうお考えですか。
内閣総理大臣安倍晋三君) 院の事務局がお答えをしていることについて、私は、立法府としてはお答えのしようがないわけであります。
※金原注 この会議録の書きぶりは、一見すると発言通りと思われるかもしれませんが、「立法府の」と「私としては」の間の「、」がくせ者です。素直に読めば、何かここに間合いがあったという感じを受けるでしょうが、私の記憶によれば、「立法府の私としては」は一気に発言され、間合いなどなかったのですけどね。動画が削除されてしまうと、こういう点の検証ができなくなってしまうのです。
 仕方がないので、2016年6月9日に書いた私のブログの該当箇所を再掲しておきます。
「さらに、もっと微妙というか巧妙なのが【事例4】(注:上記【番外】のこと)です。会議録では「立法府の、私としては」と間に「、」が入っています。この「、」は、誰がどういう意図で挿入したのでしょうか。速記官が作成したもともとの原稿(速報)に「、」はあったのでしょうか?(あるわけないと思いますけどね)
 皆さんも動画を視聴して確認いただきたいのですが、何度聞いても、安倍首相は、「立法府の私としては」とよどみなく一続きの流れで発言していますよね。誰が考えても、「立法府の私」であって、「立法府の」「、」「私」ではないですよ。
 後世、何も知らない人が会議録のこの部分を読めば、首相は、「立法府の(ことについては)、私としてはお答えのしようがない」と答えたのかな(括弧内をつい省略して)と勘違いしかねません。これは巧妙というより悪質です。」
 
【第3事例/平成28年(2016年)5月16日】
第190回国会(常会)衆議院予算委員会
山尾志桜里委員(民進党・無所属クラブ)からの質問に答えて
山尾志桜里委員(民進党・無所属クラブ) ・・・この社会が求めている待機児童問題、保育士さんの給料をどうするのかという問題、議論をこの国会で、しっかり与野党前向きにできるんですよ。この場で是非、「一歩でも前に進めよう」「対案を議論すべきだ」とおっしゃることできないんですか。
安倍晋三内閣総理大臣 ええ、山尾委員はですね、議会の運営ということについて、少し勉強していただいた方がいいと思います。議会についてはですね、私は立法府立法府の長であります。国会は、国権の最高機関として、その誇りをもってですね、いわば立法府とは、行政府とはですね、別の権威として、どのように審議をしていくかということについては、各党、各会派において、議論をしているわけでございます。
○山尾委員 ・・・社会が求めているこの待機児童問題、保育士さんの給与をどうするのかという問題、議論をこの国会でしっかり与野党が前向きにできるんですよ。この場でぜひ、一歩でも前に進めよう、対案を議論するべきだとおっしゃることはできないんですか。
安倍内閣総理大臣 山尾委員は、議会の運営ということについて少し勉強していただいた方がいいかもわかりません。
 議会については、私は行政府の長であります。国会は国権の最高機関としてその誇りを持って、いわば行政府とは別の権威として、どのように審議をしていくかということについては、各党各会派において議論をしているわけでございます。
※金原注 「私は立法府立法府の長であります。」という発言は、きれいに「私は行政府の長であります。」と修正されました。こういう「改竄」を阻止しようとすすれば、質問者において、その直後に「総理は、自分が『立法府の長』だと信じているのですか?」
という質問をするしかないのでしょうかね。こうしておけば、首相発言の書き換えをしてしまうと、後の質問者の質問まで削除しなければならなくなり、質問者が納得するはずないですからね(【事例1】を参照願います)。
 
【第2事例/平成28年(2016年)4月18日】
第190回国会(常会)衆議院環太平洋パートナーシップ協定等に関する特別委員会
下地幹郎委員(おおさか維新の会)からの質問に答えて
安倍晋三内閣総理大臣 ・・・議員歳費につきましては、これはまさに、これはまあ、国会、国会議員の、これはいわば権利につく話、関わる話でございますから、まあ、立法府の長である私がですね、それについてコメントすることは差し控えさせていただきたい。是非・・・(議場がざわめき、「行政府、行政府」と注意する者あり)あっ、行政府だ、失礼、ちょっと。あの、行政府の歳費の削減でございますが・・・。
安倍内閣総理大臣 ・・・議員歳費につきましては、これはまさに国会議員のいわば権利にかかわる話でございますから、行政府の長である私はそれについてコメントすることは差し控えさせていただきたい。
※金原注 事例がこれ1つだけであったなら、「うっかりミスでしょう」ということで見過ごしてもらえたかもしれないのですがね。
 
【第1事例/平成19年(2007年)5月11日】
第166回国会(常会)参議院日本国憲法に関する調査特別委員会
簗瀬進委員(民主党)からの質問に答えて
簗瀬進君(民主党) 国民とともに議論をすると、そういう総理にお言葉がございました。私は、まあ私がどう評価しようと、それは国民がよく分かっていると思うんですよ。
 何しろ今日、先ほどの理事会で、残念ながら私たちは本日審議を終局するということで合意をせざるを得ませんでした。この週後半はずっと私たちが何を求めたかといえば、正に国民とともに議論をする、それが制度的にしっかりと表れたものとして何があるかといえば、これは公聴会じゃないですか。地方公聴会は六回やりました。しかし、前日連絡をして翌日公述人を選ぶような、そういう地方公聴会と、官報に掲載をして五日間国民の皆さんに対してしっかりと議論をする、意見を述べる、そういう機会を保障する中央公聴会とは、委員派遣の実質の地方公聴会は全く違うんです。その中央公聴会を私たち何度も求めましたけれども、結局自民党公明党はそれを受けてくれませんでした。
 正にそれは総理が、総裁として、自民党の総裁として国民とともに議論をするとおっしゃったその言葉と全く矛盾する対応を現場がしている。これどう思うんですか。
内閣総理大臣安倍晋三君) それは、正に参議院のこの委員会の運営は委員会にお任せをいたしておりますから、私が立法府の長として何か物を申し上げるのは、むしろそれは介入になるのではないかと、このように思います。
簗瀬進君 先ほど憲法尊重擁護義務の話がございましたけれども、総理大臣として現在の憲法を尊重し擁護をすると、これは憲法にちゃんと明記されている。しかも、三権分立というものがあります。国権の最高機関として定められているのは国会である。そして、その国権の最高機関と分立する形で立法府のほかに内閣があり司法があって三権が成り立っているんです。あなたはそういう意味では行政府の長であります。
 正にそういう意味では、行政府の長として、内閣の例えば審議の在り方に対する外部的な様々な注文というのは絶対にこれ抑制すべきじゃないですか。正に、審議促進を様々にさせるような、そういう圧力を国会やら自民党に対して掛けてくるということは、これは絶対に避けるべきじゃないですか。それを延々とおやりになって今日まで来ているんじゃないんですか。正にそういう意味では、総理のこの国会に対する様々な総理としての圧力というようなものは行政府の立法府に対する容喙であり、立憲主義に違反する憲法違反の態度だと私は思いますが、いかがですか。
※金原注 簗瀬進議員が直ちに切り返したので、「私が立法府の長」を「私が行政府の長」と書き換えることができなかったのでしょう。
 
 以上で、安倍首相「私は立法府の長」発言4事例プラス番外「立法府の私」の一挙紹介を終わります。
 この問題に関連して、上述したとおり、会議録のあり方や、参議院インターネット審議中継の動画保存期間1年間を衆議院と同様に永年保存とすべきなど、重要な論点に気がつくのですが、間もなく在任6年にもなろうとする内閣総理大臣が、「私は立法府の長」という観念にとりつかれている(?)ことも大問題です。
 これは、単に「教養」とか「能力」の欠如という問題を超えているという気がします。
 そういう観点からすると、昨日の衆議院予算委員会で、安倍首相が言い間違いに気がつき、訂正発言をした際、これみよがしに「あーあー」という不規則発言(?)をした野党議員は、問題の本質が分かっていない。満場が息をのみ、「恐怖の沈黙」をもって対峙すべき場面だった、というのが私の感想です。
 

追悼 月山 桂 先生~講演録「月山 桂 弁護士 憲法への思いを語る」(2005年8月25日)を読む

 2018年11月2日配信(予定)のメルマガ金原No.3319を転載します。
 
追悼 月山 桂 先生~講演録「月山 桂 弁護士 憲法への思いを語る」(2005年8月25日)を読む
 
 先ほど、和歌山弁護士会会員、月山桂先生の通夜式に参列して事務所に戻ってきたところです。昨日午後、和歌山弁護士会事務局から、「本日(11月1日)月山桂先生がお亡くなりになった」ことを会員に知らせるFAXが届き、悲嘆の思いにかられた弁護士は数多かったことでしょう(弁護士だけではなく事務職員も~私の事務所の事務員のように)。
 
 月山桂先生の略歴は、先生が2009年5月に自費出版された『法曹界に生きて平和を思う』の巻末に掲載されたものを、本稿末尾でご紹介しています。
 そこに記載されているとおり、大正12年3月31日生まれの先生は、中央大学法学部在学中の昭和18年、学業半ばで応召され、多くの学友、戦友を喪うという体験をされた後、戦後学業に復帰して司法試験に合格され、6年余り裁判官生活をされました。
 昭和31年6月から、郷里の和歌山で弁護士としての仕事をスタートされ、長らく第一線で活躍してこられました。
 本来の弁護士としての業務以外にも、様々な公職を務められた月山先生が、とりわけ熱心に取り組まれていたのが「人権と平和」であったと思います。
 応召後の月山先生は、満州にあった関東軍経理部教育隊での勤務の後、内地の原隊に復帰し、郷里和歌山の護阪師団の主計少尉として敗戦を迎えたのですが、先生は、そのように幸いにも命ながらえた自分には、「戦争とか軍隊というものの勝手気ままな、軍、優先の実態を」「語り継ぐのが私の義務だと思っております。」(後掲の講演録から)という揺るがぬ信念を生涯貫かれました。
 
 2005年5月13日に和歌山弁護士会会員有志が「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」を立ち上げた際にも、その趣旨に全面的に賛同され、進んで顧問を引き受けてくださいました。
 また、同年9月に発足した「九条の会・わかやま」よびかけ人も引き受けられました。
 月山先生は、単に顧問やよびかけ人に名前を連ねるというだけではなく、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」が提唱して、憲法記念日にJR和歌山駅前で行うようになった9条を守る署名活動にも進んで参加され、また、8月の第一土曜日に開催される紀州おどりに「九条連」を結成して参加するようになってからは、何年も、先頭の横断幕を持って「九条連」を先導される月山先生のお姿がありました。
 ここ何年かは体調がすぐれず、お姿を拝見する機会もめっきり減っていたので、心配していたところに接した訃報でした。
 
 今まさに、現職の内閣総理大臣が、憲法尊重擁護義務をかなぐり捨て、自衛隊の幹部会同や観閲式、さらには国会での施政方針演説において、9条改憲への強い意欲を示すという、日本国憲法制定以来最大の危機を迎えています。
 この時にあたり、月山桂先生を喪うことは私たちにとって痛恨の極みです。
 私たちは、1人1人が自らの責務を自覚し、日本国憲法の平和主義を守るために、なし得る全てをやりぬくことを、月山先生の霊前に誓いたいと思います。
 
 月山桂先生が、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」からの依頼に応え、「憲法への思いを語る」と題して和歌山弁護士会館でお話されたのは2005年8月25日のことでした。
 その講演録については、翌年6月に刊行された「憲法9条を守る和歌山弁護士の会 創立1周年記念誌 平和のうちに生きるために」の中に収録され、これを同会創立10周年の日に、月山先生のお許しを得て、私のブログでご紹介させていただきました。
 
2015年5月13日
憲法9条を守る和歌山弁護士の会・創立10周年の日に月山桂弁護士の講演録を読み返す
 
 ただ、その際は、講演録全文のPDFファイルにはリンクしていたものの、ブログ本体には、抜粋してのご紹介となっていました。
 このたび、月山桂先生を追悼するため、この13年前の講演録「月山 桂 弁護士 憲法への思いを語る」全文をご紹介することと致しました。
 是非、多くの方にお読みいただければと思います。
 
 なお、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会 創立1周年記念誌 平和のうちに生きるために」の中には、講演録の他に、月山先生のご発言や文章が2つ掲載されています。
 1つは、2005年12月9日に「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」が開催した「リレートーク 自民党改憲案の検証」における月山先生による閉会のご挨拶。もう1つは、「会員寄稿~憲法にかける会員の思い」に掲載された「新憲法極東軍事裁判の思い出」という短いエッセイです。
 特に、「新憲法極東軍事裁判の思い出」については、著作権継承者から許諾をいただければ、あらためて私のブログでご紹介できればと思います。
 
 他に、2007年6月2日に「九条の会・わかやま」と「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」が共催した品川正治氏講演会において、月山桂先生が閉会挨拶をされており、その書き起こしが「九条の会・わかやま」ホームページに掲載されていますので、ご紹介しておきます。
  
 なお、今回のブログに掲載させていただいた写真は、2013年9月8日に「九条の会・わかやま」が県下の「9条の会」に呼びかけて和歌山県勤労福祉会館プラザホープで開催した「第2回 和歌山県「9条の会」交流集会」(撮影:南本勲氏)で開会挨拶をされる満90歳の月山桂先生のお姿です。

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月山 桂 弁護士 憲法への思いを語る
日時 2005年8月25日      
場所 和歌山弁護士会館 4階講堂
主催 憲法9条を守る和歌山弁護士の会
(引用開始)
○司会 藤井幹雄
 予定の時間になりましたので、「月山桂先生憲法への思いを語る」を始めたいと思います。桂先生にお願いに行った者を代表して藤井の方から最初にあいさつさせていただきます。
 5月13日に和歌山弁護士会の有志で「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」を発足いたしまして、月山桂先生には、その顧問をお願いして快諾をいただきました。現在、憲法9条を守る和歌山弁護士の会が県内の各層の方々へ呼びかけて、「9条ネットわかやま」というものを立ち上げようと、具体的には11月19日に市民会館大ホール1,500人収容を押さえるという無謀なことを計画しております(注:実際には、2006年2月25日に「9条を守ろう平和の集いinわかやま」として開催された)。
 会の活動として、この前、映画「日本国憲法」というのを見たんですけれども、憲法九条については、理念論であるとか、現実の国際情勢がこういうことであるとか、机上でのいろんな話があるんですけども、もう一度、われわれは、先輩方が60年前に経験したことは何だったんだろうかということを、もう一度足を地に着けて、そこから考える必要があると思い、そのために月山先生に今から60年前の今頃どういう思いでおられたかということをお話しいただいて、それをわれわれも共有し、そこからもう一度日本のあるべき姿というものを考えてみたいと思って企画したわけです。
 われわれ若輩が、桂先生にこういうことをお願いしに行くということで非常にどきどきしたんですけれども、先生に快諾いただいたときは胸のつかえがすっとおりたような感じでした。それではこれから、月山桂先生のお話をお伺いしたいと思います。桂先生、よろしくお願いします。
 
○月山 桂
 題名がものすごい題名でありまして、私の任にたえるかどうか、疑問に思っておりました。「憲法への思い」といいましても、難しいことを話せるわけじゃありません。今、憲法への思いというのは、九条への思いということだろうと思いますし、同時に私に話せというのは、お前はかなり年寄りだから、かつての戦争のことを知っているやろうということから、ご指名いただいたと思います。
 そういう意味で、私が今日お話することは、別に九条についてどうのこうのという、そんな難しいことは到底ようお話しませんし、この九条につながるであろうと私が考えている前の戦争、これに参加したというと、大げさですが、召集された一人として思い出を話させていただきます。
 
