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あらためて“9条事始め” 中編

 今晩(2013年2月5日)配信した「メルマガ金原No.1255」を転載します。
 
あらためて“9条事始め” 中編
 
 さて、1929年に「戦争抛棄ニ関スル条約」を批准した後の日本の歩んだ道といえば、条約が目指した方向とは全く逆向きであったことは言うまでもありません。
 簡単に略年表風に箇条書きしてみましょう。
 
1931年 満州事変
1933年 日本、国際連盟脱退
1937年 盧溝橋事件勃発 日中戦争はじまる
1939年 ノモンハン事件勃発
1940年 日独伊三国軍事同盟締結
1941年 真珠湾攻撃(太平洋戦争開始)
1945年 敗戦
 
 前編で、第一次世界大戦における犠牲者数をご紹介しましたので、第二次世界大戦の犠牲者数も調べてみようとしましたが、これが難しい。
 おそらく、民間人も含めて最も多くの犠牲者を出したのがソ連であり、それに次ぐのが中国であることは間違いなさそうなのですが、その数が実は非常にあいまいなのです。一説にはソ連2000万人、中国1000万人という数字もありますが、正確性は担保のしようがありません。
 これに対し、日本については、全体で約300万人、戦闘員と非戦闘員の犠牲者の比率が約3:1というあたりらしいのですが、これも統計のとりかた次第でかなり異っています。
 
 先日、DVDに録画していた映画『日本国憲法』(ジャン・ユンカーマン監督作品/2005年)を再視聴していたのですが、この様々な国の識者へのインタビューで構成された優れた作品から伝わってくるメッセージは、「憲法9条は、アジアの民衆に対する謝罪と約束ではなかったのか?」ということです。
 
 一例として、この映画に登場した班忠義(ハン・チュンイ)氏(作家・映画監督)が、「中国人なら誰でも知っている『平頂山事件』について、日本人が全く知らないのにいた」という話をされていたことを取り上げてみましょう。
 
 「平頂山事件」と聞いて「どういう事件か」すぐに答えられ日本人がどれだけいるでしょうか?
 正直に申し上げて、私自身、映画『日本国憲法』を観るまで全然知りませんでした。
 どのような事件であったかというと、1932年9月15日、反満抗日ゲリラ(日本側は「匪賊」と呼称していました)による撫順炭鉱襲撃事件が発生し、翌日、撫順守備隊による捜索の結果、平頂山集落で前日の襲撃の際の盗品が発見され(と言われています)、当集落がゲリラと通じていたとの判断の下、40名余の部隊が同集落を包囲してゲリラ掃が行なわれました。その掃討作戦というのは、当時集落にいたほぼ全住民(女性・子供・赤ん坊を含む)を集めて機関銃で掃射し、それでも死ななかった者を銃剣で刺し殺すというもので、死体を一箇所に集めて焼却処分にし、翌日、崖をダイナマイトで爆破することで一気に埋没処理しました。犠牲者数は、3000人説(中国側)、400~800人説(田辺敏雄説)などありますが、虐殺の事実自体を否定する議論はないようです(ウイキペディアの記載を要約)。
 さらに詳しく知りたい方には、この事件に関わる「証言」を集めたサイトがありますのでご参照ください。
 
 どうでしょうか?この事件は、「南京大虐殺」とは異なり、事件があったか無かっかが論争となっているのではなく、せいぜい犠牲者の数の大小が争われている程度であり、その日、平頂山村にいた住民のほぼ全員が(子どもを含めて)組織に日本軍によって虐殺されたこと自体は争いようのない事実なのです。
 
 もしも、日本の一山村が、外国の軍隊によって女性・子ども・老人の区別なく皆殺しにされたとして(わずか80年ほど前にです)、そのことが許せますか?忘れることができますか?
 
 しかし、加害者は、まず意図的に忘れようとします。直接・間接の関与者は戦争犯罪人としての処罰を恐れて。それ以外の者も、良心の呵責にふたをするために。さらに時が過ぎると、忘れるまでもなく、「何も知らない世代」が次々と登場してきます。そして、日本にとって都合の悪いことを言い出す日本人に「中国の手先」というレッテルを貼るのです。
 
 日本政府が、「村山談話」によって、初めて公式にアジア諸国民に謝罪の意を表明したのは、ようやく1995年(平成7年)になってからでしたが、その半世紀近く前、「二度とアジアを侵略しない」という決意を対外的に表明したのが日本国憲9条1項及び2項(とりわけ戦力不保持と交戦権の否認を定めた2項)なのです。
 
 以前にもこのメルマガでご紹介しましたが、2007年6月に和歌山で講演された品川正治(しながわ・まさじ)さんが、復員船の中で日本国憲法草案を読んで涙をしながら、以下のように考えたと述懐しておられることも、その傍証の一つとなるでしょう。
(引用開始)
 前文から9条まで読んで、皆泣きました。我々の生き方は、それしかないと思っおったけども、よもや国家が憲法で戦争放棄を明確にする、国の交戦権を認めいっていう、そこまで書いてくれたか、これなら生きていける、これなら中国の人たちにも贖罪の気持ちを表せる、亡くなった戦友の魂に対しても、「こういう国になるんだ」っていうことを我々が言えるようになる、そういうのが私自身の憲法、現憲法に接
した一番最初の日なんです。
(引用終わり)
 
 「中編」の最後に、「ポツダム宣言」(1945年7月26日)の軍事関連の規定に目を通しておきましょう。これが、戦後作られることになった「憲法」の前提なのですから。
 
(抜粋引用開始)
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコト
ノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且
生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和
的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
(引用終わり)
 
 このポツダム宣言を受諾したことによって、日本はアメリカ軍を主力とする連合国の占領下に入り、そこで日本国憲法が作られた(大日本帝国憲法の「改正」として)のですから、その内容が以上のポツダム宣言の条項に矛盾したものであってはならないことは法理上当然であった訳です。
 
 ポツダム宣言を素直に読めば、日本がとり得る針路は以下のようなものであったと考えられます。
 
1 終戦時に存在した日本の軍隊は完全に武装解除される(9項)。そして、兵員以外の、再軍備を可能ならしめるような産業の維持は許されず(11項)、日本の戦争遂行能力が「破砕」されたことが確証されるまで占領は継続される(7項)。
2 以上の目的が達成され、日本国民の総意に基づく平和的傾向を有し責任ある政府が樹立されれば占領は終結する(12項)。 
3 占領が終結し、日本が完全に主権を回復したあかつきに再軍備するかどうかは日本国民自らが判断すべきことである(条理上当然)。
 
 これは「後編」で書くべきことかもしれませんが、「押しつけ憲法論」が無意味なのは、サンフランシスコで平和条約が締結され、日本が主権を回復した1951年以降も、日本人が「日本国憲法」を「改正」してこなかったという「事実」自体、「しようと思えばできる再軍備をしない」という明確な国民の「選択」であったということを看過しているからです。
 
(以下「後編」に続く)