今晩(2016年9月22日)配信した「メルマガ金原No.2577」を転載します。
なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(前編)
毎週金曜日の夕方6時から7時までの1時間、雨の日も、風の日も、雪の日も(―和歌山はあまり雪は降りませんが)、関西電力和歌山支店前の路上で、静かに脱原発をアピールする人々の姿を見ることができます。そして、よほどのことがない限り、その中には必ず西郷章さんの姿があります。
また、「憲法を生かす会 和歌山」として、来る10月22日(土)には、和歌山市中央コミセンのキャパ200名の会場で「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」と題した講演会(講師は何と私!)を主催したり(開催予告10/22「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」(講師:金原徹雄弁護士)@和歌山市中央コミセン/2016年9月4日)、11月12日(土)には、ソプラノ歌手・前田佳世さんの和歌山市での初めてのコンサートを企画したりと、少しもじっとしていられない(?)活躍ぶりです。
その活動ぶりについては、西郷さんご自身のFacebookで活発に発信しておられますが、西郷さんがFacebookを始められるまでの間は、しばしば「メルマガ金原」に寄稿していただいていました。それが、だいたい2011年から2012年にかけての時期だったでしょうか。その頃の西郷さんの文章は、その後、私の最初のブログ(wakaben6888のブログ)に転載しています(巻末にリンクしておきます)。
その後、西郷さんはすぐさまFacebookに習熟し(動画投稿もお手のもの)、普段の情報発信はもっぱらFacebookを通じて行っておられます。
けれども、2013年以降も、ほぼ年に1本の割合で、気合いの入った長文の原稿を執筆して「メルマガ金原」(及びブログにも転載)に寄稿してくださっています。以下のとおり。
毎週金曜日の夕方6時から7時までの1時間、雨の日も、風の日も、雪の日も(―和歌山はあまり雪は降りませんが)、関西電力和歌山支店前の路上で、静かに脱原発をアピールする人々の姿を見ることができます。そして、よほどのことがない限り、その中には必ず西郷章さんの姿があります。
また、「憲法を生かす会 和歌山」として、来る10月22日(土)には、和歌山市中央コミセンのキャパ200名の会場で「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」と題した講演会(講師は何と私!)を主催したり(開催予告10/22「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」(講師:金原徹雄弁護士)@和歌山市中央コミセン/2016年9月4日)、11月12日(土)には、ソプラノ歌手・前田佳世さんの和歌山市での初めてのコンサートを企画したりと、少しもじっとしていられない(?)活躍ぶりです。
その活動ぶりについては、西郷さんご自身のFacebookで活発に発信しておられますが、西郷さんがFacebookを始められるまでの間は、しばしば「メルマガ金原」に寄稿していただいていました。それが、だいたい2011年から2012年にかけての時期だったでしょうか。その頃の西郷さんの文章は、その後、私の最初のブログ(wakaben6888のブログ)に転載しています(巻末にリンクしておきます)。
その後、西郷さんはすぐさまFacebookに習熟し(動画投稿もお手のもの)、普段の情報発信はもっぱらFacebookを通じて行っておられます。
けれども、2013年以降も、ほぼ年に1本の割合で、気合いの入った長文の原稿を執筆して「メルマガ金原」(及びブログにも転載)に寄稿してくださっています。以下のとおり。
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる
※追悼特集の一部として西郷さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』を掲載。
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる
※追悼特集の一部として西郷さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』を掲載。
「ほぼ年に1本の割合で」と書きましたが、今年に入ってから執筆意欲が非常に高まったのか、かねて西郷さんから「書きたいと思っています」と予告されていた『ドジョウスクイ半生記』が遂に完成し、今年3本目の原稿として掲載できる運びとなりました。
西郷さんの得意芸である「ドジョウスクイ」については、西郷さん自身が書かれた上記「3.11反原発福島行動’14」参加記を読んだり、また、折にふれて和歌山のイベントでドジョウスクイを披露された様子を直接見たり、私がレポートした文章を読まれた方も少なくないかもしれません。
