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西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』

 本日(2014年3月22日)配信した「メルマガ金原No.1673」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
 
 去る3月9日(日)、和歌山城西の丸広場で開催された「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」のステージでドジョウスクイを披露した西郷章さんは、翌1日に田辺市の寺井拓也さんらと同勢4人で福島を目指しました。
 あれからちょうど3年目の3月11日、郡山市で開かれる「3.11反原発福島行動’14」に参加し、寺井さんは集会で和歌山からの報告を行い、西郷さんはそれに先立つ文化交流で、得意のドジョウスクイとアコーディオンの腕前を披露するという大役を背負っての福島行きでした。
 西郷さんには、出発前から「是非福島訪問記をメルマガ(ブログ)に掲載させて欲しい」とお願いし、快諾いただいていたのですが、ここにようやく西郷さんから原稿が届き、ご紹介できることになりました。是非ご一読されますよう、お勧めします。
 
(参考記事)
 
(参考サイト)

                                         2014年3月15日
 
        私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか
          ~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~
 
                                      西 郷    章
 
椎名千恵子さんとの出会い
 私が、3.11反原発福島行動実行委員長の椎名千恵子さんと知り合うことになったのは、2012年夏に友人の寺井拓也さんが脱原発わかやまの一員として共同執筆した著書『原発を拒み続けた和歌山の記録』を持参して官邸前テント村を訪問した際に、テント村のお世話係の人を介して椎名さんから3.11反原発福島行動2013への参加要請があったことに始まり、その流れの中で私や寺井さんなど5名の和歌山の仲間が、2013年9月に「大間~福島交流旅行」を行なうことになり、初めて椎名さんたちとお会いしたのです。
 さらに今回、3・11反原発福島行動’14に参加することになったきっかけは、昨年(2013年)12月、講演のために和歌山に来ていただいた椎名さんの帰りぎわ、お礼代わりに私のドジョスクイを披露したところ、「ぜひ福島でやってほしい」と頼まれて二つ返事で了承し、その約束を果たすためでした。さらにその後、椎名さんから「アコーディオンも弾けるのなら、それもやってほしい」と言われ、私としてはかねてから念願の仮設住宅が訪問できると思ってこれもお引き受けしました。
 かくして、3.11反原発福島行動’14には、文化交流の出演者の一人として参
加することになり、重量がケースともども17~18キロのアコーディオンとドジョスクイのためのザルなど大荷物を引っ提げての福島訪問となりました(と言っても宅配便送りですが)。
 
3月10日、福島市到着
 私たちは4名で3月10日の夕刻、関西空港から仙台空港行きのピーチ機で出発
しました。関空から仙台まではわずか1時間余りの所要時間ですが、到着すると東北独特の底冷えのする寒さが残っており、特にレンタカーを借りて福島市内のビジネスホテルを目指す2時間ほどの行程の半分くらいまで走った時、高速道路が強烈な吹雪に見舞われてしまい、若い運転手は視界が極めて悪い状況での運転に悪戦苦闘を強いられることになりました。ところが、そんなことも知らずに私は寝入ってしまい、目が覚めたときはホテルの近くまで来ており、苦労した運転手さんには本当に申し訳ない気持ちでした。 
 
