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愛国者と潜水病~『夜と霧』と現代日本の病理

今晩(2014年9月4日)配信した「メルマガ金原No.1838」を転載します。

なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
愛国者と潜水病~『夜と霧』と現代日本の病理
 
 一水会・顧問の鈴木邦男さんがマガジン9に連載している「鈴木邦男の愛国問答」は、私の
愛続コラム(でいいですかね?)ですが、ここ最近掲載された2本の記事は特に注意をひかれました。
 というのも、国連人種差別撤廃委員会による総括所見で大きく取り上げられたヘイトスピーチについて考えていた時だったので、「こういう見方もあるのか」と感心したのです(全面的に同感と言えるほど理解できていないのですが)。
 まず、その2本の記事をお読みいただければと思います。
 
マガジン9 2014年8月20日up
鈴木邦男の愛国問答 第157回
8月15日、靖国神社の光景
(抜粋引用開始)
 8月15日(金)、靖国神社に行った。騒々しかった。閉口した。戦争で亡くなった人々を静かに慰霊する、といった雰囲気ではない。これでは、戦争で亡くなった人がかわいそうではないか。そうも思った。
(略)
 それでなくとも道は狭いし、人が多いのに、両側から叫ばれ、署名を求められる。大きなパネルも並べられている。皆、自分たちの主張を大声で言う。絶叫している。毎年、見慣れた光景だが、今年は特に多いし、特に騒々しい。やっとの思いで、信号のところまで来た。信号を渡ると靖国神社の大鳥居だ。その時、ギョッとする光景に出会った。女性が声を張り上げて、朝日新聞を攻撃していた。慰安婦問題で嘘ばかり書いている朝日は廃刊にすべきだ、と。「朝日は、そ
んなに日本が憎いのですか!」と。
 まあ、言論・思想の自由だから何を言ってもいいだろう。でも、「南京大虐殺はなかった」「従軍
慰安婦はなかった」…と、エスカレートする。「戦争中に虐殺したり、レイプしたりする兵隊は1人もいなかった。ましてや慰安所などなかった」。そして、こう言ったのだ、「日本兵は世界で一番、道徳的な兵隊です!」。
 エッ、そこまで言うのかよ、と思った。そのうち、「戦争で1人も殺さなかった」「1発の弾も撃たなか
った」と言うんじゃないか、とまで思った。「戦争もやってない。嘘だ!」とも言いかねない。まさか、そこまでは言わないだろうが、「日本兵は世界で一番道徳的な兵隊です!」の叫びは、ずっと耳に残っていた。でも、愚かだ、歴史を知らない、と切り捨てる気にはなれなかった。だって昔は、僕もそう思っていたからだ。
(略)
 大鳥居をくぐって、靖国神社に入ると、広々としていた。しかし、奇妙なことに気がついた。やたらと「軍人」が多い。本物の軍人ではない。軍人の格好をした人たちだ。珍しがって見に来る人たちと記念撮影をしている。又、大きな輪を作って、皆で軍歌をうたっている。その時、ザックザックと玉砂利を踏む音がする。20人ほどの軍人が銃を持って行進している。沿道の人々は群がって写真を撮っている。外国のカメラマンもいる。これが外国に紹介されたら、「又、日本は戦争
をしようとしている」と思われるのだろう。「8月15日だけの光景」なのだろうが、外国の人達はそうは思わない。日本では改憲の動きがあるし、集団的自衛権もあるし、ヘイトスピーチデモもある。〈一連の流れ〉と思われるだろう。又、書店に行くと、反韓・反中の排外的な本ばかりが並んでいる。どんどん誤解される。「いや、誤解されてもいい。これが愛国心だ」と居直る人々も多い。「にわか愛国者」が急増し、冷静な議論が成り立たない。
(略)
(引用終わり)
 
