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今こそ読もう!『9条どうでしょう』(ちくま文庫)

 今晩(2014年1月9日)配信した「メルマガ金原No.1600」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
今こそ読もう!『9条どうでしょう』(ちくま文庫
 
 「メルマガ配信1500号到達!ありがとうございました(付・米国政府と安倍政権微妙な関係)」(2013年10月2日付)を配信したのはついこの前であったように思いますが、それから「毎日配信」を続け、今日(2014年1月9日付)で「1600号到達」です。
 本来であれば、いつも以上に気合いの入った原稿が書ければ良かったのですが、連休中ならともかく、平日で、しかも夜に開かれる会議に出席していて帰宅が遅くなったため、とてもそんな時間はありません。
 
 ということで、昨年(2013年)の元旦に配信した「元旦に読む『9条どうでしょう』ちくま文庫)」を、1年ぶりに再配信することにしました。
 「手抜き」といえば「手抜き」ですが、しばらく前からこの原稿を「再配信」してはどうだろう?ということは考えていました。
 内田樹(うちだ・たつる)さんら4人の識者が、2006年、第一次安倍晋三政権誕生の少し前に書かれたこの本が、第二次安倍政権誕生の直前に文庫化されたこに感慨を覚え、1年前の私は「まさに、必要とされるタイミングで世に出る『宿命』帯びた本なのかもしれないと、み終わった今、そう考えています」と書いています。
 
 そして、それから1年が経ちました。状況は、誰も予想し得なかったほどの勢いで悪化の一途をたどっており、内田さん自身、「次の選挙までに日本を戦闘の当事者とする戦争が始まってしまったら、その結果、国内外で日本人を標的とするテロが行われるようなことがあったら、もう次の選挙はこれまでの選挙のような牧歌的なものではありえないからです。(略)安倍政権にこれ以上の暴走を許さないという国民の決意は『次の選挙』ではなく、今ここで、ひとりひとりの現場でかたちにする他ないと僕は思っています」(「『街場の憂国論』号外のためのまえがき」より)とその危機感を吐露されるまでに立ち至っています(「けれど、内田樹氏の“危機感”に共感せざるを得ない」)。
 
 内田樹町山智浩小田嶋隆平川克美という4人の論客が紡いだ「9条をぐる言説」を、今こそ再び輝かせることが、この書を読んで感銘を受けた者の責任であると思い、再び皆さんにお読みいただくことにしたものです。
 1人でも多くの方が原典(ちくま文庫版)を購入して熟読され、周囲の人に一を勧めていただければと熱望しています。
 

(以下は、2013年1月1日に配信したメルマガ金原No.1039を再配信するものです)
 
 元旦に読む『9条どうでしょう』(ちくま文庫
 
 暮れの30日に、近くの書店で1冊の文庫本を購入し、元旦の今日、一気に読了しました。
 2013年第1号(通算1039号)の「メルマガ金原」は、その本をご紹介しようと思います。
 
『9条どうでしょう』
 内田 樹、小田嶋隆平川克美町山智浩 共著
 2012年10月10日刊行
 ちくま文庫 680円+税
 
 憲法9条に関わる書籍は結構読んでいる方だと思いますが、この本の存在は知りませんでした。
 オリジナル本は、2006年3月に毎日新聞社から刊行されています。
 事実上の編者である内田 樹(うちだ・たつる)氏の「文庫版のためのまえがき」にはこうあります。
 
(引用開始)
 「改憲ブーム」に伏流していた「愛国主義」や「好戦的傾向」は続く麻生内閣壊と政権交代によって勢いを失った。でも、消え失せたわけではない。現に、この「まえがき」を書いている2012年の晩夏には、日韓・日中の領土問題をめぐって、「国防強化」とか「弱腰外交」とかいううわずった言葉がまたメディアでは増殖してきている。6年前の「ブーム」の主役たちがいささかのインターバルの後に、再び登場の機会をうかがっているようでもある。もし、そういう点で本書が「今読んでもアクチュアル」な本であるのだとすれば、それは日本人の政治的成熟がこの6年間(東日本大震災と福島原発を経由しながらも)ほとんど進まなかったということを意味しているわけで、それを言祝ぐ気にはなれないのである。
(引用終わり)
 
