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鈴木静枝さん(『女から女への遺言状』語り手)の近況について

 「メルマガ金原」アーカイブス・シリーズとして、2012年6月2日配信のNo.965「鈴木静枝さん(『女から女への遺言状』語り手)の近況について」をお送りします。日高町での原発建設阻止運動に関わった鈴木静枝さんの講演録『女から女への遺言状』(1993年)をあらためてご紹介するとともに、鈴木さんの近況を伝える松浦雅代さん(和歌山市「原発がこわい女たちの会」)の文章をご紹介したものです。
 
鈴木静枝さん(『女から女への遺言状』語り手)の近況について
 
 先月(2012年5月)刊行された『原発を拒み続けた和歌山の記録』(寿郎社)の巻末に、『女から女への遺言状』という講演というか談話の記録が「再録」されています。
 鈴木静枝さん(日高町原発に反対する女の会」)という1918年生まれの女性が、日高町における原発建設計画をいかに阻止したかを1993年にお話され、同年9月に発行れた会報「女たちの会ニュース」第9号に掲載されたものです。
 
 私が鈴木さんの、『女から女への遺言状』を知ったのは、2011年5月28日、元京大原子炉実験所の海老澤徹先生をお迎えして開催された「ぶんぶん講座~繋がるいのちのめに~」の席上、松浦雅代さん(原発がこわい女たちの会)から掲載誌のコピーを頂戴た時でした。
 同じ時にそのコピーを読み、深く感銘を受けたにしでいづみさんが文章をテキストデータ化して送ってくださいましたので、メルマガNo.465でご紹介しました。
 
 その後、松浦さんを通じて鈴木さんご本人の了解を得、以下のブログにも掲載されまた(ちなみに、電話で問い合わせた松浦さんに対し、鈴木さんは、「何を言ったのかはっり思い出せませんが、お役に立つのであれば、使ってください。私は何を言われてもかまませんから」とおっしゃったそうです。
 
原発いらない和歌山の女たち」
 
「梅の里自然農園便り」
 
 さて、その鈴木静枝さんに『原発を拒み続けた和歌山の記録』を届けるべく、去る5月15日、松浦雅代さんが、日高町阿尾にお住まいの鈴木さんのもとを訪ねた模様が、「原発がこわい女たちの会」のブログに掲載されていましたので、ご紹介したいと思います。
 この松浦さんによる訪問記と併せて、未読の方は、『女から女への遺言状』を是非ご一読ください。
 
「女から女への遺言状」の作者・鈴木静枝さんに会いに行って来ました
 http://blog.zaq.ne.jp/g-kowai-wakayama/article/8/
(引用開始)
 『原発を拒み続けた和歌山の記録』(寿郎社)を届けに行った5月15日は「沖縄復帰40年」の日。開口一番「密約ばかりでのうー」と「核抜き・本土並み」の密約の話でした。
 鈴木さんは4年位前まで、御坊の広い家に一人で住んで居られました。2003年に使用
済み核燃料中間貯蔵の問題が持ち上がり、私たちは鈴木さんの御坊の家に集まって相談を何度かさせてもらったものです。が少し病気をされて、小浦の家で息子さんご夫婦と一緒に居られました。ここに新しいホームが出来たので入られたのです。今年93歳とのことで、「こんな年になってのー」と言われます。何度かお伺いしていますが、いつも机の上に読
みかけの本が置いてあります。
 このケアハウスは鈴木さんが先生をしていた阿尾小学校の廃校跡地に建てられていて、
このお隣の土地が、和歌山の最初の原発候補地であった日高町阿尾の湿地帯です。数年前、所有者が日高町に土地を贈呈したのですが、今まで放置されていた為、ごみなど整備に随分費用が掛かったそうです。今は公園となって、珍しい鳥などが観察されてい
ます。
 また、海を隔てて2キロど離れたところには小浦の町。鈴木さんの部屋から窓越しに小さ
く集落が見えます。その裏山を崩して浦磯と呼ばれている磯を埋め立て建設する予定であった日高町の小浦原発、ここの土地は現在は日高町が買い取り、やはり町の所有地にな
っています。
 鈴木さんは阿尾小学校の先生から→小浦→御坊と移り住むところで、原発にかかわっ
て来られました。小学校の先生をされていただけにとても分かりやすい優しい言葉で、押しつけがましくなく肝心な事を話されるなあー、とお会いするたびに思います。私の貴重な人生の先輩です。
松浦雅代・記)
(引用終わり)
 
