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戦争に敗けるということ~加藤朗氏『敗北をかみしめて』を読んで考える

 今晩(2014年9月1日)配信した「メルマガ金原No.1835」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
戦争に敗けるということ~加藤朗氏『敗北をかみしめて』を読んで考える
 
 まだ私自身、明確な意見を持つには至っていないものの、重要な問題かもしれないというぼんやりとした意識に導かれるまま、気になったことを書き留めておこうと思います。これは、一昨日(8月30日)書いた「“平和主義と天皇制”~『戦後レジーム』の本質を復習する」の余滴と言ってもよいかもしれません。
 
 一昨日の記事の末尾で引用した平野三郎氏による聞き書きノート「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」の中にこういう一節がありました。
 
(抜粋引用開始)
問 元帥は簡単に承知されたのですか。
答 マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚いていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握
手した程であった。
 元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの侵略に対する将来の考慮と、共産主義者に対
する影響の二点であった。それについて僕は言った。 
 日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメ
リカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がア
メリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くかである。(以下、略)
(引用終わり)
 
 なお、上記引用文中、「元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの侵略に対する将来の考慮と」とある内の「侵略」というのは、前後の文脈から考えて、おそらく「戦略」とあるべきものが誤記されたのでしょう(そう解さないと意味が通じない)。憲法調査会が印刷に付し、国立国会図書館が所蔵する原本は未見なので、どこで誤記が生じたのかは不明です。

 私が平野ノートを最初に読んだ時、この部分は何となく読み流してしまっていたのですが、マッカーサーが(永久的な戦争放棄という提案の受け入れに)躊躇した理由として幣原が挙げた2つのうち、後者の「共産主義者に対する影響」はさておき、前者の「アメリカの侵略(戦略)に対する将
来の考慮」は、安倍政権が推進する集団的自衛権行使容認と密接な関係があります。
 幣原喜重郎が語った(と平野三郎氏が伝える)「アメリカの戦略に対する将来の考慮」の具体的内容は、そのすぐあとで、「日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの
尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか」とあるのを読めば明瞭です。
 2人が会談した1946(昭和21)年1月24日の時点では、既に日本軍の武装解除は完了しており、ポツダム宣言の条項から考えても、連合国による占領が継続している間の日本
再軍備などあり得ないという状況でした。
 しかしながら、占領終了後の日本に、アメリカを盟主とする資本主義陣営の一翼を担わせるということが「アメリカの戦略」であることは、この時点で、既にマッカーサーと幣原の間の共通
認識であったことは間違いないでしょう。
 そうであればこそ、独立回復後の日本が再軍備して「アメリカの尖兵となること」が、「アメリカ
の戦略」の一環として当然想定されているであろうと幣原首相は推測していたことになります。

 幣原自身、「それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった」と語るとおり、天皇制を守るために永久的戦争放棄条項を提案したのでしょうが、必ずしも、マッカーサー、あ
るいはアメリカ政府がその提案を受け入れるかどうか、確信はなかったように思われます。
 逆コース以降のアメリカの姿勢を見ても、戦争放棄条項をアメリカが日本に積極的に「押しつけた」とは必ずしも言い切れず、「憲法9条 幣原喜重郎発案説」が支持を得る根拠も、その
辺にあるのだろうと思います。
 
 ある意味、偶然の重なりによって「憲法9条」が誕生してしまったのかもしれないのですが、「日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか」とマッカーサーを説得した幣原首相の苦心もわきまえず、二言目には「日米同盟の深化」という決まり文句を唱え、進んで「アメリカの尖兵」になろう(と言っても戦場に立つのは自衛隊員であって政治家ではない)という政治家ばかりが大きな声を上げている現在の状況を、天国の幣原喜重郎氏はどう見ているでしょうか。
 
 以上の考察は、平野ノートの記述が基本的に事実に沿ったものであることを前提にしていますが、私にそれを論証するだけの材料の持ち合わせはありません。ただ、直感的に「多分、それほど事実と大きく食い違っていないだろう」と推測しているとだけ申し上げておきます。
 
 ところで、独立回復後の日本が何故「アメリカの尖兵となること」が両国の首脳によって当然視されていたのか疑問を感じませんか?
 端的に言えば、「日本がアメリカとの戦争に敗北したから」ということに尽きるのですが、この点については、加藤朗さんが1年前に書かれた以下の論考を是非ご参照ください。
 