その見本(?)として、「3.11反原発福島行動’14」の2日前の3月9日、和歌山城西の丸広場で開かれた「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」に出演された西郷章さんのステージ写真を掲載した私のブログをご紹介しておきます(「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」を開催しました)。
その見本(?)として、「3.11反原発福島行動’14」の2日前の3月9日、和歌山城西の丸広場で開かれた「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」に出演された西郷章さんのステージ写真を掲載した私のブログをご紹介しておきます(「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」を開催しました)。
けれども、これからご紹介する『ドジョウスクイ半生記』は、西郷さんがまずドジョウスクイを見習ったお父さんの話から始まり、競技カルタの天才と謳われた甥御さんや、満蒙開拓団の一員として満州に渡った奥様のお父様、そして中国残留孤児として取り残され、その後家族との再会を果たして帰国された奥様のお姉様やその家族のお話、さらに、最近の親友との別れまで、ドジョウスクイを通じて自分と周囲の人々との交流を振り返る本格的な自伝となっており、いままで以上に読み応えがあります。それに応じて分量もかなりのものとなりましたので、前編・中編・後編の3回分載とさせていただくことにしました。
前編の今回は、大分県臼杵(うすき)市で漁師として働き、その後、家族で海運業を営んだお父様を中心としたお話と、西郷さんが住友金属和歌山製鉄所で働くようになってから結婚された奥様のお父様や、中国に残されたお姉様のお話が中心で、そこにドジョウスクイのお話も散りばめられています。何しろ、奥様のお姉様と会うために中国を訪問した際の北京空港での別れの宴席で、「初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになった」というのですから。
前編の今回は、大分県臼杵(うすき)市で漁師として働き、その後、家族で海運業を営んだお父様を中心としたお話と、西郷さんが住友金属和歌山製鉄所で働くようになってから結婚された奥様のお父様や、中国に残されたお姉様のお話が中心で、そこにドジョウスクイのお話も散りばめられています。何しろ、奥様のお姉様と会うために中国を訪問した際の北京空港での別れの宴席で、「初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになった」というのですから。
ドジョウスクイ半生記(前編)
西 郷 章
はじめに
私がドジョウスクイを覚えたのは、父親(西郷市松)の影響によるものでした(以下、ドジョウスクイにまつわる話ですから父親のことはオヤジと書かせていただきます)。私は終戦直後の昭和21年生まれです。私が物心つく頃の我が家の生計は、オヤジの遠洋漁業の雇われ船員としての収入によって支えられていました。遠洋漁業は「突き棒船」という臼杵市(うすきし/大分県)独自のカジキマグロを追う大変珍しい原始的な漁獲法ですので、歴史的な経緯も含めてあとで紹介したいと思います。
オヤジがどこでドジョウスクイを覚えたのか、軍隊の時に覚えたのか、あるいは戦後漁師に復職してから覚えたのか知りませんが、軍隊では下関か門司だったか、大砲部隊の鬼軍曹の教官として恐れられ、軍国主義思想で凝り固まったクソまじめな人間だったオヤジが、なんであんな面白い踊りが踊れるのか、私は子供心にも不思議に思えてなりませんでした。 そして、私がドジョウスクイを覚えようと決めたのは、29歳で結婚をして、三男が中学校に入る1~2年前の48歳のころでした。オヤジから見覚えた踊りは面白いのですが、あくまでもローカル的で、親しい仲間内ではよく踊っていても、どうしても品格に欠けますので、どこでも踊れるというわけにはいきません。私は、きちんとした踊りを覚えたいと思い、わざわざドジョスクイの本場の安来市(やすぎし/島根県)観光課に問い合わせてみました。すると宇田川さんという名人の踊りのビデオテープや、安来節の道具一式5万円を紹介してくれたのです。それ以来、私のドジョウスクイは、どこでも安心して踊れるものとなり、様々な場所で踊ることになりました。ここでは、その中の思い出深い2~3の踊りとその背景についてご紹介したいと思います。
(金原注)写真は、1975年ころ、息子(西郷章さんの弟さん)の結婚式でドジョウスクイを踊る西郷市松さん。西郷章さんが、お父さんの踊る姿を見たのはこれが最後だったとか。
私がドジョウスクイを覚えたのは、父親(西郷市松)の影響によるものでした(以下、ドジョウスクイにまつわる話ですから父親のことはオヤジと書かせていただきます)。私は終戦直後の昭和21年生まれです。私が物心つく頃の我が家の生計は、オヤジの遠洋漁業の雇われ船員としての収入によって支えられていました。遠洋漁業は「突き棒船」という臼杵市(うすきし/大分県)独自のカジキマグロを追う大変珍しい原始的な漁獲法ですので、歴史的な経緯も含めてあとで紹介したいと思います。