 
紀伊半島に原発はいらない「女たちの会ニュース」9号 1993.9.14.
女から女への遺言状  鈴木静枝(日高町原発に反対する女の会)
紀伊半島に原発はいらない女たちの会の合宿(1993.7.29・日高町産湯/桂荘にて)での講演より収録、編集
 
 昭和20年8月15日、玉音放送がありました。
 雑音混じりの、よく分からない天皇さんのお声が、どうも「戦争負けて止めた」と言うてるふうにとれてね。負けたと言うたわ。ということで皆ぼけーとしてしまいました。その時、私は、あ、口惜しい負けたと思ったのかそれとも、あ、済んで良かったと思ったのか、その時の事考えたら何も覚えていないんですよね。
 ひょこっと、そこが抜け落ちたように、どう思ったんか分からないのです。ただ私と一緒に聞いていた人がぼそっと「ほんなら今日から電気つけていいんやろか」といいました。黒い布を被せて、灯火管制です。夜なべの仕事は少しの明りの下でしか出来なかった。暑いし、暗いしねぇ、もううんざりしていて、一番先に電灯が出てきたわけです。「ほら、つけたらええわ」と言う人はいなかったです。「おとうちゃん、帰ってくるかいな」と言う人がいたんですけど、「そんな事、今頃言うたらあかん」と叱られました。
 やはり、どうもまだ戦争負けたと言われても、しゅんとこなくてね。ところが、その次の日だったか、その日だったか、ラジオがね、もうニコニコとした感じで「皆さんアメリカは良い国ですから仲良くしましょう」と言うのです。私はこれを聞いた時、負けたんやなーと、痛切に思いました。前の日まで「鬼畜米英・撃滅」とわめきたてていたんですからね。ほんとにころっと変わって。マスコミというのは、だいたい風にそよぐ葦のように敏感で次代の通り動くもんらしいけど、あれはアメリカの命令だったのか分かりませんねぇー。
 それから、その次に新聞が「一億総ざんげ」という事を書きました。まあ、この戦争負けたんは、我々もしっかりやらなかったから申し訳ない。天皇さんにお詫びしょうと云う一億総ざんげですね。その時はそうやなーと思ったんですけど、後になって考えると、これはちょっと変やなーと思いました。だってね、私たちは一生懸命に戦争に向かって走ったけど、それは上からの命令で、真に正直に、そのバカが付く位バカ正直に素直に言う事に従ったんだけど、あっち向いて走れと言って指揮した人達が上にいたでしょう。これから50年もたったら日本がぺちゃんこになってガレキの、本当に奥尻島みたいにねえ、ぺちゃんこにやられて何も残らないようになって、そしてアメリカに降参したんだという事をみな終戦という言葉で忘れてしまうのではないか、と思ってね。アメリカともうここらで戦争止めよか、と言うて握手して止めたという感じでしょう。終戦というあいまいな、もことした言葉を使ってね、戦争が終わった、という事でごまかして、それから一億総ざんげで、戦争の責任をどっかにぶっ飛ばしてしまって、経済再建という事だけに向けて、まあ50年近い年月をば、つっぱしってきたように思うんです。なんだか日本という国が非常に大事な事忘れて、ただお金儲けの為につっぱしってきて、その走り方が今でも続いているような気がするんですけどね。
 私は戦争中、疑うことなく戦争に協力しました。後から考えてみたら、なんで分からなんだやと思いますけどね、その時は本当に分からなかったんです。しかし後で戦争に反対した人が沢山いた、と聞いて、この人たちに見えてたのに何故私に戦争の本質が見えなかったのかほんまにはずかしかったです。やっぱり小学校の時から叩き込まれた、教育というのは恐ろしいですね。天皇陛下の為に死ぬ、と言う一本に絞って学校の教育はあった訳です。教育に関する勅語という天皇さんのお言葉の中に、一旦緩急あれば義勇公に奉じという所があります。戦争が起こったら、何もかも捨てて天皇さまの為に死ねという事ですよね。そういう教育が戦前の教育だった訳です。
 人間の命は今では地球より重いと言いますけど、あの頃は本当に羽毛のように軽かったんです。だから、戦場で兵隊さんを殺すと云う事に対して軍の上の人たちは、何の後悔も無かったように思うんです。その戦争が済んでから天皇さんが「私は神様ではない」とおっしゃってね。あれもびっくりしました。それまでは、畏くも、と言うたら、皆んなぴーと気をつけやりまして、あれテレビで時々やりますね、しゃちこばって。それは神様であったからです。
