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もう一度女性たちにこのような詩や歌を詠ませるのか?(與謝野晶子から考える)

 今晩(2013年4月30日)配信した「メルマガ金原No.1341」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
もう一度女性たちにこのような詩や歌を詠ませるのか?(與謝野晶子から考る)
 
 日本の近代短歌を語る際、逸することのできない歌人の1人として與謝野晶子(よさの・あきこ/1878年(明治11年)12月7日~1942年(昭和17年)5月29日)の名前を挙げることに異論のある者はいないでしょう。
 晶子はまた、源氏物語の現代語訳でも知られています。
 何故か私の手元には、源氏物語
  與謝野晶子(2種類)
の現代語訳があり、さらに逐語訳ではないものの、
  橋本治(窯変源氏物語
まで揃っているというマニアックぶり(?)ですが、実はこの中で最も読みやすいとったのは(文法的な正確性を横におけば)與謝野晶子訳でした。
 
 ところで、私が何故今頃になって與謝野晶子のことを思い出したかというと、源氏物がきっかけ、という訳ではなく、晶子が明治37年(1904年)9月、「明星」に発表した有名な一編の詩が、再びリアリティーをもって読まれる時代が来るかもしれなという強い「おそれ」を抱いたからに他なりません。
 
 
君死にたまふことなかれ   
 旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて

 
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
 
堺(さかひ)の街のあきびとの
舊家(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。
 
君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。
 
あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。
 
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。
 
 
 晶子の2歳年下の弟、鳳籌三郎(ほう・ちゅうざぶろう)を歌った詩で、弟は、このが書かれた前年に死去した父の名「宗七」を、商家の跡取りとして継ぐことになっていたようです。
 籌三郎が本当に旅順包囲戦に参加したかどうかの考証は未見なので何とも言えませんが、少なくとも晶子はそう聞いていたのでしょう。
 また、籌三郎が「陸軍予備歩兵少尉」であったというのを読んだことがあり、そうだとると、この階級の者は、歩兵突撃の際には真っ先に駆けざるを得なかったたため、しく戦率が高かった(特に旅順では)でしょうから、晶子の心配もひとしおであったと思われます。
 
 ところで、この『君死にたまふことなかれ』を賞揚しながら、その後の晶子の詩や歌における実作の変遷に対し、「反戦詩人の変節」と批判する向きが多いことをご存知でしょうか。
 
 例えば、第一次世界大戦開戦を題材として書かれた以下のような詩があります。
 
戦争
 
大錯誤(おほまちがひ)の時が来た、
赤い恐怖(おそれ)の時が来た、
野蛮が濶(ひろ)い羽(はね)を伸し、
文明人が一斉に
食人族(しよくじんぞく)の仮面を被(き)る。
 
ひとり世界を敵とする、
日耳曼人(ゲルマンじん)の大胆さ、
健気(けなげ)さ、しかし此様(このやう)な
悪の力の偏重(へんちよう)が
調節されずに已(や)まれよか。
 
いまは戦ふ時である、
戦嫌(いくさぎら)ひのわたしさへ
今日(けふ)此頃(このごろ)は気が昂(あが)る。
世界の霊と身と骨が
一度に呻(うめ)く時が来た。
 
大陣痛(だいぢんつう)の時が来た、
生みの悩みの時が来た。
荒い血汐(ちしほ)の洗礼で、
世界は更に新しい
知らぬ命を生むであろ。
 
其(それ)がすべての人類に
真の平和を持ち来きたす
精神(アアム)でなくて何(なん)であろ。
どんな犠牲を払うても
いまは戦ふ時である。
 
 
 ただし、この時代の晶子は、将来的には軍備撤廃も視野に入れながら、シベリア出兵を批判する文章(『何故の出兵か』1918年)を発表したという一面があったこと意すべきでしょう。
 
 晶子は、対米英開戦(1941年12月)の約半年後に死去したのですが、開戦の報を聞いた直後に短歌雑誌に寄稿した以下のような歌が知られています。
 
 
戦(いくさ)ある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く
水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ
子が船の黒潮越えて戦はん日も甲斐(かい)なしや病(やま)ひする母
 
 
 日露戦争に出征した弟に「君死にたまふことなかれ」と呼びかけた晶子が、その37年後の最晩年に、海軍大尉として戦地に赴く我が子(四男)に「たけく戦へ」と歌ているのですから、「変われば変わるもの」と落胆するのも分からないではありません。しかし、作品から受ける印象から言っても、私には、晶子の気持ちにそんなに大き変化があったとは思えないのですが、皆さんはいかがでしょうか?
 
 「晶子と戦争」への評価はさておき、反戦詩であれ、出征する我が子を思いやる歌であれ、これらはいずれも「歴史的作品」であり、二度と同じような詩や歌を詠む姉や母があらわれることはないだろうと思っていましたが、今また、再び日本の女性ちにそのような悲痛な詩や歌を詠ませようという動きが強まっています。
 日本の全ての女性たちに、「目覚めよ、さもなければ絶対に後悔する」と訴えたいですね。
 
(参考サイト)
「小さな資料室」( http://www.geocities.jp/sybrma/index.html )に掲載された
『君死にたまふことなかれ』
「ブログ高知」( http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/ )に掲載された「第
四稿 侵略戦争と与謝野晶子さん」
『晶子詩篇全集』(青空文庫
与謝野晶子全歌集(第一歌集~第二十六歌集ほか)