3月11日、郡山総合体育館(柔道場)での文化交流に出演
 さて翌3月11日、メイン会場の郡山総合体育館の一角にある柔道場での文化交
流が私の持ち場ですが、午前10時半頃に共演者の稲葉隆一さん(サックス奏者)と初めて顔合わせをして演奏曲の打ち合わせとリハーサルです。曲目は原発事故犠牲者への鎮魂の意を込めた曲『同志は倒れぬ』の演奏とみんなで歌う闘争歌『勝利の日まで』と『がんばろう』です。私は他の楽器との合奏などほとんどしたことのない素人ですから、うまく行くのか心配でしたが、10分くらいの音合わせの中で、自分が弾きたいように弾けばいいという気になりましたので、何とかなりそうに思えてきました。後はミスを
少しでも少なくするように演奏するしかありません。
 本番の少し前に準備をしておりますと、「ドジョスクイを楽しみにしていますよ」と声をか
けてくれる人がいるので振り返ると佐藤幸子さんが挨拶をしてくれたのでした。佐藤さんは、確か昨日まで娘さんと二人で三重や奈良にいるとFBに書いていましたが、この大行動のために早くも福島へ引き返していることが分かり、「これは頑張って踊らなければ」
と思いました。
 さて、いよいよ私の出番ですが、まずドジョスクイから始まります。柔道場ですから広い
畳が敷かれており、一昨日(3月9日)の和歌山城のトラックのステージ(「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」にも出演させてもらいましたが、ステージ代わりの大型トラックの荷台は狭苦しかった)とは違って伸びのびと踊れそうで嬉しくなりました。私のドジョスクイは最後にオリジナルで蛇を掴んでビックリするシーンがあるのですが、和歌山城の時は蛇を放り投げるのを合図にスローガンを書いた垂れ幕を開く細工をしましたが、今日は「さらに工夫を」と思って観客席に蛇を投げつけました。すると思いもよらぬことに、その蛇は観客のハゲのおじさんの頭をワンバウンドして向こうのほうに飛んで行った
のです。これには、お客さんを笑わす私のほうが笑ってしまいました。
西郷章さん@「3.11反原発福島行動’14」公式サイト かくして、ほぼ順調に踊り終えたのに続き、衣装もそのままアコーディオンの演奏ですが、
正直なところ共演のソプラノ・サックスの音が予想外に大きく、また少し離れていたため、私の悪い癖の速度が速くなったり自分の音が正確かどうかわからなくなったりしたところもありましたが、初対面での合奏にしては、稲葉さんのリードが良かったために、思いのほ
かうまくいったのではないかと自己満足しています。そして、このときは、自分の演奏に必死であったこともあり、稲葉さんがすごい演奏力の持ち主であることにまだ気が付いていませんでした。
 それから、動画撮影を頼んだ人が機械の操作が初めてであったために、画像が小さく、歌などは途中で途切れたりして、きちんと撮影ができませんでしたが、和歌山の若い人がまともな映像を映してくれているそうですから、それが私の手もとに届けば、またFB(フェイスブック)で紹介したいと思います。
 ちなみに、用意した歌集を参加者に配り、半分ほどに減っていましたから、ここでの観客
数は約200名程度ということになります。これで一応今日の私の出番は終わりですが、次は13時からの本会場での集会となります。
※金原注 ドジョウスクイの衣装のまま、アコーディオンを奏でる西郷さんの格好良い(?)写真は、「3.11反原発福島行動」実行委員会のご好意により、同会ホームページ掲載写真を転載させていただいたものです。
※金原注 西郷さんたちに同行した田中友さんが撮影した映像がFBにアップされていましたので、ご紹介します。
 
3月11日午後、郡山総合体育館(大体育館)での全体集会に参加
 14時からの集会開始に先立つプレイベントとして、まず「チェルノブイリへのかけはし」の
野呂美加さん率いる歌舞劇団「曼樹沙華」による華やかで幻想的な踊りが会場を魅了
しました。
 そして、次に登壇したのが先ほど私に付き合ってくれた稲葉隆一さんでした。参加者11
00人以上の前で、見事なアドリブを駆使した堂々たるサックスの演奏でした。それは、被災当事者の稲葉さんにしか表現できない、被災によるあらゆる感情の入り混じった演奏ではないかと思いました。2度と取り戻すことができないかもしれない清き故郷を奪われた悲しみ、絶望、憎しみ、そしてその中から沸々と湧き起こる怒りなどが人間の言葉のような響きとなって表れているのです。私にとっては聞けば聞くほど心を奪われる稲葉さんの演奏となりました。世話係の人に聞いた話ですが、稲葉さんは大学ジャズクラブを出た後に、ニューヨークでサックスジャズの分野の修業を積んだ、いわば本場仕込みの実力の持ち主
であることを初めて知り、すごい人と知り合いになれたものだと、また感動しました。
※金原注 西郷さんのFBにアップされた稲葉隆一さんのサックス演奏です。
 その後、「3.11ラップ」などが披露されてプレイベントが終了し、全体集会が始まりました。
 主催者代表の椎名千恵子さんの挨拶に続いて、佐藤幸子さんのお子さんの「高校生
からのアピール」です。佐藤幸子さんの娘さんであることを知らなかったために話の内容をきちんと聞いていませんでしたが、佐藤さんが書かれた『身も心も傷ついた福島の子どもたち 甲状腺がんとその疑い75人も!』の中で紹介されていた娘さんの手紙(娘さんの了解を得て昨年12月にFBでも公開されていました)を読む限り、「今が楽しければ未来が真っ暗でもいい」と現実から逃げていた娘さんが悔いいり、自分の罪の償いは、福島に残って、県民として福島を守ることではなく、次の命やその次の命も生まれ健康であるために、まず今の自分の健康を守ることによって果たすということを、福島の同世代に伝える内容ではな
かったかと受け止めています。
 さて、そのあとは「全国からの挨拶」で、沖縄の方に続いて、いよいよ和歌山代表の寺井拓
也さんのアピールです。寺井さんは、和歌山で計画された5箇所の原発を全て阻止してきた歴史を振り返り、とりわけ日高原発を白紙撤回に追い込んだ日高漁協の臨時総会の模様を詳しく紹介した上で、福島を見捨て、開き直って再稼働をめざす悪辣な政府を倒すことは容易ではないが、少数でも多数に勝利できる、小さな蟻でも巨大な象を倒すこができるという希望を持ち、勝利を信じて共に歩もうではありませんかと格調高く呼びかけると、会場からは幾度となく大きな共感の喝采が起こり、寺井さんの演説は大成功を収めました。 
※金原注 寺井さんのその感動的なスピーチが西郷さんのFBにアップされていました。音はクリアです。是非お聴きください。
 
