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原発賠償関西訴訟と森松明希子さん『母子避難、福島から大阪へ』

 今晩(2014年9月12日)配信した「メルマガ金原No.1846」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
原発賠償関西訴訟と森松明希子さん『母子避難、福島から大阪へ』

 来る9月18日(木)午後2時から、大阪地方裁判所において、福島第一原発事故による放射能汚染から逃れて関西に避難して来られた方々などが、国と東京電力を被告として提訴した原発賠償関西訴訟の第1回口頭弁論期日が開かれます。一応私も弁護団の一員ではありますが、残念ながら和歌山での仕事のために出頭できません。
 関西での同種訴訟では、京都地裁神戸地裁に提訴された事件の審理が先行して進んでいますが、いよいよ大阪地裁も始まることになります。
 今後とも、これらの訴訟の経過に是非ご注目いただきたいと思います。
 
 以下に、弁護団あるいは支援者の会のWEBサイトをご紹介しておきます。

(京都訴訟)
原発賠償訴訟・京都原告団を支援する会

東日本大震災による被災者支援京都弁護団
 
 
 
 ここで、昨年(2013年)の9月17日、大阪地裁に第一次提訴を行った際に関西訴訟原告団・弁護団連名で発表された「声明」をご紹介します。
 
原発賠償関西原告団・弁護団声明
~「ふつうの暮らし、避難の権利、つかもう安心の未来」~

(引用開始)
 本日、福島第1原発事故により関西に避難してきた被災者80名(27世帯)が、国及び
東京電力に対して、損害賠償請求訴訟を大阪地裁に提訴しました。
 この裁判の目的は、福島第1原発事故によって被災したすべての人たちが、事故前の「ふ
つうの暮らし」を取り戻すために、国及び東京電力の「責任」を明らかにし、「個人の尊厳」を
回復することです。
 本件事故は、2年6ヶ月を経過した現時点においても、収束の目途すら立たず、福島県
らの避難者だけでも15万人を超え、福島県以外からの避難者も加えれば、さらに多くの人たちが放射能被曝から避難することを余儀なくされています。また、放射能汚染地域に滞在する人たちは、日々放射能被曝による健康被害の不安の中での生活を強いられています。とりわけ、放射能に脆弱な子どもたちは、避難元においては、従前のような自然と触れあいながらの生活を奪われ、外で遊ぶことも制限されるなど被曝を意識しながらの行動を強制され、避難に伴っては、多感な時期に、多くの友人や恩師、母子避難では父親との別離を強いら
れています。
 日本国憲法は、すべての国民が「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」を有
することを確認し、個人の尊厳を基本理念として、幸福追求権、生存権を始めとする人権を保障し、国はこれを実現する責務を追っています。また、子どもの権利条約によって、子どもの生存及び発達を可能な最大限の範囲で確保する責務を負っています。さらに、国内強制移動に関する指導原理に従って、国内避難民に対して、すべての段階における恒久的解決を促進する責務を負っています。昨年6月、子ども被災者支援法が成立しました。しかし、1年2ヶ月以上経過した現時点においても、この法律を具体化するための基本方針が策定されず、ようやく基本方針案が提案されましたが、被災者の意見を十分に反映されたものとは
到底言えません。
 私たちは、この裁判を通じて、放射能被曝から「避難する権利」を確立し、避難した人も、
残った人も、また帰還した人も、みんな同じように、本件事故前の「ふつうの暮らし」を取り戻し、「個人の尊厳」が回復される必要かつ十分な支援策が実施されることを裁判所そして社
会に訴えかけます。私たちの裁判に対する市民の皆さんの暖かいご支援をお願いします。
(引用終わり)
 
