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映画『シロウオ 原発立地を断念させた町』と鈴木静枝さん『女から女への遺言状』

 今晩(2014年8月31日)配信した「メルマガ金原No.1834」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
映画『シロウオ 原発立地を断念させた町』と鈴木静枝さん『女から女への遺言状』
 
 上映会が開かれるのはまだだいぶ先のことですが、映画『シロウオ 原発立地を断念させた町』が、和歌山市で上映されることが本決まりとなりました。昨日(8月30日)、呼びかけ人候補者が集まり、映画の試写会が開かれ、私も参加してきました。

 日程は2014年11月29日(土)午後と夜の2回上映、会場は和歌山市あいあいセンター6F、参加協力券1,000円などの基本的事項が決まりましたが、なお詳細確定してチラシもできあがった段階であらためてご案内します。
 
 以下、簡単に映画の概要をご紹介しておこうと思いますが、映画の公式サイトは、本作品の監督「かさこ」氏のホームページ「かさこワールド」に間借りしているようです。
 
 上記サイトの「作品紹介」のページを見ていただければ、おおよそどのような映画かが分かります。
 
(引用開始)
原発マネーを拒否し、原発計画を追いやった徳島県生田原発と、
和歌山県日高原発の反対運動を行った住民にインタビュー。
なぜ原発に反対できたのか。当時、計画推進のためにどんなことが横行していたのか。
福島の事故をどうみるか。今、原発のない町で幸せかどうか――。
原発問題を考える上での示唆がここに凝縮されている。
(引用終わり)
 
 予告編とは表記されていませんが、監督自身のYouTubeチャンネルにアップされている約5分間のダイジェスト映像があります。
 
映画「シロウオ~原発立地を断念させた町」紹介

 
 紀伊水道をはさんだ徳島県和歌山県原発反対運動に関わった様々な人々へのインタビューで構成された約1時間45分の長編ドキュメンタリー映画を観ながら、私は、これまで観てきた鎌仲(かまなか)ひとみさんや纐纈(はなぶさ)あやさんの作品(この2人の作風も全然違いますが)との肌合いの違いは何なんだろう?という疑問を持ち続けていました。
 別に映画の内容や構成が突飛なものである訳ではなく、撮影・録音などの技術的な点についても何の問題もありません。
 地元・和歌山の人たちには是非観てもらいたい作品だと思いましたので、呼びかけ人になることも喜んでお引き受けしたのですが。
 私が抱いた「違和感」の原因を考えるヒントになり得る映像を見つけました。
 この作品が監督第1作となる「かさこ」氏のセルフプロモーション映像です。
 
かさこ自己紹介2014

 
 さらに、映像だけではなく、「かさこ」氏は、「かさこマガジン」というセルフマガジンを自費出版して無償配布するという(もちろん営業の側面も大きい)活動も行っているのですが、今回の「シロウオ」の企画も、その「かさこマガジン」を読んだ矢間秀次郎氏という、一面識程度しかなかった人からの依頼で実現することになったそうで、その間のいきさつが書かれた「かさこマガジン vol.4-2 2014.5」30・31頁は是非読んでいただきたいと思います。
 鎌仲さんや纐纈さんの作品とは異質だけれど、それなりに独自のバックボーンがあってこその作品なのだなということが理解できます。
 「かさこ」監督のさらに詳細なプロフィールはこちらで。
 映画「ウォーターボーイズ」のモデルとして名高い埼玉県立川越高校から中央大学法学部に進み、大学卒業後の2年間、アイフルで不動産担保融資営業担当として「2年で10億円融資するトップセールスに」という経歴は、たしかに普通の映画監督とは違う人生経験の持ち主と言うべきでしょうね。
 
 ところで、この映画の中で私が最も感銘深く観たのは、徳島県では牧場主の米山喜義さん、和歌山県日高町では元教師の鈴木静枝さんに対するインタビューシーンでした(濱一己さんとそのご家族は別格として)。幸い、「かさこ」監督が自身のYouTubeチャンネルに鈴木さんへのインタビューの一部をアップしてくれています。もう1人、小出裕章さん(京大原子炉実験所)の登場シーン(昨年の日高町の民宿「波満の家(はまのや)」での合宿時の、多分勉強会終了後の海水浴シーンも出てきます)と併せてご紹介しましょう。
 