 私は、昭和19年11月末、満州で陸軍経理学校を卒業する時に、運良く、原隊復帰ということで内地へ、しかも和歌山へ帰ってきましたけれども、仲間の多くは、満州の各地に関東軍の要員として残りました。もっとも、その満州に残ったものでも、大体、3分の2くらいは、終戦までに本土防衛ということで内地へ帰ってきたということですけれども、運悪くといいますか、最後まで満州に残らされた人たちの殆どはシベリヤに抑留され、その中の大体4分の1くらいは向こうで亡くなったんではないか、というふうな話があります。
 その満州での陸軍経理学校の卒業の時に、原隊復帰で内地に帰る者の出発は後回しになりまして、満州でも遠隔の地に行く者から順番に出発して行く。内地組は、雪の中、それを見送るわけです。「此の地一たび別れを為し、孤蓬万里に征く」あの李白の「友人を送る」詩の思いで別れました。当時、あのような終戦の迎え方をすることになるとは思いもよらず、送る者も送られる者も、士官勤務の陸軍経理部見習士官として任官したばかりで、それなりに士気軒昂たるものがありました。ところが、敗戦、その何分の一かの者が、シベリヤで捕虜として故国を夢見つつ死んでいったのです。
 
 そういうふうなことからして、私は、私どもの体験を後の世代に語るのがわれわれの責務だということを感じておりまして、藤井先生の方から話しせよとおっしゃっていただいたんで、ああ、これは宿題を果たせる一つの機会だということで、喜んで参加させていただいたことでございます。
 お話をするにあたりまして、戦争を中心に自分の履歴をずっと書いてみました。
 書いてみて、兵隊に召集されたのが昭和18年の12月、中央大学の2年生だったと思います。その時に中退しまして、応召した。それ以後、昭和20年8月15日まで。それで戦争は終りましたが、私は主計だった関係上、占領軍に対して軍の物資を引渡ししなければならず、その引渡しが終わったのが昭和20年の10月頃だったと思います。この2年間というのが私の人生にとりまして、非常に意義のある時代だったと思うんです。その時代についての思い出をお話したいと思うんです。
 それかといって、これ全部お話したらなかなか時間が足りません。だから、今日お話させていただくのは昭和20年敗戦の年、この年の3月ぐらいから、終戦になって、進駐軍に対して物資の引渡しを終えて除隊になった。その間の思い出についてお話させていただきたいということです。
 
 護阪師団、大阪を守る師団というのが編成されたのは、昭和20年3、4月頃のことと思います。護阪師団の中に歩兵の方としてイ、ロ、ハという3つの連隊があります。私が配属されたのは、3つの連隊の中のロ部隊、部隊の大きさとすれば2個大隊で、約1,000名余りの割合と小さい連隊だった。連隊に2つ大隊がありました。大隊というのが3個中隊からなっている。中隊というのは、1個中隊が3個小隊ぐらいからなっている。1個小隊というのは大体50人ぐらい。一般的にですよ。
 私は満州経理学校を卒業して間もない経理部見習士官だった。主計少尉になる寸前の士官勤務の見習士官で、本来は、第一大隊付主計ということで配属になっておったんです。ところが私どもロ部隊の高級主計、連隊の経理部の最高責任者が貨物廠といいまして、食糧とか、被服とか、そういうふうな軍需物資を大量に集積、管理する軍の倉庫、お役所の出身だったんです。そのため、金銭経理、糧秣経理、被服経理、営繕等すべてをやらなければならない、一般部隊、野戦部隊の主計業務の経験がなかった。
 それで、私は第一大隊の主計だったんですが、高級主計の補佐ということで、連隊全部について高級主計の仕事をやることになりました。その当時の私は、関東軍で鍛え抜かれた精鋭の気位があり、高級主計をさしおいて自分が高級主計みたいな顔をして、全部取り仕切ることになった。そういう状態で私は終戦の年の3、4月頃を迎えました。
 
 ご承知かもしれませんが、軍隊は一般社会から完全に隔絶され、兵営とも兵舎ともいわれる宿舎があって、そこで、1000人あるいは2000人の兵隊が集団で生活し、そのなかで、日夜、軍事訓練されていました。一般人(娑婆の人)はその兵営に立ち入ることはできないし、兵隊もまた、演習のときや、とくに外出・外泊を許された場合のほか兵営外に出ることは一切許されませんでした。例えば、みなさまご承知だと思いますが、和歌山には第24部隊(第61連隊)がありました。小松原5丁目をまっすぐ西につきあたったところにある和商や西和中学のあるあたり一帯がそうで、裁判所の葵町宿舎もその一部でした。そしてそれから南は、愛徳整肢園や西浜中学をも含め、小二里までの間が第24部隊の練兵場でした。軍律が厳しく、演習も純然たる銃や剣あるいは機関銃でする、いわゆる軍事演習が行われていました。
  ところが、敗戦間近な昭和19年、20年頃には、本土決戦といって、そのような兵舎に閉じこもることなく、軍隊は、上陸してくるであろう連合軍に対する戦闘のため、兵営を離れ、山野に展開することになりました。一つには、動員されてくる兵隊が常時の数倍もあって、とても兵営に収容しきれなかったということもあったと思います。
 
  私たちの連隊は、最初24部隊で編成され、その後間もなく海南高校に連隊本部を移し、下津、海南から以東の野上谷にかけて陣地構築をし、第2大隊は有田の宮原で作業しておりました。もちろん兵営はなく、学校やお寺等を兵営代わりにして分宿していましたが、その後、昭和20年の7月下旬に至って、2度目の移動で、うちの連隊は、構築した陣地や集積した軍需物資は後の連隊に引継ぎ、新たに中貴志の小学校に連隊本部を移し、後に言いますように師団の予備連隊として師団司令部の防衛にあたることになりました。
  兵隊の業務は本来いえば敵軍と銃砲刀剣をもって戦うことにありますが、また、そのための演習をすることが本業であると思われますが、この当時の兵隊の業務は、屡々述べますように、専ら土木作業でした。アメリカが上陸してきた場合に、陣地に立て籠もって迎撃する、そのための陣地を構築することにありました。私どもの部隊、ロ部隊は、御茶屋御殿山といいますか、船戸山にできる師団司令部の防衛部隊、ある意味では師団の予備連隊というふうな位置付けだった。そういうことで、御茶屋御殿山、船戸山あたりを中心にして、丸栖、貴志川、貴志、山東、それからもう一つ紀ノ川沿いの田井ノ瀬、布施屋、船戸、あそこらあたりの山へ横穴を掘っていた。私とこの部隊はそういうふうなことで、専ら陣地構築しておったわけですけれども、その他にイ部隊とか、ハ部隊というのがあります。どちらがどちらだったか忘れましたが、一つの方は加太の方ですね、加太から磯ノ浦、孝子、水軒、和歌浦の方にかけての陣地を構築しておったと思います。それからハ部隊の方は、下津、有田、湯浅、由良の方にかけて陣地を構築しておったと思います。陣地の構築というのは先程も言いましたように横穴掘ってアメリカが上陸してきた時に、そこへ立て籠もって大阪へ進出するのを妨げる、防衛すると、そういうふうな役割を担っていたと思います。そういうことのために陣地構築、土木作業をするのがわれわれ護阪師団各隊の仕事だった。
 私とこは、師団の予備連隊だったため、移動もあって陣地の構築ということが遅れておった。加太とか有田、ああいうふうな海岸に近いところの連隊は陣地構築も終えて、アメリカが上陸してきた場合は、どこからどこへ上陸させて、どういうふうな方法でやっつける、やっつけるかやっつけられるか知りませんけど、そういうふうな演習もしておったのかな、と思いますけれども、私どもの連隊はまだ穴堀が十分できていないというふうな状態だったために、そこまでいっておりませんでした。
 
 主計の仕事の中には、兵への給与その他の金銭経理というのがありますし、営繕といいますか、宿舎を借りたりとか、いろんな営繕関係の仕事もある。その外、野戦部隊の主計の中心が、糧秣、兵隊に食べさせる食糧ですね、それから陣地構築した場合に、どれぐらいの期間かアメリカと抗戦しなければいけない、その抗戦期間中における物資の確保ですね。
 その当時、民間の方では、食糧はほとんど枯渇しておったかと思います。昭和19年の春頃だったと思いますが、藤原銀治郎という軍需大臣がおりまして、「我が国は19年の終わり頃には物資が枯渇するであろう」というようなことを話して物議を醸したことがありましたけれども、そのとおりになって、19年の終わり頃、20年の初め頃には、民間では主食も事欠いてくるというふうな状態でした。
 そのような状態でありましたけれども、軍隊の方に対しては本土決戦用としてどんどんと食糧を送ってくるわけですね、カマスに入った米が毎日のように大量に送られてくる状態でした。私の部隊は今の中貴志の小学校へ移る以前、連隊本部が海南高校にあった当時、野上谷の倉庫という倉庫、これを全部借り上げたんです。あそこは造り酒屋のたくさんあるところです。酒屋の蔵は全部借りた。それと同時に棕櫚や笹ものの産物が多いところで、その産物のための倉庫というのが、小さい倉庫ですけれども、そういう倉庫もみな借り上げ、今、申しました食糧をそういう倉庫に貯蔵しました。
 私らが今度、中貴志に移動して来てからも同じように食糧がどんどん来るわけです。置くところに困りまして、最後にはやむを得ず、校庭に丸太を組みまして、丸太の上に、カマス、そうですね、今思い出すんですけど、コーリャンを80㎏の麻袋(マータイ)に詰め込んでいるんですけれども、それが貴志川線ですか、あれで送られてくるわけです。それをそれぞれの倉庫の所在地に近い所で降ろしてもらって、それを倉庫まで運ぶわけです。大体その当時の兵隊は最終動員の補充兵というとなんで、年齢も30を越し、あまり体力はない。そういうふうな兵隊にこの80㎏のマータイを倉庫まで運べといってもなかなかいかん。私は自分でこういうふうにやるんだというて、貨車から降ろすときに、自分の背中のところにマータイを背負わせるように落としてもらって、それを50mぐらい先にある倉庫まで、こうして運ぶんだというて見本を示した記憶があります。そういうふうなことでコーリャンなんかを倉庫まで運ぶ。いよいよ、倉庫もなくなったということで校庭に丸太を組んで。それくらい軍は食糧が非常に豊富だった、とにかく困るくらいどんどん送ってきた。
 民間があの当時困っておって、すいとん(うどん粉の団子汁)までいっておったかどうか知りませんけれども、麦とか、サツマイモ、そういうふうなもので飢えを凌ぐほどになっていた。終戦直後ほどではなかったにしたところで、かなり急迫しておったことは間違いない。そういうふうな状態であった。
 
 そういうふうな時代、私は、あるとき、連隊長から、「この頃うちの部隊の食餌の状態が悪いぞ、カロリーが落ちてるじゃないか」と。これは師団で各連隊ごとにカロリーを計算したカロリー表というものが連隊長の方まで届けられるらしいんですね。うちの連隊が上位から落ちていると、「月山、これなんとかせないかんな」といわれる。カロリーは充分あるんです。主食はあるんだけれども、カロリーの計算をするときに副食がかなりを占めるわけなんですが、副食については、各隊毎に調達しなければならない部分があるんです。そこで副食を余計目にとらないといかんと。余計目にとるには、結局は、その当時、食肉組合とか漁業組合とか、民需を扱っていた生活必需品協同組合とかと交渉して、民需を横取りしにいくわけです。
 そういうことを重ねて他の部隊のカロリーを追い越していくというふうな状態。連隊のための、兵隊のためのカロリーというよりも他の部隊との競争のためのカロリーというふうな、そういうふうなカロリー競争だったんです。そのような競争のために民間の貴重な物資といいますか、そういうふうなものも横取りしに行ったこともありました。
 
 思い出すんですけど、あるとき、ある組合長さんが親しい付き合いの中で、「月山さん、あなたの軍隊も大変だろうけれども、見てみなさい、あそこの工場には学徒動員で来ている女子挺身隊の子どもらがいろんな仕事をしている。あの工場、小さい工場だけれども、そこで、仕事をしている人らを見て見なさい、お昼弁当のご飯だって、お米なんか殆どありませんよ、弁当の中は芋ですよ。銃後の国民はそうしてやっている。休憩になれば、あの子ら腰降ろして休めるかといえばそうじゃなくて、竹槍、アメリカが来た時に、竹槍で抵抗する、そのため竹槍の訓練をする。休憩の時間さえ、そういうふうにして竹槍をやっている。だから兵隊さんもご苦労やと思うし、お腹も減るやろうけれども、民間だってそういうふうなことで」と。「だから兵隊さんあまり無理言わんといて下さい」とまで言われたかどうか、痛いところをブスッと突かれた記憶があります。
 その当時、兵隊の場合は、赤紙で召集するわけですね、民間の方では徴用令というのがありまして、徴用令のことを白紙召集、兵隊の赤紙召集に対して白紙召集。さっきの組合長から言われたんですけど、「兵隊さんのように赤紙召集の人も大変だけれども、白紙召集の人もしんどい」ということをよく言われて、確かに白紙召集の方がしんどいなということを私自身も感じたことが幾度となくあります。
 
 危険かどうかという点ですけれども、どちらかといえば、本土防衛部隊に限れば、兵隊の方が危険が少ないんですね、危険が少ないというのは、現に私ら自身が海南高校、あるいは中貴志小学校、山の中で穴掘りしているんですから、やられるはずない、めったに。
 僕の弟はその当時、学徒動員で名古屋におったんですけれども、名古屋におって6回焼け出されたんです。空襲で。6回焼け出されて家から代わりの布団よこせというとまた送り、また、代わりの布団よこせといわれて、また送ったと。もちろん空襲で焼かれるわけですから、ただ、単に着るものがないとか、そういうだけじゃなしに命の問題もあります。
 和歌山市内でいえば、由良浅(今の本州化学工場)あそこらあたりに徴用令でいた学徒の子らがたくさん働いていました。あそこらも空襲でやはりかなり危険な目にあったということを聞いていますね。どちらが危険かといえばむしろ民間の方が危険だったんじゃないかな。勿論、外地での戦場は別ですよ。
 
 和歌山空襲がありまして、私は和歌山空襲の時に海南高校におりました。その時に、和歌山にある倉庫がどういう状態かと思って視察に出かけたんですけれども、焼夷弾の落ちてくる時のものすごい状態ですね、花火というのをまともに真下で見られたことがおありだと思いますけど、あれの何十倍、何百倍の状態で、ワァーと焼夷弾が炸裂し乍ら物凄い音を立てて落下してくる。普通の爆弾は狙ったところに落として、その破壊によって人間あるいは施設を破壊するということですけれども、焼夷弾というのは、何でもかんでも焼くことが目的なんですね、最初のうちは、アメリカのB-29は施設を破壊する、ところが施設を破壊してもなかなか日本は音を上げないということで絨毯爆撃といいますか、全国各都市を焼き払うという戦法に変えたわけですね。絨毯爆撃。その絨毯爆撃の一つとして、和歌山なんかも空襲にあった。焼くことが目的なんで、別に目標なんて定める必要はないわけですね。とにかく今度は和歌山を焼けと。和歌山の場合はテニアンからB-29が108機飛んできたということですけれども、上から撒くわけですね、下から見てましたらものすごいんですね。私は、最初、毛見のトンネルからよう出なかったんです。一つには連隊本部の許可を得て出てきたわけじゃないんで、もし万一事故でもあったら、申し開きもつかんというようなこともありましたけれども、正直言ってそれよりも怖かった。ところが、その怖さというのを空襲に遭った市民の人たちは、まさに自分の頭で受け止めているわけですね。よく物語で聞くのは、歩兵は、真正面から敵の銃火を浴びる。鉄砲の弾が雨、霰と飛んでくる、これに立ち向かう。ところが、空襲では、それが上からくるわけですね、焼夷弾が。
 