 ところで、原発賠償関西訴訟の原告団代表を務めておられる森松明希子(もりまつ・あきこ)さんは、私のメルマガ(ブログ)を読んでくださっている方にとってはお馴染みになりつつあると思いますが、このたび森松さんから、今年の春、「季刊 人権問題」という雑誌に寄稿した原稿「母子避難、福島から大阪へ」という文章を送っていただきましたので、一読したところ、非常に感銘を受けました。そこで、森松さんのご了解を得て、メルマガ及びブログに掲載させていただくこととしました。
 もちろん、原告団代表とはいえ、関西訴訟の原告225人全員を代表してこの文章を書かれた訳ではありません。森松さん自身が書かれているとおり、「原発被災者は被害の状況も避難の経緯も避難に伴う様々な苦悩や苦渋の決断も100人いれば100様」だからです。従って、以下の文章は、2人の子どもを守ろうと、郡山から大阪に避難することを決断した1人の女性の経験と意見に過ぎません。そして、そのような本人にしか語れない、代替性のない経験や意見だからこそ尊いのだと思います。
 とはいえ、自らを語ることほど難しいことはありません。どんな人間でも、偏見や自己愛から完全に自由ではあり得ないからです。そして、そのような限界を持つ人間が、限界を自覚しつつ、それでも伝えたいことがあるという思いに突き動かされて紡ぎ出した言葉だけが人の心を打つのだと思います。
 私は、森松さんの以下の文章に心を打たれました。皆さんはいかがだったでしょうか?
 
(弁護士・金原徹雄のブログから)
2013年12月21日
森松明希子さんが語る原発避難者の思い(12/19大阪市立大学にて)
2014年2月8日
母子避難者の思いを通して考える「いのち」(「母と女性教職員の会」に参加して)

(参考書籍)
森松明希子著「母子避難、心の軌跡 家族で訴訟を決意するまで」

 

                    母子避難、福島から大阪へ
          ~ふつうの暮らし 避難の権利 つかもう安心の未来~

                           
森松 明希子
                           (原発賠償関西訴訟原告団代表)
 
 はじめに
 東日本大震災から3年が経過しました。
 今なお関西の地で避難生活を続けられているのは、避難直後からの関西の皆さまの温かいご支援のおかげです。この場をお借りしまして、まずは感謝の気持ちを伝えさせてください。本当にありがとうございます。
 
