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“コピペ”でなければ良いというものではない~全国戦没者追悼式での安倍晋三首相の式辞を聴いて

 今晩(2014年8月15日)配信した「メルマガ金原No.1818」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。 
 
“コピペ”でなければ良いというものではない~全国戦没者追悼式での安倍晋三首相式辞を聴いて

 本日(8月15日)正午から日本武道館において、政府主催による全国戦没者追悼式が開かれました。この追悼式では、天皇陛下が「おことば」を、総理大臣が「式辞」を述べることになっています。
 
 そして、今年の戦没者追悼式では、おそらくこれまで例のなかった注目が総理大臣「式辞」に集まったものと思われます。
 すなわち、8月6日の広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典のいずれにおいても、前年に述べた「あいさつ」とそっくりの「コピペあいさつ」を繰り返したことに批判が集まり、「2度あることは3度ある」となるのかどうか、多くの人が「固唾の飲んで(?)」今日の安倍首相の式辞朗読に耳を傾けたのではないかと思います。
 それにしても、過去、これほどばかげた注目の浴び方をした総理大臣があったためしはないと思いますがね。
 
 結果はといえば、まずまず「3度目の正直」で、「コピペではない」と主張できる程度には工夫していたようです。今年の「式辞」と昨年の「式辞」を比べてみましょう。
 
(引用開始)
 天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表、多数の御列席を得て、
全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。
 祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠
い異郷に亡くなられた御霊、いまその御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げ
ます。 
 戦没者の皆様の、貴い犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そ
のことを、片時たりとも忘れません。
 いまだ、ふるさとへの帰還を果たされていないご遺骨のことも、決して忘れません。過日、パ
プアニューギニアにて、ジャングルで命を落とされ、海原に散った12万を超える方々を想い、手
を合わせてまいりました。
 いまは、来し方を想い、しばし瞑目し、静かに頭を垂れたいと思います。
 日本の野山を、蝉しぐれが包んでいます。69年前もそうだったのでしょう。歳月がいかに流
れても、私たちには、変えてはならない道があります。 
 今日は、その、平和への誓いを新たにする日です。 
 私たちは、歴史に謙虚に向き合い、その教訓を深く胸に刻みながら、今を生きる世代、そし
て、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。世界の恒久平和に、能
うる限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。
 終わりにいま一度、戦没者の御霊に永久の安らぎと、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よ
りお祈りし、式辞と致します。
(引用終わり)
 
(引用開始)
 天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表多数の御列席を得て、
全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。
 祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠
い異郷に亡くなられた御霊の御前に、政府を代表し、式辞を申し述べます。
 いとしい我が子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、ふるさとの山河よ、緑なせと念じ
つつ、貴い命を捧げられた、あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄が
あります。そのことを、片時たりとも忘れません。
 御霊を悼んで平安を祈り、感謝を捧げるに、言葉は無力なれば、いまは来し方を思い、し
ばし瞑目し、静かに頭を垂れたいと思います。
 戦後わが国は、自由、民主主義を尊び、ひたすらに平和の道を邁進してまいりました。
 今日よりも明日、世界をより良い場に変えるため、戦後間もない頃から、各国・各地域に、
支援の手を差し伸べてまいりました。
 内にあっては、経済社会の変化、天変地異がもたらした危機を、幾たびか、互いに助け合
い、乗り越えて、今日に至りました。
 私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ち
た、国の未来を切り拓いてまいります。世界の恒久平和に、能うる限り貢献し、万人が、心
豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります。
 終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、ご健勝をお祈りし、式辞
といたします。
(引用終わり)
 
 さて、本題はこれからです。
 「“コピペ”でなければ良いというものではない」その1は、加害責任の無視についてです。
 
(抜粋引用開始)
 69回目の終戦記念日となる15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれた。安倍晋三首相は約310万人の戦没者を悼み、「今日は平和への誓いを新たにする日」と述べた。一方、昨年に続きアジア諸国への加害責任には言
及がなかった。
(略)
 安倍首相は昨年の追悼式で、歴代首相が繰り返してきた式辞内容の一部を変えた。
1993年に細川護熙首相が「哀悼の意」を表明し、次の村山富市首相が「深い反省」を加えて引き継がれてきたアジア諸国に対する加害責任への言及をしなかった。「不戦の誓い」という表現も使わなかった。今年の式辞もそれは変わらなかった。
 一方で「歳月がいかに流れても、私たちには変えてはならない道がある」などの言葉で、平
和への誓いを語った。
(略)
(引用終わり)
 
