wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

あらためて“9条事始め”(@あわたま)改訂版、そして“あわたま”Forever!

 今晩(2014年4月2日)配信した「メルマガ金原No.1684」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
あらためて“9条事始め”(@あわたま)改訂版、そして“あわたま”Forever!
 
 来週の(2014年)4月9日(水)午後7時から、和歌山市浜の宮海水浴場前の「Cafe ざっか屋 あわたま」において開催される「第12回 9(ナイン)ギャザリング@あわたま」でお話する(台本のような)レジュメを掲載します。
 この「あらためて“9条事始め”」を掲載するのは3回目となります。以下のレジュメの「はめに」に書いたとおり、「あわたま」を経営する高橋伸明さん、泉さんご夫妻の発案によって始まった「Cafeで9条を語り合う」「9(ナイン)ギャザリング@あわたま」の最初のスピーカーを私が務め、そして最終回となる今回(第12回)も、ご指名により、私がお話することになったものです。
 今月(4月)いっぱいで「あわたま」での3年間に終止符を打ち、来月には山口県祝島一家で生活の本拠を移すことを決断した思い、そして、最後の1か月で思い残すことなく企画をやり抜こうという決意は、以下の「あわたまのブログ」で是非お読みください。
 
報告、そして429(しふく)に向かって
  http://ameblo.jp/awatama-wakayama/entry-11810114763.html
2014年4月「EVERYDAY EARTHDAY~ゆいわになろう~」@あわたまスケジュール1
  http://ameblo.jp/awatama-wakayama/entry-11810123197.html
2014年4月「EVERYDAY EARTHDAY~ゆいわになろう~」@あわたまスケジュール2
  http://ameblo.jp/awatama-wakayama/entry-11810127076.html
2014年4月「EVERYDAY EARTHDAY~ゆいわになろう~」@あわたまスケジュール3
 
 4月9日の「9(ナイン)ギャザリング@あわたま」の最終回についての告知の一部をご紹介します。
 
(抜粋引用開始) 
●4月9日(水)
第十二回 9(ナイン)ギャザリング@あわたま
START PM19:00
場所 Cafe ざっか屋 あわたま
 〒641-0014 和歌山県和歌山市毛見996-2
 電話 073-444-2239
料金300円(祝島のびわ茶つき)+お気持ち
話し手 金原徹雄さん
「9条事始め」
ファイナルとなる第十二回目は2013年2月9日第一回のときもお話頂きました和歌山弁護士会、金原徹雄法律事務所の金原徹雄さんをお招きしてお話を聞かせていただきま
第一回目のときのお話「9条事始め」。平和憲法が9条が生まれた様々なドラマ、人々の思い、この憲法が海を越えてひろがっていることなどとても感動的でした
その内容があまりにも素晴らしかったので是非最後にもう一度とお願いしたところ、快く引き受けてくださり、わざわざ改訂版の原稿を作って今回お話して頂けるようです
金原先生ほんとありがとうございます
ぜひ平和への思いとともに足を運んでください
(引用終わり)
 
 本メルマガ(ブログ)では3度目のお務めとなる「あらためて“9条事始め”」ですが、主には「5 なぜ「9条」が必要だったのか?」の部分を増補したものです(あとは部分的な手直しにとどまります)。
 
 本来「定休日」のところ、最後の「9」の日ということで特別営業で開催する「9(ナイン)ギャザリング@あわたま」です。是非1人でも多くの方にお越しいただきたいと思いますので、何卒よろしくお願いします。
 

 
    あらためて“9条事始め”(@あわたま)改訂版
 
                                  弁護士 金 原 徹 雄
 
はじめに
 2013年2月9日、「Cafe ざっか屋 あわたま」を営む高橋伸明さん、泉さんご夫妻の発
により、毎月「9日」に「憲法9条」を考えようという人が集う「9(ナイン)ギャザリング@あわたま」がスタートしました。
 その第1回目のゲストとしてお話することになったのが私であり、その集いのために書いた
「あらためて“9条事始め”」を、2013年2月4日から6日まで、3回に分けて「メルマガ金原」で配信し、ブログにもアップしました(2014年2月24日に一本にまとめて再配信しました)。
  http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/36589349.html
 その「あわたま」が今月(2014年4月)末で3年の歴史にとりあえず幕をおろし、高橋さん
ご一家は、来月には山口県祝島に生活の場を移すことになり、今日(4月9日)が「9(ナイン)ギャザリング@あわたま・ファイナル」ということで、再び私に声をかけていただき、あらためて「9条事始め」をというリクエストでした。
 基本的には、昨年の第1回の際にお話した内容をそのまま維持しながら、不十分ながら、若干の補充を行った「改訂版」を作りました。もちろん、限られた時間の中で、書いたこと全部詳しくお話している余裕はありませんので、お時間のある時に目を通していただければと思います。
 また、憲法原発の問題について私が日頃考えていることは、「弁護士・金原徹雄のブ
ログ」に掲載していますので(原則毎日更新)、是非そちらの方もお読みいただければと思います。
 それでは、もう一度「あらためて“9条事始め”」を始めましょう。