3月11日午後、集会終了後、郡山駅までデモ
 そして一通りの会場での催しが終わると今度は 市内のデモ行進へと移ります。
 1100名以上のデモには多くの組合や市民団体が参加します。そして、先頭に立つの
は「かんしょ踊り隊」です。かんしょ踊りとは会津地方に伝わる盆踊りの一種で会津磐梯山などの民謡に合わせて踊ります。「狂乱」や「一心不乱」を意味しており、江戸時代の厳しい年貢の取り立てに対する抵抗の意志を込めた踊りです。そこに打楽器を中心に音楽隊がリズムを取りますが、やはりここでも中心は稲葉隆一さんのどこまでも突き抜けるよ
うな音色のサックスです。 
 それから、「希望の牧場」の吉沢正巳さんたちの手作りによる鉄パイプの牛のおみこし(
中に牛の本物頭蓋骨を積んだ)も印象的です。
 先頭部隊は踊り続けます。1時間近く踊るので、さすが東北の人は粘りがあると思って
いましたら、そうではなく、交通整理上の事情から進行を止められていた、とのことでした。それにしてもなんと警察官の多いこと、百数十人(デモ参加者の1割以上)は居たのでは
ないでしょうか?
 さて、やっと私たちも出発ですが、印象的であったのがシュプレヒコールの掛け声に関西
ではあまり聞かれないようなスローガンが掲げられている点でした。たとえば、「3・11忘れない、3・11忘れさせない」「何度でも声を上げよう、福島に原発いらない」「黙っていないぞ、あきらめられるか」「福島の怒りは収まらないぞ」「自民党許すな、安倍政権を倒そう」「ふくしま切捨て許さない、大人も子供も立ち上がろう」等々、原発事故の被災地ならではの戦闘性ある内容です。デモは多くの旗をなびかせながら、葉山通りからうすい通りを抜けて約1時間で最終地点の郡山駅前に到達します。さらに、最後列到着後も駅前広場でかんしょ踊りを中心に1時間近く騒ぎ?は収まりません。主催者代表の椎名さんの闘争宣言で終わるまで実に3時間以上かかりました。私たちはその後の夕食交流会にも参加をして全国各地の闘う仲間との交流も深め、その日の全ての日程を終えました。
※金原注 1時間も出発できなかった先頭のかんしょ踊り隊をとらえた映像が西郷さんのFBにアップされていました。
 