オヤジがどこでドジョウスクイを覚えたのか、軍隊の時に覚えたのか、あるいは戦後漁師に復職してから覚えたのか知りませんが、軍隊では下関か門司だったか、大砲部隊の鬼軍曹の教官として恐れられ、軍国主義思想で凝り固まったクソまじめな人間だったオヤジが、なんであんな面白い踊りが踊れるのか、私は子供心にも不思議に思えてなりませんでした。 そして、私がドジョウスクイを覚えようと決めたのは、29歳で結婚をして、三男が中学校に入る1~2年前の48歳のころでした。オヤジから見覚えた踊りは面白いのですが、あくまでもローカル的で、親しい仲間内ではよく踊っていても、どうしても品格に欠けますので、どこでも踊れるというわけにはいきません。私は、きちんとした踊りを覚えたいと思い、わざわざドジョスクイの本場の安来市(やすぎし/島根県)観光課に問い合わせてみました。すると宇田川さんという名人の踊りのビデオテープや、安来節の道具一式5万円を紹介してくれたのです。それ以来、私のドジョウスクイは、どこでも安心して踊れるものとなり、様々な場所で踊ることになりました。ここでは、その中の思い出深い2~3の踊りとその背景についてご紹介したいと思います。
(金原注)写真は、1975年ころ、息子(西郷章さんの弟さん)の結婚式でドジョウスクイを踊る西郷市松さん。西郷章さんが、お父さんの踊る姿を見たのはこれが最後だったとか。
一時代に繁栄した「突き棒船」とは
ドジョウスクイを踊った特徴的な場面を紹介する前に、前置きしました「突き棒船」と当時の私の家庭事情についての話をしたいと思います。
突き棒船は、「突きんぼ船」とか「突き船」とも言われ、海面に浮上するカジキを手投げモリ(樫の木で作った丸棒で、長さ5メートルくらいの先端に3本の矢じりのついたもの)で仕留める勇壮な漁法で、原始的漁獲法と言われていました。船の先端(棚)に構える突き方(矢じりをカジキに突き刺す者で一番方と二番方が構えていたと思います)や、マストの上でカジキを見つけて機関長や突き方に合図をする者が中心となり操業します。この漁法の由来は、明治3~4年のころから大分県の豊後水道一帯で、私の部落の板知屋(いたちや)などが中心となって始められたもので、その頃は当然エンジンなどはなく、櫓櫂(ろかい)や帆立てが動力源でした。その後、臼杵市・中津浦の板井五三郎がカジキマグロを樫棒の先につけたモリで突く「突きん棒」漁法を編み出し、やがて明治末期から大正初期にかけて帆船による突きん棒漁業が発達します。大正10年ころからは、動力源が内燃機関(焼き玉エンジン)に代わったために操業範囲も飛躍的に広範になり、夏から春にかけて長崎県沿岸から朝鮮近海まで出漁し、春からは豊後水道で操業しました。昭和10年ころからは、宮崎県油津沖合から北海道・三陸沖合までの漁場に出漁し、さらに広範囲に出かけるようになりましたが、第2次世界大戦でいったん壊滅してしまいました。 その後は、戦後復興とともに漁船は大型化し、乗組員も一船が十数人規模になり、私が中学に入るころ最盛期を迎え、30トン~50トン級の船が私の部落を中心に60隻くらいに増えました。しかし、北陸あたりの仕掛け網による大型大量漁獲法が取り入れられるようになると、原始的な突き棒船は急速に自然消滅へと追いやられ、昭和52年にはついに全滅してしまいました。
ドジョウスクイを踊った特徴的な場面を紹介する前に、前置きしました「突き棒船」と当時の私の家庭事情についての話をしたいと思います。
突き棒船は、「突きんぼ船」とか「突き船」とも言われ、海面に浮上するカジキを手投げモリ(樫の木で作った丸棒で、長さ5メートルくらいの先端に3本の矢じりのついたもの)で仕留める勇壮な漁法で、原始的漁獲法と言われていました。船の先端(棚)に構える突き方(矢じりをカジキに突き刺す者で一番方と二番方が構えていたと思います)や、マストの上でカジキを見つけて機関長や突き方に合図をする者が中心となり操業します。この漁法の由来は、明治3~4年のころから大分県の豊後水道一帯で、私の部落の板知屋(いたちや)などが中心となって始められたもので、その頃は当然エンジンなどはなく、櫓櫂(ろかい)や帆立てが動力源でした。その後、臼杵市・中津浦の板井五三郎がカジキマグロを樫棒の先につけたモリで突く「突きん棒」漁法を編み出し、やがて明治末期から大正初期にかけて帆船による突きん棒漁業が発達します。大正10年ころからは、動力源が内燃機関(焼き玉エンジン)に代わったために操業範囲も飛躍的に広範になり、夏から春にかけて長崎県沿岸から朝鮮近海まで出漁し、春からは豊後水道で操業しました。昭和10年ころからは、宮崎県油津沖合から北海道・三陸沖合までの漁場に出漁し、さらに広範囲に出かけるようになりましたが、第2次世界大戦でいったん壊滅してしまいました。 その後は、戦後復興とともに漁船は大型化し、乗組員も一船が十数人規模になり、私が中学に入るころ最盛期を迎え、30トン~50トン級の船が私の部落を中心に60隻くらいに増えました。しかし、北陸あたりの仕掛け網による大型大量漁獲法が取り入れられるようになると、原始的な突き棒船は急速に自然消滅へと追いやられ、昭和52年にはついに全滅してしまいました。