1 戦争「非合法化」への道
 さて、あらためて「何故、日本国憲法に“9条”が規定されたのか?」と問われてみると、間単に「こうだ」と答えられるものではないですよね。
 そこで、回りくどいようですが、少し歴史を遡ってみましょう。
 1914年から1918年にかけての足かけ5年にわたり、当初ヨーロッパを主戦場として闘われた第一次世界大戦は、機関銃や航空機、戦車、毒ガスをはじめとする新しい大量殺りく兵器の出現や、戦線の全世界への拡大により、開戦当時には予想もしなかった膨大な犠牲者を生み出しました。
 正確な犠牲者数を算出するのは困難ですが、一説には、戦闘員の戦死者が900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と言われています(第二次世界大戦がこれをはるかに上回る規模の犠牲者を出したことは言うまでもありません)。
 
 国際社会において、戦争を「非合法化」する動きが急速に進んだのは、第一次世界大戦以降のことですが、その一つの到達点が、1928年の「不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)です。
  https://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/paris_convention_1929.htm
 日本も署名した翌年(1929年)に批准しています。
 そんなに長いものではないので(本文は3箇条しかなく、前文の方が長い位です)、以下に本文のみ引用してみましょう。
 
(引用開始)
第一條 締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス
第二條 締約國ハ相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛爭又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因
ノ如何ヲ問ハス平和的手段ニ依ルノ外之カ處理又ハ解決ヲ求メサルコトヲ約ス
第三條 本條約ハ前文ニ掲ケラルル締約國ニ依リ其ノ各自ノ憲法上ノ要件ニ從ヒ批准セ
ラルヘク且各國ノ批准書カ總テ「ワシントン」ニ於テ寄託セラレタル後直ニ締約國間ニ實施セラルヘシ
千九百二十八年八月二十七日巴里ニ於テ作成ス
(引用終わり)
 
 ちなみに、日本(当時は「大日本帝国」ですね)政府は、批准にあたり、「帝國政府ハ千九百二十八年八月二十七日巴里ニ於テ署名セラレタル戰爭抛棄ニ關スル條約第一條中ノ「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」ナル字句ハ帝國憲法ノ條章ヨリ觀テ日本國ニ限リ適用ナキモノト了解スルコトヲ宣言ス」という留保を付していました。
 一読されればお分かりのとおり、日本国憲法第9条1項「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」は、まさに不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)を下敷きにした規定であって、日本も批准していた国際条約の内容を、憲法に取り入れたという位置付けの条項です。
 
 大日本帝国憲法明治憲法)には、以下のような条項がありました(帝国陸海軍についての憲法上の規定というのはほぼこれだけでした)。
 
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
 
 1889年に制定された大日本帝国憲法第13条に「戦ヲ宣シ」とある中には、「國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコト」が当然に含まれていたと解されますが、1929年に「戦争抛棄ニ関スル条約」を批准した後は、明治憲法13条の解釈は当然変更され、条約の条項と整合性をもったものになっていたはずです。
 
2 「不戦条約」批准から「敗戦」まで~「侵略」と「反省」と
 さて、1929年に「戦争抛棄ニ関スル条約」を批准した後の日本の歩んだ道といえば、条約が目指した方向とは全く逆向きであったことは言うまでもありません。
 簡単に略年表風に箇条書きしてみましょう。
 
1931年 満州事変
1933年 日本、国際連盟脱退
1937年 盧溝橋事件勃発 日中戦争はじまる
1939年 ノモンハン事件勃発
1940年 日独伊三国軍事同盟締結
1941年 真珠湾攻撃(太平洋戦争開始)
1945年 敗戦
 