 ところが、その天皇が「私は神様ではない」とおっしゃるでしょう。なんだか、雲の上から下へ落っこちて来たような具合です。それもびっくりしましたけどね。
 その次に新聞が又めったやたらと、今まで報道出来なかった戦争中の悪事を暴露しはじめました。本当に、被せていたカバーをぱんと引き外したらね、下から汚いごみがわんさと出てきて、それを又手でもってわっとそこらにまき散らしているような、そんな感じでした。もう悪い事が一杯出てきました。
 その悪い事というのは、まあいろいろ有りましてね。一番つらかったのは天皇さんのお使いだと思って神様のように崇めていた日本の軍隊が、あちこちで、暴行だ、虐殺だ、という事をやっていた話です。
 私達は、南京が落ちたときには、提灯行列をしてお祝いをしました。その提灯行列をして私達が祝っているときに、あの南京大虐殺というのがあって、もう何万人という中国人が殺されて、そういう話が外国の新聞に出ていて、日本人だけが知らなかったということもあるんですね。私はあの数日の間に私って、なんちゅうアホやろと思ってね、なんでこんなに見えなかったんだろう、だけどこの素直な人間をば、なんだってあんなにだましたんだろうと思ってね。
 第一、大本営発表で勝った、勝ったと言ってたことがみんなウソで、負け続けばっかりだったということでしょう、そして南の島へ兵隊さんをいっぱい置き捨てて、連れに行く訳にもいかず、弾も食べ物も持って行ってあげられないから飢え死に同様に死なせたという話もあるしね。本当に、お母さんが聞いたら、自分の息子がそんなふうに死んだと聞いたら、本当にやりきれんし、すごく腹が立つだろうと思うんですよね。私もおかみがこんなことして国民をばだましていいのかと思ってね、その時はほんまにものすごう腹が立ちました。
 おかみがだますことがあるんやなぁと知って、それもびっくり仰天。おかみというと、天皇様とその政府だと私は思ってましたからね。八紘一宇の聖戦が侵略戦争であったとはね。
 それからもう、だまされまいと思って私の戦後はあったようなものです。で、戦争すんでから、原発にめぐりあったんですけどねえ。その時の話では、原発というものはクリーンなエネルギーで、すごくいいもんで、火力、水力なんかよりも値段が安いし、それからそれを持ってきたら、まあ地域に何億というお金が降ってきて、個人にたくさんの補償金がもらえて、道は広くなるし、立派な公共の建物は建つし、何年にもわたって豊かになれるということで、タナからボタモチ降ってくるような話でした。
 あんまりありがたい話なので、これまた例の戦争の時みたいな八紘一宇ではないかと思って、気をつけやなあかんなーとその時思いました。阿尾へその話がきたのは昭和42年です。
 その時私は、阿尾の小学校で教師をしていました。そして48年、原発が白紙撤回されるまでの阿尾の人の戦いぶりを、学校も窓から見せてもらったわけです。ずいぶんがんばりました。本当に見事でした。
 小浦に来たのはその2年後の昭和50年です。私はその年に教師をやめて、家で畑仕事をしていました。
 この年、阿尾は白紙撤回したけれど、その時は賛成の人、反対の人がほんまにもう、顔つき合わせてももの言わない状態になって、村が二つに割れてね、双方傷だらけになってしまった。なにせ、兄弟同士、親類同士、伯父、甥、隣人、そういう関係で二つに分かれて顔を合わせてもふんとむこうを向くような、そういう状態が何年も続いていたんですからね。まったくのとこ、やりきれなかったわけです。だから小浦に来た時、私達それがこわくて、そんなこと言うたらまた阿尾みたいになるて、この話、聞かんことにして断ったらええんと違うかい、と言うたんですけど、やっぱりそうはいきませんでした。
 反対運動が、一番小浦で燃え上がったのは52年の夏からでした。
