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戦没者・戦争犠牲者はどのように追悼すべきか?(長野県中川村の場合)

 今晩(2013年12月23日)配信した「メルマガ金原No.1582」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
戦没者・戦争犠牲者はどのように追悼すべきか?(長野県中川村の場合)
 
 法学館憲法研究所の「今週の一言」コーナーを閲覧したところ、久しぶりに長野県上伊那郡中川村の曽我逸郎(そが・いつろう)村長の名前を拝見しました。
 曽我村長ご自身が書かれた「国旗とこの国の姿」という文章です。そんなに長いものではありませんので、是非全文をリンク先でお読みいただきたいと思います。
 曽我村長は、現在の日本が、真の国民主権国家を生みだすことができるかどうかの岐路にあると捉え、「そもそも主権とは、手に入れても盗まれないようずっとしっかり身につけていなければならないものだ。腰を据えて、統治側に対抗し続けていくしかない。つまり、学び、意見を表明し、批判し合い、行動することだ。でっちあげられた空気に委縮せず、壁を壊しフレッシュな空気に入れ替えるのだ」と呼びかけています。
 
法学館憲法研究所 今週の一言 2013年12月23日
国旗とこの国の姿 曽我逸郎さん(長野県中川村長)
 
 なお、以前、私がメルマガ(ブログ)でご紹介した曽我逸郎氏の「メッセージ」も是非読みいただければと思います。
 
弁護士・金原徹雄のブログ
曽我逸郎中川村村長(長野県)からのメッセージ
 
 ところで、上記の文章を読んだのを機に、中川村役場ホームページにある「村長の屋」コーナーを久しぶりに訪れてみました。
 そして、最近の「村長からのメッセージ」にざっと目を通してみると、リニア新幹線問(工事用車両が長期間、大量に村内を通過することが予想される)についてのJR海とのやりとりが報告されている他、「脱原発をめざす首長会議」が12月15日に行った3つの決議が紹介されており、特に後者は、これ自身としてメルマガ(ブログ)で取り上げる価値があるなと思ったのですが、とりあえずは、「脱原発をめざす首長会議」公式トをご参照ください。
 
 ところで、今日のメルマガ(ブログ)でご紹介しようと考えたのは、リニア新幹線や脱原発をめす首長会議のことではなく、今年(2013年)の6月3日に村が主催して開催した「中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式」をめぐる、曽我村長と中川村遺族会との「意見の乖離」についてです。
 曽我村長による「式辞」、これに対する遺族会の「抗議文」、そしてこの問題についての曽我村長による詳細な見解の表明が、3回にわたって「村長からのメッセージ」欄に掲載されています。
 
中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式 式辞 (2013年6月3日)
 
先の「中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式」について
中川村遺族会から抗議文を拝受 (2013年6月18日)
 
戦没者・戦争犠牲者慰霊祭はどうあるべきか 
中川村遺族会から抗議文を受けて (2013年7月10日
 
 近い身内に戦没者や戦争犠牲者がいなかったため、私自身は、「戦没者・戦犠牲者追悼式」に参加したことは一度もありませんので、「普通の」追悼式がどのように行われるものかは分からないのですが、会場に日の丸が掲げられていないというのは多分「異例」なのでしょうね。
 
 そして、曽我村長のような「式辞」を述べる首長も、たしかにそうはいないだろうな、と思います。
 「式辞」の主要部分を抜粋して引用しようと思ったのですが、どこをカットしようとしても、趣旨が十全に伝われないように思えましたので、全文引用することとしまた。
 