 母子避難は苦渋の決断
 私は震災の当日、福島県郡山市で、3歳の息子と生後5ヶ月の娘、そして夫の4人で暮らしていました。原子力災害から2人の子どもたちの健康と未来を守るために、母子だけで大阪市内に避難してきました。3年以上が経過した今も、私たち家族は母子避難を続けており、夫は福島県に1人残って家族を避難させ続けるために働いています。
 母子避難を決心するまでの2ヶ月間は被災し自宅を失ったこともあり、また、震災直後の混乱の中、パニックを起こさないように、ただひたすら「収束するから」「復興」「がんばろう東北」の言葉を信じて、とても違和感のある生活に耐えていました。
 私の住んでいた郡山市福島第一原子力発電所からは60キロメートルほど離れていますが、当時は同心円上に避難指示、屋内退避命令などが広げられていき、徐々に汚染地域が広がっていく恐怖に怯える毎日でした。少しでも強い風が内陸方向に吹き込んだら・・・、目には見えない放射性物質が飛び散っていても分からないですし、ニオイも、味もない、通常はすぐの反応も出ない、一体どこまで気をつけたら良いのだろう?それでも国は、より危険な地域から順次、人を避難させてくれるものだと信じていました。
 一番辟易したのは、避難所で1ヶ月近くたとうとするころ、テレビのニュースで「東京の浄水場から放射性物質が検出された」との報道でした。福島第一原発から200キロも離れている東京で検出されて、60キロの郡山の水が汚染されていないはずはありません。案の定、翌日には福島市郡山市などの水も汚染されていると報道されました。しかし、報道がなされても、地域住民全てにペットボトルの水が行政から配られるわけではないのです。
 全国の皆さんは、この水道水が放射能汚染されたという隠しようも無い紛れも無い事実を知っているのですが、その報道の裏で、私達周辺地域の住民は、放射性物質がたとえ「身体に直ちに影響はない」ほど微量とはいえ、放射性物質が検出された水を飲まざるをえない状況に追い込まれ、それを飲むという決断をしているのです。その水を飲んだ母親の母乳を赤ちゃんに飲ませるという過酷な決断を迫られたのです。当時どれだけの空間線量があったのかも知らない上に、私たちは汚染された水を飲み、たとえ直ちに影響はなかったとしても、一生涯、子どもたちに出てくるかもしれない健康被害の可能性と向き合っていかなければならないという現実があるのです。その十字架を背負って生きていかなければならないといことなのです。ですが、私が申し上げたいのは、たまたま東北で大地震が発生し、たまたま福島第一原発が事故を起こしたから、その周辺地域住民であった私たちが被害に遭っているというだけで、全国に54基もの原発を抱える我が国においては、いつなんどき、誰がこの状態に陥るのかはわからないのです。そのことを推して知るべしだと思いますし、全国民がその現実を我が身に置き換えて考えていただきたいのです。
 それでも当時の福島県民は、秩序を守りながら、「原発は収束するから」との言葉を信じて生活を立て直そうと必死でした。「健康に直ちに影響はない」と繰り返すばかりの当時の官房長官の言葉とは裏腹に、子どもたちを一切公園には出さず、長袖長ズボンで外出時はマスクを着用。外遊びをさせない、洗濯物を外に干さない、窓は開けないは当たり前で、そうすると、普通の暮らしが徐々に制限されていくのです。ベビーカーを押して子どもの手を引いて夕飯の食材を買うためスーパーにも行けない、週末が来れば、家族で車に乗って、隣県の山形や新潟まで高速をひた走り、普通の町中にあるようなブランコや滑り台のあるだけの公園を見つけて小一時間ほど3歳児を遊ばせて、また何時間もかけて高速を走り、また福島に戻ってくる。そんなおかしな生活を続けていました。とても生活の再建どころではありませんでした。
 一番怖かったのは、人口が街から流出していくということを目の当たりにしたことでした。週末がくると大型の引っ越しトラックが来て、子どもを連れた世帯が県外へ一世帯、また一世帯といなくなっていくのです。親戚、縁者が福島県以外のところにいる人が子どもを連れて出て行くのです。そんな中で生活を続けていてもいいのだろうか、どこまでやれば放射能
ら子どもを守ることができるのだろうかともの凄く悩みました。福島県の中にいると、情報が何ひとつ与えられないのです。
 避難を決心できたのも、たまたま私には親戚縁者が関西にいたからであって、福島を出て外から福島を客観的に見る機会に恵まれたからです。そこで初めて、福島を外から見た私が一番衝撃を受けたのは、福島と関西でのローカルニュース(夕方5時、6時台のニュース)の内容がぜんぜん違っていたことでした。母親の直感かもしれませんが、「これは帰ってはいけない」と思いました。どれだけ被曝したのか分からない中で、もうこれ以上子どもたちを被曝させてはいけない、健康被害のリスクを高める事は出来ないと夫婦で話し合い、母子避難という形をスタートさせることを急遽決めることになりました。今でも震災直後のゴールデンウィークに一時的であれ実家のある関西に出ていなかったら、私は福島にとどまっていたかもしれないとふと思う時があります。
 それくらい、今あるあたり前の生活を何もかも捨てて「避難する」という選択をするということは、苦渋の決断の上にあるものなのです。しかも、これほど長期にわたる避難生活を送ることになるとは、避難した当初は考えてもいませんでした。初めの1年間は、いつ戻れるか、いつになっ たら家族4人でまた再び一緒に暮らせるのか、そればかりを考えていました。ですが、後から後から出てくる客観的事実は、どう考えても子どもの健康被害のリスクを高めることになる帰還という選択は、一度福島を出た私には出来ませんでした。
 
