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「定義」は何のために必要か~集団的自衛権から考える

今晩(2014年10月26日)配信した「メルマガ金原No.1890」を転載します。

なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
「定義」は何のために必要か~集団的自衛権から考える

 昨年に続き、今年も3回シリーズで開催している青年法律家協会和歌山支部主催による憲
法連続講座、今年のテーマは「深めよう集団的自衛権」です。
 これまで既に2回実施し、今度の週末(10月31日)にはいよいよ最終回を迎えます。
 開催予告及び過去2回の実施報告を本メルマガ(ブログ)に掲載してきました。
 
2014年9月15日
青法協和歌山支部は今年もやります!憲法連続講座~深めよう集団的自衛権
 
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/40211183.html
2014年9月29日
青法協和歌山支部憲法連続講座第1回「集団的自衛権ってなあに?」を開催しました
(9/29)
 
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/40458670.html
2014年10月16日
青法協和歌山支部憲法連続講座第2回「政府はなぜこれまで集団的自衛権を認めて
こなかったのか」を開催しました(10/15)
 
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/40770143.html
 
 私は、9月29日に開催された第1回において、後半の質疑応答のパートを戸村祥子弁護士とともに担当したのですが、その際に参加者から出された質問のうちの1つと、それに対する私の回答をご紹介しようと思います。
 もっとも、正確に当日の質疑応答を再現することが目的ではなく、そうしようとも思っていません
から、実際に私がお話しした内容とは相当に異なった「答え」になるはずであり、質問にしても、答えにしても、私が整理して再構成したものであることをお断りしておきます。
 
 この日の質疑応答には1時間以上の時間をかけましたので、様々な質問があったのですが、その中でも、とりわけ今日取り上げようと思っている質問が、その後も折に触れて思い出され、「ああ答えたけれど、本当は、こう答えた方が良かったかな」と考えることがたびたびあり、それだけ気になる質問であったのです。
 それは、おそらく質問者の意図すら超えて、私の問題意識の核心に触れる質問であったとい
うことだと思います。私自身、まだまだ分からないことだらけなのですが、頭の整理のために現在までの思考過程を書き留めておこうと思います。
 ただし、これを「集団的自衛権」講師養成講座・応用編(質疑応答にどう対処するか?)と
して読もうという人がいたとすると、おそらくそういう役には立たないと思います。実際の質疑応答でこんなに長く答えている時間はありませんから。
 
  
【質問】
~前半の基調報告「集団的自衛権ってなあに?」を踏まえて~
 集団的自衛権とは、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する国際法上の権利」であるということを説明してもらったが、これは国内法上の定義か?それとも国際法上の定義か?その出典は何か?
 
【回答】
 前半の基調報告は担当していませんが、私からお答えします。
 レジュメに記載された集団的自衛権についてのこの定義は、直接的には日本国政府によっ
て示され続けてきた定義です。既に1950年代以来、類似の国会答弁が繰り返されていますが、明確な文書として示されたものを挙げるとすれば、今回の7月1日閣議決定の「下敷き」となった1972年10月14日、田中角栄内閣から参議院決算委員会に送られた資料「集団自衛権憲法との関係」では、「国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており」と説明され、さらに、1981年5月29日、鈴木善幸内閣が稲葉誠一衆議院議員質問主意書対して答えた答弁書において、「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利を有しているものとされている」と記載している例などがあります。
 従って、ご質問に対する回答としては、「この定義は国内法上のものであり、出典は、歴代
日本国政府が表明してきた見解です」ということに、一応はなります。
 「一応は」という留保を付したことには色々理由があるのですが、「集団的自衛権の定義」という問題を、「定義」というのはどういうものか、何のために行うものかという面から、やや敷衍してみたいと思います。
 
 自然科学における「定義」とは何か?ということは考えたこともないので、ここでは、法律学や政治学など、私にとって馴染みのある社会科学上の「定義」についてであることを前提としてお話するのですが、私の理解するところでは、ある概念(ここでは「集団的自衛権」)の「定義」を論じる際には、「どのような必要があって、この概念の定義を論じるのか」という目的を離れて、ただ一色、一義的に定まる抽象的な「定義」が存在する訳ではありません。
 例えば、日本国政府が、集団的自衛権を「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利」(前掲の1981年答弁書)と定義したのは、稲葉誠一議員からの「独立主権国家たる日本は当然自衛権を持ち、その中に集団的自衛権も含まれるのか」「集団的自衛権憲法上『禁止』されているのか。とすれば憲法何条のどこにどのように規定されているか」等という質問に答弁するためには、どうしても集団的自衛権をどのような概念と理解するのかという定義を明確にしなければ答弁できないからですが、さらに突き詰めて言えば、稲葉議員の質問の中核が「集団的自衛権憲法上『禁止』されているのか」であることから分かるように、日本国政府が示してき集団的自衛権についての定義は、「日本国憲法上、集団的自衛権は行使できるのか、それともできないのか」ということと関わって形成されてきたものなのです。
 もちろん、日本国憲法との関係性の中で集団的自衛権をどのように定義するかを考えるに
しても、元来、国連憲章51条によって初めて明文化された国際法上の概念なのですから、国際法学における通説から逸脱した突飛な解釈をとる訳にいかないという制約は当然のこととしてあるのですが、その範囲内において、「憲法集団的自衛権」についての解釈を導き出すための前提としての「定義」が必要となるのです。
 集団的自衛権をめぐる議論の中で、「日本のように自衛権を個別的自衛権と集団的自衛権に区別し、個別的自衛権は行使できるが集団的自衛権は行使できない、というような議論をしている国は日本だけだ(だから集団的自衛権も行使できるようにすべきだ)」という主張を聞いたことはありませんか?
 このような論者に対して、私ならこう答えます。「個別的であろうが集団的であろうが、自衛権
を行使できるのは当然だという国で、日本国憲法9条2項と同趣旨の規定を持つ国があったら教えて欲しい」と。
 この種の主張をする人は、結局のところ、憲法の規範性、すなわち、国家は憲法の規定に従
わなければならないということについての認識がほとんど欠如しているのでしょう。
 