 前編で、第一次世界大戦における犠牲者数をご紹介しましたので、第二次世界大戦の犠牲者数も調べてみようとしましたが、これが難しい。
 おそらく、民間人も含めて最も多くの犠牲者を出したのがソ連であり、それに次ぐのが中国であることは間違いなさそうなのですが、その数が実は非常にあいまいなのです。一説にはソ連2000万人、中国1000万人という数字もありますが、正確性は担保のしようがありません。
 これに対し、日本については、全体で約300万人、戦闘員と非戦闘員の犠牲者の比率が約3:1というあたりらしいのですが、これも統計のとりかた次第でかなり異なっています。
 
 ところで、先日、DVDに録画していた映画『日本国憲法』(ジャン・ユンカーマン監督作品/2005年)を再視聴していたのですが、この様々な国の識者へのインタビューで構成された優れた作品から伝わってくるメッセージは、「憲法9条は、アジアの民衆に対する謝罪と約束ではなかったのか?」ということです。
※映画『日本国憲法』予告編
  https://www.youtube.com/watch?v=I_CcmpPxt5E
 一例として、この映画に登場した班忠義(ハン・チュンイ)氏(作家・映画監督)が、「中国人なら誰でも知っている『平頂山事件』について、日本人が全く知らないのに驚いた」という話をされていたことを取り上げてみましょう。
 「平頂山事件」と聞いて「どういう事件か」すぐに答えられる日本人がどれだけいるでしょうか?
 正直に申し上げて、私自身、映画『日本国憲法』を観るまで全然知りませんでした。
 どのような事件であったかというと、1932年9月15日、反満抗日ゲリラ(日本側は「匪賊」と呼称していました)による撫順炭鉱襲撃事件が発生し、翌日、撫順守備隊による捜索の結果、平頂山集落で前日の襲撃の際の盗品が発見され(と言われています)、当集落がゲリラと通じていたとの判断の下、40名余の部隊が同集落を包囲してゲリラ掃討が行なわれました。その掃討作戦というのは、当時集落にいたほぼ全住民(女性・子供・赤ん坊を含む)を集めて機関銃で掃射し、それでも死ななかった者を銃剣で刺し殺すというもので、死体を一箇所に集めて焼却処分にし、翌日、崖をダイナマイトで爆破することで一気に埋没処理しました。犠牲者数は、3000人説(中国側)、400~800人説(田辺敏雄説)などありますが、虐殺の事実自体を否定する議論はないようです(ウイキペディアの記載を要約)。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%82%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 さらに詳しく知りたい方には、この事件に関わる「証言」を集めたサイトがありますのでご参照ください。
  http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/heichouzan.html
 どうでしょうか?この事件は、「南京大虐殺」とは異なり、事件があったか無かったかが論争となっているのではなく、せいぜい犠牲者の数の大小が争われている程度であり、その日、平頂山村にいた住民のほぼ全員が(子どもを含めて)組織的に日本軍によって虐殺されたこと自体は争いようのない事実なのです。
 もしも、日本の一山村が、外国の軍隊によって女性・子ども・老人の区別なく皆殺しにされたとして(わずか80年ほど前にです)、そのことが許せますか?忘れることができますか?
 しかし、加害者は、まず意図的に忘れようとします。直接・間接の関与者は戦争犯罪人としての処罰を恐れて。それ以外の者も、良心の呵責にふたをするために。さらに時が過ぎると、忘れるまでもなく、「何も知らない世代」が次々と登場してきます。そして、日本にとって都合の悪いことを言い出す日本人に「中国の手先」というレッテルを貼るのです。
 
 日本政府が、「村山談話」によって、初めて公式にアジア諸国民に謝罪の意を表明したのは、ようやく1995年(平成7年)になってからでしたが、その半世紀近く前、「二度とアジアを侵略しない」という決意を対外的に表明したのが日本国憲法9条1項及び2項(とりわけ戦力不保持と交戦権の否認を定めた2項)なのです。
 
 以前にもこのメルマガでご紹介しましたが、2007年6月に和歌山で講演された品川正治(しながわ・まさじ)さんが、復員船の中で日本国憲法草案を読んで涙を流しながら、以下のように考えたと述懐しておられることも、その傍証の一つとなるでしょう。
 