 具体的に示した方が分かりやすいでしょう。幸い、首相官邸ホームページには、第81代・村山富市首相以降の歴代総理大臣の演説・記者会見などのアーカイブが掲載されていますので、煩雑になるのをいとわず、「アジア諸国に対する加害責任への言及」を抜粋してみます。ただし、残念なことに、村山首相時代のアーカイブに掲載されているのは所信表明演説など数点に過ぎず、戦没者追悼式式辞を確認できるのは橋本龍太郎首相以降ということになります。
 
また、あの戦いは、多くの国々、とりわけアジアの諸国民に対しても多くの苦しみと悲しみを与えました。私は、この事実を謙虚に受けとめて、深い反省とともに、謹んで哀悼の意を表したいと思います。
 
また、あの戦いは、我が国のみならず多くの国々、とりわけアジア近隣諸国に対しても多くの苦しみと悲しみを与えました。私は、この事実を謙虚に受けとめ、深い反省とともに、謹んで哀悼の意を表するものであります。
 
また、あの戦いは、我が国のみならず多くの国々、とりわけアジアの近隣諸国に対しても多くの苦しみと悲しみを与えることとなりました。私は、このことを謙虚に受けとめ、深い反省とともに、ここに謹んで哀悼の意を表したいと思います。
 
また、あの戦いは、我が国のみならず多くの国々、とりわけアジアの近隣諸国に対しても多くの苦しみと悲しみを与えました。私は、この事実を謙虚に受けとめ、深い反省とともに、ここに謹んで哀悼の意を表したいと思います。
 
また、あの戦いは、我が国のみならず多くの国々、とりわけアジアの近隣諸国に対しても多くの苦しみと悲しみを与えました。私は、このことを謙虚に受け止め、深い反省とともに、謹んで哀悼の意を表したいと思います。
 
また、先の大戦において、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、ここに改めて深い反省の意を表するとともに、犠牲となられた方々に謹んで哀悼の念を捧げます。
 
また、先の大戦において、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、ここに深い反省の念を新たにし、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します。
 
また、先の大戦において、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、ここに深い反省の念を新たにし、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します。
 
先の大戦において、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します。
 
先の大戦において我が国は、多くの国々、とりわけアジアの諸国民に対しても、多大の損害と苦痛を与えました。内外の戦没者及び犠牲者の御冥福を心よりお祈り申し上げます。
 
また、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します。
 
また、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します。
 
また、我が国は、多くの国々、とりわけアジアの諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えました。私は、国民を代表して、ここに深い反省とともに、犠牲となられたすべての方々に対し、謹んで哀悼の意を表します。
 
また、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えております。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となられた方々に、謹んで哀悼の意を表します。
 
先の大戦では、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し、多大の損害と苦痛を与えました。深く反省するとともに、犠牲となられた方々とそのご遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します。
 
先の大戦では、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えました。深く反省するとともに、犠牲になられた方々とそのご遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します。
 
先の大戦では、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し、多大の損害と苦痛を与えました。深く反省し、犠牲となられた方々とそのご遺族に、謹んで哀悼の意を表します。
 
 いかがでしょうか?「コピペの連続」といえばそのとおりに違いありませんが、一国を代表する総理大臣の公式式典での発言である以上、「同じ言葉を繰り返すことに重要な政治的意義がある」こともある、ということでしょう。

 安倍晋三という人物は、2007年には、歴代総理の式辞を踏襲することに(該当箇所は前年に小泉首相が読み上げたものと1字1句同じです)特段異議を述べなかったのか、述べたかったのだが、どこかからブレーキがかかったのか、とにかく「コピペ式辞」を読み上げていたのですが、2度目の登板となった2013年戦没者追悼式において、ついに地金を出して「コピペ」を拒絶した訳です。
 
 一度、2013年の式辞と、前年の野田首相の式辞、あるいは1人で6回も戦没者追悼式の式辞を述べた小泉首相時代のものと読み比べてみてください。
 皆さんはどういう感想を持たれるでしょうか?
 私の感想は、「まことに危うい」ということに尽きます。
 何という情緒的なフレーズ、何という自己陶酔、こういう人間が国家のリーダーになってはいけない。この人物に比べれば、小渕恵三氏や福田康夫氏などは実に立派な宰相だったと思えてくるし、あの小泉純一郎氏でさえ、これほどの「危うさ」はありませんでした。
 この「危うさ」が、ストレートに、集団的自衛権行使容認を訴え、1人で「高揚」する今年5月15日7月1日の記者会見に結びついているのです。

 1994年の村山富市首相から数えれば19年、1993年の細川護煕首相からなら20年にも及ぶ長期間、歴代首相が(コピペを)繰り返してきたアジア諸国民への加害についての反省と哀悼の意を「削除」するということは、「反省することをやめた」という明確なメッセージの発信となるということが分からないはずはありません(そんなセンスがなければ一瞬たりとも首相を務める資格などありません)。