マガジン9 2014年9月3日up
鈴木邦男の愛国問答 第158回
「潜水病」にかかってしまった日本
(抜粋引用開始)
 池田香代子さん(ドイツ文学者)と「潜水病」の話をした。8月30日(土)、「デモクラTV」に出たので、もっぱらその話をした。(略)愛国心」は素晴らしい事のように言われるが、その面だけでなく、それを持ったが故に集団的狂気に陥ったり、暴走したりもする。危ない面もある。その話もしましょう、と言った。 
 『夜と霧』に出てくる「潜水病」の話と同じかもしれない。というところから話は始まった。ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』(みすず書房)を池田さんが翻訳している。これは世界的な名著だ。ナチス強制収容所を体験した心理学者のフランクルが書いた本だ。そこに「潜水病」の話が出てくる。地獄の体験で、次々と死んでいく。奇跡的に助かった人にも、いろんな苦難が待ち構えている。潜水病は、〈潜水労働者が(異常に高い気圧の)潜水から急に地上に出ると健康を害するように、精神的な圧迫から急に解放された人間も、場合によっては精神の健康を損ねる〉という病気だ。
 解放されてみたら、地獄の生活の中で夢見た自由な社会じゃなかった。あるいは、「そんなに
大変だったのか」とみんなが認めてくれない。それにオレはこんなに苦労したんだから、少しぐらいいい目をしてもいいだろう。と、自分勝手なことをしてしまう。社会的倫理を無視したり、あるいは違法行為をしてみたり…。
(略)
 いや、運動団体だけでなく、国家全体が「潜水病」になることもある。日本は外国から理不尽な批判や侮りを受けてきた。「南京大虐殺」をやった。慰安婦の強制連行をやった。捕虜を殺した…。全くやってないことだ。我々の先輩たちは、ウソによって罵倒されてきた。それを晴らさなくてはいけない。そう言って、「日本は悪いことを何もしていない!」「悪いのは中国、韓国だ!」と絶叫している。これも「潜水病」なのかもしれない。
 昔はもっと謙虚な民族だったと思うのに、最近はやたらに威張り散らす。威丈高だ。「日本には
悪いところは何もない。世界は日本に皆、感謝している。文句を言っているのは、中国と韓国だけだ」と言う。又、そんな本ばかりが売れている。『中国が世界地図から消える日』なんて本もあった。
(略)
 正義や愛に基づいた運動は素晴らしい。ただ、それだけにこり固まると、一切の批判を許せない。非寛容な運動になる危険性もある。僕は、そんな場面をいやというほど見てきた。又、「正義や愛」は暴走した時、それを止めることも、批判することも難しい。一緒になって熱くなることを求められる。冷静に見ることが出来なくなるのだ。「愛国心」の運動もそうだ。あるいは、こうも言える。「愛国心」を超えるものを持っていなければ、「危ない」ということだ。三島由紀夫は、45年前「『愛国心』という言葉は嫌いだ」と言った。自分一人がポンと飛び出して、上から日本をみて「愛す」という思い上がった視点があるという。
 僕は高校生の時、「生長の家」の運動をやった。母親が信者だったので入ったのだ。宗教だけ
れど、かなり愛国的な宗教だった。高校生の時は「生高連」という組織があり、「生高連」の歌があった。その中に、こんな歌詞があった。「愛国の情、父に受け」。これはいい、素直にわかる。次だ。「人類愛を母に受け、光明思想を師に学び」。あっ、これがあったので今、自分は排外的愛国主義にならなかったのか、と思う。
 「愛国心」は大事だ。しかし、それだけでいいのではない。愛国心を超える「人間愛」も必要だ
として「光明思想(宗教)」も必要だと言っているのだ。高校時代は、分からなかった。毎日のようにこの歌を歌いながら、その意味するところは分からなかった。今にしてやっと分かる。
 ヘイトスピーチのデモや、中国や韓国をただ罵倒していては、国を超えるものがない。この国だ
けが全てだ。それに反対したり、超えたりするものは許せない。それこそが「愛国」だと思いつめているのだろうか。「潜水病」だ。又「いつまで謝ればいいのか」という人もいる。今まで「謂われのない」誹謗、中傷を浴びてきたのだからこれからは倍返しだ。10倍返しだ、と叫ぶ人もいる。「朝日新聞の訂正」以来、さらにエスカレートしている。「朝日は廃刊にしろ!」と叫んでいるマスコミもある。又、鬼の首でも取ったように、「日本の軍人は悪いことは何もしていません」「南京大虐殺も強制連行もありませんでした。日本の軍人は世界一、道徳的な軍人でした!」と言っている人もいる。今までは世界からいじめられていると思っていた。その「深海」から今、急激に海上に出てきた。そんな気持ちなのだろう。それは「病」だ。冷静に根気よく対処するしかないだろう。
(引用終わり)
 