 福島県の実態とおかしな国の政策
 この3年間を端的に言い表すと、まさに「知らせない、調べない、助けない」に尽きます。
 事故から2ヶ月後の5月、「除染」を全国に先駆けて行ったのが郡山市の薫小学校でした。私達が住んでいた学区のすぐ隣りの小学校でしたので、事故直後、何も知らずに2ヶ月もの間、高い線量の下、「頑張ろう福島」の掛け声に耐え忍んで強烈な違和感を感じつつ生活していたことを心底悔やみました。それでも当初は、除染さえ済めば福島に戻ってまた家族一緒に暮らせるとも思っていました。しかし、福島県は広大な田畑が広がる農村地域です。強い風が吹けば、一晩のうちに裏山から放射性物質が舞い落ち、すぐに線量は戻ってしまう。そんなところに莫大な費用やマンパワーを投じるより、人、特に将来のある子どもたちを汚染地から出してほしいと思いました。
 震災の年の夏ころにはワイドショーで関東圏にも多数のホットスポットの存在が明らかになり話題が沸騰していましたが、避難元の郡山には道路の側溝、垣根など、いたるところでホットスポットが存在するのです。また、放射能汚染は同心円上に広がるのではなく風向きと降雨により変わってくるというスピーディーの情報隠しも明らかになり、私たちは当初、
何も知らされなかったということが後になり分かってきました。
 そして、ずさんな県民健康調査と不透明な事前の秘密会議、甲状腺に少しでも異常が認められても2年に一度の頻度で良いとし、別の病院での再検査は受けさせないなど、実質的にセカンドオピニオンインフォームド・コンセントを放棄するような緘口令が敷かれている現実は、まさに、「調べない」、そのものです。調べなければ健康被害も事故と疾病との因果関係も明るみに出ることもないわけで、本気で国民や子どもたちの命と健康を守ろうとする姿勢はまるで感じられませんし、今なおその状況が続いています。
 事故から1年以上経過した2012年6月に、「原発事故子ども被災者支援法」が成立し、やっと全国に散らばる避難民は救われる、出たいと思う人は誰でも汚染地から平等に避難できるような具体的施策が実施されるのかと思いきや、法律はあるのに棚晒し。
 住んでいる人がいるのを良いことに、安全キャンペーンをはられ、避難した人をまるでナーバスでヒステリックな異端児扱いをすることで放置するという・・・。もともと法律で立ち入りを禁じていたはずの基準値を引き上げ(緩め)て帰還キャンペーンにばかり力を注ぐなど、まるで法治国家ならぬ放置国家です。
 「助けない」ばかりでなく、3年経った今でも汚染水は漏れ続け、何の解決も見られないなか、早々に宣言した収束宣言を撤回し、謝罪することもなく、事故を過小評価し、まるで事故などなかったかのようです。
 たまたま福島を出られた私は、自分の子どもたちだけがこれ以上の被曝を避ける事ができたからそれで良かったとはとても思えません。
 低線量被曝と折り合いをつけながら、なんとか不安と恐怖を押し殺しながら国の助けを待っている人がいるというのに、誰もが平等に被曝を避けるために避難できるという制度は事故直後も3年経た今もありません。私の知る限り、安心・安全と思って福島で子どもを育てているお父さん・お母さんは1人もいないと思います。放射線被曝から免れる権利は
誰もが平等に与えられるべきですが、今は全く不平等な事態が放置され続けていると言っても過言ではありません。
 また、私たちは、3.11前のただふつうの暮らしを望んでいるだけなのに、そのための発言をする人がいれば、「風評被害を煽るな」と言論の自由さえも奪われ、萎縮効果で皆が言論の自主規制を敷いて押し黙ってしまう・・・。
 知る権利が奪われ、言論も萎縮させられるというこの現実は、民主主義の根幹を揺るがす事態が起こっていると危惧せずにはいられません。
 
