今晩(2013年10月21日)配信した「メルマガ金原No.1519」を転載します。
なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
今日(10月21日)の東京新聞・社説を読んで驚きました。
皆さんも是非ご一読ください。
(抜粋引用開始)
(略)
安吾の精神は、憲法論に遺憾なく発揮されます。特に、評価を与えたのが、国際紛争を解決する手段としての戦争と、陸海空その他の戦力を放棄した九条でした。
<私は敗戦後の日本に、二つの優秀なことがあったと思う。一つは農地の解放で一つは戦争抛棄(ほうき)という新憲法の一項目だ><小(ち)ッポケな自衛権など、全然無用の長物だ。与えられた戦争抛棄を意識的に活用するのが、他のいかなる方法よりも利口だ>(文芸春秋「安吾巷談(こうだん)」)
<軍備をととのえ、敵なる者と一戦を辞せずの考えに憑(つ)かれている国という国がみんな滑稽なのさ。彼らはみんなキツネ憑きなのさ><ともかく憲法によって軍備も戦争も捨てたというのは日本だけだということ、そしてその憲法が人から与えられ強いられたものであるという面子に拘泥さえしなければどの国よりも先にキツネを落す機会に
めぐまれているのも日本だけだということは確かであろう>(文学界「もう軍備はいらない」)
東西冷戦に突入し、核戦争の恐怖が覆っていた時代です。軍備増強より、九条の精神を生かす方が現実的との指摘は、古びるどころか、今なお新鮮さをもって私たちに進むべき道を教えています。
(略)
(引用終わり)
しかも、私の自宅には、ちくま文庫版「坂口安吾全集」(全18巻)が全冊揃って本棚に並んでいたというのに!
実は、全集を買ったものの、私が読んだのは第11巻~第13巻に収録された探偵小説(『不連続殺人事件』『復員殺人事件』『安吾捕物帖』等)と評論、短編を少々だけだったもので。不覚でした。
もっとも、「坂口安吾って誰?」という人がいるかもしれないので、手元にある「坂口安吾全集」のカバー裏に書かれたプロフィールを引用してみましょう。
(引用開始)
1906年(明治39年)、新潟市に生まれる。本名は炳吾。19年、県立新潟中学校入学。3学年の時、東京の私立豊山中学校に編入学。26年、東洋大学文学部印度哲学倫理学科に入学。30年、同校卒業。同人雑誌「言葉」創刊。31年6月発表の「風博士」が牧野信一に激賞され、新進作家として認められる。戦後、「堕落論」「白痴」などで新文学の旗手として一躍脚光を浴びる。47年9月、梶三千代と結婚。49年、芥川賞選考委員に推される。55年2月17日、「安吾新日本地理」の取材旅行から帰宅後、脳出血で死去。
(引用終わり)
しかし、これだけではイメージが掴めないという人も多いだろうと思いますので、東京新聞も引用していた『堕落論』を読んでみることをお勧めします。
もっとも、この回の眼目は、憲法9条を賞揚することではなく(それは最後に出てくるだけで)、コミンフォルムの言いなりであるとして日本共産党を批判することにあったことは注意すべきです(タイトルの「野坂中尉」というのは「野坂参三」を揶揄した表現です)。
従って、坂口安吾の「戦争観」「憲法観」を知るには、タイトルからしてそのものずばりの『もう軍備はいらない』こそ読むべきでしょう。
かなりの長さがありますが、是非とも全文読んでいただきたいと思います。安吾が経験した空襲下の東京の惨状を、一見即物的とも思える独特の文体で描写していきます。
特に心に残った文章をいくつか出してみます。
(抜粋引用開始)
「けれども権力に無抵抗主義の日本人は近づく戦争にも無抵抗で、戦争も一ツの天災だというようにバクゼンと諦めきっているのかも知れない。そして、天災に襲われ叩きのめされてもたじろがず、ツルハシやクワを握って立ち上り立ち向う根気をこの上もない美徳と考えているのかも知れないな。また、天災にそなえて非常米を備蓄するのと同じように軍備というものを考えているのかも知れない。しかし戦争は天災ではないのだから、努力や工夫や良識によってそれを避けることもできるし、非常米のように軍隊をたくわえておく必要が不可欠のものでは決してない」
「自分が国防のない国へ攻めこんだあげくに負けて無腰にされながら、今や国防と軍隊の必要を説き、どこかに攻めこんでくる兇悪犯人が居るような云い方はヨタモンのチンピラどもの言いぐさに似てるな。ブタ箱から出てきた足でさッそくドスをのむ奴の云いぐさだ」
「泥棒の心配で夜もオチオチ眠れないような身分になってみたいもんだというのは重々ゴモットモではあるが、金持は泥棒の心配をしなければならないものだという天の定めがあるわけではない。金持になって、おまけに泥棒の心配をせずにすむなら、これに越したことはないさ。国防は武力に限るときめてかかっているのは軽率であろう」
「戦争や軍備は割に合わないにきまっているが、そのために大いに割が合う少数の実業家や、そのために職にありつける失業者や、今度という今度はギャバ族のアラモード、南京虫、電蓄、ピアノはおろか銀座をそッくりぶッたくッてやろうと考えながらサツマイモの畑を耕している百姓などがあちこちにいて軍備や戦争熱を支持し、国論も次第にそれにひきずられて傾き易いということは悲しむべきことではあるが、世界中がキツネ憑きであってみれば日本だけキツネを落すということも容易でないのはやむを得ない。けれども、ともかく憲法によって軍備も戦争も捨てたというのは日本だけだということ、そしてその憲法が人から与えられ強いられたものであるという面子に拘泥さえしなければどの国よりも先にキツネを落す機会にめぐまれているのも日本だけだということは確かであろう」
(引用終わり)
初めて安吾の文章を読む人は、そのカタカナの使い方や、一見、ひねくれているのだろうか?と誤解しかねない文体にとまどうかもしれませんが、じっくりと読み込めば、自らの体験を血肉とした上で、真実の言葉を紡ごうとしている誠実な文学者の相貌が浮かび上がってくるはずです。
このような貴重な文章に気付かせてくれた東京新聞・論説室に心より感謝したいと思います。