先を見越して運搬船に乗ったオヤジ
オヤジは、私が中学生のころ(突き船の最盛期のころ)には既に先を見越して突き船から降りて、義兄弟の持つ貨物船で生計を立てるようになり、その船も幾年もしない間に降りて、自分で運搬船を持つようになりました。けれども、貧乏人が借金をして持てる船は、中古の木造船が関の山でした。仕事も決して楽ではなく、積み荷は四国の多度津などから西大分へ土管を運ぶ仕事で、その土管の積み降ろしは、私も中学の夏休みや冬休みの時に経験しましたが、1本1本手渡し作業による過酷なものでした。しかし、会社のように命令されて仕事をする訳ではなく、1本1本の手作業をやればやるほど必ず自分の利益になるのがせめてもの救いでした。
この家業のために、臼杵の水産高校を出て、北九州の若築建設(現・東証1部上場)に就職していた5つ上の兄貴が呼び戻され、また私より4つ下の名古屋のグンゼで働いていた三男も呼び戻され、やがて四男もという具合に、私を除いては男の子は3人とも船乗り稼業で生計を立てるようになりました。子供たちが、いやいやながらも割にすんなりと親の意思に従ったのは、家父長制の名残によって、子供というものは親の言うことに従うものだという育て方に影響された点が多分にあったと思います。私だけが会社勤めをしたのは、船に酔いやすいという体質的な弱点があったからかもしれませんが、男の子は1人くらいは陸(おか)働きをさせておかないと、船乗りの身に何かあった時に家が行き詰まってしまうからという、これも親の意思が多少なりとも働いていたようなことをオヤジに聞いたように記憶しています。
運搬船の事業もだんだんと軌道に乗ってくると、もう少し儲かる取引先として大阪まで足を延ばすようになりました。大阪からの積み荷は、チリ紙やトイレットペーパーなどの原料となる雑誌やボロ紙でした。それを大分の製紙会社に納入するために、西大分港の荷役場まで運ぶのです。西大分港の思い出は、まだ土管しか運んでいなかった中学生のころのことしか覚えていませんが、冬休みの時に手伝いに行って、夕方仕事が終わると寒い町中に行き、そこで入った銭湯が暖かくて気持ちが良かったこと、また、ご褒美にジャンバーを買ってもらったのはいいが、生地がビニールのようなものでできているために、ひどく蒸れて、さすがの着るもののない私でも不快な思いをしたことが思い出されます。また、その後の大阪の荷役場は、大正区の川沿いにあり、当時、私は和歌山の住金(現・新日鉄住金)に入社して間もないころでしたので、時々は船着き場まで親兄弟に会いに行きました。今でも大正区の川沿いが懐かしいのはそのためです。
オヤジは、私が中学生のころ(突き船の最盛期のころ)には既に先を見越して突き船から降りて、義兄弟の持つ貨物船で生計を立てるようになり、その船も幾年もしない間に降りて、自分で運搬船を持つようになりました。けれども、貧乏人が借金をして持てる船は、中古の木造船が関の山でした。仕事も決して楽ではなく、積み荷は四国の多度津などから西大分へ土管を運ぶ仕事で、その土管の積み降ろしは、私も中学の夏休みや冬休みの時に経験しましたが、1本1本手渡し作業による過酷なものでした。しかし、会社のように命令されて仕事をする訳ではなく、1本1本の手作業をやればやるほど必ず自分の利益になるのがせめてもの救いでした。
この家業のために、臼杵の水産高校を出て、北九州の若築建設(現・東証1部上場)に就職していた5つ上の兄貴が呼び戻され、また私より4つ下の名古屋のグンゼで働いていた三男も呼び戻され、やがて四男もという具合に、私を除いては男の子は3人とも船乗り稼業で生計を立てるようになりました。子供たちが、いやいやながらも割にすんなりと親の意思に従ったのは、家父長制の名残によって、子供というものは親の言うことに従うものだという育て方に影響された点が多分にあったと思います。私だけが会社勤めをしたのは、船に酔いやすいという体質的な弱点があったからかもしれませんが、男の子は1人くらいは陸(おか)働きをさせておかないと、船乗りの身に何かあった時に家が行き詰まってしまうからという、これも親の意思が多少なりとも働いていたようなことをオヤジに聞いたように記憶しています。
運搬船の事業もだんだんと軌道に乗ってくると、もう少し儲かる取引先として大阪まで足を延ばすようになりました。大阪からの積み荷は、チリ紙やトイレットペーパーなどの原料となる雑誌やボロ紙でした。それを大分の製紙会社に納入するために、西大分港の荷役場まで運ぶのです。西大分港の思い出は、まだ土管しか運んでいなかった中学生のころのことしか覚えていませんが、冬休みの時に手伝いに行って、夕方仕事が終わると寒い町中に行き、そこで入った銭湯が暖かくて気持ちが良かったこと、また、ご褒美にジャンバーを買ってもらったのはいいが、生地がビニールのようなものでできているために、ひどく蒸れて、さすがの着るもののない私でも不快な思いをしたことが思い出されます。また、その後の大阪の荷役場は、大正区の川沿いにあり、当時、私は和歌山の住金(現・新日鉄住金)に入社して間もないころでしたので、時々は船着き場まで親兄弟に会いに行きました。今でも大正区の川沿いが懐かしいのはそのためです。