(引用開始)
 前文から9条まで読んで、皆泣きました。我々の生き方は、それしかないと思っておったけども、よもや国家が憲法戦争放棄を明確にする、国の交戦権を認めないっていう、そこまで書いてくれたか、これなら生きていける、これなら中国の人たちにも贖罪の気持ちを表せる、亡くなった戦友の魂に対しても、「こういう国になるんだ」っていうことを我々が言えるようになる、
そういうのが私自身の憲法、現憲法に接した一番最初の日なんです。
(引用終わり)
 
3 「降伏」から「戦後体制」へ~「ポツダム宣言」受諾以降
 日本の「戦後体制」は、法的観点から見れば、「ポツダム宣言」(1945年7月26日)の受諾とそれに基づく降伏文書への調印(同年9月2日)から始まります。
 そこで、ポツダム宣言の軍事関連規定に目を通しておきましょう。これが、戦後作られることになった「憲法」の前提なのですから。
 
(抜粋引用開始)
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証ア
ルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的
ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産
業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向
ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
(引用終わり)
 
 このポツダム宣言を受諾したことによって、日本はアメリカ軍を主力とする連合国の占領下に入り、そこで日本国憲法が作られた(大日本帝国憲法の「改正」として)のですから、その内容が以上のポツダム宣言の条項に矛盾したものであってはならないことは法理上当然であった訳です。
 ポツダム宣言を素直に読めば、日本がとり得る針路は以下のようなものであったと考えられます。
 
1 終戦時に存在した日本の軍隊は完全に武装解除される(9項)。そして、兵員以外の、再軍備を可能ならしめるような産業の維持は許されず(11項)、日本の戦争遂行能力が「破砕」されたことが確証されるまで占領は継続される(7項)。
2 以上の目的が達成され、日本国民の総意に基づく平和的傾向を有し責任ある政府が樹立されれば占領は終結する(12項)。 
3 占領が終結し、日本が完全に主権を回復したあかつきに再軍備するかどうかは日本国民自らが判断すべきことである(条理上当然)。
 
 以上から明らかなとおり、「押しつけ憲法論」が無意味なのは、サンフランシスコで平和条約が締結され(1951年9月8日)、同条約が発効(1952年4月28日)し、日本が主権を回復して以降も、日本人が「日本国憲法」を「改正」してこなかったという「事実」自体、「しようと思えばできる再軍備をしない」という明確な国民の「選択」であったということを看過して
いるからです。

4 「日本国憲法」の制定と「9条」
 いよいよポツダム宣言を受諾することとなった日本は、1945年9月2日、米国戦艦ミズーリ上において、重光葵外務大臣と梅津三治郎参謀総長が降伏文書に署名することにより、連合国による占領の時代が始まります。
  http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j05.html
 その後の憲法をめぐる動きについては、国立国会図書館WEBサイトの中の「日本国憲法の誕生」コーナーに豊富な資料が集積されており、ほとんど読みやすいテキストも併記されていますので、非常に有用です。
  http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html
 その中の「概説」は、資料を豊富に引用しながら、極力客観的な叙述を心がけた信頼できる解説ですから、初心者は、まずこれを読むところから始めると良いでしょう。
  http://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/00gaisetsu.html
 さらに、「論点」において、
 1 国民主権天皇
  http://www.ndl.go.jp/constitution/ronten/06ronten.html
という6項目にわたって解説されており、これも是非ご一読ください。
 以下に、「日本国憲法の誕生」掲載資料の中から、現行9条に直接つながる条項を抜き書きしてみましょう。
 それぞれの文書の成り立ちについては、各文書が掲載されたページのトップで解説されていますので、是非ご参照ください(特に、マッカーサー・ノートとGHQ草案)。
 
1945年2月3日 「マッカーサー・ノート」第2項
  対訳 http://www.chukai.ne.jp/~masago/macnote.html
War as a sovereign right of the nation is abolished.
Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for
preserving its own security.
It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense
and its protection.
No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of
belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.
国家の主権としての戦争は廃止される。
日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段として
の戦争も放棄する。
日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に信頼する。
日本が陸海空軍を保有することは、将来ともに許可されることがなく、日本軍に交戦権
が与えられることもない。
※以上は第2項であるが、参考のため、第1項と第3項の日本語訳も掲げておく。
第1項
天皇国家元首の地位にある。
皇位世襲される。
天皇の職務と権限は、憲法に基づいて行使され、憲法の定めるところにより、国民の基
本的意思に対して責任を負う。
第3項
日本の封建制度は廃止される。
華族の権利は、皇族を除き、現在生存する一代以上に及ばない。
華族の特権は、今後、国または地方のいかなる政治的権力も包含するものではない。
予算は英国の制度を手本とする。
 