 反対署名を集めて、反対の数をば多くして、それから役場へ抗議申し入れに行きました。私達が出かけますとね、関電の人が神経質になって、車の電灯を消してお宮さんの前で待機していて、私達がカブや自転車で出かけると、後ろをノロノロついて来るんですよね。署名もらいに入って行ったら、またその人もノソノソと入って来て、用もないのにウロウロして、「あんた何よ、もう、帰ってよ」と言うたら、「あんたらもゴキブリみたいにこんなに出てきてなんな」と言うて、けんかになったりしてね。そらもう、賑やかなものでした。私ももうちっと若かって、10年以上前ですからはりきって、小浦の人達と一緒に、ずいぶんかけ回りました。お正月の前だというのに、漁師の奥さんなんか、エプロンね、こっち向けていたら汚れたんで、裏返して着たら、また汚れたんで、また裏返したという位、洗濯もろくすっぽできん位、かけ回ったもんです。
 町会議員さんの中で反対してくれている人は、2、3人しかいなかったです。17~18人中でね。議員さんにあんたも反対に回ってください、と頼みに行ったら、その人の言うのにね、
「わしらただの漁師や百姓やから、原発なんて難しい事は分からへん。その難しい事は学者先生に任しといたらええんで、あんたらかて、そんな事言わんと、おかみの言う事、聞かんせよ」と、向こうに説得されてしまったのです。私は、おかみの言う事聞いていたら間違いないわ、て言うたんで、あれこの人、戦争でえらい目におうたのに、まだおかみ信用してんかなあ、と思って、おかみ、おかみて、おかみは戦争の時、うそだましてたんやで、原発かてうそだますか分からんやないの、と言うと、そがな昔のこと言うてもはじまらんよ、と言うわけです。おかみはなかなか頑丈で、退散してくれへんのです。戦争に負けても、ほんまに、あれは徳川時代からおかみ恐れて暮らしてきたのが、もうしみついているんだと思います。もう一人は「そらなあ、原発反対でいやだっても、これは小浦へ召集きたようなもんやさかい、おかみの言うこと、聞かんわけにはいかんよ」と、これは元軍人さんの言うことです。あんな反対するやつらは、過激派みたいにおかみに手向うんやから、あの人ら赤や、言うてね。もう、その古めかしい赤というレッテルを、私らペタンと貼られてしまいまして、赤でも黒でもないけど、ただ原発というものがこわいということだけで反対しているんや、と言うても、通じません。だから、原発に賛成するか、反対するかということで、おかみに忠実であるか、手向かいする気かという、そういう踏み絵がわりに使われている傾向がありました。だから、小浦で、92人も初め署名してくれたけど、10年程の間に一人二人減っていってしまってね、足元をちょっとずつ波が崩していくように。就職する時におかみににらまれたら、ちょっと悪いさかいよう、ちょっとの間、署名はするけどよ、黙っててよ、というような形で、だんだんとだんだんと減って行くわけです。なんかおかみが光り出したら、後ろへ後ろへと下がるんやね。私もう、ほんまに、情けないと思いました。なんで、こんなにおかみにはばからんといかんのか、と思って、悔しかったです。おかみは政府でしょう。その時のおかみは自民党の政府ですからね、そのおかみが頭にすわっている以上は、こらもう原発もどうしようもないなあ、とほんまに思いました。
 それから、もうほんまに、もうあかんなあー、と思うことが何度もありまして、総代会で、事前調査受け入れて、総決議なんかされたことがありましてねえ。一票か二票の差で負けたこともあるんです。もう、今度こそやられたなあー、と思ったら、そう、丁度、あれありがたいと言うたら悪いんですけどね、スリーマイル島の事故が起こった。それからまた、今度こそあかんかなあ、と思った時分に、チェルノブイリの事故が起こったりして、まるでそれこそ神風が吹くように、その事故があった人達には申し訳ないのですけど、小浦の原発をばまあ、払いのけてくれたようなところがあります。
 それでいろいろとあって、昭和63年、町役場の横の公民館で漁協の総会がありました時にね、原発事前調査の議案、原発受け入れ調査が廃止になりまして、それで原発の、一応けりがついたわけです。
 その時はもう、ほんまに息づまるような会合でしてね、私はあの日のことは忘れられません。その台上に並んでいる賛成派や、賛成反対まじえた議員さんやら、それから下にいっぱい集まっていた漁協の組合員やら、その間でこぜりあいが起こったら、警官が何人も、ぱーと間髪を入れずに現れて、前にこう、立ちふさがるような場面があってね。そしてまあ結局、廃案やということで、廃案なら、これで原発終わりや、と言うてね、浜さんなんかバンザイ、バンザイということで外に飛び出していったもんですから、へえーほんまにこれで終わったんかい、とボケッとした位でした。