 そして、広島と長崎での今年の「コピペ事件」です。
 安倍晋三という人間は、「コピペ」しなければならない言葉を、子どもじみた高揚感から削除して波紋を広げ、「コピペ」してはならないところで投げやりな態度を露呈して批判を集めているというのが実態です。
 とにかく、戦後ここまで愚かで危険な首相は他に誰もいなかった、と評する以外に適切な言葉が見つかりません。
 
 さて、「その1」だけで相当長くなってしまいましたので、「“コピペ”でなければ良いというものではない」その2は、簡単に済ませます。

 それは、今年の式辞の「戦没者の皆様の、貴い犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります」という部分についてです。
 このような表現は歴代総理の「式辞」にも見られるものですが、安倍首相の場合には、特別な文脈で理解する必要があります。
 皆さんは、昨年の12月26日に安倍首相が靖国神社に参拝し、当日のうちに発表した談話「恒久平和への誓い」をご記憶でしょうか? その一節を引用します。
 
(抜粋引用開始)
 今の日本の平和と繁栄は、今を生きる人だけで成り立っているわけではありません。愛する妻や子どもたちの幸せを祈り、育ててくれた父や母を思いながら、戦場に倒れたたくさんの
方々。その尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります。
(引用終わり)
 
 もう1例、昨年(2013年)10月3日に明治神宮会館で行われた「戦傷病者特別援護法制定50周年並びに財団法人日本傷痍軍人会創立60周年記念式典」における首相「祝辞」の一部を引用します。
 
(抜粋引用開始)
 先の大戦が終わりを告げてから、六十八年の歳月が流れました。この間、我が国は、自由、民主主義を尊び、ひたすらに平和の道を邁進し、繁栄を享受してまいりました。これは、戦場に倒れられた方々や戦禍に遭われ傷病を負われた方々の尊い犠牲の上に、築かれたものであります。そのことを片時も忘れてはなりません。
(引用終わり)
 
 今日の式辞で述べられた「戦没者の皆様の、貴い犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります」という部分を敷衍すれば、上記のような表現となります。
 このような表現に何の違和感も感じないという方も、もしかするとおられるかもしれません。
 確かに、歴代総理大臣の追悼式式辞のように、このようなフレーズが、加害責任の自覚と反省の言葉とセットで語られているのであれば、(私はもっと適切な表現があると思いますが)まだしも理解できないこともありません。 
 
 しかし、安倍晋三という人間はそうではありません。彼は決して加害責任を認めようとはしません(多くの「靖国派」と同様に)。国会でも、「侵略の定義は定まっていない」と言い張っています。
 そのような人間が「戦没者の皆様の、貴い犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります」という時、そこに「反省」という契機が抜け落ちている以上、戦没者の犠牲をもたらした「戦争」があったからこそ、今の「平和」があるという倒錯した論理の罠にからめとられることになります。
 安倍首相を盛り立てる「靖国派」や「ネトウヨ」の「まやかしの論理」のポイントはこの点にこそあると私は考えています。
 
 私は、このような「論理」のまやかしが我慢ならず、今年の1月に以下のような文章を書いていますので、是非お読みいただきたいと思います。

平成26年1月14日 
 
 
 私の批判の骨子となる部分を再掲します。
 これは、先述の「戦傷病者特別援護法制定50周年記念式典並びに財団法人日本傷痍軍人会創立60周年記念式典」における安倍首相「祝辞」を、同式典における天皇陛下「おことば」と対比させて批判した部分であり、私の言いたいことはほぼこれに尽きます。
 
(引用開始)
 さて、安倍首相の「祝辞」です。既に上に述べたことでお分かりでしょうが、我が国が「自由、民主主義を尊び、ひたすらに平和の道を邁進し、繁栄を享受」してきた(書き写すのが恥ずかしくなるほど歯の浮くような言葉ですね)のは、戦没者や戦傷病者の「尊い犠牲
の上に」築かれたとする主張は、全く非論理的と言うしかありません。
 大規模な戦争の当事国となれば、国民に多大な犠牲者を出すのが当然であり、その
追悼や補償は各国に共通する普遍的な課題に違いありませんが、だからといって、犠牲
があった「から」、その後に「平和」や「繁栄」が築かれるものでは決してありません。
 安倍首相をはじめとする「靖国派」の主張は、そもそもその出発点において根本的に間
違っています。
 戦後の「平和」や「繁栄」は、戦争に至る経過を「反省」し、2度と同じような悲劇を繰り
返さぬようにしたいという国民の「願い」や「思い」が国の政策となって結実し、初めて達成
されるものではないですか。
 戦没者や戦傷病者を顕彰することを隠れ蓑に、戦争への「反省」を「自虐史観」と貶め
る論理が、すなわち「靖国派」の「まやかしの論理」に他なりません。
(引用終わり)