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松浦雅代さん『福島県を訪れて』(原発がこわい女たちの会ニュース第87号より)

 今晩(2013年12月28日)配信した「メルマガ金原No.1588」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
松浦雅代さん『福島県を訪れて』(原発がこわい女たちの会ニュース第87号より)
 
 松浦雅代さんからお送りいただいた原発がこわい女たちの会ニュース第87号に、面の半分以上を割いて、松浦さんの福島県訪問記が掲載されていました。
 これだけ独立してお読みいただいた方が良いだろうと判断し、先ほどのニュース第87号に引き続いてお送りします。
 なお、今さら説明するまでもないとは思いますが、松浦雅代さんは、「原発がこわい女たちの会」代表、「子どもたちの未来と被ばくを考える会」共同代表を務めるとともに、様々な原発停止訴訟の原告団に加わるなど、長年にわたって「脱原発」と「いのち」に関わる活動に献身してこられた方です。
 

原発がこわい女たちの会ニュース NO87号・2013年12月27日発行
事務局〒640-0112和歌山市西庄1024-15 ℡・fax073/451/5960松浦雅代方
原発がこわい女たちの会ブログ http://blog.zaq.ne.jp/g-kowai-wakayama/
 
 
       福 島 県 を 訪 れ て
  
                       松 浦 雅 代
 
初めての福島訪問
 初めて福島県を訪れました。10月30日から11月2日までの3泊4日。4日間とても良いお天気でした。
 昨年当会で講演して頂いた橘柳子さんを、現在お住まいの本宮市の仮設住宅
に訪ねました。
 
福島空港に着いて 
 福島空港と伊丹空港間で毎日5往復飛んでいるのがわかり、伊丹空港から福島
空港に約1時間で到着しました。
 飛行途中、機長から、飛行機は高度7000mを飛んでいます、紅葉した山々、雪
を頂いた富士山が見えます、とのアナウンスがあり、私は窓から下を見ていて、田畑や家が幾何学模様にきれいにいつまでも観れるので気になっていたところだったので納得しました。福島空港に5分早く着きました。
 福島空港からバスで郡山まで45分でした。郡山駅から東北本線で本宮まで約1
5分位でした。駅から橘さんの車ですぐに仮設に着きました。 
 
線量計の数値
 「女たちの会」所有の簡易空間線量計を持って行ったので、福島の飛行場の玄関先でバスを待つ間測定すると、思っていたより低く、和歌山と同じ位でしたので、まず安心しました。
 バスに乗って郡山市に近づくと段々高くなり、郡山駅から東北線に15分位乗車しましたが、車内では0.2μシーベルト/h以上で変動して行くのを確認して、少し心配になって来ました。
 本宮市で下車し、本宮の仮設住宅の近くに行くとモニタリングポストが建っていました。わたしが持参した空間線量計の数値の方が高かったです。
 私はこのあとも他の仮設住宅を橘さんに案内してもらい何箇所か見学しました。だいたい仮設住宅は公園の中に建てられていて、駐車場などはセメントで整地しています。そんなところは数値は低いのですが、そこから少し離れた草原や山の近くは軒並み高い数値になります。写真の橘さん御夫妻の仮設住宅の中では0.23μシーベルト/hでした。
 本宮市の仮設住宅そばの公園の中にモニタリングポスト(0.324μシ―ベレト/h)が設置されていましたが、何回か測定しても私が持参した線量計とは数値が大幅に違いました。橘さんももっと高いはずだと云う事でした。私の空間線量計では0.762μシーベルト/hでした。モニタリングポストの数値が変化しないのです。
 
浅香荘(磐梯熱海温泉)に宿泊
 その夜は、浅香荘に泊まりました。郡山市にありますが、会津に近い「磐梯熱海温泉」という温泉地です。ここで3泊しました。
 この周辺は線量が低かったです。右の写真は私の泊まった部屋の数値です(和歌山の私の家も瓦屋根の下はこれ位あります)。しかし屋外はやはり5割方高かったです。
 浅香荘は、小じんまりした宿舎で宿泊客は女性が多いようです。源泉でなめらかな良いお湯でした。
 