3月12日、仮設住宅訪問
仮設ドジョウスクイ さて、翌日は私のかねてからの念願であった仮設住宅の激励訪問です。椎名千恵子
さんとスタッフ2名、それに私と寺井さん、海外からのお客さん(ドイツの女性)と通訳の計7名での訪問です。予定の11時を少し過ぎましたが、飯館村の皆さんが避難をする仮設住宅を訪れました。私は到着するや否や、集会場の隅で衣装を早々着かえて化粧(消し炭で眉を描く)を済ませます。そしてドジョスクイを踊り始めましたが、嬉しかったのは「ふくしまの人は笑うことが少ない」と聞いており、事実、昨日の郡山総合体育館(柔道場)では、私の踊りが下手なこともあってか、肝心なところで笑いがあまり聞こえなかったようでしたので、ここ(仮設住宅)でも心配をしていたのですが、後で動画を見る限り、肝心なところ(と言っても2か所ほどですが)で結構笑い声が聞こえましたので、当初の私の思い通りに幾分か
でも被災者の皆さんの気分転換のお手伝いができたと感じました。
 続いてそのまま歌のコーナーを務めるわけですが、その前に、先ほど乗ってきたタクシーの
中の運転手さんとの会話を紹介しました。運転手さんに「これから仮設に行ってドジョスクイを踊るのです」と言うと、運転手さんは「この時期は私の村でもドジョウがよく取れるのです。一斗缶いっ杯くらい、すぐに取れます。今でも取れます。でも食べることはできません」と聞いたことを紹介して、「皆さんのふるさとも早く食べれるドジョウが取れるようになるといいですね、きれいな故郷にするために元気を出してがんばりましょう」と言ったのです。実はこの話の中に難しい問題が隠されていることを後で椎名さんの経験を聞いて初めて知ることになります。さて、アコーデオン伴奏による歌のほうですが、時間も差し迫っていましたので、昨日と同じようにドジョスクイの衣装のままで勤めました。歌集は70歳前後の年配層を想定して、その世代が知っているような歌、たとえば『リンゴ村から』『柿の木坂の家』『いい湯だな』『瀬戸の花嫁』『軽海峡冬景色』など20数曲を乗せたものを30部ほど用意しましたが、それが足りませんでしたので40人近くの人が来てくれたのではないかと思います。皆さんにはその歌集の中から好きな歌をリクエストしていただきたかったのですが、一人だけおばちゃんから『人生いろいろ』がリクエストされた以外は特にありませんでしたので、私のほうで勝手に進めました。結局は時間がなく、上にあげた歌を含めて10曲も歌えていなかったと思います。その中で特に印象に残っている歌は『三百六十五歩のマーチ』と最後に歌った『ふるさと』でした。『三百六十五歩のマーチ』をうたうとき、若い被災者の人にマイクを渡しましますと途中で感極まったのか歌わなくなりました。又同行した青年は人一倍感受性が強いのか、「涙があふれて止まらなかった」と言っていました。私たち被災をしていない一般の人の『三百六十五歩のマーチ』を歌う感覚では考えられないことです。それから最後の『ふるさと』の歌ですが、二番が終わって三番を歌わないのです、私はこの時に歌集(楽譜)を持っていなかったのですが、確か三番があったと思って、「三番がありますよ」「三番を、はいどうぞ」と催促すると、やっと歌いだしたのです。このことは、先のタクシーの仮設住宅にて運転手さんの話も含めて、被災者の皆さんに特別な思いがあることに気付いたのは椎名さんに忠告されてからでした。椎名さんは「西郷さん、ふるさとにきれいな環境を取り戻して帰りましょう。だけで終われば政府や推進側の策略と同じです」、「故郷をきれいにすることはできなくて、二度と帰れないのです。だからその事実を曲げてはなりません」と言われるのです。私は「はっ」としました。故郷に帰りたい人を前にして、少しでも希望を持ってもらいたいと思う私には、椎名さんが指摘されるようなことがとっさに思い浮かばず、仮に思い浮かんだとしても、そのとおりに言えたかどうか。しかし、現実に事実として受け止めなければならないことを思い知らされました。そして、そのことを飯館村の皆さんはこれまで伸ばしにのばされている帰村の扱いの中で肌で知っているから、『故郷』の歌の三番♪志を果たして いつの日にか帰らん 山は青き故郷 水は清き故郷♪は歌えなかったのだと、初めて気が付きました。今回、私の仮設住宅訪問はここ一か所だけでしたが、被災者の皆さんの引き裂かれた立場の何十分の一かの気持ちに触れることができたと思っています。
※金原注 西郷さんのFBにアップされていた映像をご紹介します。
 