大黒様・恵比寿さんになったオヤジ
しかし、長年の運搬船事業も止めるかどうかの転機が訪れてきました。船の痛みもひどくなり、新しい船を買うにも相当な借金をしなければならず、それで採算がとれるのか、など考えた後に廃業することになりました。
ところがその時に、思いもよらぬ福の神が舞い込んできたのです。船は処分しなければなりませんが、解体料こそ取られても古すぎる船自体は三文の値打ちもありません。だが、時はバブルの絶頂期で、関西空港建設のために海上の埋立てが盛んにおこなわれており、埋立てには多くの船が必要でした。船には権利があり、船を持つためにはその船の大きさ相応の権利を買わなければなりません。オヤジの船には権利という価値があったのです。その当時、ゴルフの会員権に法外な値段が付いたように、オヤジの船も貧乏人にとっては驚くほどの値段が付いたのです。かつて村一番の貧乏人と言われてもおかしくなかった両親は、たちまち金持ちになり、まさに大黒さんが舞い込んだような身分になりました。
母親は、生前にその当時のことを振り返って「儲けた金には毎月利子だけでも相当額付いててきた」と言っていました。その余裕から、私が帰省すると必ず、少額でも小遣いをくれており、それは私が50歳近くになるまで続いたと思います。私は「いい年をして小遣いをもらうなどは恥ずかしいから止めてくれ」と言いながら貰っていたのを憶えています。
オヤジは、船を売る何年か前から家業は子供たちに任せ、自分は隠居しながら小型漁船で好きな魚釣りをしていましたが、思わぬ金を手にしたことで、その一部を使い、村で一番速い船を新造しました。その漁師としての姿は、誰よりも遅く出漁し、だれよりも早く帰港して、誰よりも多くアジを釣る、アジ釣りの名人「市ちゃん」として釣り仲間に頼られる存在でした。私は、人一倍アジを釣るその秘訣をオヤジに聞いたところ、「どんなエサにアジが良く食いつくかエサのことをいつも考え研究している」と教えられましたので、私の生活にもこれを応用して、「人と仲良くしたり、人に好かれるには良いエサを撒くことが肝心だ」と考えてこれを実行するようになりました。そのおかげで、思想信条の違いは別としても、少なくとも人様にはあまり嫌われることはなかったのではないかと思っています。
さて、オヤジの釣った魚は網カゴの生けすに入れられて市場にもって行くまで生かされます。ある時、私は生けすにあるアジ、イカ、イサギ、サバ、タイを刺身にしてもらって食べ比べたことがありますが、その中で一番うまかったのはサバでした。サバは、関サバ(臼杵湾を出た半島の近海で捕れるサバ)も他のところで捕れるものも美味しさはあまり変わらないとオヤジは言っていました。
子や孫が遊びに来れば、生の魚をどっさりと食わせてくれ、喜ばれるオヤジは正に大漁の神さん、恵比寿さんのような存在でした。その親父も、とっくに亡くなり、母親も金に不自由することなく老人センターなどを利用して、天寿を全うしました。その後、兄弟たちは別々に雇われ船員としての船乗り生活を経て、今では皆んな良い年になり、年金生活者として暮らしています。
私は家業を手伝った訳ではありませんから、大黒様(金を儲けたオヤジ)の恩恵は少ししかありませんでしたが、その分、恵比寿様(魚釣り名人のオヤジ)の釣った魚は帰省した時には存分に食べさせてもらい、「ドジョウスクイ」と「魚を釣るにはいいエサ」の秘伝を教わり、今もそれを実践していますので、これはいい財産をもらったと思っています。
(金原注)写真は、1995年ころ、西郷市松さん自慢の“快速船”に乗って喜ぶお孫さんたち。
初めての中国でドジョウスクイを踊る
私たち夫婦は3人の、それぞれが3つ違いの男の子に恵まれました。一番下の子が3歳の時、満蒙開拓団の一員として満州に渡っていた義父の長女で、敗戦の混乱の中、生き別れて残留孤児となった妻の姉の身元がようやく分かり、和歌山在住の姉の家族ともども総勢10名で再会のために中国に行くことになりました。中国の行き先は東北部の瀋陽市(旧・満州奉天市)です。上海から国内線で北京を経由して東北行きの飛行機に乗り換えるのですが、北京市内はこのころ(1985年)から道路も整備され、3~4車線の車道の他に同じような幅の自転車道と歩道が建設されていました。そして、初めての中国訪問ですから、名所見物も兼ねて、魯迅の活躍した場所や、最後の女帝の別荘や紫金城、万里の長城なども見物しながら瀋陽へと向かいました。瀋陽の姉の家につきますと、まず義父に代わり、私から、中国の養父に対し、長年我が子同然に可愛がり、育ててくれたご恩へのお礼と感謝の言葉を述べ、姉と再会することになりました。しかし、物心つく頃に親子は離散しましたから、言葉は通じません。あまり言葉を交わすことなく、互いの手を握りしめて姉は涙を流し、顔を見つめ合っているだけですが、義父は離散した当時に思いをはせていたことでしょう。