 私の隊は、和歌山市の小二里に倉庫を一つ持っておりましてね、その小二里へ視察に行ったんですけど、焼夷弾というものの現物を見たんです。行ったところ、倉庫の家主が、兵隊さん、一遍見て下さいということで行ってみたら、米俵と米俵の間に柱がある、その柱のところへ焼夷弾が長さ1m余りでしょうかね、突き刺さっているんです。焼夷弾というのは、爆弾のところに、50あるか、100あるかしりませんけど、小さい、爆弾が貼り付けてある。上から落ちてくるときに炸裂してくるんですね、だから小さい爆弾をバァーとばらまきながら落ちてくるわけなんです。普通の場合だったら下へ落ちるまでに小爆弾が全部炸裂して焼夷弾としての目的を達するわけですが、たまたまうちの倉庫に当たった爆弾、よう炸裂しませんでね、米俵の間の柱へ刺さったということです。ワァーすごいなと。倉庫の家主がいうことには、「うちの近辺で、うちだけしかやられていない。これ兵隊さんのものをうちが預かったから狙われたんと違うか」「そんなことない、1万m上からあんたとこの倉庫だけ狙うはずない」というような話もありましたけれども、とにかく焼夷弾で、一般の民間の人たちはやられた。私の家も焼夷弾でやられ、家族は焼け出された。この焼夷弾による被害というのは実にすごかった。
 
 そういうふうなことで、民間と軍とどちらの方が危険だったかといえば、前の戦争の時に、これ外地・戦地に行った人は別ですよ、本土決戦といって内地の防衛に当たったものは、民間の方が危険だったと思いますね。軍の方は山野に展開(疎開)して陣地にへばり付いてさぁこいと言うんだけれども、さぁこいと言ったってね。そういうことで、軍隊と民間とどちらが危険だったかといえば、僕の経験からすれば軍隊の方が危険が少なかった。それに、和歌山空襲のときも不思議に24部隊は厳然として残っていた。そして、空襲中にも、空襲解除後も、24部隊が民間の消火、救助に当ったということは全く聞きません。
 
 話は別ですけれども、貴志へ移って以後のこと、連隊長の方から、倉庫その他に収積している糧秣を、できる限り早く、各小隊に割り当て、陣地内に収容せよ、と命ぜられました。臨戦体制を速やかにととのえよ、というのです。
 連隊長は、イ部隊とか、ハ部隊はほとんど終わっているらしい、うちの連隊は遅いと師団の方で言われたらしいんですね、それで私に早いこと、各小隊、各中隊に配れということだったんです。私も逆らうわけにもいきませんから「わかりました」と言うたものの、連隊長に、「陣地の構築状態を見計らいながら渡すようにします」と言うたんです。それに対し連隊長も、黙って言うこと聞けとまでは言いませんでした。というのが、各隊に渡した場合に、まだ陣地は完全に構築されていない、まだ、地面が湿っているような状態ですね、それどころか、まだ掘削工事の最中です。そこへカマス入りのお米とか、麦とか、あるいは厚紙に入った小麦粉、そういうふうなものを配った場合、みるみるうちに腐敗したり萌芽してくることは、目に見えているわけです。主計にとって、糧秣をいかに安全に必要な時に使用できるように保管するか、これは非常に大きな仕事なんです。そういうこともありましたので、私は「陣地構築の状況を見ながら搬入させるようにします」というて、これを拒否しておったんです。各隊に渡すことを躊躇したのは、次のような事情もありました。主計という関係から民間との接触が多いわけです。そういうことから、民間がどんなに困っているかよく分かっております。同時に、陣地構築というのは、誰の陣地か、誰のための、ということが、常に頭の片隅から離れませんでした。そういうふうな中で、この米を、この麦を、このコーリャンを各隊に渡した場合に、陣地内でこの米とか麦とか、これは誰が食うんだろうかと。私自身の家族がふもとの三毛の方に、和歌山から焼け出されて疎開してきておりました。勿論、その他にもたくさん民間人がおるわけです。その人たちは竹槍で闘うべく頑張っておるわけです。もし、竹槍が折れて「兵隊さんすまんけど、私らもその壕に入れてくれ」と言うて、壕へ駆け込んできたとした場合、あの当時の軍の考え方からして、「みんな入れ、お前らもみんな入れ」と言うたかどうか。「この米も一緒に食おうや」というようなことを兵隊が言うたかどうか。私のあの当時の考えでは、なかなかそうじゃなしに、軍隊は、「すまんけれども、あんたら、もっと、そっちの方で竹槍で頑張ってくれ、ワシらはワシらでこの陣地の中に閉じこもって最後の一兵になるまで頑張るんやから」というようなことで、受け入れることを拒んだんじゃないかと。せっかくの米とか麦とかそういうふうな糧秣を果たして、民間の者にも分かち与えたかどうか。私の家族を含め民間人がこの山のふもとにたくさんおるわけです。それらの思いが、こんな貴重品を陣地の中に急いで入れて腐らせるよりもこのまま置いておいた方がいいなという考えに走らせたことも否定できません。
 第2大隊の主計だった森口に、「連隊長あんなこと言うてるけれども、お前とこ、どうや」「いや、ワシとこ、そんなこと、ちょっとね」、どうも第2大隊の主計も同じような考えでいるようで、ゆっくりいこうやということにしました。
 
 昭和20年6、7月頃、海南高校におったときですけれども、あるときに連隊長の話では潮岬の沖合にアメリカの潜水艦が浮上したということです。ちょうどこれは沖縄がやられてしまって、いよいよ本土へ、ということが言われた頃のことです。そこで各連隊から1個小隊(か2個小隊)を補強要員として出撃させるということがありました。そして連隊長の方から主計の方に、兵隊に戦争用の装備をさせるように、ということなんです。お米とか、乾パン、今は見向きもしませんが、あの当時は乾パンというのは貴重品だった。それから氷砂糖。氷砂糖などというのは、戦争でいよいよ死ぬ間際に食う位、貴いものですね、氷砂糖、乾パン。普通食の外にそういうものも持っていかせということなんです。私はその時に言うた記憶があるんですけれども、「お前たち、必ず帰ってくるに決まっているんやから、今渡した食糧、特に氷砂糖とか乾パン、これは必ず返せ」。戦争に出ていく人間にですね、「帰ってくるに決まっているんだから、渡したものを返せ」と言うのもどうかと思いますけど、そういうふうなことを言うた記憶があります。というのは、私、そのとき、兵科の将校に「お前のとこどういうふうな装備でいかすんや」と聞きましたら、「軽機関銃を1丁、それから擲弾筒も持っていかす」「擲弾筒どのくらい持っていかすんだ」「1丁」。擲弾筒というのは、手榴弾というのがありますね、この手榴弾を50㎝~1m足らずの筒の中へ入れまして、下からパンとやれば飛んでいくやつです。せいぜい100m位しか飛びませんけどね。それを持っていかすんです。「機関銃と擲弾筒と、あとは何やね」「あとは三八に決まっている」。アメリカの潜水艦が潮岬の沖、潜水艦が浮上するんですから沖合1000mもあるでしょう。そんなところに擲弾筒と機関銃と三八銃を持っていく、戦争にもクソにもなりません。大体、アメリカが潮岬や新宮辺りに上陸してくるはずがない、そういうふうな状態でアメリカの潜水艦を迎えたというふうなこともありました。
 
 こういうこともありました。海南高校の方におった当時です。私の部隊が。海南の方で穴掘り(陣地構築)をやっている時に、ある小隊の者が電灯か、何か光を出した。空襲警報中だったようで、そのために、焼夷弾じゃなしに本当の爆弾をドンとやられて、それで3人の兵隊が重傷を被ったんです。戦死に近い状態だったと思いますけれども、先程言いました24部隊の方の衛戍病院、軍隊の病院ですね、そこに収容になりました。2、3日後にやっぱりダメだったということで、「主計、3人とも死亡したから迎えに行ってくれ」といわれて、私、引き取りに行ったことがありました。軍隊の場合は生きている間は軍医さん、死んだ場合に主計の仕事になるんでしょうか。おそらく病院にいる間では白衣着てちゃんとした療養看護をしてくれていたんだと思いますけれども、私が行った時にはもう軍服に着替えまして、おそらく戦死だからということで、ちゃんと軍服に着替えさせて私に引き渡したと思います。人間の体というのはみんなそうだと思います。傷口からウジ虫がわくんですね、肩から胸にかけて爆弾でやられたところがウジ虫ですごいんですね。軍服も破裂したままのやつで、外から見れば一見してウジが見える。そういう状態で私は受け取ってきたことがありました。受け取って後に部隊に帰ってから新しい軍服に着替えさせて、それで遺族の方に面会をさせた。面会させたのは副官の方で、もうその段階のことはよく憶えておりませんけれども、とにかく新しい軍服を支給して、新しい軍服に着替えさせたということ、それを憶えているんです。内地の普通部隊の場合でもそういうふうな戦死があったということです。
 
 それからだんだん終戦に近づきましてね、7月9日が和歌山の空襲ですから、8月に入ってからだったと思いますけれども、8月の上旬頃にはP何とかというアメリカの偵察機ですね、下駄履きの偵察機が飛んできまして、丸栖から貴志川辺り、あそこはちょっと低いですね、だから、そこのところを中貴志の小学校の方から見ていたら、ほとんど同じぐらいの高さのところで偵察機が旋回しているんです。まるで我がもの顔にね、日本の兵隊はどうかといったら、「みんな隠れよ、絶対に姿見せたらあかん」。あんなの機関銃でもやっつけられるような状態だったんですけど、「みんな隠れよ、絶対に姿見せたらあかん」と。何のための軍人かな、兵隊かなと思いました。もっとも、その当時、8月に入ってましたから広島、長崎の原爆もあった月ですから、あるいはもう講和の試みがなされていたかもしれません。とにかく隠れよ。私が満州から原隊復帰してきた金岡の輜重隊にいた昭和19年末当時も、B-29が何度も飛んできた。その時にも「みんな隠れよ、隠れよ」といわれて隠れた記憶がありますけれどもね。戦争しに行って、B-29が来たとたんに、みんな隠れよ、隠れよ、何のための軍隊かなというような感じを抱いたことは今も忘れません。
 
 (なるべく早いこと終戦に…。)
 
 そうこうするうちに、今日は、天皇陛下玉音放送がある、みんな校庭に集まって聞くようにという命令が出ました。後からいえばそれが終戦のご詔勅だったわけです。中貴志の小学校、その当時、東西に棟が4つ5つ並んでいました。その棟の東側の方の運動場に面したところにラジオの放送器がありまして、おそらくラジオ体操なんかに使ったラジオだと思います。そこへみんな集まって、これから玉音放送があるからということで集まって聞いたんです。玉音放送というので、玉のような麗しいお声だろうと思っていたら、全然聞こえない。静かなんですね、あたりは。中貴志の小学校は静かなところなんですけれども、雑音が入って全然分からない。陛下が放送されるというんだから、いよいよ本土決戦、徹底抗戦ということで「朕のためにお前たちの命を預けてほしい」というふうな、国民に対する、兵隊に対する激励、要望のお言葉かな。しかし周囲の空気というのは、もう日本は戦えない、日本は降伏せざるを得ないというような状態になっておりましたから、それにしてはちょっとおかしいなと言いながら聞いておったんです。聞いている間に、「…耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで…」と、それが不思議に耳に残っているんですけど、どうも耐え難きを耐え、忍び難きを忍びという、あの音調からするとどうも「しっかりやってくれ、私も頑張るから、お前たちも頑張ってくれ」と、そんな口調とぜんぜん違うんですね。どうもおかしい、聞き終わった後で、連隊長もわからななかったと見え、師団の方に問い合わせた上で、伝達するからそれまで平常通り軍務に服するようにというようなことでした。しかし、われわれは、今のはどうも日本は参ったという放送みたいやないか、と言ううち、2、3時間した後に、連隊長の方から無条件降伏したことの放送だったということを聞きました。
 夏の静かな真昼、その日も、校庭北隅の竹やぶから、蝉の鳴く音がいつものように聞こえていました。
 
 (やっと終戦まで、きました…。)
 
 で、そういうことがありましてから後に、私の方の仕事はすごく忙しくなったんです。これは終戦というものの日本は無条件降伏したわけですね。降伏した。それで、軍を直ちに解体しなければいけない、武装解除しなければいけないというわけです。各隊とも3日以内に兵隊を復員、帰郷させよ、また、軍需物資は、諸帳簿の員数どおり占領軍に引き渡すよう準備せよ、というのです。3日以内という、これは日本が降伏した時の条件に一刻も早く武装解除せよということだったそうですね。ところが、主計の方としましたら1000名以上の兵隊に給与を支払わなければいけません、帰郷するための旅費の計算もしなければならない、それと同時に、当時はお金よりもモノということで、兵隊に衣類と糧秣、5日分の食糧・米を持ってかえらさなければならないというようなことで、それはそれは大変だった。
 幸いですね、うちの部隊は各陣地にまだ食糧を入れてなかった、倉庫においたまま、積んだまま、ということだったので、食糧等の引渡しについては、それほどはバタバタしなくてすんだんです。それでも、兵隊たちが帰郷するまでに、占領軍への引渡しをスムーズに行えるよう集積箇所をできる限り集中し、且つ整頓する必要がある。とにかく3日以内にやらなければいかんということで、寝る間もなく大変だったことが非常に強く印象に残っています。
 