2日目 佐藤栄佐久氏を訪問
 2日目の今日(11月1日)は、前の福島県知事の佐藤栄佐久氏宅を訪問しました。
 福島県で私の記憶にある名前は、かつて県知事をつとめていた佐藤栄佐久氏でした(佐藤栄作ではありません)。橘さんに「佐藤栄佐久さんに会えないかな」とお聞きしたところ、「いとこ」を知っているから聞いてみると云う事で、この日会えることになりました。
 栄佐久さんの「従兄弟の佐藤さん」が運転する車で栄佐久氏宅に着くまで、佐藤さんにもお話しをお聞きしました。17回も東京地検特捜部に呼び出されたそうです。収賄罪は無理と分かったのか、選挙違反(選挙事務所が3か所と決まっているそうです。それ以上事務所があったので)で罪に問われたそうです。
 私は2003年に朝日新聞の「私の視点」欄に載った福島県知事佐藤栄佐久氏の「核燃サイクル立ち止まり国民的議論を」というタイトルの記事を読んで、国民的議論をと主張する知事さんがいる事で、大きな期待と希望が膨らんだのを覚えています(この年和歌山県の御坊市に中間貯蔵施設誘致の問題が突然浮上していた)。
 佐藤栄佐久氏は1988年から福島県の知事でした。国の原子力・地方自治政策に県民の視点から国と妥協しない姿勢で、知事を18年務めた人です。2006年、事実なき談合関与の疑いで辞任。その後逮捕された時、私は「やられたな」と直ぐに思いました。佐藤栄佐久氏が『知事抹殺』平凡社発行(2009年)に詳しく書かれています。福島事故後『福島原発の真実』平凡社新書(2011年)にも、国の原子力行政が如何に嘘と誤魔化しであったかを書かれています。そしてあとがきに、求めに応じて本書を書こうと決意したのは、次のような理由だとあります。それは、「福島原発事故後の原発政策、ひいては震災後の福島、そして日本のあり方について、これから私たちは真剣に考え、議論しなければならないと思うからだ。いままでのように、上から下りてくるものをただ受け入れるのはやめよう。個人が考え、地域で議論し、それを市町村に、さらに県に、そして国に─。これこそが新しい国のあり方であり、地方自治のあり方でもある。」と。
 佐藤さんに昼食を御馳走になった後、栄佐久氏宅訪問。橘さんも初対面だと云う。
 栄佐久氏の話は、1987年に当時自民党の中曽根康弘氏のヨーロッパ視察に随行した時のことから始まり、肉の料理が出て来た時、この肉はチェルノブイリの影響はうけていないと説明があったそうです。その時こんなに離れていてもと云う気がした、と言っていました。彼はすごく話したい事が多くて、質問すると実に詳しく説明して下さる。だから時間が直ぐに経過して2時間以上になったので、従兄弟さんからこのへんにしときましょうと云う事で佐藤栄佐久氏の家を後にしました。栄佐久氏はこのところ取材等が多く、明日も取材があり11月中旬にはニューヨークで講演するその準備中だと言われていました。(写真は佐藤栄佐久氏宅の応接間にて、左から松浦・栄佐久氏・作田さん・橘さん)
 
(金原注)佐藤栄佐久氏の起訴罪名は収賄だったと思います。詳細は以下のサイなどをご参照ください。
佐藤栄佐久の冤罪事件まとめPart1
佐藤栄佐久の冤罪事件まとめPart2
 
3日目 浪江町に行く
 3日目の11月2日は浪江町に行って来ました。
 この日は橘さんの夫君・毅氏の運転で、本宮市の仮設住宅から片道約2時間
30分かけてご夫妻の浪江町の御自宅にお伺いしました。臨時通行許可書が必要でした。(私も事前に申請して貰っていました)
 本宮市仮設を9時20分頃出発→(国道4号)→川俣・原町線→(県道12号)→飯舘村(⇒車の中でも急に線量が高くなり、飯舘村の除染作業、写真撮影
車の中から撮りました。この一帯は山も除染作業中でした。)→南相馬市(原町ポプラで昼食。室内の線量は浅香荘と同じ位でした)→(国道6号線)→請戸港→請戸小学校(請戸港は線量は低かったので外に出て写真を撮りましたが、福島第原発から直線で約7kmのところにあり港から原発が見えました。請戸小学校は港からすぐのところに残ってありました。生徒は大平山に全員無事避難しました。請戸小学校一帯が除染整備で、12月から立ち入り禁止になったそうです。)→(国道114号)→大平山→浪江→下町・新町・駅前通り・中央公園・本城通り→橘さん宅着。
 避難して人がいない街を走り抜けました。
 橘さん宅の庭の芝生の上で4・3μシーベルト/h、家の中では1・2μシーベルト/
h位でした。庭でも5μ以上のところもあり、浪江町も国の帰還政策で除染するようになったそうです。屋根の除染と芝生のはぎとり等で、仮設住宅より放射能が低くなれば誰だって帰りたいと思いますよね。橘さんの浪江の自宅は地震や津波の大きな被害を受けていないからか、電気も水も使えるので、水洗便所はお借り出来ました。福島県は東北電力管内なのですよね。浪江町に入ったところに東京電力の常駐場所があり、そこに立ち寄り殺鼠剤を貰って、それを家の中の部屋ごとに新聞紙を敷き水色のクスリを撒く作業を済ませて、帰路に着きました。台所などはネズミの糞だらけでした。
 
(金原注)請戸(うけど)小学校については以下のサイトなどを参照してください。
原発20キロ圏内のリアル】原発が近く1ヶ月以上捜索が入らなかった――浪江町立請戸小学校
【「逃げろ」命守った判断】 学校の津波対応 「運が良かっただけ...」 間一髪、課題残す(福島民報
請戸小学校(うちのとらまる)
 
原子力被災者の思い
 初日、仮設住宅で橘 毅さんに初めてお会いした時、整理された新聞紙の山とテレビだけの部屋で「人間は慣れるものですな―」と話された言葉が私の中に残っています。
 仮設住宅で2年間過ごされて、NHKテレビで被災者の声として毅さんは「喪失
感」、柳子さんは「避難の民を棄民にするな」と訴えられたそうです。
 今回の福島の事故によって何もかも失ってしまったのだ、辛うじて持ちこたえている
魂までもが、あと何年持ち続けられるであろうかと、私は福島から和歌山に帰ってきてからも悶々とした日を送り、原子力災害の無情さを払いのける事が出来ませんでした。たち切られるのだ何もかも。ニオイも痛みも何も感じない放射性生成物によって。
 私は簡易放射線測定器を持って行きました。痛くもかゆくもない放射線量を知る
ために必要でした。福島県に入ってから常に福島第一原発事故由来の放射性生成物が身近にあると云う事に、戸惑っている自分がいました。行く前から言葉ではわかっていた事でしたが、生活環境が汚染されてしまうとどうする事もできない事を初めて実感して帰って来ました。         

(福島県は和歌山県より面積で3倍以上、人口でも2倍以上ある大きな県です)