wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

伊勢﨑賢治さんの最近の論考から

 今晩(2013年4月17日)配信した「メルマガ金原No.1328」を転載します。
 
伊勢﨑賢治さんの最近の論考から
 
 和歌山にも何度か講演に来ていただいた伊勢﨑賢治(いせざき・けんじ)さんは、東ティモール、シェラレオネ、 アフガニスタンなどでの紛争処理を指揮され、現在は、東京外国語大学大学院(地域化研究科)教授として、紛争予防・平和構築講座を担当しておられます。
 また、紛争処理の現場から「9条」を見る独自の視点からの発言を積極的に重ねておられることも、皆さん、よくご存知のことと思います。
 
 その伊勢﨑さんの最近の論考を2つご紹介します。
 
 一つは、今年の3月11日、小池清彦さん(元防衛庁・防衛研究所長、教育訓練局長。現在、新潟県加茂市長) 、柳澤協二さん(元防衛庁・運用局長、防研究所長などを経て元内閣官房副長官補。現在、国際地政学研究所副理長)との共同執筆になる『「国防軍」私の懸念 安倍新政権の論点』(かもがわ出版)です。
 私は、3月10日、和歌山城西の丸広場で行われた「福島を忘れない!原発ロ 和歌山3・10フェスティバル」会場に出店したかもがわ出版のブースで買い求め、すぐに読了しました(薄い本なのですぐ読めます)。
 
 この中で伊勢﨑さんが担当されたパートは「第三章 護憲派に残された戦略はあるのか」という、なかなか厳しいタイトルの章で、小見出しを引用すると、
(1)セキュリタイゼーションで分析する戦争と平和
(2)「自衛への渇望」を生み出す国内、国際状況
(3)護憲派にできることは何なのか
というものです。
 このうち、(1)は、昨年(2012年)9月5日にマガジン9に発表した「原発で『テロ』が起こったら、あなたは、日本社会はどうしますか?『セキュリタイゼーション」から考える』」がそのまま使われています。
 
 結論としての「護憲派にできること」については、自ら考え、そして出来れば上記著書を読んでいただきたいのですが、私が最も注目したのは(2)で論じられている「自衛への渇望」という概念です。上記著書から一部引用します。
 
(引用開始)
要するに、現在の日本では、北朝鮮や尖閣問題で「右」が「侵略から国民の命を守る」ために、原発問題で「左」が「放射能から命を守る」ために、それぞれ熱狂しています。「自衛」のために熱狂するのは、左右を超えた現象なのです。
(中略)
ですから、憲法九条を変えたい側の「仕掛け人」にとって、「恐怖の残像」(金原注:原発故によってもたらされた「恐怖の残像」)を「自衛への渇望」へ変異させるセキュリタイゼーションを仕掛けやすい環境は、依然、続くと思います。放射能問題で命の恐怖を煽れば煽るほど、自動的に「自衛への渇望」に変異するということです。
(引用終わり)
 
 これを読んだだけで「憤慨」する人もいるでしょうし、私も最初はなかなか納得しがたかったのですが、今はこれも一つの分析として「あり得る」と思っています。
 単に世相の「右傾化」というだけでは何も説明したことになっていないわけで、このような分析枠組の提示は有益だと思います。 
 
 ところで、伊勢﨑さんが、この共著の出版を記念した「トーク&Jazz Live」を東京・吉祥寺で行った際の映像が公開されています(2013年2月20日収録)。
 メインは「Jazz Live」の方だったのかもしれませんが、とりあえず、「トーク」の部分を抜き出した映像をご紹介します。
 
トークセッション 1/3
トークセッション 2/3
トークセッション 3/3
 
 「Jazz Live」の方は10曲もアップされていますので、1曲目"Jennie"だけご紹介します。興味のある方はご自分で残りの曲を検索してください。
 
 それからもう一つ、伊勢﨑さんの論考でご紹介したいと思うのは、本日(2013年4月17日)「マガジン9」にアップされた「それでも、9条の『非戦』は有効か?」という文章です。
 
 これも、普通の「護憲派」にはない「実務家」としての発想が刺激的です。そのポイントを述べた部分を引用します。
 
(引用開始)
 ここまで書くと、僕は「非戦の平和観」を否定し、安倍政権が標榜するような法改正を支持しているのかという印象を与えてしまいそうですが、そうではありません。僕は、「非戦の平和観」の根源的な矛盾を認め、しかし、それを「良し」とする立場です。9条の文字通りの意味と自衛隊の存在との関係と同じように、「矛盾」があってもいい。「非戦の平和観」が、理不尽な理由で死ぬ人々が少しでも少なくなるために貢献してくれれば、「矛盾」なんて、どうでもいい。僕は、実務家ですから。
 ただ、少なくとも日本人が自分たちの信念として「非戦」を置くのであれば、そ
れがどのように形成されてきたものなのか、そして、<「非戦」ですべては叶わない>という現実を直視していただけたらな、と思います。
(引用終わり)
 
 そして、伊勢﨑さんの論旨とはややずれるかもしれませんが、「非戦の平和観」ということを考える際、どうしても思い出されるのは、中江兆民(なかえ・ちょうみん)が1887年(明治20年)に発表した『三酔人経綸問答(さんすいじんけいりんもんどう)』です。
 完全民主制による武装放棄や非戦論などを説く洋学紳士と、これを非現実的と論難して中国進出を主張する豪傑君との対立が、我が国ではいまだに繰り返されているのか思うと、いささか呆然とせざるを得ません。
 結局は、同書の末尾で南海先生が語るような現実的穏健主義に収斂するのであればともかく、その後の日本の歴史はそうはならなかった訳で、またぞろ豪傑君の主張が日本を席巻しようとしている今こそ、洋学紳士による非戦論の価値を再評価する必要もまた高いのだと思います。
 
『三酔人経綸問答』(新字・旧仮名によるテキスト)