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「豊田直巳フォト語り・3.11後のフクシマを歩く。」(週刊通販生活)

 今晩(2013年1月12日)配信した「メルマガ金原No.1230」を転載します。

「豊田直巳フォト語り・3.11後のフクシマを歩く。」(週刊通販生活
 
 日本ビジュアルジャーナリスト協会(JVJA)会員の豊田直巳さんは、森住卓さん、山本宗補さん、野田雅也さん、綿井健陽さん、それに広河隆一ん(DAYS JAPAN編集長)らとともに、2011年3月11日の東日本大震災発生翌日(12日)から福島第一原発周辺を取材するために現地に入った方です。
 
 「3.11メルトダウン 福島原発取材の現場から」と題された映像(撮影:綿井健陽氏)で、その取材の様子を知ることができます。
 
Part.1 (11分21秒)
Part.2 (14分59秒)
Part.3 (14分58秒)


「3・11メルトダウン 福島原発取材の現場から」Part3

 

 ところで、WEB版「週刊通販生活」には、「今週の原発」というコーナーがあり、そこに「豊田直巳フォト語り・3.11後のフクシマを歩く。」が3回にわたって連載され、現在でも観ることができます。
 ただし、いつまで掲載されているか分からないので、早めにご覧下さいと豊田さん自身が twitter で要請されています。
 
 以下、36枚の写真に込められた豊田さんの思いを汲み取っていただきたいと思います。

 

「豊田直巳フォト語り・3.11後のフクシマを歩く。」
 東京電力福島第一原発が危機的な状況にあった2011年3月12日、フォトジャーナリストの豊田直巳さんは福島県郡山市に入り、翌13日には第一原発がある双葉町で取材していました。持参した放射線測定器の上限1000マイクロシーベルトを振り切る放射線汚染の中で、豊田さんは何を見て、何を聞き、何を感じていたのでしょ
うか。その後も付きに一度はフクシマを訪ねて取材・撮影している豊田さんの写真にいを載せた「フォト語り」を3回シリーズでお届けします。
 
第1回 「警戒区域」
 原子力災害対策特別措置法によって、福島第一原発を起点に半径20キロ圏内に設定されていた「警戒区域」。いったい何を警戒していたのだろう。本来は「原子力災害」特有の放射能の警戒を意味するはずだ。しかし、原発事故から1ヵ月余りにもわたって充分すぎるほどの放射能を浴びながら住民が自由に出入りできた場所が、あ
る日「警戒区域」に設定されると、住民以外の一般市民の立ち入りこそが警察の警戒の対象になった。まるで、事故収束の気配もなく放射能を漏出し続ける原発を、人目から遠ざけるのが目的かのように。
 しかし、安全神話の崩壊、日本政府や電力会社の隠蔽体質、詐欺まがいのヤラセ体質、そしてウソがばれてもなんら反省することのない厚顔無恥を知ってしまった私たちは、ダメと言われれば、なおのこと除いて見たくなる。「警戒区域」にこそ、彼らの隠したがる、今回の原発震災の本質が横たわると思えてくるような振る舞いを彼らが続けきたからだ。
 だから私もそこに入ってみた、覗いてみた。そして、ほんの少しだけ見えてきたものは、原爆に通じる原発を推進する側の暗部や恥部、その地に根を張って生きてきた人々の無惨な痕跡、癒されることのない悲しみや哀しみ。そして、まるでそうした人間の愚かさを許し、癒すかのような自然の営み・・・・・。それは現在の日本の縮図のようにも見えた。しかし、そこに希望があるようには見えなかった。放射能汚染とはそういうものなのだろう。
  2012年8月20日  豊田直巳
 