 内田氏が、毎日新聞社版の「まえがきにかえて」を書いた日付は「2006年2月10日」とクレジットされていますが、これは、小泉政権の末期、第一次安倍晋三閣誕生の7か月余り前のことでした。
 そして、今回のちくま文庫版の「まえがき」が書かれたのが「2012年8月」であり、自民党総裁選挙の1か月前、そして第二次安倍政権誕生の4か月前のことでした。
 まさに、必要とされるタイミングで世に出る「宿命」を帯びた本なのかもしれないと、み終わった今、そう考えています。
 
 以下に、4人の著者のそれぞれの論考の中で、私が最も感銘深く読んだ部分をき出しておきましたが、前後の文脈の中に置いてこそ正しく読みとられるべきものですから、是非、原典にあたっていただきたいと思います。
 
 私は、うかつにもこの本の存在を6年以上知らなかったのですが、それは、この本が「普通の護憲派」が読む本とは明らかに異質な内容を含んでいたからでもありそうです。
 4人の論者の立場が全て一致しているということでは全然ないのですが、
  「とこかで聞いたような話」の繰り返しをしたくはない
  既成の護憲派とも改憲派とも違う「第三の立場」を探り当て、そこからの眺望を語る
  (「まえがきにかえて」より)
という共通したスタンスによって書かれており、一読、非常に新鮮かつ刺激的です。
 もちろん、自衛隊の位置付けなどに賛同しがたい人もいるでしょうが、内田氏がおそらく、おおかたの日本国民は口に出さないけれど、私と同じように考えている私は思う。だからこそ、これまで人々は憲法九条の改訂を拒み、自衛隊の存在受け容れてきたのである」と主張する時、そこに相当の説得力があることは認めざるを得ません。
 また、改憲派の主張の何が危ういのか、という点についての各論者の指摘は、それぞれ実に正鵠を射ており、非常に参考になります。
 
 まさに、必要な時期に、必要な本が、入手しやすい文庫本として再刊されたことを喜びたいと思います。
 皆さんも是非ご一読の上、周りの人にも薦めていただければと希望します。
 
 
内田 樹(うちだ・たつる)氏
1950年東京生まれ 神戸女学院大学名誉教授 思想家 武道家
憲法がこのままで何か問題でも?」(17頁~)から
(引用開始)
 自衛隊憲法制定とほぼ同時に、憲法と同じくGHQの強い指導のもとに発足した。つまり、この二つの制度は本質的に「双子」なのである。それは、この二つの制度がともにアメリカ合衆国の世界戦略から、より直接的にはGHQの占領政策ら生まれたことを考えれば当たり前すぎることである。
 憲法九条自衛隊が矛盾した存在であるのは、「矛盾していること」こそがそもものはじめから両者に託された政治的機能だからである。憲法九条自衛隊互に排除し合っているのではなく、相補的に支え合っているのである。
 歴代の日本の統治者たちは、「憲法九条自衛隊」この「双子的制度」を受け容れてきた。その間に自衛隊は増強され、世界有数の軍隊になり、目的限定的にアメリカを支援してきたが、それでも「戦争ができない軍隊」であるという本質的な規定は揺るがなかった。私はこれを「武の正統性」が危うく維持されてきた貴重な60年間だったと評価している。先進国の中で、これほど長期にわたって戦争にコミットしていない国は例外的である。「戦争をしないできた」という事実が戦後日本みごとな経済成長、効果的な法治、民生の安定を基礎づけてきたという事実を否定できる人間はいないだろう。
 憲法九条のリアリティは自衛隊に支えられており、自衛隊の正統性は憲法九条の「封印」によって担保されている。憲法九条自衛隊がリアルに拮抗している限り、日本は世界でも例外的に安全な国でいられると私は信じている。
 おそらく、おおかたの日本国民は口に出さないけれど、私と同じように考えている私は思う。だからこそ、これまで人々は憲法九条の改訂を拒み、自衛隊の存在受け容れてきたのである。
(中略)
 憲法九条を廃止するという運動を推進している人々は、「改憲した後」のことをれくらい真剣に考慮しているのだろうか。
 おそらく何も考えていないだろう。
 仮に改憲案が衆参両院の三分の二の発議で、国民投票にかけられ、過半数支持を得た場合、私たちは60年間の夢から半分だけ醒めることになる。だが、改派の諸君には目覚めたあとの耐え難い現実を直視する覚悟があるのだろうか。
 憲法九条が廃止されるということは、これまで私たちが「普通の国」の「普通の軍隊」を持つことができなかったのはすべて憲法九条の制約のせいだという「言い逃れ」がもう使えなくなるということである。だが、現実には、憲法九条を廃止しても、軍事をめぐる事情は今と少しも変わらない。憲法九条を廃止したその後も、依然として衛隊の軍事行動は一から十まで米軍の許諾を得てしか行われない。アメリカは日本の主体的軍事行動を決して許さない。
 アメリカは九条の廃止を黙認するだろうが、その引き替えに、日本の国防予算の額と、その過半をアメリカ製の高額な兵器の定期的かつ大量の購入に充当することを日本に要求するだろう(あの「年次改革要望書」によって)。これまでのような「後方支援」の代わりに、アメリカが始めた戦争の前線に駆り出して「戦死する権利」も自衛隊員たちのために確保してくれるかもしれない。もっとも無意味な戦争のもっとも無意味な作戦のもっとも兵員消耗の多そうな戦場になら、自衛隊の派兵を提案してくれるだろう。
 それが改憲のあとに日本人が直面するはずの現実である。
 そのとき、「憲法九条さえなくなれば、日本は誇り高い自主防衛の国になれる」という60年間嘘だとわかりながら自分にむかって告げ続けてきた嘘の決着をつけることを日本人は求められることになる。「普通の国」になったはずのまさにそのときに、アメリカの「従属国」であるという否定しがたい事実に直面するだけの心理的成熟を日本人は果たしていると言えるだろうか。
 私は懐疑的である。
(引用終わり)
 