 当時、私は営外居住ということで、家族が焼け出されて疎開してきていた下三毛(船戸近く)の自分の家から毎日行き帰りしていました。そうして、終戦を迎えた。終戦を迎えたけれども、私は、主計として、終戦処理業務のためなかなか本当の終戦というふうな感じがしないままに日を過ごしておったんです。ゴルフへ行かれたりしてご存じの方が多いと思いますが、貴志、丸栖の方から船戸の方へ下りる時、非常に印象に残るのは紀ノ川が真ん中に流れておってそれを挟んで北と南に山があります。それまでの間家へ行き帰りするのは、毎日夜8時、9時以前に帰ったことがないんです。帰る時は見渡す限り真っ暗闇で、右側には龍門山、向こうの方に高野山があるんでしょう、その高野山は見えませんで、その向かいの方の金剛山岩湧山葛城山そういうのがあって、私の真向かいの方が根来、それの西にずっとつながる先は加太、加太の方に行くまでにこちら側、南側の高積山というんでしょうかね、布施屋の山があってさえぎられる。その間に紀ノ川がずうっと、東から西、右から左へ、あるところでは、太く、あるところでは細く、ずっと真っ白く流れているわけです。その間真っ暗なんです。電灯の光一つない、真っ暗な山裾、そういう中を毎日行き帰りしておったんです。
 ところが、終戦後2日目か3日目かですね、いつものように、家へ帰る途中、丸栖の方から船戸の方へ曲がっておりる、角くらいのところでしょうかね、その所へ来た時に、はっと思った。それは、今まで真っ暗だったんです。両側に山があり、その真ん中のところに白く紀ノ川が流れている。その両側は真っ暗だった。ところが、その時に、ハッと気がついたら暗闇の中、電灯が左の方に2つ、3つ、真向かいの方に3つ、4つ、右の方にも3つ、4つ。電灯の光が見えたんです。
 これ、何でもないと思いますけれども、その時、私は本当にびっくりしましたね。当たり前のことだと思います。けれども、その時、生まれて初めて「やあ~、光だ」という気持ちになりましたね、その電灯の光を見て。思わず、しゃがみ込んでしまった。その電灯の光がその次の日には、増えるんです。昨日2つ3つだったやつが、6つになる、7つになる。そういうようなことで、日を追うて1週間ぐらいするうちに、この部落、あの部落がというふうに大体昔通りによみがえった。今のように電灯の光がずうっと紀ノ川の流れに沿って連なっているという状況じゃありませんで、各部落ごとの一つの群れがあったんです。
 そういう部落ごとの光が1週間ぐらいするうちに全部復活してきた。その時、私がはっとした状態というのは、皆さんにはお分かりいただけるかどうか。今まで真っ暗だった。真っ暗だったのは、どういうことかといいますと、ご承知だと思いますけれども、灯火管制、アメリカの飛行機から爆弾を落とされないように各戸とも家の中を真っ暗にしていた。暗幕というのは、電灯といいましても電灯笠があって、電球があって、というのは、今の子にはわからんような状況だと思いますけど、その電灯の笠に暗幕というのを掛けまして、大体50㎝くらいの暗幕を電燈の笠にかけて垂らすわけですね。それは光が外に漏れないように、空襲があったって、上空から見えないように、爆弾落とされないために。もし光が漏れようもんなら、隣組のおっさんからえらい怒られる。そして暗幕のために、8畳の部屋いっぱいを明るくする電灯の光が下の方の畳の上、直径1mぐらいしか、明かりが見えない、そういう状況で暮らしておった。
 私は、あちらの方で、こちらの方で電灯の光が蘇ってきたときに、その暗幕が各家ごとに外されていく、その情景というのが手に取るように分かりましてね。この暗幕が外されていく、それによって光が呼び戻される、光が呼び戻されていくというのは、単に空襲とか何とか言うんじゃなくて、人々の自由とか普通の幸せとか、そういうふうなもの、それまで暗幕によって閉ざされ、失われていたものが生き返ってくるわけです。また私自身が兵隊に引っ張られていたそのような制限、抑圧された状態、そういうふうなものから解放される、暗幕が外されていくということに非常な感銘を受けました。そこで光を見てしゃがみ込んでおった時間は5分か10分ぐらいだと思いますけれども、ああ、平和がもどって来たんだと、じーんと胸に来ました。
 私は、玉音放送聞いたとき、ああ、やっぱり負けたんだという思いはしましたが、戦争が終わったんだとか、平和になるんだ、という感じがしませんでしたけれども、真っ暗な紀ノ川平野の中に電灯が蘇ってくる、光が蘇ってくる、これを見て、ああ、平和が来たんだ、本当に終戦だという気持ちが蘇ったことを記憶しております。思いもよらず、これでもう一度大学へ帰れるんかな、というふうなことも、そういうこともありました。この光によって初めて、暖かみといいますか、心の明るさといいますか、平和が帰ってきたという思い、本当の意味での戦争が終わったという感じがしました。
 
 (大体、終戦まできましたね。)
 
 それから後は、進駐軍の方に物資等の引き渡しをしたわけです。その当時、占領軍、進駐軍というのは怖いと思っていましたね。ものすごい怖いと思ってました。ところがその進駐軍に引き渡す当時は、連隊長なんか、どこかへ行ってしまって、いないんです。高級主計も。おるのは連隊本部主計の僕と、第2大隊主計の森口と2人だけしかおりませんでした。進駐軍は怖いらしいぞ、員数が足らなかったら、パーン、とやられるらしいぞと。先に引渡しを済ませた他隊から噂がまことしやかに流れてくる。そういうことから員数の点検、確保に随分と注意を払っていました。各倉庫や集積所毎の明細、表の整備、それと現物が合致するかどうか。復員のドサクサで米など糧秣の員数が足りなくなっている。そんなとき、員数揃えのため、かなりのことをしましたね。お米はカマスに入っていますね、からのカマスを横に置いて、米の入ったカマスへ、竹筒の両端を鋭角にスパッと切ったのを突っ込みます。そうすると、お米がさーっと流れ出てくるんですね。それを空きカマスへ流し込む、それを繰り返して何とか1俵作るんです。かつて兵隊たちから教わったことです。そんなことをして員数揃えしたことも記憶に残っております。
 
 そういうふうなことしていたある日、師団からの引渡しの日時が通知され、ジョージ何とかいう大佐が来ました。ジープ2、3台で。私、その当時、兵隊服は拙い、武装解除されたんだから。というわけで、学生服を着て、帽子だけは軍隊のを被って敬礼したら「ハロー、ボーイ」。「ハロー、ボーイ」と親しみをもってジープに乗せてくれた。そして十幾つかの倉庫を回って、無事滞りなく引き継ぎを終えたことでした。その当時、昭和20年10月頃には、もう、私ら主計以外、兵隊は、勿論、将校も一人もいない。みんな復員、帰郷してしまっていました。私たちも師団に引渡し関係の書類を送付して主計の業務を終え、兵隊生活に別れを告げました。
 私にとって、終戦というのは、召集されたときと大違いです。召集され、軍隊へ入営のときは、一つのセレモニーがあり、緊張感があったわけですけれども、終戦の時には何か知らないうちに流れ解散していたという、非常に惨めな復員だったという記憶があります。
 
 (私がお話させていただく時間は過ぎました。藤井先生気が気でなさそうなので、この辺で終わらせて頂きます。)
 
 司会の藤井先生から、「そこで新憲法への思いを」と促されるのですが、今ここで、私にとって、新憲法は、とか戦争の放棄とは、と尋ねられても、一言で整理してお話できるものではありません。たって新憲法といわれるならば、私にとっての新憲法は、司法試験に非常にありがたいものだった。昭和21年の11月頃に筆記試験があったと記憶しますが、その頃は、新憲法が公布されたか、未だされていないかの頃で、新憲法の解説といえば、帝国議会での憲法草案に関する提案理由といいますか、解説についての新聞記事しかない。憲法の試験は旧憲法でも新憲法でもどちらでも良いということでしたので、私は、試験を受け易い新憲法を選びました。私が、司法試験に合格できたのは、そういう意味で、新憲法のおかげだったと思っております。と同時に、先ほどからの戦争の話の続きになりますが、私は、戦争に負けてよかったと、負けてくれてよかったと、心から思ったということです。もし、仮に軍の指導下に、国民が軍の統制下におかれて、万一、戦争に勝っておったならば(そんなことはありえませんが)、どんな日本になっただろうかと思うと、ぞっとするのです。あるいは、当時いわれたように大東亜共栄圏で国際的に国威が発揚できたかもしれませんが、日本の国は神国となり、国民の思想は統一され、軍の横暴は極点に達し、国民の自由と権利は抑圧され、誇りのある非文明国となっていたんではないかと思っております。到底生きてはいけない。だからよくぞ負けてくれたという思いがします。そういう意味で、「戦争の放棄」というのはすばらしいことだと、軍隊、戦力を一切持たないというのは、正にそうあって然るべきだという思いに満たされた。そういう意味で、「第2章 戦争の放棄」、「第3章 国民の権利及び義務」という憲法の組み立ては、私には非常に分かり易い、立派な組み立てであると思われたのです。この思いは、終戦直後も、新憲法制定の当時も、今現在も少しも変っておりません。
 
 先程来述べましたように、私は、応召し、満州へ行き、関東軍に在籍していたとはいうものの、間もなく原隊復帰となり、戦地へ行ったこともなければ、シベリヤに抑留されたこともない。従って、私などは、戦争の苦しみを語る資格はありません。亡くなりましたが、私と同じ年代の岡崎弁護士(元当会会員)は、シベリヤに抑留され、帰ってきたのが昭和23~4年頃だった。そのため、司法試験も少し遅れた。彼に、シベリヤ抑留の話を聞かせてもらおうと思って話しかけるんですが、苦しかったというところまでは言ってくれても、それ以上のことは言ってくれない。私の修習生の同期でインパール作戦に参加した男がいました。彼も戦闘の激しさとか苦しさは話してくれましたが、あるところ以上は話してはくれませんでした。戦争中の人間のもっとも醜いところについては、話してくれない。関東軍経理学校の同期で「白雲悠々」という上下2冊の思い出の記録が作られています。それによると、「収容所生活というのは、作業に堪え、空腹に堪え、望郷の念に堪える日々であり、いつの日になるか分からない帰国の日をひたすらに待ち続ける毎日であった。」とあります。そのような中で、いわゆる民主教育、共産主義教育が行われる。そして、ノルマを監視するソ連兵に対し、自らが生き残るために、そして、なんとか早く帰れるように、同僚を裏切るようなことが行われるようになったといいます。零下何十度という極寒の中で、お互い温め合うべきなのに。戦争というものは、人間を非情にし、同僚を売るようなことまでさせるんです。これが戦争なんです。軍隊は、戦争は、決して家族を守り、国を守るために生命を捧げるといった、そういう崇高なものばかりでは断じてない。これが実態だということを、私どもは知らなければならないと思うのです。私は、内地での、極めて平穏な軍隊生活、前にもいったように一般の民間人以上に平穏な軍隊生活を送ったものですが、それだけに、戦争とか軍隊というものの勝手気ままな、軍、優先の実態を知り得たという思いです。恥ずかしいことですが、この実態を語り継ぐのが私の義務だと思っております。
 以上で一応終わらせていただきます。下手な話を長々、お聴き頂き恐縮しました。有り難うございました。
 
○司会 藤井幹雄
 それでは、これで一応閉会とさせて頂きます。桂先生には予定時間を超えてお話し頂き、大変有り難うございました。また、会員の先生方も長時間ご清聴賜って有り難うございました。一応これで閉会とします。
 
○月山 桂 雑談(追加)
 軍隊とか、戦争といえば、非常に格好のよい、勇ましく、やりがいのあるように思われますが、自分がいざ軍隊に入れば、決してそのようなものでないことがわかります。私は、学徒兵として召集されるにあたって、愈々になれば仕様がないとして、できれば、死の危険に近づきたくはない、ということで、歩兵は第一線で銃剣を交えなければならない。その点、輜重隊は後方支援部隊で、敵とぶつかることはない。できれば輜重隊に、と思って、徴兵検査のときに、「こいつは長距離の歩行は不可能だ」と見てもらおうと思って、偏平足よろしく足の裏に水をいっぱいつけて、板の間に足跡をつけました。検査官は、これを見て、この足ではそれ程歩けまいと言って、図に当って、私は、堺の金岡の輜重隊に入ることになりました。私は、当時、輜重隊は馬部隊などなく、全部トラックだと思っておったところが、何と私の入った部隊は馬部隊、それも輓馬部隊と違って駄馬部隊。荷を車に載せて、車を馬に引かせるのではなくて、馬の背中に弾薬を載せて最前線まで補給に行く部隊。歩兵のような装備もなく、もっとも命に危険のある部隊だったのです。それに、昔からそうでしたが、輜重隊(馬部隊)の兵隊は、「輜重輸率が兵隊ならば、蝶やトンボも鳥のうち」といわれるように馬鹿にされ、見くびられた兵隊でした。朝起きれば、寝藁動作といって、馬房の寝藁を厩舎から運び出して、外に干してやるわけですが、その寝藁たるや、馬が一晩かかって大量の糞と小便で蒸しあげたホコホコのもので、それを顎につかえるぐらい胸いっぱいに抱え上げて、干し場に出す。そのあと、馬の背中や脚、体じゅうを藁でこすってやったうえ、按摩をしてやる。そのあと蹄をきれいに洗ってやる。さらに、水を飲ましに水槽のとこまで連れて行く。大体、ゴクンゴクンと40回くらい飲ませるのですが、馬が素直に飲んでくれないときがある。そのような私たちの動作を一つ一つ、助教といわれる古年次兵が監視していて、馬が水を飲んでくれないときまで、何してる、馬鹿野郎とこちらに怒ってくる。「お前たちは一銭五厘、お馬さんは十円」(兵隊は一銭五厘赤紙で召集できる。馬は十円もいる)ということで、馬以下の扱いしかしてくれない。当たり前で、馬は20㎏の弾薬箱を2つ背中に背負って何10kmも歩く。人間は到底そんなことはできない。さらにまた、行軍のときに、10kmくらい行ったら小休止になる。我々は銃を叉銃したのち歩兵ならば休むところ、こちらは20㎏の弾薬箱を馬の背中から2つ下ろしてやらなければならない。そして鞍を取り、毛布をとってやって、また藁束で背中をこすってやらなければならない。そのうえ、とんとんと按摩も。そして、やっと馬の世話が終わったころに、ピィーッと出発用意となる。こちらの休む暇もあらばこそです。また、毛布をかけ、鞍を置き、腹帯を締め、弾薬を背中へ置き、ちょっと遅ければ、「あほったれ、馬鹿野郎」と。この怒声を聞かない日はなかったくらいです。そんなことで怒られ、馬鹿扱いされていたときに、ふと、召集を受けて親戚のものや町内会の人たちに万歳万歳と歓呼の声に送られて、勇ましく送られてきた日のことを思い出すんです。みじめで情けなくなるようなことが何べんあったかしれません。そのうえ、軍隊というところは、上命下従、上官のいうことは朕の命令と心得よということで、理屈の有無は問わないところ。それはもっともで、上官が「突撃! 進め!」と命じたときに、部下が、いや、それは間違っておりませんか、などといって命に従わない場合、戦争は成り立たない。軍隊とはそういうところです。輜重隊だけのことではなくって、軍全体に通じることだと思われます。軍隊とは、上官の命に盲目的に従わせる演習の場であり、そのための日常生活です。そのうえに、時間の都合でいえませんけれども、毎夜のように消灯後、内務班でのしごき、いじめがあります。幸い、私たちは、幹部候補生要員であったから、そのような初年兵生活は3ヶ月くらいですみましたが、一般兵はそれがずっと続くのです。
 私が、九条を考え、軍について語るとき、将棋の駒を振る立場でなくて、振られる駒の立場で考えなければならないというのは、こういう点もあってのことです。
                                                                            以上
(引用終わり)
 
 
月山桂(つきやまかつら)弁護士 履歴
 
生年月日 大正12年3月31日
 
学歴
昭和15年 3月 和歌山中学校卒業
昭和17年 9月 中央大学予科卒業
昭和17年 9月 中央大学法学部入学
昭和18年12月 2年在学中召集を受け中途退学
昭和21年 9月 召集解除により同大学2年に復学
昭和22年 3月 高等文官試験司法科試験合格
昭和23年 3月 中央大学法学部卒業
昭和25年 3月 司法修習生の修習終了
 
軍務 
昭和18年12月 陸軍中部第31部隊(輜重隊)入隊
昭和19年 6月 満州関東軍)第815部隊(経理部教育隊)転属
昭和19年12月 陸軍経理部見習士官(士官勤務)任命 原隊復帰
昭和20年 3月 護阪師団〈ろ〉部隊に転属昭和20年9月 陸軍少尉任命
 