写真1/12
楢葉町 11年11月20日
 
写真2/12
双葉町 11年3月13日
 
写真3/12
浪江町 11年4月1日
 
写真4/12
浪江町 11年4月1日
 
写真5/12
双葉町 11年4月18日
 
写真6/12
大熊町 11年4月18日
 
写真7/12
大熊町 11年7月24日
 
写真8/12
大熊町 11年11月20日
 
写真9/12
南相馬市 11年10月30日
 
写真10/12
大熊町 12年4月7日
 
写真11/12
大熊町 11年11月30日
 
写真12/12
南相馬市 12月6月14日
 
第2回 「放射能の舞う村」
 福島第一原発が次々と爆発していた頃、そこから「遠く離れた」静かな村には、沿岸の町から避難民が押し寄せていた。村を貫く県道は、数珠つなぎになった車が大渋滞を引き起こしていた。それを見た地元の住民は「何か、怖かったです」と言ったが、その正体は知らなかった。村は津波の被害はもちろん、地震の被害も屋根瓦がずれる程度でしかなかったからだ。停電に見舞われた村ではテレビを観ることが出来ず、津波も原発事故も実感がなかったと言う。
 押し寄せる避難民の群れに対して、村人は自分のことはさて置き、救援に奔走した。学校や公共施設に収容された人々に炊き出しをし、寝具を集め、支援物資を届け、と労を惜しまなかった。
 その頃、村が高濃度の放射能雲に襲われるとの計算予測をはじき出し続けたSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の存在を、村人も村も、そして国民も知らされていなかったのだ。しかし、村役場近くに持ち込まれた放射線測定器は3月15日には、1時間あたり40マイクロシーベルトを超える放射能の存在を記録していた。それは放射性ヨウ素セシウムばかりではなく、テルルストロンチウムも、そしてプルトニウムも村に舞い降りつつあることを示していたが、そのことを村人が知ったのは充分すぎるほどに被ばくし、そして放射能を吸い込んでしまった後だった。
 住む者の誰もいなくなった今も、村の景色に変わるところはないように見える。しかし、小金色に覆われていたはずの田んぼは見たこともないようなセイタカアワダチソウの群落に覆われ、ビニールハウスを内部から突き破らんとするかのような名前も知らない雑草が伸び放題に伸びている。
「ススキの穂があんなに美しかったなんて、初めて知ったの。怖いくらい」
 仮設住宅のこたつで村人がぽつりと漏らした。
     豊田直巳
 
写真1/12
2011年3月 飯舘村
 
写真2/12
2011年5月 飯舘村
 
写真3/12
2011年6月 飯舘村
 
写真4/12
2011年5月 飯舘村
 
写真5/12
2011年3月 飯舘村
 
写真6/12
2011年4月 飯舘村
 
写真7/12
2011年5月 飯舘村
 
写真8/12
2011年5月 飯舘村
 
写真9/12
2011年5月 飯舘村
 
写真10/12
2011年9月 飯舘村
 
写真11/12
2012年6月 飯舘村
 
写真12/12   
2011年9月 飯舘村
 
第3回 「原発さえなければ」
 いくつもの戦場で、「戦争さえなければ」と願うことばを聞いた。そこには、たとえ貧しとも家族が肩寄せあって暮らす平凡で安寧な日々が、一瞬にして壊された庶民のさまざまな思いが込められていた。
 日本では、せせらぎの音と鳥の鳴き声が心地よい静かな住宅の庭先で、「見えない戦場で戦っているみたい」と慌ただしく避難する人々のことばを聞いた。そこは壊れ原発から20キロ。爆発音も煙も見えなかったというが、放射線測定器をかざすと時30マイクロシーベルトもあった。数歩離れた場所では、毎時500マイクロシーベルトもの強烈な放射線が飛び交っていた。
 しかし、何一つ見えないし、感じられなかった。そして家主は、その事実さえ知らされていなかった。
 放射能汚染の実態を知らされたときには、人々は後戻りできない現実に立たされていた。
 自分も家族も大量に被ばくし、将来のある子どもたちまでも被ばくさせてしまった現実。
 大地は、永遠とも思える長きにわたって汚染地帯となってしまった現実。
 そこは戦場と化していたのだ。そこから聞こえてくるのは、「原発さえなければ」という血を吐くような声。
「それでも人間は生きていかなければならない。諦めてはいけない」
 その声もまた苦悩に満ちていた。私は、私たちは、何ということをしでかしてしまったのだろうか。 
     豊田直巳
 
写真1/12 
相馬市 2011年6月
 
写真2/12 
浪江町 2012年11月 
 
写真3/12 
福島市 2011年5月 
 
写真4/12 
福島市飯舘村応急仮説住宅) 2011年9月
 
写真5/12
川俣町 2012年8月 
 
写真6/12 
南相馬市 2012年3月  
 
写真7/12 
楢葉町 2012年8月
 
写真8/12 
飯舘村 2012年4月
 
写真9/12 
南相馬市小高区 2012年6月
 
写真10/12 
川俣町 2012年9月
 
写真11/12 
川俣町 2012年7月 
 
写真12/12 
郡山市(川内村応急仮設住宅) 2012年4月
 
 1枚の静かな写真が、無限の叫びを伝えてくれることがあります。
 またこのような優れた仕事に発表の場を提供してくれた「通販生活」(カタログハウス)にも感謝したいと思います。