 
町山智浩(まちやま・ともひろ)
1962年東京生まれ 映画評論家 父は韓国人
改憲したら僕と一緒に兵隊になろう」(75頁~)から
(引用開始)
 今すぐあわてて改憲しなきゃならないほど切羽詰まった事態ではない。それなのに死に改憲を求める理由は、国防上の必要性なんかじゃなくて、「民族」なのだ。
 たとえば、中曾根試案にはこんな一文がある。「我ら日本国民は(中略)独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた」
 日本国民は・・・民族を形成し・・・?
 彼は、日本国民イコール日本民族(そんなものがあるとして)だと思ってるわけだ。もちろん、日本国民には、アイヌ系や琉球系、それに僕のような帰化人もいる。中根はかつて「日本は単一民族国家」と発言してさんざん叩かれたのにちっとも学んでない。彼は日本民族のためだけの憲法を作ろうとしているわけで、「すべての人間」と書いたアメリカ独立宣言とはえらい違いだ。
 しかし、「日本国民イコール日本民族」と思っているのは中曾根一人ではないらく、たとえば、読売新聞が作成した憲法改正案の前文にも「日本国民は、民族長い歴史と伝統を受け継ぎ・・・」という文章がある。憲法という国の要に民族を謳って何がいけないのか?」と疑問に思う人は、「国国家」というものが全然わかっていない。
(引用終わり) 
 