裁判官勤務
昭和25年4月~同29年6月 東京地方裁判所・同家庭裁判所
昭和29年6月~同31年6月 松山地方裁判所・同家庭裁判所
 
弁護士勤務
昭和31年6月~現在
 和歌山弁護士会に登録    
昭和44年、同50年
 和歌山弁護士会会長、日本弁護士連合会常務理事
 
その他の職歴
和歌山県人事委員
和歌山県情報公開審査会・同個人情報保護審査会会長
など歴任
 
※以上、月山桂先生著『法曹界に生きて平和を思う』(2009年5月1日刊)より引用
 
平成30年11月1日 ご逝去

辺野古沿岸公有水面埋立承認取消(撤回)の執行停止を決定した石井啓一国土交通大臣~考えるための資料のご紹介

 2018年11月1日配信(予定)のメルマガ金原No.3318を転載します。
 
辺野古沿岸公有水面埋立承認取消(撤回)の執行停止を決定した石井啓一国土交通大臣~考えるための資料のご紹介
 
  8月31日に沖縄県知事職務代理者富川盛武副知事から権限の委任を受けた謝花喜一郎副知事が行った辺野古沿岸公有水面埋立についての承認を取り消す(講学上の撤回)旨の決定に対し、10月17日、沖縄防衛局は、行政不服審査法に基づく審査請求及び執行停止を国土交通大臣に申し立てました。
 そして、一昨日(10月30日)、石井啓一国土交通大臣は、同法25条に基づく執行停止を決定しました。
 予想されたこととはいえ、多くの行政法研究者が違法と断じる中、白昼演じられた国による「自作自演」を絶対に忘れぬためにも、必要な資料を収集し、記録しておくことにしました。
 本日(11月1日)現在、国土交通大臣による執行停止の決定自体を読めていないのが残念ですが、見つけ次第、本ブログでご紹介するつもりです。
 今日ご紹介する資料は以下のとおりです。
 
資料1 10/30 石井啓一国土交通大臣 会見要旨
資料2 10/30 岩屋毅防衛大臣 記者会見
資料3 10/30 玉城デニー沖縄県知事 記者会見でのコメント
資料4 10/30 琉球朝日放送 報道制作局 Qプラス による報道(動画付)
資料5 10/30 朝日新聞デジタル による報道
資料6 10/31 日本記者クラブでの玉城デニー沖縄県知事記者会見動画
資料7 石井国交相が執行停止の根拠にあげた最高裁判例
 
 資料1~3は、執行停止申立ての判断者(資料1)、申立人(資料2)、被申立人(資料3)による、10月30日の各会見での発言、コメントです。
 ところで、石井国交相が、記者から、国の機関が行政不服審査法7条2項にいう「その固有の資格において当該処分の相手方となるもの」については明確に適用除外と定められていることについてどう解釈したのか?と質されたの対し、「行政不服審査法でいうところの処分を受けたのが国の機関であっても、処分を受けたものといえれば、一般私人と同様の立場で処分を受けたものとして、その処分について審査請求をなし得る。前回、取消しの要請を判断された平成28年の最高裁判決では、この取消しというのは行政不服審査法にいうところの処分に該当すると、そういう判断がなされているわけですね。」と答えているところは「ご飯論法」のバリエーションでしょうが、まことに勇将の下に弱卒なしであり、公明党も立派な人物を閣僚に推薦したと、さぞ誇らしいでしょう。
 なお、報道は探せばいくらでもありますが、要領良くまとまっている琉球朝日放送(動画が分かりやすいです/資料4)と朝日新聞デジタル(資料5)の記事をご紹介しました。
 資料6は、昨日(10月31日)、日本記者クラブで行われた玉城デニー沖縄県知事による会見動画です。現時点までの経過を踏まえ、沖縄県の新しいリーダーが、今後どう困難な状況に立ち向かおうとしているのかについて、まとまった意見が聴ける貴重な動画です。もっとも、それは主として後半の質疑応答部分でのことで、前半の講演部分では、玉城知事自身の生い立ちがかなり詳しく語られ、これも非常に興味深いものです。
 資料7は、石井国交相が引用した最高裁判例ですが、この判例のどこをどう読めば、国の機関である沖縄防衛局が、沖縄県知事による公有水面埋立承認取消(撤回)について、私人と同様の立場で、国土交通大臣に対して行政不服審査法に基づく審査請求や執行停止の申立てができる根拠となるのか、見当がつきませんでした。いずれ、しかるべき行政法研究者が解説してくださるのではないかと期待しているのですが。
 
 それでは、資料1~7をご紹介します。ご活用いただければ幸いです。
 
【資料1 10/30 石井啓一国土交通大臣 会見要旨】
国土交通省ホームページ 大臣会見
石井啓一大臣会見要旨 2018年10月30日(火)9:44~9:54
参議院本館 議員食堂
(抜粋引用開始)
本日の閣議案件で、特に私の方から御報告するものはございません。
このほか、私の方から2点御報告がございます。
(略)
2点目は「沖縄県による辺野古沖の公有水面埋立承認の撤回の執行停止について」であります。
沖縄県による辺野古沖の公有水面埋立承認の撤回につきましては、去る10月17日に、沖縄防衛局より審査請求及び執行停止の申立てがございました。
このうち、執行停止の申立てにつきまして、沖縄防衛局及び沖縄県の双方から提出された書面の内容を審査した結果、承認撤回の効力を停止することといたしましたので、御報告いたします。
なお、執行停止の効力につきましては、決定書が沖縄防衛局に到達した時点から発生いたしますが、明日10月31日には到達すると見込んでおります。
今回の決定では、事業者である沖縄防衛局が、埋立工事を行うことができないという状態が継続することにより、埋立地の利用価値も含めた、工事を停止せざるを得ないことにより生じる経済的損失ばかりでなく、普天間飛行場周辺に居住する住民等が被る航空機による事故等の危険性の除去や騒音等の被害の防止を早期に実現することが困難となるほか、日米間の信頼関係や同盟関係等にも悪影響を及ぼしかねないという外交・防衛上の不利益が生ずることから、「処分、処分の執行又は手続の続行により生ずる重大な損害を避けるために緊急の必要があると認めるとき」に該当すると判断いたしました。
詳細は後ほど事務方から説明させます。
私からは以上であります。
質疑応答
(略)
(問)辺野古の埋立てについてなんですけれども、今回は、承認の取消しを求める県に代わる代執行という手続きをとっているのですけれども、今後の裁決等を含めた承認取消しの申立てについての対応について方針を教えてください。
(答)審査請求について審査中でありますので、それ以外のことにつきましては、コメントは控えさせていただきます。
(問)辺野古についてお尋ねしたいのですけれども、行政不服審査については、国の機関同士であり身内同士ではないかという批判も出ていますけれども、これについて大臣のお考えをお願いします。
(答)行政不服審査法で、審査請求をすることができる者につきましては、行政不服審査法第2条は、「行政庁の処分に不服がある者」と規定されております。
ここにいう処分とは、「直接国民の権利義務を形成し、またはその範囲を確定する」ものをいいます。
沖縄防衛局のような国の機関であっても、この意味での処分を受けたものといえれば、一般私人と同様の立場で処分を受けたものとして、その処分について、審査請求をなし得ると解釈することができます。
この点、前回の承認取消しの違法性が判断された平成28年の最高裁判決では、取消しがこの意味での処分であることを前提とした判断を行っております。
今回の承認処分の撤回も、埋立てをなし得る法的地位を失わせるという点で取消しと変わらず、沖縄防衛局も、行政不服審査法第2条の処分を受けたものといえる以上、固有の資格において撤回の相手となったものではなく、審査請求ができると判断したところであります。
(問)行政不服審査法で、固有の資格において、行政主体あるいは行政機関が行政処分の相手となる処分については、明示的に適用除外にしているという指摘もあるかと思いますが、そこら辺の解釈は今回どのように行ったのか教えていただければと思います。
(答)今、答弁したと思うのですけれども、行政不服審査法でいうところの処分を受けたのが国の機関であっても、処分を受けたものといえれば、一般私人と同様の立場で処分を受けたものとして、その処分について審査請求をなし得る。
前回、取消しの要請を判断された平成28年の最高裁判決では、この取消しというのは行政不服審査法にいうところの処分に該当すると、そういう判断がなされているわけですね。
今回の承認処分の撤回も、ほとんど取消しと変わらないと、それは埋立のなし得る法的地位を失わせるという意味では、取消しも処分もほとんど変わらないという意味では、この撤回も最高裁判決に基づけば処分とみなせるということで、沖縄防衛局が国の固有の資格において撤回の相手方になったものではないといえるわけであります。
(引用終わり)
 
【資料2 10/30 岩屋毅防衛大臣 記者会見】
防衛省自衛隊ホームページ 防衛大臣記者会見 
平成30年10月30日(09:44~09:48) 官邸エントランス
(抜粋引用開始)
質疑応答
(略)
Q:普天間基地の移設を巡って、行政不服審査法に基づいて、国土交通大臣に執行停止を求めておりましたが、その後どのようになったのか。また、それを受けてどのように対応されるかについてお聞かせください。
A:今朝、国土交通省から沖縄防衛局に対して、執行停止決定が出たという第一報を受けております。その内容の詳細については、まだ確認しておりませんので、お答えは差し控えたいと思います。
Q:今後の埋立工事については、どのような方針で臨まれますでしょうか。
A:現地の気象状況を踏まえ、工事の再開に向けた準備が整い次第、速やかに再開させていただきたいと思います。
(略)
Q:執行停止に関して、先ほどの閣議で何かお話はありましたでしょうか。
A:それはございませんでした。
Q:執行停止に関して、今回の受け止めを伺えますか。
A:私どもは、日本を守るための抑止力を維持しながら、しかし一方で、沖縄の負担軽減をしっかり図っていきたいという一貫した方針で進めてまいりました。危険な普天間基地については、一日も早い全面返還を成し遂げたいと、そのために工事もできるだけ速やかに再開をさせていただきたいと思っております。
Q:玉城デニー沖縄県知事が上京予定ですが、この件に関して直接お話をする予定などありますか。
A:知事の予定について承知しておりませんし、これから検討します。
(引用終わり)
 
【資料3 10/30 玉城デニー沖縄県知事 記者会見でのコメント】
沖縄県ホームページ
「平成30年10月30日、玉城知事は、国土交通大臣が行った執行停止決定についての会見を行いました。」
知事コメント(国土交通大臣による執行停止決定について)
(引用開始)
 普天間飛行場代替施設建設事業に係る公有水面埋立承認の取消しに対し、沖縄防衛局長が国土交通大臣に行った執行停止申立てに関し、本日、国土交通大臣が執行停止決定を行ったとの報告を受けました。
 沖縄県は、10月25日に国土交通大臣に提出した執行停止申立てに関する意見書においても、
・国の機関である沖縄防衛局には、私人の権利利益の救済制度である行政不服審査法による審査請求等の適格が認められないため不適法であること
・今回の執行停止申立ては、「重大な損害を避けるために緊急の必要」性の要件を充足していないこと
沖縄県が今回行った埋立承認取消しは適法になされたこと
等を詳細に主張し、今回の執行停止申立ての違法性を国土交通大臣に訴えたところです。
 また、去る10月26日には、110名もの行政法学者により、今回の国の対抗措置について、「国民のための権利救済制度である行政不服審査制度を濫用するもの」と指摘され、執行停止申立てとともに審査請求も却下するよう求める声明が発表されたところです。
 しかし、国土交通大臣は、3年前の承認取消しと同様、沖縄防衛局長が一私人の立場にあるということを認め、県の意見書提出から5日後という極めて短い審査期間で、執行停止決定を行いました。
 今回の決定は、結局のところ、結論ありきで中身のないものであります。
 私は、去る10月17日の会見において、仮に本件において国土交通大臣により執行停止決定がなされれば、内閣の内部における、自作自演の極めて不当な決定といわざるを得ないと申し上げましたが、まさにそのような状況となり、審査庁として公平性・中立性を欠く判断がなされたことに、強い憤りを禁じ得ません。
 県としては、今回の執行停止決定に対し、当該決定に係る文書を精査の上、国地方係争処理委員会への審査申出を軸に、速やかに対応してまいります。
 承認取消しの効力の執行停止決定がなされたとしても、承認に付した留意事項に基づき、沖縄防衛局は、沖縄県との間で実施設計及び環境保全対策等に関する事前協議を行う必要
があります。
 事前協議が調うことなく工事に着工することや、ましてや土砂を投入することは、断じて認められません。
 私は、辺野古に新基地はつくらせないという公約の実現に向けて、全身全霊で取り組んでまいります。
 私はぶれることなく、多くの県民の負託を受けた知事として、しっかりとその思いに応えたいと思いますので、県民・国民の皆様の御支援、御協力をよろしくお願い申し上げます。
                平成30年10月30日
                沖縄県知事 玉城 デニー
(引用終わり) 
 
【資料4 10/30 琉球朝日放送 報道制作局 Qプラス による報道(動画付)】
2018年10月30日 18時30分
県の承認撤回 国が効力停止へ
(抜粋引用開始)
 県は今後、第三者機関である国地方係争処理委員会に審査を申し出る方針ですが、申し出た場合でも埋め立て工事の再開は可能です。
 工事が止まっている間静けさを取り戻している名護市キャンプシュワブのゲート前では「とにかく格好だけ付けようと思っているんじゃないでしょうかね」「いっぱい、色々問題抱えているわけでしょう、地盤が弱いとかね。なんでもやるんだぞと、格好だけつけようということだと思う」の声が聞こえました。
 国の機関の申し立てを国の機関が認めた今回の事態は、予想されていたことだと冷静に受け止めました。一方で、今後の工事はゲート前からの資材搬入だけでなく、海からの土砂の搬入も加わるため、今までの抗議運動で対抗することは難しいと警戒していました。
(引用終わり)
 
【資料5 10/30 朝日新聞デジタル による報道】
朝日新聞デジタル 2018年10月30日11時19分
辺野古埋め立て承認撤回、国が効力停止 移設工事再開へ
(抜粋引用開始)
 米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設をめぐり、石井啓一国土交通相は30日の閣議後会見で、沖縄県による辺野古沿岸部の埋め立て承認撤回の効力停止を決めたと発表した。防衛省は決定を受けて、8月以降止まっている工事を再開し、土砂投入に踏み切る方針だ。
(略)
 西村康稔官房副長官は同日の閣議後会見で「負担軽減を目に見える形で実現するという方針を丁寧に説明し、地元の理解を得られるよう粘り強く取り組んでいく」と述べた。
 防衛省は17日に、沖縄県による辺野古沿岸部の埋め立て承認撤回に対抗措置を講じた。2015年に沖縄県が承認を取り消した際と同じ手段だった。政府は当初、撤回の効力を一時的に失わせる執行停止を裁判所に申し立てる案も検討した。しかし、8月末の撤回から1カ月半がたち、政府内でも要件の「緊急性」が疑問視されたことから、3年前と同じく、行政不服審査法に基づき、「身内」の国交相への申し立てを選んだ。
 一方、沖縄県では辺野古への移設計画に対する賛否を問う県民投票が来春までに行われる予定だ。ただ、県民投票には法的拘束力はないため、政府は「辺野古への移設が唯一の現実的な解決策であるとの考え方に変わりはない」(岩屋氏)として、県民投票の結果にかかわらず計画を進める考えを示している。
(引用終わり)
 