小出裕章先生インタビュー動画~原発を問う


戦争と原発~お上の言うこと信じたらあかん
 

 元「原発に反対する女たちの会」代表で長らく教師を務められた鈴木静枝さんについては、私のメルマガ(2011年3月28日~)の初期からの読者にとってはお馴染みの方だと思うのですが、最初にご紹介したのは、メルマガ金原No.465「鈴木静枝さん『女から女への遺言状(1993年)』」(2011年7月31日配信)によってでした。
 この『女から女への遺言状』は、1993年7月、「紀伊半島に原発はいらない女たちの会」の合宿で鈴木さんがお話された講演を文字起こしし、同会ニュース第9号に掲載されたものでしたが、3.11の後、講演からちょうど18年後に私のメルマガで配信させていただき、さらに好評につき、鈴木さんのお許しを得て複数サイトがWEB上に転載し、その後、2012年5月に刊行された『原発を拒み続けた和歌山の記録』にも収録されました。
 
 
 「原発がこわい女たちの会」代表の松浦雅代さんが、『原発を拒み続けた和歌山の記録』を進呈すべく、日高町阿尾にお住まいの鈴木さんを訪ねた記録が同会ブログに掲載されています。
 
 
 また、昨年(2013年)8月に日高町の民宿「波満の家(はまのや)」で開かれた浦磯合宿の帰途鈴木さんを訪ねた松浦さんに、後日届いた鈴木さんからのお手紙が、「原発がこわい女たちの会ニュース」第86号に掲載されました。
 
 
 「かさこ」監督のブログによると、鈴木静枝さんに対するインタビューは、昨年(2013年)3月に行われたようです。ブログに掲載された写真を見ても、インタビューの映像を視聴しても、非常に聡明な方だという印象を受けます。
 
 
 私があらためて感銘を受けたのは、鈴木さんを原発阻止の運動に駆り立てたものが、戦時中、戦争遂行という国策を何ら疑うことをせずに子どもたちに教え込んでしまったという教師としての悔恨にあったことをあらためて述懐されていたからでしょう。
 私自身、もう一度、『女から女への遺言状』を読み直したくなりました。そして、まだ読んだことのない方々にも是非お読みいただきたいと思い、以下に、メルマガ金原No.465「鈴木静枝さん『女から女への遺言状(1993年)』」を再配信します。
 

鈴木静枝さん『女から女への遺言状(1993年)』
メルマガ金原No.465をお届けします(2011年7月31日現在の読者数138名)。

 去る2011年5月28日(土)午後、和歌山市において、海老澤徹先生(元京都大学原子炉実験所助教授)をお招きして、『ぶんぶん講座』~繋がるいのちのために~が開催されたことは、このメルマガでもご報告しましたが(No.290)、その中で、「松浦(雅代)さんからは、県内に一つも原子力発電所がないという今の和歌山県の状態を勝ち取るためにどのような闘いの軌跡があったのかについて、分かりやすく説明していただき、後輩として非常に感銘深く伺うことができました」と書いています。
 その勉強会の際に松浦さんが提供してくださった資料の中に、『紀伊半島に原発はいらない女たちの会ニュース』9号(1993.9.14)のコピーがあり、そこに掲載されていた『女から女への遺言状』(鈴木静枝さん/日高町原発に反対する女の会)に感銘を受けた歌舞さん(にしでいづみさん)が、文章をテキスト化して送ってくださいました。

 そこで、松浦雅代さんに、紹介文をお願いしたところ、以下の文章を送ってくださいました。
 鈴木静枝さんの講演録と併せてお読みください。
 なお、5月の『ぶんぶん講座』で伺ったところでは、1918年生まれの鈴木さんはご健在だそうです。
 それにしても、様々なことを考えさせられる素晴らしい講演録だと思います。和歌山県民の方に限らず、1人でも多くの方に読んでいただきたいものです。
 
『女から女への遺言状』の頃
 和歌山の女たちのネットワーク(紀伊半島に原発はいらない女たちの会)は1987年に結成して、毎年夏に日高町で合宿していた。最初は故・久米三四郎氏、小出裕章氏、の専門家の講師陣、地元の人と県内の私たちが子連れで参加交流していた。その頃の記録はほとんどない。記録をとる余裕がなかった。1990年に日高町反原発町長を選んだ、
その後の合宿は主に戦争経験者と戦争経験のない女たちの交流でした。落ち着いて現地の先輩に話をして貰った記録です。(松浦雅代)
 