(引用開始)
 中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式を挙行いたしましたところ、ご多忙の中、上伊那地方事務所長様はじめ、ご来賓各位、ならびに大勢の方々にご列席を賜り、真にありがとうございます。
 明治以降、幾多の戦争、事変があり、人が消耗品として扱われ、多くの人命失われました。中でも昭和期の日本軍においては、兵站も無視した精神主義杜撰な作戦が繰り返され、おびただしい数の兵士が、餓えや病気で命を落としした。食料等の現地調達を強いられた兵士たちは、現地の人々と争い、恨みをかい、殺された兵士もいました。反対に、必要物資調達のため、あるいは軍事情報保持のため、戦地の一般住民を殺害した兵士もいます。兵士のみならず、内外のおびただしい一般住民が、戦禍の巻き添えになって命を失い、人としての尊厳を踏みにじられ、暮らしを破壊されました。
 なんとか命を永らえて1945年の敗戦を迎えた人たちは、新しい憲法の平和主
義、戦争の放棄を心の底から喜びました。戦争の悲惨さ、愚かさを骨身にしみ痛感していたが故の喜びであったに違いありません。
 であるのに、敗戦後68年が経とうとする今、日本国憲法前文において国家
名誉にかけ全力をあげて誓った崇高な理想と目的を忘れ、我が国を、現実妥協的に戦争をする、ありふれた、普通の、凡庸な、志のない国にしようとする
人たちが現れています。外交力、政治力で問題を解決する自信を持てずに、軍事力に頼ろうとする人たちであり、戦争の悲惨さ、愚かさを忘れた、まさに平和ボケの人たちだと言わざるを得ません。
 のみならず、集団的自衛権という聞こえのよい言葉によって、日本の若者を、
国が自分の都合で始める戦場へ下働きとして差し出そうとしています。かつて鬼畜米英と呼び、「生きて虜囚の辱めを受けず」と叩き込み、兵士たちにバ
ンザイ突撃を強いた、その相手の軍隊の指揮命令の下に、我が国の若者を送り込み、戦わせようとしています。沖縄を筆頭に、我が国の国土がその軍隊の好きに使われているのに、我が国の政府は唯々諾々とその意向に従っています。
 戦争の犠牲にされた方々は、今のこの状況をどのように感じておられるでしょう
か。自分たちは一体何のために故郷から引き剥がされ、戦わされ死なねばならなかったのか、と憤っておられるのではないでしょうか。自分たちの犠牲が、忘れ
去られ、まったく教訓にされていないことに、歯ぎしりをして悔しがっておられるに違いないと思います。
 日本国憲法前文に謳ったとおり、日本国民のみならず「全世界の国民が、ひ
しく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」し、の実現を真摯に目指すことこそが、戦没者・戦争犠牲者となった皆さんの心に適うことであり、日本を自ら誇れる国にし、世界中の人々から敬愛される国にすることであると信じます。
 本日のこの式典が、戦争によって命を奪われた方々がどんな想いで亡くなっ
ていったのか、もう一度じっくりと想いを巡らせ、今の私たちの有り様を冷静に振り返ってみる機縁となることを心から願い、式辞といたします。
(引用終わり)
 
 これに対し、追悼式の15日後に中川村遺族会が村長に突きつけた「抗議文」は以下のとおりです(「式辞」を全文引用しましたので、「抗議文」もバランスをとって全文引用します)。
 
(引用開始)
 本年6月3日に挙行された「中川村戦没者 戦争犠牲者追悼式」において、村長は自らの考えと意思で国旗の掲揚を行わなかった。
 また、村長式辞においては、先の大戦で、祖国を思い、家族を案じつつ戦
場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、異郷の地で亡くなった私たちのかけがえのない家族への哀悼の言葉さえ語られなかった。
 この式典に参列した遺族会役員や会員からは、村長や村のこうした対応
について、悲しみと怒りの声が発せられた。
 このことは、村民はもとより、本遺族会戦没者並びに戦争犠牲者に対
する冒涜であり、断固として許すわけにはいかない。
 いかなる理由があろうとも、式においての中心は、戦没者であり、戦争犠
牲者である。
 公人である村長としてのこうした行為は、私たちの思いを踏みにじる暴挙
であり、強い怒りを覚えるものである。
 貴殿には、我が国の安定と発展を願い続けた戦没者等のためにも、国
旗の揚と追悼の意を表明する神聖かつ清浄な式典を挙行するよう要請する。
(引用終わり)
 
 さて、この「式辞」と「抗議文」を読み比べてみて、どう思われたでしょうか?
 日の丸に「一礼」しないのは良いとしても、遺族の感情に配慮して「掲出」だけでもしておくべきだったという方がおられるかもしれませんね。
 また、たしかに「抗議文」が指摘するとおり、中川村関係の戦没者・戦争犠牲者を直接追悼することばがなかったのは問題だと思われたでしょうか?(この点は曽我村長自身が後に認めています)。
 逆に、「冒涜」「断固として許すわけにはいかない」「私たちの思いを踏みにじる暴挙」「強い怒りを覚える」などと羅列された遺族会の過激なことばに強い違和感を覚え、その流れで「神聖かつ清浄な式典」という表現にも全く共感できないという人もいるでしょう。
 