【資料6 10/31 日本記者クラブでの玉城デニー沖縄県知事記者会見動画】
 10月30日の琉球新報電子版が伝えるところによると、「玉城デニー知事は日本記者クラブでの講演のため30日朝に上京し、執行停止の決定に対して遺憾の意を表明する知事コメントなどの対応を都内で検討する。(略)基地担当の謝花喜一郎副知事も国会で国政野党合同ヒアリングに出席するため上京しており、担当部署は情報収集や報告に追われた。」(沖縄県、係争処理委に申し立てへ 国の執行停止受け/2018年10月30日11:34)
とのことでした。
 そして、予定通り、10月31日の午後1時から、千代田区内幸町の日本プレスセンタービル10階ホールにおいて、玉城デニー知事の会見が行われ、その動画が公開されましたのでご紹介します。
玉城デニー沖縄県知事 会見 2018.10.31(1時間02分)
 
【資料7 石井国交相が執行停止の根拠にあげた最高裁判例
平成28年(行ヒ)第394号
地方自治法251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件
平成28年12月20日 最高裁判所第二小法廷 判決
判例集等巻・号・頁  民集 第70巻9号2281頁
 
(弁護士・金原徹雄のブログから/辺野古沿岸埋立承認撤回関連)
2018年7月27日
翁長雄志沖縄県知事が公有水面埋立承認の撤回に向けた意向を表明しました(2018年7月27日)
2018年9月1日
玉城デニー氏による沖縄県知事選挙への出馬表明(2018年8月29日)を視聴する(冒頭発言部分文字起こし)
2018年10月20日
辺野古沖公有水面埋立承認取消(撤回)処分に対する沖縄防衛局による審査請求と執行停止申立てを考えるための資料のご紹介
2018年10月25日
沖縄県知事が「執行停止に関する意見書」(2018年10月24日)を国土交通大臣に提出
2018年10月27日
行政法研究者有志による声明「辺野古埋立承認問題における日本政府による再度の行政不服審査制度の濫用を憂う」(2018年10月26日)を読む

三たび「避難の権利」を訴える総理大臣と福島県知事への手紙~森松明希子さんから

 2018年10月31日配信(予定)のメルマガ金原No.3317を転載します。
 
三たび「避難の権利」を訴える総理大臣と福島県知事への手紙~森松明希子さんから
 
 明日(11月1日)の午後、大阪地方裁判所で、福島第一原発事故被災者(避難者)が国と東京電力を訴えた原発賠償関西訴訟の第20回口頭弁論期日が開かれます。 
 同訴訟もいよいよ終盤に差しかかり、間もなく全ての原告の陳述書が提出され、来年には原告本人尋問が行われる段階となっています。
 
 その原発賠償関西訴訟の原告団代表であり、また、東日本大震災避難者の会 Thanks&Dream(サンドリ)の代表でもある森松明希子さんについては、本ブログの常連登場者(?)として、皆さまにもお馴染みでしょうから、あらためてご紹介するまでもないとは思いますが、森松さんが2人のお子さんを連れて福島県郡山市から大阪に母子非難を決意されたいきさつについては、私のブログに転載させていただいた以下の手記などをお読みいただければと思います。
 
2014年9月12日
原発賠償関西訴訟と森松明希子さん『母子避難、福島から大阪へ』
 
 さて、その森松明希子さんがFacebookに、内閣総理大臣福島県知事宛の公開書簡(2018年10月29日付)をアップされているのに気がつきました。
 
 実は、森松さんが内閣総理大臣福島県知事宛の公開書簡を書かれたのは、これが3回目のことであり、以前の2回の書簡は、サンドリのホームページで読むことができます。
 
2015年5月26日付 第一信
 
2016年11月28日付 第二信
 
 これら3通の手紙は、基本的には同じことを訴えているのですが(それはそうですよね)、前回(2016年11月)の第二信は、国や福島県による2017年3月で災害救助法に基づく借上住宅の無償提供を打ち切るという方針の撤回を求める運動の力になりたいということで(森松さん自身は住宅支援を受けていません)書かれたものであったと思いますし、今回の第三信は、本文にはさらっと書かれているだけですが、10月25日の国連総会で、国連人権理事会が任命したトゥンジャク特別報告者が、東京電力福島第一原子力発電所事故の後、日本政府が避難指示を解除する基準の1つを年間の被ばく量20ミリシーベルト以下としていることにはリスクがあるとして、子どもたちや出産年齢にある女性の帰還を見合わせるよう求めたとの報道に触発されて書かれたものではなかったでしょうか。
 
 森松さんのFacebookへの投稿には、「※本人の希望により、無断で転記・転載、大歓迎です。」と書かれていましたので、(第二信の時と同じように)形式的な書式は私の趣味で整理させていただいた上で、全文転載しました。
 是非、シェア、転載などの方法で多くの方の目に触れるよう、ご協力いただければ幸いです。
 
(引用開始)
内閣総理大臣 安倍 晋三 さま
福島県知事 内堀 雅雄 さま
 
 前略
 
 「復興庁 避難者消したら 復興か」
 「福島県 避難者無視して 復興か」
 
 福島県郡山市から大阪市に2児を連れて母子避難を7年7か月間、敢行しつづけている森松明希子と申します。
 3年前・2年前にも内閣総理大臣および福島県知事にお手紙を差し上げました。
 
 何度でも繰り返します。
 放射線被曝から免れ健康を享受する権利は、人の命や健康に関わる最も大切な基本的人権にほかなりません。
 誰にでも、等しく認められなければいけないと、私は思うのです。
 なぜなら、少しも被ばくをしたくないと思うことは人として当然のことであり、誰もが平等に認められるべきことだと思うからです。
 また、これから先、将来のある子どもたちに、健康被害の可能性のリスクを少しでも低減させたいと思うことは、親として当然の心理であり、子どもの健やかな成長を願わない親は一人としていないと思うのです。
 そこには、一点の曇もなく、放射線被曝の恐怖、健康不安があってはならないと思うのです。
 たまたま県外に親戚・縁者・支援者のつながりがあった人だけが被ばくを免れることができるとか、経済力はじめ運良く様々な条件に恵まれた人たちだけが被ばくから遠ざかることができた、というようなことで本当に良いのでしょうか?
 今、次々となされる施策、法律で定められている年間1ミリシーベルトを超える放射線量が確認されても帰還困難区域を解除する、避難者にとっての命綱である支援住宅の打ち切り(他方で帰還者にだけは手厚い保護)など、これらの非道な施策により、幼い子どもの被ばくを少しでも避け避難を続けていたいと願っても、泣く泣く帰還するしか選択肢がなくなるという世帯もあるということをご承知の上での措置なのでしょうか?
 そして、それが本当に平等でフェアな施策だと言えるのでしょうか?
 何よりも、それは本当に正しいことなのでしょうか?
 
 そもそも、避難するという選択肢を選び、安心して避難を続けるという道筋が立てられる制度が7年以上経過しても何一つ確立されることもなく、避難したくてもできない世帯があることを国や福島県は分かった上でのこれまでのこの7年7か月間のご対応なのでしょうか。
 もしもご存知ないのでしたら、それは、「声なき声」、生活者の視点、ふつうの暮らしをしている人々の思いや声を聞き漏らしていることにほかならず、大変な無礼を承知の上で申し上げますが、為政者としては致命的であると言っても過言で無いと思うのです。
 原発事故子ども被災者支援法という法律はあるのにずっと棚晒しの現状・・・
 法律があっても、実際の被災者は何ら救済されないというこの現実。
 私は、福島にとどまり日々放射線と向き合う暮らしを余儀なくされていらっしゃる方々の選択をとやかく申し上げたことは一度もありません。
 むしろ、子どもを育てる同じ親としてのお立場の方々を思うにつけ、心中、心よりお察し申し上げる次第です。
 一方で、避難という選択をした私たちもまた、紛れも無く福島県民であることにかわりありません。
 遠く離れた土地に幼子と避難をしていたとしても、福島が、3.11前の何の健康被害のリスクも不安もない状態にもどりさえするのなら、すなわち、3.11前には現存しなかった放射線がなくなり3.11前の福島でありさえするのなら、今すぐにでも家族揃って福島での生活をまた再開したいと心から願っているのです。
 
 そう願い続けて7年7か月の歳月が流れました。
 避難をしている福島県民の「声」は届いているのでしょうか。
 それとも「意図的に無視」されているのでしょうか。
 県政を担われる内堀知事におかれましても、どうか、避難という選択をした者もまた県民の一人として捨て置くことなく、人の生命・健康にかかわる最も大切な基本的人権を尊重していただけますよう、全国に散らばる国内避難民にもまた、温容な具体的施策の継続、実施をお願いしたく存じます。
 原子力災害がひとたび起きた時に、これまでのご対応が常套の手法とされてしまうことで計り知れない国民の権利が将来にわたり侵害されることになると私は危惧するのです。
 人の命や健康よりも大切にされなければならないものはあるのでしょうか?
 全世界の国民は、等しく、自らの命を守り健康を享受する権利があるはずです。
 生命や健康を守る行為が原則であり、その原則的行為を選択した人に対して、どうか最低限度の制度を保障してください。
 そして、不幸にも原子力災害を経験してしまった県民(国民)として、次の世代に対して恥ずかしくないアクションを県政、県民として手を取り合って進めて頂きたいと思うのです。
 同様の事が、国政においても言えると思います。
 そのためには、一部の経済的利害関係の発生する人々の声だけでなく、人として当たり前の事を申し上げているだけにすぎない一母親、一生活者、一県民、一国民の真摯な声にどうか耳を傾けてくださいますよう、心からお願い申し上げます。
 
 避難者の存在そのものが社会的事実であり歴史的証拠なのです。
 「意図的な無視」により数にも数えようともしない、数に上げてしまったものは線引き・支援の打ち切りによって、全力で存在そのものを消そうとすることは、為政者としてあるまじき恥ずべき行為だと思うのです。
 私や私の子どもたちも含め、「避難している人々」は間違いなく存在しているのです。
3.11から今現在に至るまで、間断なく避難という選択をし続けています。
 汚染があるから帰らないという選択を尊厳をもって敢行しているのです。
 
 最後にこれだけはお伝えさせてください。
 トップが事実から目を背け、隠蔽体質を貫かれますと、国民・住民はさらなる苦痛と困難を強いられます。
 福島原発事故による国土の汚染は国のトップが世界に向けてアンダーコントロールと隠蔽しました。
 福島県からの避難者は北海道から沖縄まで全47都道府県全てに存在するというのに、県のトップは物産売り込みには熱心で全国飛び回ったとしても、全国に散らばる避難者には会おうともせず無視しつづけています。
 私たち避難者の正確な数や実態、苦難の状況を把握しようともしないし、声も聞かない、
受け入れ先の自治体に「避難者をよろしく」とお願いもしてくれない。
 学校のいじめは学校長が無視、隠蔽したら苦しむのは子どもたちです。
 隠蔽されて再発防止策が講じられないと、被害の子も加害の子も、そして今は加害者にも被害者にもなっていないけれど、新たな犠牲者が出ることは必至です。
 そして再発防止は事実(何が起きていたかという被害の事実)と向き合わずしてはありえないと思うのです。
 いじめも原子力惨禍もそれは同じことです。
 なかったことにする、見ないことにする、臭いものに蓋が、どれだけ多くの子供たちの未来を奪っていることか・・・
 そのことに全ての人が気づくべきだと私は思うのです。
 避難児が恐喝いじめ事件に遭っていたという痛ましい事件がありましたが、全国に散らばる避難者の子どもたちは、国・県からの保護が皆無に等しく、同様の危険にさらされ続けているという現状があります。
 避難するという選択を尊重されないばかりか、さらなる危険にさらされながらの避難の継続を強いられることは、あってはならないことです。
 
 子どもたちの未来と健康を最優先に考えてください。
 子どもたちはこの国の未来であり、福島県にとっても大切な宝物です。
 避難を続ける人々の選択を尊重し、特に保護すべき避難の子どもたちをどうか全力で守ってください。
 内閣総理大臣福島県知事が全力でその姿勢を示してください。
 
 長文かつ乱文、大変失礼いたしました。
 福島の復興を切に願う一県民として、また、東日本大震災の真の復興を心から願う一国民として、筆を取らせていだだきました。
 最後までお読み下さいましてありがとうございます。
 
  2018年10月29日
 
    森松明希子   
      福島→大阪・2児を連れて母子避難中、国内避難民、
      東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)代表
(引用終わり)
 
(参考サイト1 森松さんやサンドリの書籍のご紹介)
■森松明希子著『母子避難、心の軌跡』(かもがわ出版
■ブックレット『red kimono~福島原子力発電所事故からの避難者たちによるスピーチ、手紙、そして避難手記』
■新冊子『3.11避難者の声~当事者自身がアーカイブ~』
※この冊子の内容をご紹介した私のブログ(『3.11避難者の声~当事者自身がアーカイブ~』(東日本大震災避難者の会Thanks&Dream(サンドリ))を是非お読みください/2017年3月5日)もご参照ください。
 
(参考サイト2 トゥンジャク特別報告者による声明についての報道)
NHK NEWS WEB 2018年10月26日 13時03分
国連の特別報告者 福島への子どもの帰還見合わせを求める
(抜粋引用開始)
 国連の人権理事会が任命したトゥンジャク特別報告者は、25日の国連総会の委員会で、東京電力福島第一原子力発電所の事故のあと、日本政府が避難指示を解除する基準の1つを年間の被ばく量20ミリシーベルト以下にしていることについて「去年、人権理事会が勧告した1ミリシーベルト以下という基準を考慮していない」と批判しました。
 これに対し、日本政府の担当者は、この基準は専門家で作るICRP=国際放射線防護委員会が2007年に出した勧告をもとにしており、避難指示の解除にあたっては国内の専門家と協議して適切に行っているとして、「こうした報告が風評被害などの否定的な影響をもたらすことを懸念する」と反論しました。
 この反論に、トゥンジャク特別報告者は、同じ専門家の勧告で、平常時は年間の被ばく量を1ミリシーベルト以下に設定していると指摘し、これを下回らないかぎりリスクがあるとして、子どもたちや出産年齢にある女性の帰還は見合わせるべきだと主張し、日本側との立場の違いが浮き彫りになりました。
(引用終わり)
 