紀伊半島に原発はいらない「女たちの会ニュース」9号 1993.9.14より
『女から女への遺言状』 鈴木静枝氏(日高町原発に反対する女の会)述
紀伊半島に原発はいらない女たちの会」の合宿(1993.7.29・日高町産湯/桂荘
にて)での講演より収録、編集
 
 昭和20年8月15日、玉音放送がありました。
 雑音混じりの、よく分からない天皇さんのお声が、どうも「戦争負けて止めた」と言うてるふうにとれてね。負けたと言うたわ。ということで皆ぼけーとしてしまいました。その時、私は、あ、口惜しい負けたと思ったのかそれとも、あ、済んで良かったと思ったのか、その時の事考えたら何も覚えていないんですよね。
 ひょこっと、そこが抜け落ちたように、どう思ったんか分からないのです。ただ私と一緒に聞いていた人がぼそっと「ほんなら今日から電気つけていいんやろか」といいました。黒い布を被せて、灯火管制です。夜なべの仕事は少しの明りの下でしか出来なかった。暑いし、暗いしねぇ、もううんざりしていて、一番先に電灯が出てきたわけです。「ほら、つけたらええわ」と言う人はいなかったです。「おとうちゃん、帰ってくるかいな」と言う人がいたんですけど、「そんな事、今頃言うたらあかん」と叱られました。
 やはり、どうもまだ戦争負けたと言われても、しゅんとこなくてね。ところが、その次の日だったか、その日だったか、ラジオがね、もうニコニコとした感じで「皆さんアメリカは良い国ですから仲良くしましょう」と言うのです。私はこれを聞いた時、負けたんやなーと、痛切に思いました。前の日まで「鬼畜米英・撃滅」とわめきたてていたんですからね。ほんとにころっと変わって。マスコミというのは、だいたい風にそよぐ葦のように敏感で時代の通り動くもんらしいけど、あれはアメリカの命令だったのか分かりませんねぇー。
 それから、その次に新聞が「一億総ざんげ」という事を書きました。まあ、この戦争負けたんは、我々もしっかりやらなかったから申し訳ない。天皇さんにお詫びしょうと云う一億総ざんげですね。その時はそうやなーと思ったんですけど、後になって考えると、これはちょっと変やなーと思いました。だってね、私たちは一生懸命に戦争に向かって走ったけど、それは上からの命令で、真に正直に、そのバカが付く位バカ正直に素直に言う事に従ったんだけど、あっち向いて走れと言って指揮した人達が上にいたでしょう。これから50年もたったら日本がぺちゃんこになってガレキの、本当に奥尻島みたいにねえ、ぺちゃんこにやられて何も残らないようになって、そしてアメリカに降参したんだという事をみな終戦という言葉で忘れてしまうのではないか、と思ってね。アメリカともうここらで戦争止めよか、と言うて握手して止めたという感じでしょう。終戦というあいまいな、もことした言葉を使ってね、戦争が終わった、という事でごまかして、それから一億総ざんげで、戦争の責任をどっかにぶっ飛ばしてしまって、経済再建という事だけに向けて、まあ50年近い年月をば、つっ走ってきたように思うんです。なんだか日本という国が非常に大事な事忘れて、ただお金儲けの為につっ走ってきて、その走り方が今でも続いているような気がするんですけどね。
 私は戦争中、疑うことなく戦争に協力しました。後から考えてみたら、なんで分からなんだやと思いますけどね、その時は本当に分からなかったんです。しかし後で戦争に反対した人が沢山いた、と聞いて、この人たちに見えてたのに何故私に戦争の本質が見えなかったのかほんまにはずかしかったです。やっぱり小学校の時から叩き込まれた、教育というのは恐ろしいですね。天皇陛下の為に死ぬ、と言う一本に絞って学校の教育はあった訳です。教育に関する勅語という天皇さんのお言葉の中に、一旦緩急あれば義勇公に奉じという所があります。戦争が起こったら、何もかも捨てて天皇さまの為に死ねという事ですよね。そういう教育が戦前の教育だった訳です。
 人間の命は今では地球より重いと言いますけど、あの頃は本当に羽毛のように軽かったんです。だから、戦場で兵隊さんを殺すと云う事に対して軍の上の人たちは、何の後悔も無かったように思うんです。その戦争が済んでから天皇さんが「私は神様ではない」とおっしゃってね。あれもびっくりしました。それまでは、畏くも、と言うたら、皆んなぴーと気をつけやりまして、あれテレビで時々やりますね、しゃちこばって。それは神様であったからです。
 ところが、その天皇が「私は神様ではない」とおっしゃるでしょう。なんだか、雲の上から下へ落っこちて来たような具合です。それもびっくりしましたけどね。
 その次に新聞が又めったやたらと、今まで報道出来なかった戦争中の悪事を暴露しはじめました。本当に、被せていたカバーをぱんと引き外したらね、下から汚いごみがわんさと出てきて、それを又手でもってわっとそこらにまき散らしているような、そんな感じでした。もう悪い事が一杯出てきました。
 その悪い事というのは、まあいろいろありましてね。一番つらかったのは天皇さんのお使いだと思って神様のように崇めていた日本の軍隊が、あちこちで、暴行だ、虐殺だ、という事をやっていた話です。
 私達は、南京が落ちたときには、提灯行列をしてお祝いをしました。その提灯行列をして私達が祝っているときに、あの南京大虐殺というのがあって、もう何万人という中国人が殺されて、そういう話が外国の新聞に出ていて、日本人だけが知らなかったということもあるんですね。私はあの数日の間に私って、なんちゅうアホやろと思ってね、なんでこんなに見えなかったんだろう、だけどこの素直な人間をば、なんだってあんなにだましたんだろうと思ってね。
 第一、大本営発表で勝った、勝ったと言ってたことがみんなウソで、負け続けばっかりだったということでしょう、そして南の島へ兵隊さんをいっぱい置き捨てて、連れに行く訳にもいかず、弾も食べ物も持って行ってあげられないから飢え死に同様に死なせたという話もあるしね。本当に、お母さんが聞いたら、自分の息子がそんなふうに死んだと聞いたら、本当にやりきれんし、すごく腹が立つだろうと思うんですよね。私もおかみがこんなことして国民をばだましていいのかと思ってね、その時はほんまにものすごう腹が立ちました。
 おかみがだますことがあるんやなぁと知って、それもびっくり仰天。おかみというと、天皇様とその政府だと私は思ってましたからね。八紘一宇の聖戦が侵略戦争であったとはね。
 