 ただ、いずれにしても、戦没者・戦争犠牲者を追悼するとはどういうことかその目的に最もふさわしい式典はどうあるべきか?について、これを村民自らが考えるための素材がフェアに提供されているということに私は感銘を受けました。
 
 これは中川村のことではありますが、私たち全ての問題でもあります。自分が首長であればどうするか?遺族会の者であればどう感じるか?という風に、「我がこと」として思いをめぐらすことの重要性を教えてくれるやりとりだと思いました。
 
 最後に、遺族会が「抗議文」を提出した約3週間後、曽我村長が「抗議文」での申し入れに対する一応の回答として公表した文章の中から、特に皆さんにも読んでいただきたい後半部分(「国旗掲出」の是非について)をご紹介します。
 国旗を掲出することによって、戦没者・戦争犠牲者に「犠牲を強いた側をい詰めることに蓋がされてしまう」ことになるとの曽我村長の指摘は重要だと思います。
 私もよく考えてみたいと思います。
 
(抜粋引用開始)

 

 しかし、抗議の1点目、国旗の掲出に関しては、じっくりと考える必要があると思う。
 これまで様々な戦没者追悼式に出席し、そこに国旗を見るたびに心の奥
に違和感を感じてきた。その理由を考えた結果、今回は国旗を置かないように準備の段階から頼んでいた。
 「お国のために死んだのに、国旗がなくて悲しかった、村長に日の丸を奪わ
れた…」遺族会の中にはそういう声もあったそうだ。
 確かに、「国のために命を捧げたのだ」と考えることによって、愛する親族の
死に意味を与えたい、無駄に死んだのではないと納得したいという遺族の気持ちはよく分かる。そうとでも考えないと親族を奪われた理不尽さは収拾できない。しかし、遺族のそういったつらい思いが、利用されてきた側面もあるのではないだろうか。
 私の言いたいのは、顕彰ということだ。戦没者を国のために命を捧げたとし
て広く知らしめ讃える。純粋な追悼に顕彰の要素が注入されることで、「国のためになくなった」と死に意味が与えられる。しかし、同時に、「立派だ、見習うべきだ」という空気も生み出されるのではないか。ひとりの兵士の死が後に続く兵士らの獲得に利用される。これは日本だけのことではない。世界中で昔から繰り返されてきた手法だ。国旗の掲出は、戦没者・戦争犠牲者の追悼に顕彰の意味合いを混ざり込ませてしまう。それは避けるべきだと私は思う。
 「国ではない、家族や郷土のために亡くなったのだ、だから顕彰すべきだ」
という意見もあろう。しかし、戦争を考えるとき、私たちがしなくてはならないことは、自己犠牲の顕彰以上に、兵士たちを自己犠牲せざるを得ない状況に追い込んだのは何か、突き詰めて考えることではないか。どこで誰がどういう決定をして、兵士たちは死なねばならない状況に追い込まれたのか。自己犠牲の顕彰よりも、犠牲を強いた側を問うことが重要だ。
 戦争に至る歴史を検証することである。歴史のどの段階、どういう状況で、
誰がどんな決定を下し、どういう結果を導いたのか。それを認識し、今の状況につき合わせて、今を検証しなくてはならない。それこそが戦没者・戦争犠牲者慰霊祭を毎年行う意義であろうし、故郷の暮らしから引き剥がされ、将来の夢や計画を奪われ、異郷の地で悪縁にまみれさせられ、命を奪われ戦没者や、未来と命を絶たれた戦争犠牲者の心に適うことだと信じる。戦没者・戦争犠牲者は、自分達のような犠牲者を二度と生み出さないことを願って亡くなったに違いないと思う。
 ところが、慰霊祭の壇上に国旗が掲げられることで、犠牲を強いた側を問
い詰めることに蓋がされてしまう。歴史を検証し今を検証することは憚るべきことであるかのような空気が醸しだされ、自己犠牲の顕彰ばかりが強調されることになってしまう。
 戦没者・戦争犠牲者慰霊祭を、純粋な追悼の場として保ち、顕彰を排
除し、人々が戦争の犠牲にされるに至った過程を検証し、再び戦争の犠牲にされる人を生まないために今を検証する機会とするために、現状の空気においては、国旗の掲揚はないほうがいいと思う。
 来年の式典までにさらに考えを深めねばならない。
 ご意見お聞かせ下さい。
(引用終わり)