 原発避難民」と原発訴訟の意義
 人の生命・身体の自由、健康や命に関わる事は絶対的に保障されなければならない不可侵の権利です。
 精神的、経済的、肉体的・・・、あらゆる負担が重くのしかかる母子避難ではありますが、どれだけ大変でも、それは子どもたちが「生きてこそ」「健康であってこそ」なわけで、私たち家族は3年が経った今でも決して余裕があるからではなく、究極の選択肢としていまだに「母子避難を続ける」という決断を日々下し続けているのです。
 「原発避難民」という言葉があります。3年近く大阪に住んでいても私たち母子はずっと福島県民のままです。強制避難区域からの避難ではないため、不用意に住民票を移すとただの転出とみなされ、子どもの健康調査に関する案内などが来なくなってしまうおそれがあるからです。
 住民票を移さず世帯主である父親だけが福島県在住であると、母子は大阪で避難生活を送っているということを総務省推奨の届け出をしていても、保育所入所は避難元自治体でしか窓口となってくれず、小学校の入学通知は世帯主である福島の夫の元に届きます。選挙権の行使も避難先の大阪ではすんなり出来ず、あらゆる手続き、住民サービスを受けるために、いちいち福島県郡山市の行政機関に速達、内容証明郵便を送るなどしなければなりません。まるでひとり親家庭のような避難生活を回すのにやっとな上に、さらに煩雑な住民サービスを受けるための手続きを要することとなります。窓口でいくら避難者登録の届け出をきちんとしていると訴えても、避難元に言ってください、窓口が別ですとたらい回しの現状は、まさに国内「難民」の状態なのです。とても不安定で、根無し草のようで、本当に精神的にも安定することはありません。この3年間、ずっと張り詰めた状態が続いているのです。
 震災から2年半が経った2013年9月17日、関西に避難している27世帯80名が、大阪地方裁判所に、国と東京電力に対して責任を追求する民事訴訟を提起しました。同年12月には40名が、翌年3月には105名と、総勢225名が集団訴訟に加わりました。3歳と6歳という年齢の私の子どもたちも含め、我が家も全員が原告となりました。
 私は、この裁判を通して、放射線被曝から「避難する権利」を確立し、避難した人も、とどまる人も、帰還した人も、皆が同じように、従前の「ふつうの暮らし」を取り戻し、憲法で保障された基本的人権が回復される具体的施策が実施されることを、裁判所と社会に訴えていきたいと思っています。これまで「ふつうの暮らし」をしていた私たちが、福島第一原発の事故を経験し原発難民となった今、この事故の責任を明らかにし、今後の教訓に出来なければ、これまで避難生活を支えて下さった国民の皆さまにも次の世代に対しても顔向け出来ない、福島第一原発の事故を経験した私たちにはその使命があるとの思いから立ち上がることを決意したのです。原発被災者は被害の状況も避難の経緯も避難に伴う様々な苦悩や苦渋の決断も100人いれば100様です。ですが私は、きちんと被害の実態と損害の内容を明らかにし、原発事故の責任を追求することが福島を経験してしまった者の使命ではないかと考えました。司法裁判所にはきちんと正しい判断を仰ぎたいと思います。
 また、この裁判は、「放射線被曝から免れ健康を享受する」という人としてあたり前の人権が尊重されるのかどうか、子どもたちの未来と健康が守られ 人権が大切にされる社会に変えていけるのかが問われる人権救済裁判だと思っています。「原発子ども被災者支援法」の具体的施策が前進・充実するように、ひとたび原発事故を起こしたとしても何よりも大切な「人のいのち」と基本的人権が尊重されるような、そんな社会であって欲しいと思うのです。
 さらに、この裁判では私の子どもたちだけでなく多くの子どもたちが原告となります。原発事故の一番の犠牲者は、この国の将来を背負って立つ子どもたちではないでしょうか。子どもの権利条約が批准されているにもかかわらず、現時点での最高水準の健康を享受する権利をはじめ、子どもの人権が大いに侵害されているという現実があります。私は声を上げられない子どもたちを代弁し、避難できた私の子どもたちだけが救われたら良いのではなく、等しくすべての子どもたちの「いのち」が救われるよう力を尽くしたいと思います。避難出来た子どももとどまっている子どもも、子どもはこの国の将来を担う貴重な存在です。子どもたちの健康と未来を守ることは国民全員に課せられた私たち大人の責任だと思うのです。
 原発事故により、あたり前の日常の暮らしを奪われた全ての被害者の方々が後に続いて、それぞれのお立場で被害の実態を明らかにすべく声を上げてくださることを願っています。そして、原発立地国の国民として全ての国民の皆さまが原子力発電所がひとたび事故を起こせば「明日は我が身」と思ってくださり、この事故を我が身に置き換えて想像し、この裁判の行方を見守りご支援とご理解を寄せてくださいますよう心からお願い申し上げます。
 