 
小田嶋隆(おだじま・たかし)氏
1956年東京生まれ コラムニスト
「三十六計、九条に如かず」(133頁~)から
(引用開始)
 つまり、九条は日本の国防政策の基本方針として十分に現実的かつ有効だ。条のもとで、十分に国は守れる。
 理由は、戦後からこっち、われら日本国民が、60有余年の間、ひとたびの戦争経験せず、具体的な侵略の脅威にさらされることもなく、平和のうちに暮らしてきたという実績を挙げれば足りる。
「これまで大丈夫だったから、これからも大丈夫だなんていうのは、無責任だ」という人々があるかもしれない。
 が、コトは国防だ。
 新機軸や新体制を試すよりは、現状がうまく機能しているのなら、現状維持が番だ。安全第一。徐行運転。平和ボケと言わば言え、だ。
 一体に、軍事オタクの人々は、戦地にこそ平和があるといった背理に陥りがちだ。
 具体的に言うと、
「国の安全をまったきものにするためには、来たるべき戦争に備えて、軍備の更新怠らず、常に周辺国の動向に警戒の目を配り、さらに、隣国の侵略意図を事前にくじくべく、時に威嚇と恫喝をカマしておくだけの用心深さが必要だ」
 式の理屈は、細心なようでいて、かえって危険だったりするということだ。
 右の「常住戦場」的な心構えは、内乱勃発中の国や、常に国境紛争をかかえいる第三世界の小国や、過去5年以内に、実績として戦争が勃発していた地域では有効かもしれないが、日本にはあてはまらない、っていうか、現今の極東アジア情勢において、周辺国に察知できる形で「戦争準備」を進行したり、「軍事的な示威行動」をやらかすのは、いたずらに緊張を高めるだけ、愚の骨頂だ。
(中略)
 ねじれは別のところにもある。
 憲法第九条の熱烈な支持者のひとりに、おそらく今上天皇がいるということだ。
 もちろん、天皇が公的な場所で、九条への思いを語った事実があるわけではない。
 が、2005年6月のサイパン訪問の折に、急遽韓国人戦没者の慰霊塔(韓国和記念塔)を参拝していることをはじめ、現代日本の公的な立場にある人々うちで、最も頻繁に、かつ真摯に「反戦」と「平和」について言及しているのがほかならぬ天皇皇后両陛下である事実は、銘記しておくべき事実だ。
 2004年の園遊会では、こんなこともあった。
 ―園遊会には、日産のカルロス・ゴーン社長や将棋永世棋聖で東京都教育員の米長邦雄さんも招かれ、米長さんが陛下に「日本中の学校で国旗を掲げ、国家を斉唱させることが仕事です」と話し、陛下が「やはり、強制でないことが望ましいですね」と応じられる場面もあった―(「読売新聞」2004年10月29日朝刊)。
 何気ない記事だが、末尾の余韻はなんだか感慨深い。つまり、この国の右傾化に歯止めをかけているのは、いまや天皇家の人々であるということだ。
(引用終わり)
 
 
平川克美(ひらかわ・かつみ)氏
1950年東京生まれ リナックスカフェ社長
普通の国の寂しい夢―理想と現実が交錯した20年の意味」(181頁~)から
(引用開始)
 わたしは、現行の憲法は何が何でも総体として変えてはならないと主張する護憲派ではない。いや、たとえ一字一句同じ憲法であったとしても、日本人はもう一度、憲法というものを自ら選び直す必要があると思っている。また、専守防衛自衛隊の構想と、今のような自衛隊を育ててきたことを評価してもいる。その上で、自衛隊の存在意義を憲法に位置付けられればいいと思っているのである。
 しかし、この間の改憲の議論を見ていて、「彼ら」には憲法を変えていただきたくないと思うのである。「彼ら」とは、世界の現実に合わせて、あるいはアメリカの極東軍事戦略に沿って、憲法第九条を変更して国軍を海外に展開したいと望んでいるもののすべてである。「それで、国が守れるのか」と、戦後60年間、現行憲法の理念に希望を見そうとしていた人々の声に恫喝を加えるもののすべてである。集団的な自衛権は、近代国家としての普遍的な権利であると主張する現実派のすべてである。また、軍事力を外交交渉のカードとして使いたい戦略政治家のすべてでもある。そして、このような「常識」に賛意を示す善良なる日本人大衆である。
 「彼ら」に共通しているのは、「現実」というものは、自分たちが作り出すものに他ならないという認識の欠如である。「現実」に責任をとるということは、「現実」に忠実であることではなく、「現実」を書き換えるために何をすべきであるのかと考え続けることである。
(引用終わり)
 
 
 なお、内田樹氏が、2007年6月20日、ご自身のブログ(内田樹の研究室)に掲載した文章「愛国について語るのはもうやめませんか」も、今まさに必要とさている認識だと思いご紹介しておきます。

 http://blog.tatsuru.com/2007/06/20_1056.php

 

 

9条どうでしょう (ちくま文庫)

9条どうでしょう (ちくま文庫)