 それでも一松町長さんは諦めないで、平成2年9月3日、漁協へ事前調査の申し入れをやったんです。丁度町長さんの任期がじき切れるんで、選挙の前にけりを付けて置きたいということで。その9月3日に漁協がはっきりと「事前調査の受け入れをしない」と、拒否の発表をした訳です。ほんまにまあ、それで原発は終わりということになって、それからその月の30日に町長さんの選挙があり、反対派の押した志賀さんがうまいぐあいに当選しまして、それで、おおかた23年目に日高の原発は息を潜めてくれました。
 ほんとに長い年月でした。大阪から和歌山県の各地から久米先生をはじめ多くの方達が、事あるごとに支援にかけつけて下さって、どんなに励まされたかわかりません。ありがたいことでした。
 今の日高町は妙な安心ムードになりましてね、小浦なんかでも、原発済んだよ、とそう言って、昔の事として、原発に触れないようにして生きています。原発と言うとなんとはなしにそれは、トゲのようなもんで、賛成同志、反対同志の間では何にもないんですけど、反対と賛成の間では原発というのは禁句でして、うっかり言っては平和を掻き乱すような言葉になってしまうので、もうその話題は皆避ける事にしています。やっぱり、私らの喧嘩した年代が死んでしまわない限り、その傷痕というのはとれないだろうと思いますね。
 これは、原発に声をかけられて、ひと騒ぎしている町村はどこもかも皆、こんな傷を受けているんだと思います。本当にひどいことですよねえ。
 それに、そうそう安心ばかりしていられないのです。日高町にも、周辺の市町村にも、原発を推進したい人はいっぱい、いるのですから。風の吹きようで、いつパッと燃え上がらないとも限りません。
 私が今一番言いたいのは、後になって、おかみにだまされたなどと、泣きごと言ってほしくないことです。だまされないよう心とぎすまして、時には反対する勇気をもってほしいということです。自分に出来なかったことを、人にやってもらいたいというのは、本当にあつかましい話ですけどね。
 今の若い人たち、テレビなんか見ていたら、遊ぶ時、ものすごく活力出しますけどねえ、なんでもうちょっと、政治とかPKOとか、そういう事に怒らないのでしょうね。昨年のあのPKOの派遣なんかにしたって、もしかしたら将来自分に徴兵令が来て行かんならんような事がおこるかも知れないのに平気で、そしらん顔している。投票なんかもしないでしょう、あれは、ほんまに間違っていると思うんです。こんな風に無関心で居たら、いまに、その付けをば。うんとこ払わせられるような気がします。しっかりして下さいね。
 と言うのが私の遺言です。
 なんだか、この頃、お母さんたちもお金儲けに一生懸命になってね、子どもにしっかり勉強しろとお尻叩いて、自分はお金儲けに走るだけ、みたいに成って来ましたから、家の中で、そんな風な話を子どもとゆっくり話しする暇なんか無いんじゃないでしょうかね。だからなんだか心配です。この間の選挙なんかにしても、あれだったら自民党がちっとも減らないで増えた位でしょう。あれは自民党はおかみだから自民党の言うことを聞いとかないと損だという意識が心の中にあると思うんですよね。
 もうちょっと女の人しっかりせんとあかんと思うんです。代議士なんかでも少ないでしょう。数。私はほんまにもっともっと、つくらんといかんと思います。女の人が結束して女の人をば入れるんだったら、もっと上がるはずですもんね。そして内閣総理大臣を女にして、閣僚も女にして、そして一人か二人男も入れてあげる。そしてね、私はそうしたら戦争せえへんと思うんですけどね。戦争起こりそうになったら、その国に出掛けていってん、肩なんかボコッとたたいて、にこっと笑って、あんたもそんな怖い顔しないで仲良く話して、あんたも引くし私も譲るし、お互い譲り合ったら、あんな殺人ゲームなんか、やらないで済むんじゃないですか。そして自分の子どもたちをば殺したく無いでしょう。と話し合う。女どうしだと出来ると思うんですけどね。そんな時代がこないかなーー。とこれは私の夢です。だけどもねそれまでは、とても生きていられません。まあ、若い人たちにそんな夢を託しておきたいと思うんです。ほんとに皆さん頑張って下さいね。
(すずき しずえ  一九一八年生まれ)
 
原発を拒み続けた和歌山の記録