 
(抜粋引用開始)
 暗礁に乗り上げた中韓関係のみならず、次第に疎遠になりつつある日米関係にとって憲法改定がどのような意味を持つのか。それを考える上でわれわれは今一度、次の三つの問題に思いを馳せる必要がある。第一は敗戦とは何であったのか。第二は天皇制をどうする
のか。第三は敗戦体制をどう克服するか。
 第一の問題に一言で答えれば、日本はアメリカの支配下に置かれ、平和憲法によって
二度と戦争のできない国家に改造させられたということである。確かにジョン・ダワーが活写するように、被占領期に日本人は「敗北を抱きしめて」いたかもしれない。しかし、同時にダワーも指摘するように、そこには「押し付け」の構造すなわち支配・従属構造があり、しかも
それは日米安保体制で補強され、日本は軍事的にはもちろん政治的、経済的そして社会的にも二度とアメリカに刃向えないよう平和憲法が制定されたのである。
 古来より歴史は、敗戦国が戦勝国の支配の軛から脱する手段が戦争であることを教え
ている。だから日本は平和憲法を押し付けられ二度と戦争ができないようにさせられたのだ改憲派は言う。他方護憲派は、たとえ押し付けられたにせよ日本は平和憲法を護り戦争など二度としないから米軍は出ていけという。いずれも敗戦の意味を理解していない。戦争に負けた以上、アメリカが日本との支配・従属関係を維持する能力や意志を失わない限り、アメリカは日本をその支配下に置き続け、友好の美名の下で日本の敗戦体制は永遠
に続く。
(引用終わり)
 
 「アメリカが日本との支配・従属関係を維持する能力や意志を失わない限り、(略)日本の敗戦体制は永遠に続く」というのは、まことに身もふたもない意見ですが、戦後の日米外交史(孫崎亨氏著『戦後史の正体』推奨)や沖縄の現状を見るにつけ、この見解に正面から反駁を加えるのはなかなかに困難でしょう。
 その意味からも、日本を戦争に導いた指導者の責任は極めて重く、日本人によって厳しく指弾されなければならないはずです(にもかかわらず、安倍晋三首相にとっては、戦争指導者も「今日の平和と繁栄のため、自らの魂を賭して祖国の礎となられた昭和殉職者」な
のだそうです)。
 従って、「親米右翼」などという存在はそもそも言語矛盾であり、「あり得ない」だろうと思いますけどね・・・というのは余談としても、沖縄における米軍基地問題の根っこにも、この
「敗戦体制のくびき」があるのでしょう。
 
 しかしながら、それでは全く希望も展望もないのか?ということになりますが、加藤朗さんは、
以下のように「敗北をかみしめて」を締めくくっておられます。
 必ずしも、加藤さんの意見に全面的に同調できなくてもかまわないでしょう。正直私にもよく理解できない部分があります(「だからこそ安倍政権オバマ政権を叱咤激励するためにも自由、民主主義の価値観外交を実践していくべきである」というのは一種のブラックジョー
クなのだろうか?などと思ってしまう)。
 考えてみれば、敗戦国の指導者として、連合国最高司令官と1対1で対峙した1946年1月24日の幣原喜重郎首相も、「敗北をかみしめ」ながら、その中から日本にとってどのような展望があり得るかを必死に考え抜いた末の交渉であったろうと推測します。その結果が日本国憲法に結実したか否かは説が分かれるところですが、それから68年後の今なお、「敗北をかみしめて」将来の展望を切り開く必要があるのだということを、加藤さんの文章を読みながら反芻しています。
 
(抜粋引用開始)
 敗戦の結果我々は多くのものを失った。その一方で得たものは何かを考えてみること、そ
れが第三の問い、即ち敗戦体制をどう克服するかの回答となる。
 戦後の敗戦体制の下でわれわれは一体何を得たろう。戦勝国アメリカに次ぐ経済大国
として経済的繁栄を獲得できた。しかし、それ以上に重要なものをわれわれは会得したのではないか。それは自由、民主主義、個人の人権等の普遍的価値である。仮にこれらの価値がアメリカによる「押し付け」であったとしても、これらの普遍的価値そのものにアメリカと
の間で支配・従属の関係はない。だからこそこれらの普遍的価値に基づいて日米関係を構築しなおすことで、また天皇を普遍的価値の体現者として位置づけることで、われわれは敗戦体制を克服することができるのではないか。
 オバマ大統領はプラハ演説で「米国は核兵器保有国として、また核兵器を使用したこと
がある唯一の核兵器保有国として、行動を起こす道義的責任があります」と慎重な言い回しながら、はじめて原爆投下に対して「道義的責任」を明らかにした。オバマ大統領のこの言葉は、道義において日米の関係が対等あるいは逆転したことを表している。またオバマ政権は「核兵器のない世界」を目指すものの、歴代の政権と異なり自由、民主主義、人権などのアメリカの建国の理念に基づいて世界を指導しようとする外交姿勢が見られない。自ら超大国から普通の大国へと降りたがっているような外交姿勢である。日米関係で
言えば、オバマ大統領は日本との支配・従属関係を打ち切ろうとしているかのようである。
 だからこそ安倍政権オバマ政権を叱咤激励するためにも自由、民主主義の価値観外
交を実践していくべきである。
(引用終わり)