 歴代日本国政府(あるいは内閣法制局)が苦心して積み重ねてきた「憲法自衛権」についての憲法解釈の中心課題が、「日本国憲法9条2項の下で、自衛隊が合憲であることをどう根拠付けるか」であったことは言うまでもなく、個別的自衛権集団的自衛権を峻別する「定義」を政府が採用してきたのも、「自衛隊合憲論」を導き出すためにはどうしても必要だったからです。
 そして、その「自衛隊合憲論」は、必然的に「集団的自衛権行使違憲論」に行き着かざる
を得ないということを明瞭に文書化したのが1972年「資料」なのです。
 
(参考)
1972年 自衛権に関する政府見解の全文
田中角栄内閣 参議院決算委員会提出「資料」
 
http://www.asahi.com/articles/ASG6D533PG6DUTFK00Q.html
(引用開始)
 国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に
対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。
 ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有して
いるとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである。
 憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止して
いるが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。
 しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のため
の措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
(引用終わり)
 
 「定義」は、「どのような必要があって、この概念の定義を論じるのか」という目的を離れて抽象的に存在することはない、ということとの関係であと1つだけ簡単に触れておきたいことがあります。
 それは、レジュメの2頁に記載されている「ニカラグア事件判決」(1986年)によって示された
集団的自衛権行使の5要件(①武力攻撃の存在、②反撃行為の必要性、③武力攻撃と当該反撃行為との均衡性、④被攻撃国による攻撃事実の宣言があること、⑤その被攻撃国からの支援の要請があること)についてです。
 この国際司法裁判所(ICJ)が示した判断も、一種の「集団的自衛権の定義」に他なりま
せん。この事件では、国際管轄権の問題から、国連憲章米州機構憲章といった多数国間条約は直接適用されず、それと事実上同じ内容の慣習国際法を適用して判決が下されたのですが、その慣習国際法上確立した「集団的自衛権」の行使として容認されるためにはどのような要件が必要かを定め(「定義」と言っても「解釈」と言っても結局同じことです)、その上で、アメリカ合衆国の行為がその要件に合致するかどうかという当てはめを行ったのです。
 つまりここでは、ニカラグア政府の申し立てについて法的判断を下す前提として、慣習国際
法上の(行使が容認される)集団的自衛権とはどのようなものか、という「定義」が必要であったのです。
 
 以上で、「定義」は何のために必要かという観点からの「集団的自衛権の定義」についての説明を終わります。
 
 
 さて、「集団的自衛権の定義」については、以上の他にも考えなければならないことがまだまだたくさんあります。
 私は、これまでも、以下のような記事を書いてきました。
 
2013年8月14日
集団的自衛権の「定義」について

 
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/30719436.html
2014年7月26日
閣議決定」で「集団的自衛権」の定義は変更されたのか?
 
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/39331242.html
 
 実は、「青法協(和歌山支部)憲法連続講座~深めよう集団的自衛権」の第3回(最終回)のテーマは、いよいよ「集団的自衛権閣議決定の問題点を知ろう」なのです。
 今年の7月26日の上記記事でも書いたとおり、国民安保法制懇が「その意図も帰結も
きわめて曖昧模糊としており、見る者の視点によって姿の変わる鵺(ヌエ)とも言うべき奇怪なもの」と評した7月1日・閣議決定の内容を読み解くキーワードの1つが「集団的自衛権の定義」だろうという当たりは付けているのですが(もう1つのキーワードは「切れ目のない」でしょう)、正直言ってなかなか思考が深まらずに困っています。
 そこで今日は、「定義」は何のために必要か?いう側面から、集団的自衛権についての従
来の政府公権解釈形成の道筋を復習してみたという次第です。
 
 なお、青法協(和歌山支部)憲法連続講座の最終回を以下の日程・内容で開催します。ご都合のつく方は是非ご参加をお願いします。
 
日 時 2014年10月31日(金)午後6時30分~
会 場 和歌山ビッグ愛801・802会議室
テーマ 集団的自衛権閣議決定の問題点を知ろう
担当者 
 前半(基調報告) 浅野喜彦会員
 後半(質疑応答) 浅野喜彦会員、由良登信会員(元支部長)
入場無料、予約不要