3月12日午後、自家焙煎珈琲店「椏久里」にて(福島市
 その後、私たちは福島市にある「椏久里」という自家焙煎珈琲店で遅い昼食をとることにな
りますが、この店はもともとは飯館村に作られたもので、市澤秀耕さんと共に経営する妻の美由紀さんがヨーロッパでコーヒー焙煎の技術を学んで自ら焙煎機を導入して経営されたのだそうです。当初、飯舘村にできたときには村民の憩いの場所として繁盛したそうです。しかし、いよいよ飯館村放射能汚染がひどいことが明らかとなり、住めないことがわかると、やむなく店をたたんで今度はこの地(福島市野田)の空き店舗を借りて再建したのだそうです。福島事故から間もないころは、市民が海側からも山側からも訪れて爆発的に繁盛したそうです。そして、いまでは他府県から訪れる人も少なくないと言います。美由紀さんは、そのような商売の話をするので、最初は古民家を改造した店の宣伝でもするのかと思ってメモは取りませんでした。しかし、話を聞いているうちにだんだんと放射能と闘う話に代わってきたので、耳をそばだて
てメモを取ることにしました。
「亞久里」にて 彼女の家は江戸時代から続く古民家を購入したもので、母屋は大きな部屋が数多くあり、
周囲には大小の農作業小屋などもいくつもありました。ブルーベリー120本をはじめ広い野菜畑に囲まれた環境の中で先ほど紹介した、焙煎技術によるコーヒーを中心とする農家レストラン「気まぐれ茶屋」を始めます。そして、垢(あか)抜けたレストランは美由紀さんの思惑通りに飯館村の村民の憩いの場所として大いに繁盛し、経営が軌道に乗り出した矢先に原発事故で
全ての財産を奪われたこと、しかも、事故に対する謝罪もしていない内に一方的に請求書を出せという傲慢な東電にたいして、弁護士を立てて原子力損害賠償紛争解決センターを通じて向こう2年間の補償金を勝ち取ったこと(ただし計り知れない財産に対する保証は別です)、国は飯館村除染する費用として3500億円見込んでいるが、除染などをせずに1500戸「6千人」の村民に対して一軒につき1億円を支給して生活再建に使うべきだとの考えを述べ、国や東電と一切の妥協を許さない闘いを行っている等々の話をされました。
 また、飯館村では26年前から村おこしのために、彼女たちが中心となって若いお母さん方を海外研修させる運動が行われ、ばあちゃんたちも若いものだけがズルいと言って自分たちも韓国に行ってキムチを作る技術を覚え、起業に貢献してきたこと。今、村の女性たちの楽しみとして、ベルリンの壁崩壊の時に記念に植えた20本の桜の木の成長を見物に、近じかドイツに行くことなどの希望も芽生えてきたことも紹介されました。そして、その日のすべてに日程を終えた私と寺井さんは、今回の行事のために大変な労を提供され、反原発福島行動が成功したことを祝って椎名さんを夕食に招待して、この日は終わりました。  
 