離散した当時、和歌山県御坊市から娘を連れて先妻とともに満蒙開拓団員として入植した義父は広い土地を与えられたそうです。しかし、義父の遺品の中には、最下級の兵隊の位が書かれた身分票がありましたから、実際は満鉄沿線の警備を兼ねた食糧生産兵の役割をさせられていたのかもしれません。開拓団は入植した当初から軍のために苦しい生活を強いら、そして敗戦間際には、鍬(くわ)しか持ったことのない手に銃を持たされ、戦場と化した田畑、荒野を逃げ回ったのです。その後は、お定まりのソ連軍の捕虜となり、夫婦・親子はチリジリとになります。捕虜のシベリアでの生活は過酷なもので、1日に何百グラムのパンしか配給されずに飢えと寒さに耐えきれずに死んでいくものも多くいたそうです(その当時はソ連も食糧危機で自国民にすら十分に食料を供給できなかったと聞く)。そのような過酷な受難を生き抜いた義父は、4年前後の捕虜生活から解放されて運よく帰国できたのです。ついでに付け加えますと、義父が生前、私たちと一緒に暮らした和歌山では、近所に同じ境遇(ソ連の捕虜)を生き抜いてきたクニちゃんというオジサンがいて、2人は意気投合して、昼間からでもよく酒を飲んでいました。その義父は真冬でも素足の生活が平気でした。
さて、中国の姉さんと再会した私たちは、3日ほど近くの公団住宅に泊まることになりました。そして、その間は親戚筋の料理の得意な人が食事を作ってくれました。日本とは当然生活習慣の違う中国のサラリ-マンの集合住宅での生活は、まず給水制限があり、朝の数時間と昼休み時間と夕食時しか水道が使えません、中国の家庭は夫婦共働きが普通で、仕事場での昼休みは2時間あるため、自宅に帰って昼食をとり、昼寝をするのだそうです。私たちが訪れた時期は真夏で、瀋陽は湿度が高く、私たちが「風呂に入りたい」と言うと、住宅街の一角にある小さな風呂場に案内され、洋式の狭い風呂で水浴びをする程度の入浴しかできませんでした。何も知らない私たちは、湿度が高く気持ちが悪いので、毎日風呂を使いましたが、現地の人たちは、何万人住んでいるかわからない広い団地での風呂は共用で数も少なく、市民はみな毎日風呂に入る習慣はなかったのではないかと後で気が付きました。
瀋陽では、姉や義兄弟、親戚とようやく打ち解けたころには、お別れをしなければなりませんでした。姉さん夫婦とその子供たちが北京空港まで同伴してくれました。そして、北京空港での別れの宴席で、私は初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになったのです。道具は食卓にあるお皿だけです。それを持つと義父が♪やすき~めいぶつ~♪と歌いだし、その歌に合わせてゆっくりと皿を両手にもってドジョウを救う真似をして踊るのです。そして時折、♪アラ、エッサッサ~♪の掛け声の時には皿を頭の上に乗せる格好で片足を上げて1回転するのです。こんな、たわいない踊りでしたが、中国の兄弟は大喜びでした。少し大げさですが、私はこの経験から、ドジョウスクイは世界でも通用すると実感しました。しかし、いまだに世界の檜(ひのき)舞台で踊ったことは一度もありません。
さて、すっかり気を良くした私は、茅台酒(マオタイ酒)を飲みすぎて前後不覚となり、いつ飛行機に乗ったのやらわかりません。気が付くと機内は騒然としており、飛行機はよく揺れているのです。そして、その揺れは羽田空港近くまで続いたと思います。しかし最後に無事に着陸した時には、乗客は一斉に拍手を交わして喜び合いました。なぜそんなに感情的になったかと言いますと、この頃は丁度、御巣鷹山の日本航空機墜落事故があって1週間もしない時でしたから、激しい揺れで御巣鷹山事故を連想し、恐怖心がわき、パニック寸前のさわぎになったのだと思います。私は、今まで飛行機には10回くらいしか乗っていませんが、揺れたからといって大騒ぎしたのは、後にも先にもこの時だけです。
そのような出来事からしばらくして、中国の姉さんは夫婦で帰国し、その子供たち(2人の娘さん)も日本で一緒に住むようになり、それから 早くも30年近くが経ちました。姉さんたちは、和歌山の私たちの近くで貧しいながらも幸せに暮らしており、上の娘さん(私の妻の姪)夫婦は、中華料理店で細々と身を立てて暮らしています。
※(金原注)西郷さんの奥様の姪御さん夫婦が営んでおられる中華料理店には、西郷さんに連れられて私も何度かおじゃましましたが、とても美味しい料理がリーズナブルな値段で食べられる大衆的なお店でした。
(中編に続く)
しかし、長年の運搬船事業も止めるかどうかの転機が訪れてきました。船の痛みもひどくなり、新しい船を買うにも相当な借金をしなければならず、それで採算がとれるのか、など考えた後に廃業することになりました。