 それからもう、だまされまいと思って私の戦後はあったようなものです。で、戦争すんでから、原発にめぐりあったんですけどねえ。その時の話では、原発というものはクリーンなエネルギーで、すごくいいもんで、火力、水力なんかよりも値段が安いし、それからそれを持ってきたら、まあ地域に何億というお金が降ってきて、個人にたくさんの補償金がもらえて、道は広くなるし、立派な公共の建物は建つし、何年にもわたって豊かになれるということで、タナからボタモチ降ってくるような話でした。
 あんまりありがたい話なので、これまた例の戦争の時みたいな八紘一宇ではないかと思って、気をつけやなあかんなーとその時思いました。阿尾へその話がきたのは昭和42年です。
 その時私は、阿尾の小学校で教師をしていました。そして48年、原発が白紙撤回されるまでの阿尾の人の戦いぶりを、学校も窓から見せてもらったわけです。ずいぶんがんばりました。本当に見事でした。
 小浦に来たのはその2年後の昭和50年です。私はその年に教師をやめて、家で畑仕事をしていました。
 この年、阿尾は白紙撤回したけれど、その時は賛成の人、反対の人がほんまにもう、顔つき合わせてももの言わない状態になって、村が二つに割れてね、双方傷だらけになってしまった。なにせ、兄弟同士、親類同士、伯父、甥、隣人、そういう関係で二つに分かれて顔を合わせてもふんとむこうを向くような、そういう状態が何年も続いていたんですからね。まったくのとこ、やりきれなかったわけです。だから小浦に来た時、私達それがこわくて、そんなこと言うたらまた阿尾みたいになるて、この話、聞かんことにして断ったらええんと違うかい、と言うたんですけど、やっぱりそうはいきませんでした。
 反対運動が、一番小浦で燃え上がったのは52年の夏からでした。
 反対署名を集めて、反対の数をば多くして、それから役場へ抗議申し入れに行きました。私達が出かけますとね、関電の人が神経質になって、車の電灯を消してお宮さんの前で待機していて、私達がカブや自転車で出かけると、後ろをノロノロついて来るんですよね。署名もらいに入って行ったら、またその人もノソノソと入って来て、用もないのにウロウロして、「あんた何よ、もう、帰ってよ」と言うたら、「あんたらもゴキブリみたいにこんなに出てきてなんな」と言うて、けんかになったりしてね。そらもう、賑やかなものでした。私ももうちっと若かって、10年以上前ですからはりきって、小浦の人達と一緒に、ずいぶんかけ回りました。お正月の前だというのに、漁師の奥さんなんか、エプロンね、こっち向けていたら汚れたんで、裏返して着たら、また汚れたんで、また裏返したという位、洗濯もろくすっぽできん位、かけ回ったもんです。
 町会議員さんの中で反対してくれている人は、2、3人しかいなかったです。17~18人中でね。議員さんにあんたも反対に回ってください、と頼みに行ったら、その人の言うのにね、「わしらただの漁師や百姓やから、原発なんて難しい事は分からへん。その難しい事は学者先生に任しといたらええんで、あんたらかて、そんな事言わんと、おかみの言う事、聞かんせよ」と、向こうに説得されてしまったのです。私は、おかみの言う事聞いていたら間違いないわ、て言うたんで、あれこの人、戦争でえらい目におうたのに、まだおかみ信用してんかなあ、と思って、おかみ、おかみて、おかみは戦争の時、うそだましてたんやで、原発かてうそだますか分からんやないの、と言うと、そがな昔のこと言うてもはじまらんよ、と言うわけです。おかみはなかなか頑丈で、退散してくれへんのです。戦争に負けても、ほんまに、あれは徳川時代からおかみ恐れて暮らしてきたのが、もうしみついているんだと思います。もう一人は「そらなあ、原発反対でいやだっても、これは小浦へ召集きたようなもんやさかい、おかみの言うこと、聞かんわけにはいかんよ」と、これは元軍人さんの言うことです。あんな反対するやつらは、過激派みたいにおかみに手向うんやから、あの人ら赤や、言うてね。もう、その古めかしい赤というレッテルを、私らペタンと貼られてしまいまして、赤でも黒でもないけど、ただ原発というものがこわいということだけで反対しているんや、と言うても、通じません。