3月13日(最終日)、再び「希望の牧場」へ、そして請戸、同慶寺にて
 そして、3月13日の最終日を迎えました。この日は、当初の仮設住宅の訪問もなくなった
ために予定を変更し、昨年9月に続いて再び「希望の牧場」(浪江町)の吉沢正巳さんを訪問することにしました。吉沢さんは、3.11集会では牛たちの写真展を集会場のロビーで行っており、その後片付けを和歌山の若い2人がお手伝いした時に、原発によって荒れ地と化した近くの漁村を案内すると約束してくれたことによるものです。「希望の牧場」では雨が降り地面はドロドロ、震えるような寒さの中、まきストーブを囲んで、2時間ほど牛と共に生きる吉沢さんが福島を破壊した東電や国を決して許さずに闘い続ける生き様についての話に聞き入りました。また棄民的な扱いを受けている点で同じ沖縄と連帯して闘うために近じか愛車の宣伝カーで沖縄訪問をしたいとの思いを語ってくれました。私たちは一通りの話を聞き終えると、これ以上、牛のえさやり作業の邪魔をしてはいけないので、漁村へは、地図を教えてもら
って自分たちだけで行くことにして「希望の牧場」を後にしました。
請戸の海岸① かつて漁業で栄えた町の請戸までは40分くらいかかり、できるだけ原発に近いところを見た
いと思って車を走らせましたが、途中でバリケードで進入禁止になっていたり、警備員に許可書の提示を求められたりで、それ以上近づくことは出来ませんでした。立ち入り禁止の理由は盗難防止のためということでした。あきらめきれずにいろいろなルートを探してみましたが、天候の悪いこともあって結局は原発の見える所まで近づくことはできませんでした。しかし、私たちが車を走らせた広大な地区のすべてが、がれきの撤去はほぼ済んでいるとはいえ、無人の荒地
と化している様に改めて原発事故の罪深さを思い知ることができました。
 さて、いよいよ最後の訪問です。今日の仮設訪問の予定が変更になったために寺井さんは
朝の間に南相馬市にある同慶寺に取材のために宿泊をしている映画監督の東条雅之さん和歌山県田辺市在住)に会いに行くことにしていたのです。東条さんの取材とは?原発ようなら1千万アクションの集会等では必ず太鼓をたたいて平和祈願をする、行動力の点では他の宗派に比べて群を抜いている「日本山妙法寺」主催の「命の行進2014」(3月1焼津駅を出発して4月30日までの2か月間をかけて大間原発まで徒歩で1日平均20数㎞の強行軍で行進する脱原発を訴える運動)の同行取材を続けており、たまたま福島県南相馬市(小高地区)のこの同慶寺に宿泊していたのです。その「命の大行進」の途上にある運動員の皆さんと運よく会えるのです。
同慶寺(南相馬市) 同慶寺は結構広く中国の寺を思わせ
る風格あるお寺です。小高い丘の上にあり、山門からは村全体が見渡せる景色のいいところです。でも今はそこから見渡す村には誰もおらずに、ここの住職(田中)さんだけが、ひっそりと暮らしているのです。私たちは東条さんの勧めで、ここで昼食をいただくことになりました。訪れたときに行進から帰ったばかりの10名ほどの皆さんは折からの雨でびしょびしょになり衣服を着替えたり、あわただしくしていました。やっと落ち着くと食事の前に簡単な自己紹介をします。中には3~4人程ネパールの坊さんも修行に見えておられ、女性も3~4人ほど行進に参加しているようでした。物静かな中にも芯の強さを感じる若い住職さんの感謝の言葉で食事がはじめられましたが、精進料理はもう一人の若いお坊さんの手によるもので、なかなか栄養のバランスが行き届いており、中には昨日のカレーの残り物に手を加えた料理もありました。私にとっては野草などをうまく料理した珍しい食事をいただき、いい体験ができたと思っています。食事をいただいた私たちはしばらく本堂を拝観した後、帰りの飛行機の都合を告げて、2か月に及ぶ皆さんの行脚の無事を祈って仙台空港へと向かいました。 
 
終わりに
 私は今回、文化交流を通じて多くの被災地の方々と、そこに寄り添う仲間に接する機
会を得ました。そして、東京電力資本と安倍政権のせいで福島の方々が奈落の底に突き落とされ、捨てられようとしている様を見て、強い憤りを感じました。先の見えない悶々とした日々の中でやりどころのない、どうしようもない被災者の境遇を思うと涙すら浮かびます。涙を怒りに、そして怒りを東電安倍政権と闘う力に変えなければなりません。福島に「寄り添う」とはどのような行為なのか。怒りを闘いに変えるとは何をすることなのか。そのような新たな課題を与えられた思いです。寺井さんは「60歳を超えれば人生儲けもの」と言います。個人的には、この儲けた人生を自分の思うことに精いっぱい使えれば、人間としてこんな幸せはないのでないかと思います。福島には若い闘う力が育っています。和歌山でも今回出会った3名の若者や市民運動の中で闘う力を身に付けた若者が増えつつあります。私たち高齢者も儲けた人生で若い人に負けないように頑張らなければなりません。
                                            おわり
 

以下の2曲は西郷章さんからのリクエストによるもので、「この2曲にはサックス奏者の稲葉さんの思い入れがあります」ということです。
(付録1)『同志は倒れぬ』
 
(付録2)『不屈の民』 ジンタらムータ