 差別と人権
 今回、「人権問題」ということで寄稿させていただいていますので、特に言及しておきたいことがあります。それは、フクシマへの差別、ヒバクシャへの差別についてです。
 福島第一原発の事故から3年経った今、福島をはじめとする放射能汚染地域の人々が口をつぐんでしまう大きな要因の一つがこの「差別」問題であるともいえるのではないでしょうか。
 今、10代、20代の福島の若者が、「自分は結婚してもよいのだろうか」、「子どもを産んでもよいのかしら」と苦悩している現実があります。また、福島の幼い子どもたちを持つお母さんたちが、テレビカメラの前で「私たちの子どもは福島県民同士でしか結婚は出来ないと諦めている」と話しているのを聞きました。
 私はそれは違うと思いました。
 差別は国民全体の無知と無理解により助長されると思うのです。確かにあの日、福島にいて原子力災害に間近にさらされた者としては、どれくらいの被曝を子どもたちに強いたのか、どうすれば被曝を避けられたのかはいまだに検証の余地があり、答えは出ていないのかもしれません。そして、今後どのような健康被害が発症するのかも、実は医師や科学者という専門家と呼ばれる人たちでさえも、誰も分からない、未知のゾーンなのです。そのような中、自らを責めるお気持ちから、半ばあきらめに近い感情に陥り、前述のような苦悩を吐露される方々のお気持ちは痛いほどよく分かります。
 何も知らされずに放射線が降り注ぐ中、食べ物・飲水を得るため子どもを屋外で長蛇の列に並ばせてしまった、避難所で子どもが騒ぐのを止められず、屋外で遊んでいなさいと小雨が降る中外へ出してしまった・・・、母親たちは皆、何も知らずに無駄に被曝させてしまったことを悔い自分を責めているのです。
 その姿は、過去に、水俣の人々が何も知らされず、有機水銀で汚染された魚を食べさせてしまったのと同様に、または、子どもが元気に育つと信じて、森永のヒ素入り粉ミルクを飲ませてしまったとご自分を責める母親と重なります。情報が正しく知らされずに隠されたという罪を問いただして国や企業を責めるのではなく、母親たちは皆、自分自身を責めてしまうのです。
 健康被害が生じないことをひたすら祈り続け、そしてその悲劇を決して口外しないで自分の胸に収めてしまおうとするのです。ひとえに子どもが将来「差別」を受けることを恐れるがゆえに・・・。
 しかし、私は先述通り、差別は人々の無知と無理解により助長されると思っています。
 私も含め、私の子どもたちも、そして多くの放射線被曝にさらされた人々も、低線量の被曝にさらされ、今なおさらされ続けている人が(子どもたちが)いるということも、紛れもない事実なのです。消し去りたい現実ではありますが、放射能汚染の現実は、我が国の国民だけではなく世界の誰もが知るところとなり、決して隠しおおせるものではありません。それと同時に、私たち一般市民は、何一つ悪いことはしてはいませんし、差別されるいわれは全くないのです。
 むしろ、いまだに原子力災害を経てもなお、放射線被曝について目をつぶり、耳を閉ざし、考えないように思考を停止させ、ひたすら無かったこと、もしくは遠くの「対岸の火事」であると自らを思い込ませ、3.11以降も何ら放射線防護について取り組むことを考えることさえもしない人たちよりは、ずっと前向きに放射線被曝と日々、向き合い続けているのです。
 今後、私たちや私たちの子どもの世代が未来永劫差別的取扱いを受けることはあってはなりません。そのためにも、きちんと被害の実相を明らかにし、健康被害の実態をとことん調べ、追跡し続けることが必要です。すなわち、世間一般の無知と無理解から生まれる差別をなくしていく取り組みも、同時に原子力災害を国難として受けた私たち日本人に課された重大な責務なのだと思います。
 「被曝手帳」や当時の福島をはじめとする汚染地に滞在していた人に対しての「在県証明書」などを発行することも必要となってくると思います。この被曝手帳や在県証明書が差別を助長するものであってはなりません。むしろ、自ら健康を享受する権利の象徴として、権利行使のための「黄門様の印籠」でなければならないと思うのです。
 3.11を境に、私はマイノリティー(社会的少数派)となりました。被曝を強いられるという経験をし、また、多くの人びとがとどまるという選択をする中、命と健康を享受するという権利を全うするため区域外避難者として「避難する」という選択をしました。何度でも繰り返しますが、被曝を免れ命と健康を享受する権利は、最も基本的で、かつ、最低限守られるべき基本的人権です。たとえマイノリティであったとしても、少数派の人権が踏みにじられたりないがしろにされて良いということではありません。それは立憲民主主義国家ではなく、単なる全体主義国家にほかなりません。
 3.11から学ぶべきことは、たとえ少数であったとしても、基本的人権が尊重される社会に変えていけるのかということなのだと思います。
 