1945年2月13日 GHQ草案 第8条
  http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html
War as a sovereign right of nation is abolished. The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.
No army, navy, air force, or other war potential will ever be authorized and no
rights of belligerency will ever be conferred upon the State.
国民ノ一主権トシテノ戦争ハ之ヲ廃止ス他ノ国民トノ紛争解決ノ手段トシテノ武力ノ威嚇又ハ使用ハ永久ニ之ヲ廃棄ス
陸軍、海軍、空軍又ハ其ノ他ノ戦力ハ決シテ許諾セラルルコト無カルヘク又交戦状
態ノ権利ハ決シテ国家ニ授与セラルルコト無カルヘシ
 
1946年6月20日 帝国憲法改正案(第90帝国議会に付議) 第9条
  http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/117shoshi.html
国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。
 
1946年11月3日 日本国憲法(公布) 第9条
  http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権
は、これを認めない。
 
1947年5月3日 日本国憲法 施行
 
5 なぜ「9条」が必要だったのか?
 日本国憲法制定過程を振り返る時、1946年2月から3月はじめにかけての1ヵ月余における、日本政府と占領当局とのやりとりに注目せざるを得ません(これが「押しつけ憲法論」の根拠でもあります)。
  2月1日 毎日新聞が政府改憲案(松本委員会案)をスクープ
  2月3日 マッカーサーGHQ民生局に「3原則」を示して改憲草案の作成を指示
  2月8日 日本政府、「憲法改正要綱」をGHQに提出
  2月13日 GHQ、「改正要綱」を拒否し、日本政府に「GHQ草案」を手交
  3月6日 日本政府、「GHQ草案」を基にした「憲法改正草案要綱」を公表
 この中でも、とりわけ2月3日のマッカーサー・ノート(三原則)が重要です。不戦条約(1928年)でも合意されていた戦争放棄はともかく、自衛戦争も放棄し、軍隊を持たず、交戦権も認められないというラディカル過ぎる(?)原則に、GHQスタッフも驚いたでしょう。実際、2月13日のGHQ草案には、自衛戦争の放棄は盛り込まれませんでした。
 
 さて、なぜ「9条」だったのでしょうか?
 2月13日にGHQ草案が日本側に示された後、日本政府が「自ら」の憲法改正要綱を発表するまでの、政府とGHQとの折衝の過程において、「9条」(最初は「8条」)が重要な争点となっていたという気配がないのです。
 その政治的背景として、1946年2月の段階では、いずれ始まる極東国際軍事裁判(戦犯裁判)に昭和天皇が戦争責任者として訴追されるかどうかが未確定であったという事情を逸することができません。
 そこで、マッカーサー・ノート(三原則)の第1項に何が定められていたかに注目してください。
 「天皇の職務と権限は、憲法に基づいて行使され、憲法の定めるところにより、国民の基本的意思に対して責任を負う」という条件を付した上で、世襲天皇制の存続を認めているのです。
 マッカーサーは、かなり早い段階から天皇を訴追するよりは、政治的に利用した方が占領政策にとって有利であるとの判断に達していたと言われていますが、連合国の中には天皇の責任を追及すべきとの強硬論も根強くあったというのが1946年2月当時の状況でした。
 当然、当時の日本政府にとっての最重要課題が「天皇を守ること」、具体的に言えば、昭和天皇の訴追阻止、占領軍からの天皇制存続の保証のとりつけであったことは想像に難くありません。
 従って、マッカーサーが示した三原則の内の第1項と第2項は、表裏一体、2つで1つのものとして構想されたと考えるのが自然です。すなわち、連合国の中の強硬派に天皇免責を納得させるためには、二度と日本の軍国主義が復活することはないとの保証が必要であったということです。
 
