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もう一度「原発と倫理」(3.11から2年を迎えて)

 今晩(2013年3月11日)配信した「メルマガ金原No.1290」を転載します。
 
もう一度「原発と倫理」(3.11から2年を迎えて)
 
 あの「3.11」から2年が経過しました。
 1年前の今日、私は和歌山市内のライブハウスで行われたイベントで20分ほどのスピーチをする機会を与えられ、そのスピーチ原稿を同日のメルマガでご紹介したのでした(メルマガ金原No.866「3.11に思う(『原発問題』と『倫理』について)」)。
 
 そして、1年後の今日も、和歌山市内のあるロータリークラブから、例会での「卓話」のご依頼があり、30分ほどお話する機会をいただきました。
 以下にご紹介するのは、そのスピーチのために準備した原稿です。
 もとより、原稿は見ずにスピーチしましたし、時間の都合もあって、この通り話し訳ではありません。
 
 今回のメルマガのタイトルに「もう一度」とあるのは、1年前と結局同じことを話しているからですが、考えることがそうそう変わるものではないので、ご容赦いただきたいと思います。
 今回のスピーチも、昨年と同じく「オールドタイム」の松本博さんのご配慮によって実現しました。松本さん、ありがとうございました。
 
 
(2013年3月11日 あるロータリークラブ例会で行った「卓話」のための原稿)
 
              原  発  と  倫  理
 
                 金 原 徹 雄
 
自己紹介
 皆さん、こんにちは。ただいまご紹介いただきました弁護士の金原です。本日は
「オールドタイム」の松本様のご紹介により、例会の場でスピーチする機会を与えていただき、まことにありがとうございます。
 私の簡単な経歴は、お配りしたレジュメに記載しておりますのでそちらをご参照いただければと思います。
 
原発問題と私
 本日は、3.11からちょうど2年の節目ということから、松本様を通じて「原発
ついて話をするようにというご依頼でした。
 しかし、私は24年ほど弁護士をしておりまして、法的な問題ならともかく、原子核工学や物理学、それに放射線防護学などについての知識は全く持ち合わせておりません。
 従って、今日お話する内容は、専門的知識のない市民が、誰でも少し学べば理解できるレベルのことしかお話できないことをあらかじめお断りしておきます。
 さて、2年前の「3.11」、私も、まず津波の恐るべき脅威を伝える映像に息をのみ、言葉を失ったことは言うまでもありません。
 ところが、その日の夜、政府が「原子力緊急事態」を宣言し、福島第一原発から半径3㎞圏内の住民に避難指示を行ったというニュースに接して驚きました。
 最初のうちは、電源喪失によって原子炉を冷却できなくなるということが何を意味するのかということすらイメージできず、ただ「とんでもないことが起きているのではないか?」という漠然とした不安感にかられ、情報収集に努めることになりました。
 その際、テレビ、新聞などのマスメディアなどには頼らず、インターネット経由で出来るだけ信頼できる情報を探そうとしたことが、「普通の人」と少し違っていたところかもしれません。
 その後の、原発事故の推移は皆さまもよくご存知でしょうし、時間もありませんので省略します。
 
3.11によって人生が「変わった人」と「変わらなかった人」
 昨日、当地和歌山で講演された京大原子炉実験所の小出裕章さんは、原子力の専門家の立場から、原発の危険性に警鐘を鳴らし続けてこられた方ですが、3.11以後、常に次のように発言しておられます。
  「私(小出氏)には、原子力の専門家として事故を防げなかった大きな責任がある」「しかし、だまされたあなた方にも責任がある」
 それでは、私(金原)は「原発は絶対安全」だと「だまされて」いたのでしょうか?
 私の周りには、長年和歌山における原子力発電所建設計画を阻止すべく体をはって運動してこられた方もおられますし、原発の危険性を訴える学習会などにもたびたび誘っていただいていました。
 しかし、私は何もしませんでした。
 もちろん、原発の危険性を隠蔽しながら原発を推進してきた政治家、官僚、電力会社、学者、マスメディアなどに重大な責任があることは言うまでもありません。
 法律上の用語を使って表現すれば、彼らは「確信的故意犯」と言ってよういでしょう。
 これに対し、原発は安全だという宣伝を真に受けてそう信じ込んでいた人も責
を免れませんが、この人たちは「過失犯」にとどまると言うべきでしょう。
 ところで、私のように、原発は危険だとうすうす知りながら何もしなかった者にはどういう責任があるのでしょうか。
 上記の法的比喩にならって表現すれば、「未必の故意犯」ということになります。
 「未必の故意」とは、重大な法益侵害のおそれがあることを認識しながら、あえてそれを阻止しようとせず、結果が発生しても仕方がないと放置する心的態度と言ば良いでしょうか。
 もちろん、「未必の故意」も故意犯には違いなく、過失犯よりも重い責任を負わねばなりません。
 多かれ少なかれ、大人には何らかの責任があるはずです。責任がないと断言できるのは子どもたちだけでしょう。
 ただし、原発事故について「個人的な責任」を負うと考えるかどうかは、結局一人一人が自らの良心と向き合って決めることです。そして、自分に「責任」があると自覚した者は、次に自分が何をしなければならないかを考えざるを得ません。
 直接の被災者にらなかった者のうち、3.11によって人生が「変わった人」と「変
わらなかった人」がいるとすれば、原発事故について「自分に責任がある」と考えたか否かがその大きな別れ目になっているのではないかと思います。
 