(弁護士・金原徹雄のブログから/森松明希子さん関連)
2013年9月1日
8/31シンポ「区域外避難者は今 放射能汚染に安全の境はありますか」(大阪弁護士会)に参加して
2013年12月21日
森松明希子さんが語る原発避難者の思い(12/19大阪市立大学にて)
2014年2月8日
母子避難者の思いを通して考える「いのち」(「母と女性教職員の会」に参加して)
2014年9月12日
原発賠償関西訴訟と森松明希子さん『母子避難、福島から大阪へ』
2014年9月16日
9/18原発賠償関西訴訟第1回口頭弁論に注目を!~原告団代表・森松明希子さん語る
2014年11月29日
東日本大震災避難者の会「Thanks & Dream」(略称「サンドリ」)の活動に期待します
2015年4月11日
原発賠償関西訴訟(第1回、第2回)を模擬法廷・報告会の動画で振り返る(付・森松明希子原告団代表が陳述した意見)
2015年10月30日
「避難の権利」を求める全国避難者の会が設立されました
2015年12月1日
11/23世界核被害者フォーラム「広島宣言」&「世界核被害者の権利憲章要綱草案」(付・森松明希子さんの会場発言「避難の権利と平和的生存権」)
2015年12月14日
避難者の声を届けたい~森松明希子さんのお話@12/13東京都文京区(放射線被ばくを学習する会)
2016年1月11日
「避難者あるある五七五」東日本大震災避難者の会Thanks&Dream(サンドリ))の挑戦~五七五だから語れる避難者の思い
2016年9月17日
UPLAN【原発事故避難者インタビュー】に注目しよう~まずは松本徳子さんと森松明希子さん
2016年11月30日
「避難の権利」を訴える総理大臣と福島県知事への手紙~森松明希子さんから
2017年3月5日
『3.11避難者の声~当事者自身がアーカイブ~』(東日本大震災避難者の会Thanks&Dream(サンドリ))を是非お読みください
2017年9月19日
「ともに生きる未来を!さようなら原発さようなら戦争全国集会」(2017年9月18日@代々木公園)の動画を視聴する
2017年9月20日
平和のうちに生きる権利を求めて~森松明希子さんの「ともに生きる未来を!さようなら原発さようなら戦争全国集会」(2017年9月18日@代々木公園)での訴え
2018年3月9日
院内勉強会「国連人権理事会、福島原発事故関連の勧告の意義とは?」を視聴し、3/16国連人権理事会での森松明希子さんのスピーチに声援を送る
2018年3月21日
国連人権理事会での森松明希子さんのスピーチ紹介~付・4か国からのUPR福島勧告と日本政府による返答
2018年5月29日
森松明希子さんらによる「国連人権理事会発言者による報告会~東電福島原発事故と私たちの人権~」(2018年5月27日@スペースたんぽぽ)を視聴する
2018年7月5日
院内勉強会「国連人権理事会に福島原発事故被災者が参加~国連国内避難民に関する指導原則を政策に生かす~」(2018年7月4日)を視聴する
2018年7月12日
森松明希子さん「原発事故による被ばくからの自由・避難の権利とは」(2018年8月26日@和歌山ビッグ愛)へのお誘い
2018年7月30日
参議院東日本大震災復興特別委員会での森松明希子さん(東日本大震災避難者の会Thanks&Dream代表)の意見陳述と質疑(2018年7月11日)
2018年8月26日
森松明希子さん 和歌山で語る!

くまの平和ネットワーク講演会「私が見たこと 聞いたこと~戦争の被害と加害の実像~」(2018年12月9日@新宮市福祉センター)のご案内

 2018年10月30日配信(予定)のメルマガ金原No.3316を転載します。
 
くまの平和ネットワーク講演会「私が見たこと 聞いたこと~戦争の被害と加害の実像~」(2018年12月9日@新宮市福祉センター)のご案内
 
 今年も、松原洋一さん(くまの平和ネットワーク、紀宝9条の会)から、くまの平和ネットワーク主催による講演会のお知らせをメールでいただきました。
 松原さんからのお知らせといえば、くまの平和ネットワーク講演会の他に、くまの平和の風コンサートも恒例となっており、今年も既に「「第五回 くまの平和の風コンサート」(2018年7月22日@新宮市福祉センター)へのお誘い」(2018年7月20日)という案内記事を本ブログに掲載しています。
 もっとも、この時は、本番の何と2日前という間際のお知らせでしたから、ほとんど広報の役には立たなかったでしょうが。
 
 そして、くまの平和ネットワーク講演会です。今年は、12月9日(日)(日米開戦の翌日ですね)の開催ですが、そういえば昨年もこの時期に、伊藤宏先生(和歌山信愛女子短期大学教授)を講師に迎えた「ゴジラウルトラマンがあなたに伝えたいこと」という「憲法の講演会」を開催されたのでしたね。
  今年の講演会は、「戦争と憲法を考える講演会」と銘打ち、地元三重県熊野市在住の作家・中田重顕氏による講演と、元御浜町農協有線放送アナウンサーの阪本浩子さんによる朗読という、非常に興味深い企画です。
 
 松原さんから届いたメールを引用させていただいた上で、チラシ記載情報を転記します。
「戦争の被害と加害の実像」をどう次の世代に伝えていくのか、という問題意識から実現した講演会のようです。
 是非多くの方にこの内容を広めていただければと思います。
 
(松原洋一さんの金原宛メールから引用開始)
 くまの平和ネットワークの講演会のお知らせをさせていただきます。詳細は添付の別紙チラシをご覧ください。
 今回は直接的な憲法のお話ではありませんが、戦争の舞台となった現地を訪れたり、被害者はもちろん加害者となった当事者の方々の肉声を聞き、記録に留めてきた地元の作家・中田重顕氏(三重県熊野市在住)を迎えてお話を伺います。
 タイトルは「私が見たこと 聞いたこと~戦争の被害と加害の実像~」。
 熟練のアナウンス技術で評判の阪本浩子さん(三重県御浜町)が証言者の朗読をしてくださいます。
 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、・・・」制定されたこの憲法の原点ともいえるテーマだと思います。戦争体験者が年ごとに少なくなっていくことは仕方のないことですが、戦争の罪悪や不条理さを想像できない多くの『戦争を知らない子どもたち』にこそ、特に聴いていただきたいと思います。
(引用終わり)
 
(チラシから引用開始)
戦争と憲法を考える講演会
私が見たこと聞いたこと
~戦争の被害と加害の実像~
 
人類最大の人権侵害・戦争。その戦争の実態を自らの足で検証し、見聞した事実を映像を交えて伝えてくれる講演会です。
戦争の反省から生まれた憲法をめぐる情勢が揺れています。戦争と平和について考え、再
び戦争につながることのないよう、気持を新たにしたいと思います。〈くまの平和ネットワーク〉
 
講師紹介
中田重顕(なかた・しげあき)氏
1942年旧満州生まれ。
元公立学校事務職員。
文学同人誌「文宴」同人。
著書は、短編小説集「たそがれ、サムトの婆と」「観音浄土の海」、エッセイ集「みくまの便り」。 
現在世界通信社「教育情報」にエッセイ「奥熊野に生きた人たち」を連載中。
三重県文学新人賞、鳥羽マリン文学大賞など。熊野市在住。
 
〈朗読〉阪本浩子氏
1942年御浜町生まれ。
御浜町農協有線放送アナウンサー。小学校における読み聞かせ運動など。
 
講演内容要旨(予定)
明治維新以来、わが国は富国強兵政策を進め、1945年8月まで走り続けた。軍事大国に上り詰めるために、民生や福祉に手が届くことはなかった。奥熊野の庶民たちの過酷な暮らしの聞き書き
◆戦争に突入し、兵は戦死する。軍国の母、妻、遺児が全国に生まれていく。残された女たちの慟哭の聞き書き
◆加害と被害は当然近隣隣国に及んでいく。旧満州(現在の中国東北地方)生まれの講師は、数度にわたり旅をし、戦跡をめぐり、731部隊跡地、満蒙開拓団など加害と被害の歴史を目の当たりにする。実際に目で見、耳で聴いたことを検証する。
満州防衛の責務を負う「無敵」関東軍は、ソ連満州に侵攻してきたとき、国境の開拓団の人々をなぜ守らなかったか。あの広大な北満州の荒野を軍に見放された女性・子ども・年寄りたちはどう避難したか。世界の歴史に例のない悲劇が……。
―――講師自身が実際に見聞きしたことのみ、映像と朗読で検証します。
 
2018年12月9日(日)午後1:00開場/1:30開演
新宮市福祉センター
 和歌山県新宮市野田1-1
 
入場無料
※どなたもお気軽にお越し下さい。有志の方のカンパは大歓迎です。
 
主催 くまの平和ネットワーク
     〈代表 二河通夫/(問)TEL 0735-21-1674 植村〉
紀南9条の会/しんぐう九条の会/紀宝9条の会/宝来9条の会/年金者組合新東支部9条の会/新日本婦人の会牟婁支部/ほんぐう9条くらぶ/御浜九条の会/なちかつ・たいじ九条の会/くしもと9条の会/古座川9条の会(順不同)――以上「憲法9条を守りたい」と活動している熊野から串本までの地域11団体の共同企画です。
(引用終わり)

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(付録:第4回大逆事件サミットで歌われた『風の記憶~大逆事件犠牲者の顕彰に向けて~』)
 今年1月に大石誠之助氏を名誉市民とした新宮市で、去る10月6日、第4回「大逆事件サミット」が開かれました(主催:大逆事件サミット連絡会議、共催:「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会、大逆事件を語る会)。大逆事件犠牲者の顕彰活動をしている全国の団体が一堂に会して取り組みを報告しあう場として、2011年に幸徳秋水の出身地・高知県で第1回が開かれ、第2回は2014年に福岡県で、第3回は2016年に大阪市で開かれ、今回の新宮市が4回目となります。
 基調講演は、国際啄木学会の伊藤和則さんが「石川啄木大逆事件」の演題でお話されました。
 ところで、ご紹介する楽曲『風の記憶~大逆事件犠牲者の顕彰に向けて~』は、10月6日のサミットで歌われたもので、作詞作曲されたのは、上記くまの平和ネットワークの講演会をお知らせくださった松原洋一さんです。
 演奏したアマチュア・フォークグループ「わがらーず」は、以前はもっとメンバーがいたはずなのですが、最近は2人で演奏されているようです。
 以下の動画も、松原さんからメールでお知らせいただいて知ったのですが、そのメールには、(ミスも結構あるのですが無視してください)という括弧書きの注が付されており、実際、字幕はあれど歌がない箇所もありますが、まあそれはご愛敬ということで、「あなたの求めた自由の風は 今この国に吹いていますか」「あなたが信じた平等の灯は この国を照らしていますか」というリフレインの問いかけをしっかり受け止めたいと思います。
わらがーず“風の記憶ー「大逆事件新宮グループ」復権に寄せて”(5分41秒)
 
(弁護士・金原徹雄のブログから/くまの平和ネットワーク関連)
2013年6月23日(配信した時は日付が変わって24日)
本日「くまの平和ネットワーク」、来週は「輝け9条龍神の会」
2014年5月12日
くまの平和ネットワーク「憲法の講演会」(5/31)と講師・畑純一弁護士のご紹介
2015年5月14日
くまの平和ネットワーク講演会(矢野宏さん)へのお誘い(6/14)
2016年6月10日
今年も届いた“くまのからの便り”~くまの平和ネットワーク講演会(6/26)&くまの平和の風コンサート2016(7/3)
2017年6月11日
講演会・「共謀罪」って何?こんなにある問題点!(6/11くまの平和ネットワーク)レジュメ紹介
2017年11月13日
伊藤宏氏(和歌山信愛女子短大教授)講演会「ゴジラウルトラマンがあなたに伝えたいこと」(くまの平和ネットワーク12/9@新宮市福祉センター)のご案内

岡口分限裁判弁護団による「声明」(2018年10月24日)を読む

 2018年10月29日配信(予定)のメルマガ金原No.3315を転載します。
 
岡口分限裁判弁護団による「声明」(2018年10月24日)を読む
 
 去る10月17日、岡口基一裁判官(東京高等裁判所判事)に対し、最高裁判所大法廷が、回避した1人を除く14名の裁判官全員一致をもって、「被申立人を戒告する。」との決定を行ったことは、翌18日のブログ「岡口基一裁判官に対する分限裁判・最高裁大法廷「決定」を読む」で取り上げ、最高裁の決定自体を含め、この分限裁判を考える上で必須と思われる資料をご紹介しました。
 
 今日は、上記ブログの補遺という位置付けでお送りします。メインは、10月24日付で公表された岡口分限裁判弁護団による「声明」全文のご紹介です。
 「分限裁判の記録 岡口基一」に既に全文が掲載されていましたが、あらためて当ブログに転載させていただきました。
 
 併せて、岡口基一裁判官に対するインタビュー記事と、木下昌彦神戸大学大学院法学研究科准教授(木下准教授が書かれた意見書は上記ブログで既にリンクしています)が書かれた本決定に対する論説にリンクしておきます。
 弁護団「声明」とこれらを併せ読めば、最高裁による本決定の主要な問題点を大筋で把握できるのではないかと思います。
 
 それでは、以下に弁護団「声明」をご紹介します。
 
(引用開始)
                                                            2018年10月24日
 
                                 声     明
 
                                                              岡口分限裁判弁護団
 
はじめに
 2018年10月17日、最高裁大法廷は、東京高裁判事の岡口基一氏(以下「岡口氏」という)に対する分限裁判につき、「被申立人を戒告する。」との決定を出した。この分限裁判は、最高裁が第一審であると同時に終局審であるから、本決定に対する上訴はできないものとされている。
 にもかかわらず、本決定は、最高裁の判断を示した部分がわずか2頁半しかなく、岡口氏や当弁護団の主張書面、及び証拠として提出した憲法学者等の意見書において提示した、表現の自由を含む重要な論点にはほとんど触れられていないのみならず、本件ツイートが「品位を辱める行状」に該当するかどうかの具体的な判断基準すら示していない。また、後に述べるとおり、事実認定の手法も通常の裁判実務とはかけ離れた乱暴極まりないものである。
 最高裁判所がこのような決定を出したことは、裁判官全体の表現の自由や裁判官の独立をおびやかすだけでなく、裁判そのものの公正さにすら不安を抱かせるものである。
 以下、本決定の主な問題点につき、幾つかの項目ごとに述べる。
 
1 不適正な手続(申立ての理由に含まれていない懲戒理由による不意打ち)
 本決定は、「本件ツイートは、一般の閲覧者の普通の注意と閲覧の仕方とを基準とすれば、そのような訴訟を上記飼い主が提起すること自体が不当であると被申立人が考えていることを示すものと受け止めざるを得ないものである。」、「私人である当該訴訟の原告が訴えを提起したことが不当であるとする一方的な評価を不特定多数の閲覧者に公然と伝えたものといえる。」などと決めつけた上で、「このような行為は、裁判官が、その職務を行うについて、表面的かつ一方的な情報や理解のみに基づき予断をもって判断するのではないかという疑念を国民に与えるとともに」、「当該原告の感情を傷つけるものであり、裁判官に対する国民の信頼を損ね、また裁判の公正を疑わせるものでもある」という理由で、本件ツイートを「品位を辱める行状」に当たると結論づけている。
 しかしながら、東京高等裁判所長官による懲戒申立書の「申立ての理由」では、本件ツイートを投稿して元の飼い主の感情を傷つけたことのみが懲戒事由にあたるとされていたに過ぎず、本決定における上記理由は明らかに申立ての理由とは異なる懲戒事由の認定である。このような認定はいわば不意打ちであって、かかる意味において、本決定は被申立人に対する手続保障に欠けた、極めて不公正なものである。
 
2 証拠に基づかない事実認定(当事者の感情の憶測)
 本決定では、「上記原告が訴訟を提起したことを揶揄するものともとれるその表現振りとあいまって、裁判を受ける権利を保障された私人である上記原告の訴訟行為を一方的に不当とする認識ないし評価を示すことで、当該原告の感情を傷つけるものであり」と認定する。しかし、これ自体が証拠に基づかない一方的な決めつけにほかならない。本件ツイートには全くそのような記載はなく読み取ることも困難であるし、東京高等裁判所長官からの懲戒申立書に添付された同高裁事務局長報告書においても、本件ツイートの対象となった事件の原告本人が、自分が訴訟を提起したこと自体が不当だと言われたと感じたと訴えたなどという事実はどこにも記載されていない。
 おそらくは、懲戒申立書にある原告の「感情を傷つけた」ということだけでは、猿払事件最高裁判決の基準をクリアできないと考えてこのような補足をしたのであろうが、このように理由づけなしに一方的な決めつけをすること自体が、判例拘束性をもつ最高裁大法廷の決定としては極めて異常なものであると言うほかない。
 
