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“憲法9条 幣原喜重郎発案説”について(その1)

 今晩(2013年6月6日)配信した「メルマガ金原No.1379」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
憲法9条 幣原喜重郎発案説”について(その1)
 
 日本国憲法9条はなぜ生まれたのか?
 その真の発案者は誰か?
という疑問に対しては、様々な説が展開されてきました。
 主要なものだけでも、ダグラス・マッカーサー説、幣原喜重郎説、チャールズ・ケーディス説などがあり、支持者はそうはいないでしょうが、吉田茂説や昭和天皇というのまであるようです。
 また、折衷的に「幣原の発言を受けてマッカーサーが骨子を決定したとする説」なども有力なようです。
 
 このうち、一番関心をひくのは「幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)説」でしょう。
 なにしろ、新憲法の草案をGHQから心ならずも「押しつけられた」はずの日本政府の代表者(総理大臣)自身が、実は「9条の真の発案者」であったという説なのですから。
 従って、これまで様々な人がこの問題に取り組んできていますし、インターネット環境で読める範囲でも、かなりの資料を目にすることができます(「幣原喜重郎&「9条」で検索すれば相当な数のサイトがヒットします)。

 私も、かねてからこの「憲法9条 幣原喜重郎発案説」については、じっくりと考
えてみたいと思ってきたのですが、日々のメルマガ配信に追われ(?)、なかなか資料を集めて読んだり考えたりする時間がとれませんでした。
 そこで、一気に書き上げるのは断念して、少しずつ考えを進めていければと思うようになり、今日はその第1回です。
 
 文書で確認できる最初の「9条の原型」は、1946年2月3日、ダグラス・マッカーサーがGHQ民政局に憲法草案の起草を命じた際に示したマッカーサー・ノート3項目の内の第2項でした。ちなみに、第1項は天皇制の存続と国民主権(後の憲法1条に結実)、第3項は封建諸制度の廃止条項でした。
 
1945年2月3日 「マッカーサー・ノート」第2項
War as a sovereign right of the nation is abolished.
Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security.
It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection.
No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.
国家の主権としての戦争は廃止される。
日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手
段としての戦争も放棄する。
日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に信頼す
る。
日本が陸海空軍を保有することは、将来ともに許可されることがなく、日本軍
に交戦権が与えられることもない。
 
 ここで示された原則が、その後の紆余曲折を経て、日本国憲法9条となった訳ですが、問題は、マッカーサーは、いつどういう経緯でこの第2項で示した原則を思いついたのか?ということです。
 
 マッカーサーが、GHQ自身で憲法草案を起草することを決意するきっかけとなったのが、1946年2月1日、明治憲法の改正を審議していた日本政府の「本委員会」による改正草案の内の1つが毎日新聞によってスクープされ、その内容のあまりの不十分さが明らかになったことであると一般には理解されています。
 そして、毎日新聞スクープのちょうど1週間前の1月24日、幣原喜重郎首相マッカーサーを訪ね、約3時間にわたって通訳を交えず、2人だけで会談したことが知られており、これが「幣原喜重郎発案説」の基礎となる事実です。
 この会談は表向きは、肺炎に罹患した幣原のためにGHQペニシリンを提供してくれたことへのお礼という儀礼的な私的訪問であったということになっていたようですが、そんな用事であれば、2人きりで3時間も会談などしないでしょう。
 少なくとも、幣原首相にとっては、何らかの政治的意図をもった「会談」であったと考えるのが当然です。
 様々な証拠から考えて、幣原の最大の目標が「天皇制存続」の保証の取り付けであったということは、多くの論者が認める一致点ではないかと思います。
 その上で、戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認という、その後「日本国憲法9条」となる基本原則について、2人の間でどのような話がなされたのか、陪席者がなく、当事者が没した現在、まずは2人の当事者自身が残した証言(自伝、聞き書きなどを含む)を吟味し、当時の政治的環境の中にそれらの証言を適切に位置付けて判断するしかない訳です。
 
 今回は、そのような証言のうちの一つをご紹介します。かつて内閣に設置された憲法調査会が収集した資料の一つであり、幣原元首相の側近であった衆議院議員平野三郎氏が、幣原氏急逝(昭和26年3月10日)のわずか10日余り前に、同氏から親しく聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情を記録していたメモです。
 この平野三郎氏による聞き書き憲法調査会によって印刷に付され、現在、国立国会図書館に収蔵されており、閲覧謄写が可能ということで、全文引しているサイトが複数あります。
 
 
※ こちらは残念ながら末尾に脱落があります。
 
 かなり長いものですが、興味を引かれて一気に読了できるでしょう。
 1946年1月24日のマッカーサーとの会談の模様を述べた部分の前半の用します。
 
(抜粋引用開始)
答 そのことは此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十一年)の春から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言い出すようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つに密接にからみ合っていた。実に重大な段階であった。幸いマッカーサー天皇制を維持する気持ちをもっていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決まっていた。所がアメリカにとって厄介な問題があった。それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備したら大変である。戦争中の日本軍の行動はあまりにも彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。日本人は天皇のためなら平気で死んでいく。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の評決ではアメリカは孤立する恐れがあった。この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。
 豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを
問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である豪州その他の諸国
は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることができる。
 この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名
案である。もっとも天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に戻ったもので
あり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。 
 この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側から
こんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳
であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。
 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、
これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君にさえも打ち明けることのできないことである。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二一年の一月二四日である。その日僕は元帥と二人きりで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。
(引用終わり)
 
 これだけ読めば、「憲法9条 幣原喜重郎発案説」で決まり、と思うでしょうが、ことはそう単純ではないということは、(その2)以降で検討したいと思います。