だから、原発に賛成するか、反対するかということで、おかみに忠実であるか、手向かいする気かという、そういう踏み絵がわりに使われている傾向がありました。だから、小浦で、92人も初め署名してくれたけど、10年程の間に一人二人減っていってしまってね、足元をちょっとずつ波が崩していくように。就職する時におかみににらまれたら、ちょっと悪いさかいよう、ちょっとの間、署名はするけどよ、黙っててよ、というような形で、だんだんとだんだんと減って行くわけです。なんかおかみが光り出したら、後ろへ後ろへと下がるんやね。私もう、ほんまに、情けないと思いました。なんで、こんなにおかみにはばからんといかんのか、と思って、悔しかったです。おかみは政府でしょう。その時のおかみは自民党の政府ですからね、そのおかみが頭にすわっている以上は、こらもう原発もどうしようもないなあ、とほんまに思いました。
 それから、もうほんまに、もうあかんなあー、と思うことが何度もありまして、総代会で、事前調査受け入れて、総決議なんかされたことがありましてねえ。一票か二票の差で負けたこともあるんです。もう、今度こそやられたなあー、と思ったら、そう、丁度、あれありがたいと言うたら悪いんですけどね、スリーマイル島の事故が起こった。それからまた、今度こそあかんかなあ、と思った時分に、チェルノブイリの事故が起こったりして、まるでそれこそ神風が吹くように、その事故があった人達には申し訳ないのですけど、小浦の原発をばまあ、払いのけてくれたようなところがあります。
 それでいろいろとあって、昭和63年、町役場の横の公民館で漁協の総会がありました時にね、原発事前調査の議案、原発受け入れ調査が廃止になりまして、それで原発の、一応けりがついたわけです。
 その時はもう、ほんまに息づまるような会合でしてね、私はあの日のことは忘れられません。その台上に並んでいる賛成派や、賛成反対まじえた議員さんやら、それから下にいっぱい集まっていた漁協の組合員やら、その間でこぜりあいが起こったら、警官が何人も、ぱーと間髪を入れずに現れて、前にこう、立ちふさがるような場面があってね。そしてまあ結局、廃案やということで、廃案なら、これで原発終わりや、と言うてね、浜さんなんかバンザイ、バンザイということで外に飛び出していったもんですから、へえーほんまにこれで終わったんかい、とボケッとした位でした。
 それでも一松町長さんは諦めないで、平成2年9月3日、漁協へ事前調査の申し入れをやったんです。丁度町長さんの任期がじき切れるんで、選挙の前にけりを付けて置きたいということで。その9月3日に漁協がはっきりと「事前調査の受け入れをしない」と、拒否の発表をした訳です。ほんまにまあ、それで原発は終わりということになって、それからその月の30日に町長さんの選挙があり、反対派の押した志賀さんがうまいぐあいに当選しまして、それで、おおかた23年目に日高の原発は息を潜めてくれました。
 ほんとに長い年月でした。大阪から和歌山県の各地から久米先生をはじめ多くの方達が、事あるごとに支援にかけつけて下さって、どんなに励まされたかわかりません。ありがたいことでした。
 今の日高町は妙な安心ムードになりましてね、小浦なんかでも、原発済んだよ、とそう言って、昔の事として、原発に触れないようにして生きています。原発と言うとなんとはなしにそれは、トゲのようなもんで、賛成同志、反対同志の間では何にもないんですけど、反対と賛成の間では原発というのは禁句でして、うっかり言っては平和を掻き乱すような言葉になってしまうので、もうその話題は皆避ける事にしています。やっぱり、私らの喧嘩した年代が死んでしまわない限り、その傷痕というのはとれないだろうと思いますね。
 これは、原発に声をかけられて、ひと騒ぎしている町村はどこもかも皆、こんな傷を受けているんだと思います。本当にひどいことですよねえ。
 それに、そうそう安心ばかりしていられないのです。日高町にも、周辺の市町村にも、原発を推進したい人はいっぱい、いるのですから。風の吹きようで、いつパッと燃え上がらないとも限りません。