3 過去の厳重注意の不当評価
 本決定では、岡口氏が過去に東京高等裁判所長官から2度にわたる厳重注意を受け、とりわけ2度目の厳重注意は本件と類似するツイート行為に対するものであったのに、その後わずか2か月で本件ツイートに及んだことをも戒告処分の理由に挙げており、「厳重注意」という単語が14回も使用されている。
 しかしながら、過去2回にわたる厳重注意は適正手続の保障がないままなされたものである上、これを戒告処分の理由にすることは一事不再理の原則にも反しており、極めて不当である。
 のみならず、過去のツイート行為が、本件ツイートとは性質を異にするものであることは、弁護団の主張書面において指摘していたにもかかわらず、本決定は、何らの理由づけもないままに両者が類似すると決めつけている。また、もし、両者のツイート内容の違いは問わずに、「訴訟関係者の感情を傷つける投稿を再び行った」ことのみを問題視したのだとすれば、前記2で述べたことと併せて、あまりにも一方的かつ乱暴な認定であると言わざるを得ない。
 
4 あまりにも不明確な判断基準
 本決定は、「品位を辱める行状」とは、職務上の行為であると、純然たる私的行為であるとを問わず、およそ裁判官に対する国民の信頼を損ね、または裁判の公正を疑わせるような言動を指すものとしている。
 しかしながら、これだけでは懲戒処分権者の裁量でいかようにも解釈、適用できるものであり、不利益処分である懲戒事由該当性に関する判断基準の体をおよそなしていない。 本来であれば、裁判官の職務に関する行為と、純然たる私的行為とを峻別した上で、純然たる私的行為については、原則として表現の自由が最大限に尊重されることを前提としつつ、例外的にそれが制限される場合を明確にするような客観的判断基準が明示されるべきである。諸外国においても、こうした配慮の下で判断基準が示されている例が少なからず存在するのであるが、最高裁判所が本決定に当たってそのような諸外国の例を調査した形跡は、本決定からは全く見受けられない。
 
5 補足意見について~憲法の番人としての役割はどこへ?
 本決定には、山本庸幸、林景一、宮崎裕子という3名の最高裁判所判事による補足意見が付されているが、そこでは「2度目の厳重注意を受けた投稿は、(中略)私たちは、これは本件ツイートよりも悪質であって、裁判官として全くもって不適切であり(中略)それ自体で懲戒に値するものではなかったかとも考えるものである。」などと、過去の厳重注意処分の対象となった行為そのものを蒸し返して断罪している。そればかりか、「もはや宥恕の余地はない」とか「本件ツイートは、いわば『the last straw』ともいうべきもの」などと口を極めて非難することに終始している。このような補足意見は、寺西判事補の分限裁判における最高裁大法廷決定(平成10年12月1日)における反対意見と比べるまでもなく、あまりにも感情的な、品位に欠ける意見というほかない。
 また、弁護団表現の自由をはじめとする重要な憲法上の論点等を提示してきたにもかかわらず、14名の裁判官が全員一致で、しかも上記の補足意見程度のものしか付されていないというのは、最高裁判所は「憲法の番人」の役割を放棄してしまったと評せざるを得ない。弁護団としては、このような考え方の最高裁判所のもとで、「人を傷つけた」ことから「品位を辱める行状」に当たるという理由での懲戒処分を恐れる余り、個々の裁判官がその表現行為を徒に自己抑制するという、ゆゆしき事態を招来してしまうのではないかと強く危惧するものである。
 
おわりに
 以上の点を含め、本決定は多くの問題点を抱える、極めて不当なものである。
 われわれは、裁判官がつぶやく自由は、憲法が保障する基本的人権としての「表現の自由」として、「当事者の感情」や「裁判官の品位」といった主観的なもので制限されるいわれはないものと考えているが、本決定を契機として、裁判官の表現の自由、なかんずく私的領域におけるツイッターをはじめとするSNSでの発信についての議論が深まっていくことを期待するものである。
(引用終わり)
 
注1 猿払事件最高裁判決
昭和44年(あ)第1501号 国家公務員法違反被告事件
裁判年月日 昭和49年11月6日
法廷名 最高裁判所大法廷
裁判種別  判決
結果  破棄自判
判例集等巻・号・頁  刑集 第28巻9号393頁
注2 寺西判事補分限裁判における最高裁大法廷決定
平成10年(分ク)第1号 裁判官分限事件の決定に対する即時抗告
裁判年月日  平成10年12月1日
法廷名  最高裁判所大法廷
裁判種別  決定
結果  棄却
判例集等巻・号・頁  民集 第52巻9号1761頁
 
(参考サイト)
〇岩瀬達哉(ジャーナリスト)「岡口基一裁判官、独占インタビュー『言論の自由を封殺した最高裁へ』」
〇木下昌彦神戸大学大学院法学研究科准教授「岡口判事事件決定に接して」

前川喜平氏講演会「向かう道は自分で決めよう!」(2018年10月26日)を視聴する~前川さん「教育と規制緩和・構造改革・市場化」を語る

 2018年10月28日配信(予定)のメルマガ金原No.3314を転載します。
 
前川喜平氏講演会「向かう道は自分で決めよう!」(2018年10月26日)を視聴する~前川さん「教育と規制緩和構造改革・市場化」を語る
 
 早ければその日のうちにインターネットで講演動画が配信されるようになったのは、いつ頃からのことでしょうか?YouTubeによるサービス開始が2005年のことですから、その後であることは間違いありませんが。
 YouTubeへの投稿は、たしか最初のうちは1本10分以内という時間制限があったように記憶します。フリージャーナリストの岩上安身さんによるインタビュー動画なども、最初のうちは、何本にも分割してアップされていたのを視聴した記憶があり、とても講演の全編動画を気軽に視聴できるような状況ではありませんでした。
 その頃の名残は、たとえば以下のサイトなどで確認できます。
 
 「九条の会」の活動を映像に記録することを目的の1つとして設立された「映像ドキュメント.com」が、2006年12月8日に東京大学駒場キャンパス(900番教室)で開かれた加藤周一さん(「九条の会」呼びかけ人)の講演会「老人と学生の未来-戦争か平和か」を映像に収録し、翌年1月にWEB配信しました。WMVファイルと併せ、YouTube版もアップされたのですが、こちらの方は10分以内の細切れの映像の連続です(連続視聴は可能ですが)。第1部の講演部分が7分割、第2部の質疑応答が6分割となっています。当時はこれが普通であった訳です。
 正直、わずらわしいことはわずらわしいのですが、2008年12月にお亡くなりになった加藤周一さんや、2010年4月に亡くなられた、同じく「九条の会」呼びかけ人であった井上ひさしさんらのまとまった講演動画はほとんどなく、映像ドキュメントに残された動画はとても貴重なものです。
 
 さて、以上の少し長めのまくらの後、今日ご紹介するのは、一昨日の夜(10月26日)、東京の大田区民ホール・アプリコで開かれた前川喜平氏講演会「向かう道は自分で決めよう!」(主催:はじめの一歩実行委員会)です。
 
 前川喜平さんといえば、今年の4月27日、寺脇研さんとともに、青年法律家協会和歌山支部主催の「憲法記念の夕べ」にお招きして講演をお願いしたところ、約1500人の聴衆が詰めかけるという、青法協和歌山支部にとって空前絶後の大成功を収めたことは、このブログでもご紹介したとおりです。
 惜しむらくは、マイクの音量設定レベルが低過ぎたからか、収録された動画の、とりわけ前川さんの発言部分が聴き取りにくいのが残念でした。
 来年1月19日(土)に、同じ会場(和歌山県民文化会館大ホール)での大型企画に小林節さん(慶應義塾大学名誉教授、弁護士)をメインゲストにお招きする予定なのですが、会館のスタッフと、マイクの音量を含めた密接な事前打合せを行う必要があるでしょうね。
 
 一昨日の前川さん講演会については、「なにぬねノンちゃんねる」さん(こちらは第1部の前川さん講演会の映像だけがとりあえずアップされています)と「UPLAN」さん(こちらは第2部、那須りえ大田区議との対談も収録)という2つのYouTubeチャンネルが動画をアップしてくださっていますので、両方ご紹介しておきます。
 第2部は「UPLAN」の方でご覧いただくとして、第1部の前川さん講演部分は「なにぬねノンちゃんねる」を推奨します。とてもクリアに前川さんの発言が収録されていて、引き込まれます。
 
 冒頭では、「教育と規制緩和(という名の私物化)」の悪しき2例、森友学園問題と加計学園問題についての、現時点での前川さんの総括的分析が聴けます。
 その後、本論である「教育と規制緩和構造改革・市場化」について、中曽根内閣以降の政治の流れがどのように教育行政に影響を及ぼしてきたか、短い時間ではありますが、おおまかな見取図が示されます。
 私は、この講演部分を聴いてみて、あらためて、前川さんの文部官僚としてのバックボーンは旧教育基本法にあったのだなということがよく分かりました。
 奇跡的に(?)今でも文部科学省のホームページに「昭和22年教育基本法制定時の条文」として全文が掲載されている旧教育基本法を、動画の後にご紹介しておきます。
 これに目を通された上で前川さんの講演を聴けば、さらに理解が深まることは間違いないでしょう。
 
 なお、前川さんが講演の中で言及されている「臨時教育審議会のパラドックス」については、前川さんが立憲デモクラシー講座の講師として登壇された回を紹介した私のブログをご参照ください(「立憲デモクラシー講座・第Ⅲ期」第6回・前川喜平氏(前文部科学事務次官)「教育改革における「個人」と「国家」~臨時教育審議会のパラドックス~」のご紹介/2018年7月4日)。
 
 それでは、10月26日に行われた前川喜平さんの講演動画をご紹介します。
 
なにぬねノンちゃんねる「20181026 前川喜平さん講演会」(1時間08分)
 
20181026 UPLAN 前川喜平さん講演会第二弾「どこに踏み出すはじめの一歩」&奈須りえさんとの対談(1時間58分)
冒頭~ 岩井京子さん 開会挨拶
3分~ 前川喜平さん 基調講演「向かう道は自分で決めよう!」
1時間11分~ 前川喜平さん・那須りえさん 対談
  
文部科学省ホームページ 教育基本法資料室へようこそ!
昭和22年教育基本法制定時の条文
(引用開始)
昭和二十二年三月三十一日 法律第二十五号
 朕は、枢密顧問の諮詢を経て、帝国議会の協賛を経た教育基本法を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
第一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第二条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
第三条(教育の機会均等) すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
第四条(義務教育) 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。
2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。
第五条(男女共学) 男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない。
第六条(学校教育) 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
第七条(社会教育) 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によつて奨励されなければならない。
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によつて教育の目的の実現に努めなければならない。
第八条(政治教育) 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
第九条(宗教教育) 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
第十条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
第十一条(補則) この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない。
   附則
 この法律は、公布の日から、これを施行する。
-- 登録:平成21年以前 --
(引用終わり)
 
(参考動画)
 昨日の前川喜平氏講演会は、「はじめの一歩 第2弾」と銘打って行われました。その間の事情をイベント情報サイトから引用します。
(引用開始)
 今年4月に開催した「はじめの一歩を踏み出す勇気」講演会、前川喜平さん、寺脇研さん、望月衣塑子さんの大人気お三方をお招きしての講演会は、それはそれは大盛況でした。会場に入れずに泣く泣くお引き取りいただいた方もたくさんいらっしゃいました。
 はじめの一歩第2弾を企画するにあたり、前回のようなことがないように、とにかく広い会場を確保することを念頭におき、その限られた時間で来場者の皆さんに「今日はじっくりと中身の濃い話を聞くことができてよかった」と言っていただけるような企画を立てました。
(引用終わり)
 ということで、2018年4月12日に行われた前川・寺脇・望月講演会の動画もサービスで(?)ご紹介しておきます。ここでも、講演部分だけなら「なにぬねノンちゃんねる」推奨です。
 
なにぬねノンちゃんねる「20180412 前川喜平寺脇研、望月衣塑子講演会」(1時間23分)
冒頭~ 前川喜平さん 講演
32分~ 寺脇 研さん 講演
56分~ 望月衣塑子さん 講演
monbranチャンネル「はじめの一歩踏み出す勇気」#前川喜平#寺脇研#望月衣塑子(2018.4.12)(2時間50分)
冒頭~ 岩井京子さん 開会挨拶
5分~ 前川喜平さん 講演
37分~ 寺脇 研さん 講演
1時間02分~ 望月衣塑子講演 講演
1時間29分~ 前川喜平さん・寺脇 研さん・望月衣塑子さん
 
(弁護士・金原徹雄のブログから/前川喜平氏関連)
2017年6月2日
前川喜平前文部科学事務次官の記者会見&インタビュー動画を視聴する
2017年7月22日
前川喜平前文部科学事務次官の日本記者クラブ記者会見&国会参考人質疑を読む(視聴する)
2017年11月25日
前川喜平寺脇研『これからの日本、これからの教育』(ちくま新書)を読む
2017年12月7日
【日程速報】2018年4月27日・前川喜平氏と寺脇研氏が和歌山で語る(青法協憲法記念の夕べ)&【必見動画】前川喜平氏ロングインタビュー(IWJ)
2018年1月10日
前川喜平さん・寺脇研さんズバリ加計問題を斬る」で「加計問題」を語り、同日「寺脇研トークセッション004」では「教育」を語る(2018年1月8日@岡山市
2018年1月31日
市民連合「あたりまえの政治を取りもどす 1.30シンポジウム」に登壇した前川喜平さん、望月衣塑子さん、寺脇研さん
2018年2月7日
神戸市(1/16)と今治市(2/3)での前川喜平氏講演会の動画を視聴しながら、和歌山市(4/27)での講演会を心配する私
2018年3月8日
前川喜平氏と寺脇研氏が語る「これからの日本 憲法と教育の危機」~青法協和歌山支部憲法を考える夕べ(2018年4月27日)へのお誘い
2018年4月5日
会場が変わりました!前川喜平氏と寺脇研氏が語る「これからの日本 憲法と教育の危機」(2018年4月27日@和歌山県民文化会館大ホール)
2018年4月18日
「これからの日本 憲法と教育の危機(前川喜平氏、寺脇研氏)」4/27@和歌山県民文化会館大ホールのお知らせと前川氏講演動画「憲法とわたし」(4/17)のご紹介
2018年4月22日
市民連合「あたりまえの社会を考えるシンポジウム~貧困・格差の現場から」(2018年4月20日北とぴあ・さくらホール)を視聴する~本田由紀さん、前川喜平さん他
2018年4月28日
前川喜平氏、寺脇研氏、堀内秀雄氏「これからの日本 憲法と教育の危機」(青年法律家協会和歌山支部)に1,500人!~天の時・地の利・人の和
2018年7月4日
「立憲デモクラシー講座・第Ⅲ期」第6回・前川喜平氏(前文部科学事務次官)「教育改革における「個人」と「国家」~臨時教育審議会のパラドックス~」のご紹介