ところがその時に、思いもよらぬ福の神が舞い込んできたのです。船は処分しなければなりませんが、解体料こそ取られても古すぎる船自体は三文の値打ちもありません。だが、時はバブルの絶頂期で、関西空港建設のために海上の埋立てが盛んにおこなわれており、埋立てには多くの船が必要でした。船には権利があり、船を持つためにはその船の大きさ相応の権利を買わなければなりません。オヤジの船には権利という価値があったのです。その当時、ゴルフの会員権に法外な値段が付いたように、オヤジの船も貧乏人にとっては驚くほどの値段が付いたのです。かつて村一番の貧乏人と言われてもおかしくなかった両親は、たちまち金持ちになり、まさに大黒さんが舞い込んだような身分になりました。
母親は、生前にその当時のことを振り返って「儲けた金には毎月利子だけでも相当額付いててきた」と言っていました。その余裕から、私が帰省すると必ず、少額でも小遣いをくれており、それは私が50歳近くになるまで続いたと思います。私は「いい年をして小遣いをもらうなどは恥ずかしいから止めてくれ」と言いながら貰っていたのを憶えています。
オヤジは、船を売る何年か前から家業は子供たちに任せ、自分は隠居しながら小型漁船で好きな魚釣りをしていましたが、思わぬ金を手にしたことで、その一部を使い、村で一番速い船を新造しました。その漁師としての姿は、誰よりも遅く出漁し、だれよりも早く帰港して、誰よりも多くアジを釣る、アジ釣りの名人「市ちゃん」として釣り仲間に頼られる存在でした。私は、人一倍アジを釣るその秘訣をオヤジに聞いたところ、「どんなエサにアジが良く食いつくかエサのことをいつも考え研究している」と教えられましたので、私の生活にもこれを応用して、「人と仲良くしたり、人に好かれるには良いエサを撒くことが肝心だ」と考えてこれを実行するようになりました。そのおかげで、思想信条の違いは別としても、少なくとも人様にはあまり嫌われることはなかったのではないかと思っています。
さて、オヤジの釣った魚は網カゴの生けすに入れられて市場にもって行くまで生かされます。ある時、私は生けすにあるアジ、イカ、イサギ、サバ、タイを刺身にしてもらって食べ比べたことがありますが、その中で一番うまかったのはサバでした。サバは、関サバ(臼杵湾を出た半島の近海で捕れるサバ)も他のところで捕れるものも美味しさはあまり変わらないとオヤジは言っていました。
子や孫が遊びに来れば、生の魚をどっさりと食わせてくれ、喜ばれるオヤジは正に大漁の神さん、恵比寿さんのような存在でした。その親父も、とっくに亡くなり、母親も金に不自由することなく老人センターなどを利用して、天寿を全うしました。その後、兄弟たちは別々に雇われ船員としての船乗り生活を経て、今では皆んな良い年になり、年金生活者として暮らしています。
私は家業を手伝った訳ではありませんから、大黒様(金を儲けたオヤジ)の恩恵は少ししかありませんでしたが、その分、恵比寿様(魚釣り名人のオヤジ)の釣った魚は帰省した時には存分に食べさせてもらい、「ドジョウスクイ」と「魚を釣るにはいいエサ」の秘伝を教わり、今もそれを実践していますので、これはいい財産をもらったと思っています。
(金原注)写真は、1995年ころ、西郷市松さん自慢の“快速船”に乗って喜ぶお孫さんたち。
初めての中国でドジョウスクイを踊る
私たち夫婦は3人の、それぞれが3つ違いの男の子に恵まれました。一番下の子が3歳の時、満蒙開拓団の一員として満州に渡っていた義父の長女で、敗戦の混乱の中、生き別れて残留孤児となった妻の姉の身元がようやく分かり、和歌山在住の姉の家族ともども総勢10名で再会のために中国に行くことになりました。中国の行き先は東北部の瀋陽市(旧・満州奉天市)です。上海から国内線で北京を経由して東北行きの飛行機に乗り換えるのですが、北京市内はこのころ(1985年)から道路も整備され、3~4車線の車道の他に同じような幅の自転車道と歩道が建設されていました。そして、初めての中国訪問ですから、名所見物も兼ねて、魯迅の活躍した場所や、最後の女帝の別荘や紫金城、万里の長城なども見物しながら瀋陽へと向かいました。瀋陽の姉の家につきますと、まず義父に代わり、私から、中国の養父に対し、長年我が子同然に可愛がり、育ててくれたご恩へのお礼と感謝の言葉を述べ、姉と再会することになりました。しかし、物心つく頃に親子は離散しましたから、言葉は通じません。あまり言葉を交わすことなく、互いの手を握りしめて姉は涙を流し、顔を見つめ合っているだけですが、義父は離散した当時に思いをはせていたことでしょう。
離散した当時、和歌山県御坊市から娘を連れて先妻とともに満蒙開拓団員として入植した義父は広い土地を与えられたそうです。しかし、義父の遺品の中には、最下級の兵隊の位が書かれた身分票がありましたから、実際は満鉄沿線の警備を兼ねた食糧生産兵の役割をさせられていたのかもしれません。開拓団は入植した当初から軍のために苦しい生活を強いら、そして敗戦間際には、鍬(くわ)しか持ったことのない手に銃を持たされ、戦場と化した田畑、荒野を逃げ回ったのです。その後は、お定まりのソ連軍の捕虜となり、夫婦・親子はチリジリとになります。捕虜のシベリアでの生活は過酷なもので、1日に何百グラムのパンしか配給されずに飢えと寒さに耐えきれずに死んでいくものも多くいたそうです(その当時はソ連も食糧危機で自国民にすら十分に食料を供給できなかったと聞く)。そのような過酷な受難を生き抜いた義父は、4年前後の捕虜生活から解放されて運よく帰国できたのです。ついでに付け加えますと、義父が生前、私たちと一緒に暮らした和歌山では、近所に同じ境遇(ソ連の捕虜)を生き抜いてきたクニちゃんというオジサンがいて、2人は意気投合して、昼間からでもよく酒を飲んでいました。その義父は真冬でも素足の生活が平気でした。