 以上の点までは、多くの論者の意見がほぼ一致していると言ってもよいのではないかと思います。
最後に残された疑問は、マッカーサーは、三原則(とりわけ戦力不保持、交戦権否認)をどうして思いついたのか?ということです。これについても様々な説があるようなのですが、有力説ではあるもののいまひとつ通説になりきれないのが「幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)発案説」です。
 老練な元外交官であった幣原喜重郎は、1946年2月当時、日本政府を率いる内閣総理大臣の地位にありました。2月13日、GHQから心ならずも草案を「押しつけられた」はずの日本政府の代表者である幣原総理自身が、実はその後「9条」として結実するアイデアマッカーサーに吹き込んだ当の本人であるとの、ある面ではトリッキーな説ではありますが、裏付けとなる証拠もそこそこあり、なかなか捨て難い説なのです。
 証拠の一つとして、幣原氏の側近であった平野三郎氏が、幣原氏が急逝する少し前に聞いた内容をまとめたノートが存在し、WEB上で読むこともできます。
  http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/28029496.html
 幣原発案説は、1946年1月24日に幣原首相がマッカーサーを訪ね、3時間にわたり、通訳も交えず(幣原首相は元外交官で英語に堪能だった)会談したという事実が基になっています。表向きは、肺炎に罹患した幣原氏のためにGHQが特効薬ペニシリンを提供したことに対する御礼ということになっていたものの、そういう儀礼的訪問だけが目的であったなら、2人だけで3時間も話し合うはずがありませんからね。
 その機会に、幣原首相がマッカーサーに提案し(もしくは強い示唆を与え)、マッカーサーからの「押しつけ」の形をとることによってようやく実現したのが「象徴天皇制」と「9条」であった、というのが幣原発案説なのですが、皆さんはどう思われるでしょうか?
    
6 まとめ
 さて、駆け足で憲法9条誕生までの経緯をたどってきましたが、ここで、なぜ9条が生まれたのか?についての簡単なまとめをしておきましょう。もちろん、これは私個人の限られた知識に基づく私見に過ぎません。
 
① 法的には、ポツダム宣言を受諾した瞬間から、宣言の要求と矛盾する大日本帝国憲法の条項は効力停止状態となっていたと解さねばならず、早晩、改憲は避けられなかった。
② 改憲の方向性を考える際、現に国内では、1945年10月までにポツダム宣言が要求していた武装解除が完了し、「事実として」軍隊がない状態であった。
③ ポツダム宣言自体、占領終了前の日本の「再軍備」を想定していたとは解しにくい。
④ 1946年2月の時点では、その年の5月から始まることになっていた極東国際軍事裁判東京裁判)に天皇が訴追されるか否かが確定しておらず、オーストラリアなどの強硬国を説得するためにも、日本は将来とも近隣諸国を侵略するおそれがないことを示す必要があった。
⑤ 膨大な犠牲者を出したアジア諸国に対する贖罪と謝罪のためということが、表立って明示された訳ではなくとも、多くの国民の潜在的な意思に合致していた。 
⑥ 1946年2月3日のマッカーサー・ノート第2項に示された原則の真の提案者が、その10日前の1月24日にマッカーサーを訪ねた幣原喜重郎首相その人であったという説は、後年、マッカーサーや幣原本人がそのように認めている割には、それほど支持者の多い説ではないが(かなりトリッキーな説には違いない)、なかなか捨て難いところがあるのは前述のとおり(この説を発展させれば、GHQ草案作成の端緒となった毎日新聞の松本案スクープも幣原が仕掛けたリークということに繋がっていきかねず、その「陰謀論」的気配が支持者を増やせない理由かもしれない)。
⑦ 幣原喜重郎も強調しているとおり、原爆が実戦配備されてしまった以上、戦争放棄、軍備撤廃こそが現実政治におけるリアリティをもった選択であった。
 
 1946年11月3日の憲法公布までを振り返り、とりあえずの私見をとりまとめてみました。
もちろん、もっと多様な意見がある訳で、1人1人がその中から最も適切と考える意見を自らのものにすれば良いのだと思います。
 

(付録)
『暮らしから世界を変えるミュージシャンたち @山口県民大集会 2014.3.8.』
 今年(2014年)の3月8日に山口市で開かれた「上関原発を建てさせない山口県大集会」第2部でのライブの模様です(撮影はスナメリチャンネルの東条雅之さん)。
 「あわたま」の高橋伸明(NO∞無)さんの演奏は15分~32分です。また、ノブさんの出番のすぐ前、祝島在住の「こだままこと」さんの特に最後の曲(9分~)は、ノブさんも「ぜひ聴いてもらいたいです。素晴らしいメッセージです」と言っているとおり、ダイレクトに思いが伝わってきました。皆さんも是非耳を傾けてください(三宅洋平さんは62分~に登場しす)。