 おわりに
 「世の中には大別して2つの立場しかない。被曝を強要する立場とそれに反対する立場。あなたはどっちに立ちますか?ということを問題提起したいわけなのです」
 これは、福島から妻子を新潟に避難させているある福島市在住のお父さんの言葉です。私も全く同感です。そして、私は間違いなく後者の立場に立ちます。
 唯一の被爆国である我が国が、福島第一原発の事故により、さらに被曝国となりました。原子力爆弾も原子力発電所も「核」という点では同じなのです。戦争を経て私たち日本人は「平和」を学んだはずです。この事故から、私たちはもうこれ以上誰一人として「ヒバクシャ」を出してはいけないということを学ばなければならないと思うのです。広島、長崎、そして福島がつながり、それらを教訓にする姿を示すことが次世代への大人の責務だと思うのです。
 繰り返しになりますが、放射線による被曝の恐怖から免れ健康を享受する権利は、人として最も当たり前で最優先で認められなければならない基本的人権だと思います。そして今は、その基本的人権が侵害され続けている状況が、福島第一原発事故以来ずっと続いていると思っています。
 放射能汚染地に住み続けながら声を上げることは、遠く700キロ離れた関西から声を上げるより、ずっとずっと苦しくて大変だと私には容易に想像が出来ます。現地(福島)では上げられない声も、700キロ離れた大阪でなら上げられる声もあると思うのです。声の上げ方を間違ってはいけない、汚染地で日々放射線と向き合いながら忍耐強く生きる人たちを傷つけてはいけない・・・、声の上げ方を考え続けた3年間でもありました。
 ですが、何も言わないと、なかったことにされてしまう。それだけは避けなければならないと思いました。一部の地域の国民だけが犠牲になり、まるで見えないもののように蓋をしてしまっていいはずはないのです。「経済が・・・」よく耳にする言葉ですが、その経済を支えるのは「人」なのです。「人」の復興なくして街の復興も経済の復興も、すなわち真の復興も災害からの立ち直りもありえないのです。
 最も大切にされなければならないものは何なのでしょう?
 最も守られるべきものは何なのでしょうか?
 ともに考え、それを社会全体の合意として欲しいと思います。
 放射線被曝から免れ命を守る行為が原則であり、例外的に避難できずにとどまる人々に対しては事情に応じた具体的施策を実施するべきなのです。今は原則と例外が逆転しているのではないでしょうか。
 今、私たち大人が試されている時だと思うのです。未来を担う子どもたちに恥ずかしくない社会的合意を形成し、人の命や健康を最も大切にできる、そのことがあたりまえに認められる社会に転換できるのかが問われているのだと思います。
 これまでの避難生活も皆さまの支えがあってこそ何とか続けて来られました。今の私に出来る社会へのご恩返しは、事実を自分の言葉で語り、教訓として伝えるべきことは伝え、おかしいことはおかしい、何が最も大切にされるべきであるかを信念を持って発信し続けることしかありません。これまで避難生活を支えて下さり本当にありがとうございました。
 東日本大震災および原発事故について真実を語る「場」を、「空気」を、「環境」を与えて下さい。
 私が語らせて頂いているのと同様に、避難した人も、被災地で踏みとどまり放射線と日々向き合って健康と子どもたちの未来のために奮闘されている方々が、口を開き、普通の暮らしをしていた普通の人々の声なき声が「声」になる日が訪れますように。その声が全国民の皆さまの胸に届く日が来ることを願って止みません。
 避難した人、とどまる人、帰還した人全てが尊重され、「個人の尊厳」が守られますように、この裁判を関心を持って、見守りご支援ください。
(もりまつ あきこ)
 
(本稿初出掲載)
「季刊 人権問題 2014 春号」(一般社団法人兵庫人権問題研究所)
(参照文献)
森松明希子著「母子避難、心の軌跡 家族で訴訟を決意するまで」
かもがわ出版 2013年12月刊
 

(付録)
『Don’t mind(どんまい)』 作詞作曲:ヒポポ大王 演奏:ヒポポフォークゲリラ