 私が今一番言いたいのは、後になって、おかみにだまされたなどと、泣きごと言ってほしくないことです。だまされないよう心とぎすまして、時には反対する勇気をもってほしいということです。自分に出来なかったことを、人にやってもらいたいというのは、本当にあつかましい話ですけどね。
 今の若い人たち、テレビなんか見ていたら、遊ぶ時、ものすごく活力出しますけどねえ、なんでもうちょっと、政治とかPKOとか、そういう事に怒らないのでしょうね。昨年のあのPKOの派遣なんかにしたって、もしかしたら将来自分に徴兵令が来て行かんならんような事がおこるかも知れないのに平気で、そしらん顔している。投票なんかもしないでしょう、あれは、ほんまに間違っていると思うんです。こんな風に無関心で居たら、いまに、その付けをば。うんとこ払わせられるような気がします。しっかりして下さいね。
 と言うのが私の遺言です。
 なんだか、この頃、お母さんたちもお金儲けに一生懸命になってね、子どもにしっかり勉強しろとお尻叩いて、自分はお金儲けに走るだけ、みたいに成って来ましたから、家の中で、そんな風な話を子どもとゆっくり話しする暇なんか無いんじゃないでしょうかね。だからなんだか心配です。この間の選挙なんかにしても、あれだったら自民党がちっとも減らないで増えた位でしょう。あれは自民党はおかみだから自民党の言うことを聞いとかないと損だという意識が心の中にあると思うんですよね。
 もうちょっと女の人しっかりせんとあかんと思うんです。代議士なんかでも少ないでしょう。数。私はほんまにもっともっと、つくらんといかんと思います。女の人が結束して女の人をば入れるんだったら、もっと上がるはずですもんね。そして内閣総理大臣を女にして、閣僚も女にして、そして一人か二人男も入れてあげる。そしてね、私はそうしたら戦争せえへんと思うんですけどね。戦争起こりそうになったら、その国に出掛けていってん、肩なんかボコッとたたいて、にこっと笑って、あんたもそんな怖い顔しないで仲良く話して、あんたも引くし私も譲るし、お互い譲り合ったら、あんな殺人ゲームなんか、やらないで済むんじゃないですか。そして自分の子どもたちをば殺したく無いでしょう。と話し合う。女どうしだと出来ると思うんですけどね。そんな時代がこないかなーー。とこれは私の夢です。だけどもねそれまでは、とても生きていられません。まあ、若い人たちにそんな夢を託しておきたいと思うんです。ほんとに皆さん頑張って下さいね。
(すずき しずえ  一九一八年生まれ)