 『夜と霧』の中でヴィクトール・E・フランクルが指摘している「潜水病」の概略は、鈴木さんが要約しているとおりですが、池田香代子さんの新訳により、該当箇所の一部を引用します(みすず書房刊『夜と霧 新版』152・153頁)。
 
(引用開始)
 収容所生活最後乃日々の極度の精神的緊張からの道、この神経戦から心の平和へもどる道は、決して平坦ではなかった。強制収容所から解放された被収容者はもう精神的なケアを必要としないと考えたら誤りだ。まず考慮すべきは、つぎの点だ。長いこと空恐ろしいほどの精神的な抑圧のもとにあった人間、つまりは強制収容所に入れられていた人間は、当然のことながら、解放されたあとも、いやむしろまさに突然抑圧から解放されたために、ある種の精神的な危険に
脅かされるのだ。この(精神衛生の観点から見た)危険とは、いわざ精神的な潜水病にほかならない。潜函(せんかん)労働者が(異常に高い気圧の)潜函から急に出ると健康を害するように、精神的な圧迫から解放された人間も、場合によっては精神の健康を損ねるのだ。
 とくに、未熟な人間が、この心理学的な段階で、あいかわらず権力や暴力といった枠組にとらわれた心的態度を見せることがしばしば観察された。そういう人びとは、今や解放された者として、今度は自分が力と自由を意のままに、とことんためらいもなく行使していいのだと履き違えるのだ。こうした幼稚な人間にとっては、旧来の枠組の符合が変わっただけであって、マイナスがプラスになっただけ、つまり、権力、暴力、恣意、不正の客体だった彼らが、それらの主体になっただけな
のだ。この人たちは、あいかわらず経験に縛られていた。
(引用終わり)
 
 非常に示唆に富む指摘だと思うものの、「全面的に同感と言えるほど理解できていない」と書いたのは、靖国神社の前で「戦争中に虐殺したり、レイプしたりする兵隊は1人もいなかった。ましてや慰安所などなかった」と叫ぶ女性や、「悪いのは全部中国、韓国だ」と罵るネトウヨ、それ「日本」という国家にしても、「潜水病」と診断するためには、強制収容所入所にも比すべきどのような「抑圧体験」を有し、どういうきっかけでそこから「解放」されたのか、という機序が明確である必要があると思うのですが、その点がいまひとつよく分からないということなのです。
 あるいは、デモクラTVを視聴すればよく分かるのかもしれませんが。
 
 しかし、『夜と霧』から引用した一節の特に後半部分は、強制収容所という非常に特殊な境遇にだけ特有の現象というのではなく、相当に一般化できる理論モデルではいなかという印象をけます。
 身近な例をあげれば、子どもの頃に児童虐待を受けた者が、自分が親になった時、自らの子どもに虐待を繰り返すという「世代間連鎖」は、フランクルが想定したスパンよりもずっと長いもので、そのまま当てはめる訳にはいかないでしょうが、フランクルの「潜水病」と類似のモデルと言い得るのではないかという気がします。
 
 ヘイトスピーチという現象に向かい合うためには、さまざまな視点が必要ということは、同じマガジン9に南部義典さんが書かれた以下の文章を一読するだけでも明らかです。南部さんの論考も是非お読みになることをお勧めします。
 
マガジン9 2014年9月3日up
南部義典 立憲政治の道しるべ 第50回
ヘイトスピーチ規制 政府・国会は何を議論すべきか?