原発を考えるための切り口
 まず、原発は経済問題だと思いますか?経済を動かすための血管にも例えら
れる電気の安定供給のためにはリスクをおかしてでも原発を稼働しなければならないと思いますか?それから、コストの観点から見て原発は本当に優位性があるのでしょうか?
 このように、原発をもっぱら経済的観点から考える切り口はもちろんあります。
 それから、3.11前には決して公然と語られることのなかった原発と安全保障との関係が、3.11以降、はばかることなく語られるようになりました。例えば、石破茂自民党幹事長は、政権復帰前から、核抑止力を維持するために原発全廃してはならないと主張していましたし、読売新聞も社説で堂々と同趣旨の主張をしています。これが原発を安全保障の観点から考える切り口です。
 他方、北朝鮮と向かい合う若狭湾を中心とした日本海沿岸に、あれだけ多数の原発を林立させておいて、我が国の安全保障が成り立つはずがないという逆の方向からの安全保障論も有力に指摘されています。
 その他、原発を考える切り口は様々です。核物理学的観点、放射線防護学的観点(100ミリシーベルト以下は安全か、除染=移染はどれほど有効かなど)、法的観点(安全基準、事故発生後の補償問題など)等々。
 いずれも重要ではありますが、はたして「最重要」でしょうか?
 
原発と倫理
 私が原発問題を「倫理」と結びつけて考えるようになったのは、
福島第一原発事故が発生した後、誰が考えても責任があるだろうと思われる人たち中で、極端に言えば「誰一人として責任をとらない」ことに呆れかえったことがきっかけでした。
 もちろん、「責任」と「倫理」とは別のことですが、密接に関連しています。
原子力発電のシステムが、基本的に原子爆弾のために開発された原理、すなわちウラン235という物質を核分裂させることによって膨大なエネルギーを発生させるという原理を応用したものであることは、よく知られていることだと思います。
 そう、この原理を応用した最初の「成功例」が、広島への原爆投下であった
ことを私たちは決して忘れるべきではありません。原子力=核というシステムは、誕生の最初の瞬間から、倫理と厳しく対峙する宿命を背負っていたのです。
 しかし、直接軍事目的に使われないとしても、原発には、以下に述べるような問題が未解決であり、しかも、到底解決できるめどなどありません。
 まず、原発というシステムを運用するためには、どうしても避けられない「被曝
労働」の問題があります。ウラン原料の採掘従事者、稼働後の原発作業員、事故発生後の収束作業員、除染作業員・ボランティア等々。
 また、そもそも、東京や大阪のような大都市に何故原発は建っていないので
しょうか?火力発電所ならあるのに。危険を過疎地に押しつける原発立地指針という「構造的差別」を出発当初から抱え込んでいたのが我が国の原発というシステムです。
 それから、チェルノブイリや福島のような事故など起きなくても、原発は日常的に環境を汚染します。「排気筒」や「排水口」のない原発ってないでしょう?
 そして、何よりも最大の問題は、高レベル放射性廃棄物(いわゆる「核のゴミ」)の処理方法に全くめどが立っていないことです。
 我が国では、「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」によって、高レ
ベル放射性廃棄物は、地下300m以上の深さの地層に埋設する「地層処分」を行うことになっていますが、いかに多額の補助金を出そうとしても、最終処分場を受け入れようという自治体はどこにもありません。窮余の一策として、米国とともにモンゴルに押しつけるというとんでもない計画がスクープされた記事を読んだ記憶がある方もおられるのではないでしょうか?
 その上、この「地層処分」という方式自体、危険極まりないという有力な批判があり、ついに、原子力委員会から諮問を受けた日本学術会議は、昨年9月、「地層処分」を抜本的に見直し、「総量管理」と「暫定保管」という新たな枠組みで処理することを提言するに至りました。
 人類は、核生成物を「無毒化」する技術を持たず、今後とも持てる見込みはありません。
 地球上のウラン埋蔵量は化石燃料よりもずっと貧弱だと言われています。そん
な原料を利用して、20世紀後半から21世紀にかけてのわずかの間だけ原発を稼働し、その結果必然的に生み出される核のゴミを10万年後の子孫(そんなものがいればの話ですが)にまで押しつけるという選択は、「究極の世代間モラルハザード」と言わずしてどう表現できるのでしょうか。
 しかも、ひとたびチェルノブイリや福島のような過酷事故が起きれば、その被害ははかりしれません。膨大な数の人々から、事実上「永遠に」故郷を奪い、生き甲斐を奪ったことに対して、誰がどのようにしてその被害を償えるというのでしょうか?
 将来的な「科学の進歩」という漠然とした「夢想」によって、これらの問題が「い
ずれ解決できる」という論者は、「いずれ死者を蘇らせる技術を人類は手に入れるのだから、現在、少々人を殺しても差し支えない」と言うのと大差がないと私は思っています。
 「倫理」ということを難しく考える必要はありません。一人一人が自らの良心にこう問えば良いのです。「(代替手段もあるというのに)ただ電気を作るために、このような様々な問題に目をつぶることは、人としてやって良いことなのか否か」と。
 私は既に「答え」を出しています。
 あなたはどうでしょうか?
 
 ご静聴、ありがとうございました。