さて、中国の姉さんと再会した私たちは、3日ほど近くの公団住宅に泊まることになりました。そして、その間は親戚筋の料理の得意な人が食事を作ってくれました。日本とは当然生活習慣の違う中国のサラリ-マンの集合住宅での生活は、まず給水制限があり、朝の数時間と昼休み時間と夕食時しか水道が使えません、中国の家庭は夫婦共働きが普通で、仕事場での昼休みは2時間あるため、自宅に帰って昼食をとり、昼寝をするのだそうです。私たちが訪れた時期は真夏で、瀋陽は湿度が高く、私たちが「風呂に入りたい」と言うと、住宅街の一角にある小さな風呂場に案内され、洋式の狭い風呂で水浴びをする程度の入浴しかできませんでした。何も知らない私たちは、湿度が高く気持ちが悪いので、毎日風呂を使いましたが、現地の人たちは、何万人住んでいるかわからない広い団地での風呂は共用で数も少なく、市民はみな毎日風呂に入る習慣はなかったのではないかと後で気が付きました。
瀋陽では、姉や義兄弟、親戚とようやく打ち解けたころには、お別れをしなければなりませんでした。姉さん夫婦とその子供たちが北京空港まで同伴してくれました。そして、北京空港での別れの宴席で、私は初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになったのです。道具は食卓にあるお皿だけです。それを持つと義父が♪やすき~めいぶつ~♪と歌いだし、その歌に合わせてゆっくりと皿を両手にもってドジョウを救う真似をして踊るのです。そして時折、♪アラ、エッサッサ~♪の掛け声の時には皿を頭の上に乗せる格好で片足を上げて1回転するのです。こんな、たわいない踊りでしたが、中国の兄弟は大喜びでした。少し大げさですが、私はこの経験から、ドジョウスクイは世界でも通用すると実感しました。しかし、いまだに世界の檜(ひのき)舞台で踊ったことは一度もありません。
さて、すっかり気を良くした私は、茅台酒(マオタイ酒)を飲みすぎて前後不覚となり、いつ飛行機に乗ったのやらわかりません。気が付くと機内は騒然としており、飛行機はよく揺れているのです。そして、その揺れは羽田空港近くまで続いたと思います。しかし最後に無事に着陸した時には、乗客は一斉に拍手を交わして喜び合いました。なぜそんなに感情的になったかと言いますと、この頃は丁度、御巣鷹山の日本航空機墜落事故があって1週間もしない時でしたから、激しい揺れで御巣鷹山事故を連想し、恐怖心がわき、パニック寸前のさわぎになったのだと思います。私は、今まで飛行機には10回くらいしか乗っていませんが、揺れたからといって大騒ぎしたのは、後にも先にもこの時だけです。
そのような出来事からしばらくして、中国の姉さんは夫婦で帰国し、その子供たち(2人の娘さん)も日本で一緒に住むようになり、それから 早くも30年近くが経ちました。姉さんたちは、和歌山の私たちの近くで貧しいながらも幸せに暮らしており、上の娘さん(私の妻の姪)夫婦は、中華料理店で細々と身を立てて暮らしています。
※(金原注)西郷さんの奥様の姪御さん夫婦が営んでおられる中華料理店には、西郷さんに連れられて私も何度かおじゃましましたが、とても美味しい料理がリーズナブルな値段で食べられる大衆的なお店でした。
(中編に続く)
(「メルマガ金原」から「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)
2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)
2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)
2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)
2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)
2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)
2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』
(「メルマガ金原」から「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる
※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる
※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。