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原発避難者と原発阻止運動オーガナイザーのお話を聴く~これからの私たちの行動のために(11/1和歌山障害者・患者九条の会)

今晩(2014年11月2日)配信した「メルマガ金原No.1897」を転載します。

なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
原発避難者と原発阻止運動オーガナイザーのお話を聴く~これからの私たちの行動のために(11/1和歌山障害者・患者九条の会

 昨日(11月1日)午後1時より、和歌山ビッグ愛9階で開かれた和歌山障害者・患者九条
の会の「秋の学習会」に参加してきました。
 私は、同会の会員ではありませんが、同会発足以来、親しくお付き合いさせていただいてき
た経緯について、最近このメルマガ(ブログ)で詳しくご紹介しました。
 
2014年10月14日
和歌山障害者・患者九条の会の活動を讃える~11/1秋の学習会の案内を兼ねて
 
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/40735308.html
 
 今年の「秋の学習会」では、「私たちの暮らしと原発~福島から何を学ぶのか~」と題し、福島県郡山市から和歌山市に母子避難しておられる渡辺陽子さんと、日高原発反対30キロ圏内住民の会事務局長として、日高原発建設阻止の活動の重要な一翼を担われた橋本武人(はしもと・たけんど)さんのお2人を講師としてお迎えするということでしたので、お2人ともお名前はかねがね伺っていたものの、親しくお話を聴く機会がなかった私としては、是非貴重なお話が伺えればと考えて参加したのでした。

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 まずはじめに渡辺陽子さんからお話がありました。ところで、「親しくお話を聴く機会がなかった」と書きましたが、実は、私が渡辺さんのお話を伺うのは昨日が2度目のことでした。1度目は、昨年(2013年)の3月10日、和歌山城西の丸広場で開催された「福島を忘れない!原発ロ 和歌山3・10フェスティバル」のゲストスピーカーの1人としてステージ代わりのトラックの荷台に登壇してお話された渡辺さんのお姿を拝見した時でした。何しろ、私自身、その企画の呼び
かけ人の1人として、本部テント付近からステージに注目していたのですが、渡辺さんがスピーチされる頃には折悪しく雨模様となっており、ステージ(トラック)のすぐそばまで行ってお話を聴くことは断念しました(それでも、その後に登壇された小出裕章さんの時のような横殴りの風雨ではありませんでしたが)。また、時間も限られていたため、まとまったお話を伺うのは昨日が初めてのことでした。
 
 昨日、学習会が始まる前に渡辺さんにご挨拶した上で、写真撮影とブログへの公開につい
てご意向を確認したところ、快くご了解いただきましたので、昨日の渡辺さんがお話される画像をお伝えできるのですが、そのお話ぶりからも窺えるように、非常に率直な方という印象を受けました。
 30分余りお話された内容を全てご紹介する余裕はありませんが、渡辺さんのお話の中で特
に印象に残った点をいくつか要約しようと思います。但し、ごく簡単なメモと記憶に頼ってまとめたものですから、渡辺さんの真意と齟齬する部分があるかもしれず、あくまで文責は金原にあります。

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福島県郡山市で生まれ、育ち、就職し、結婚し、そして、3人の娘を出産し、自分や夫の実家を含めても、全て半径10㎞圏内に収まるような範囲の土地で生活してきた、純粋な「郡山っ子」(とは表現されませんでしたが)だった。
○3.11当日、郡山は内陸なので津波被害はなかったものの、震度6強の地震に襲われ、
ものすごく恐かった。プレハブ造の自宅はめちゃくちゃに揺れ、あらゆる食器が壊れた。ただ、直下型地震ではなかったため、建物の崩壊はほとんどなく、地震にともなう火事もなかった。
○震災翌日の12日、付けっぱなしにしていたテレビの画面で1号機が爆発する映像を見て
「信じられない」という思いだった。生まれた時から福島には原発があり、小学校でも、日本の電力は火力、水力、原子力の3つで作られると教えられ、何の疑問もいだいていなかった。完全な「平和ボケ」だった。
原発が一体どうなってしまうのか心配で、テレビ、インターネット、それに親戚や友人などから
の口コミと、あらゆる方法で情報を集めようとした。それでも本当に起こっていることとは信じられず、危機感を受け入れられない自分がいた。
○3月14日、3号機が爆発したことは衝撃だった。さらに、福島では有名なスーパーのチェー
ン店(和歌山のオークワのようなもの)が「在庫がなくなり次第営業を中止する」というテレビのテロップを見たのが決定的だった。ほとんどの店舗が休業し、大型スーパーは店を開けていても陳列棚は空っぽであり、ガソリンが手に入らないので道は閑散、夜はしーんと静まりかえっている。「福島は見放されたのではないか」「ここには住み続けられない」と思った。
○3月16日、夫を郡山に残し、子ども3人、甥2人、そして実母とともに、神奈川県の親戚を
頼って避難することにした。ガソリンの入手は難しいので、LPガスのタクシーに乗って那須塩原駅を目指した。そこから新幹線が動いているという情報は得ていた。那須塩原を目指すタクシーの車中から、路傍に車を停めて途方に暮れている人たちを何組となく見かけた。途中でガソリンが切れてしまったのだろう。しかし、他の人を助ける余裕のある者などほとんどいなかったと思う(自分自身も含めて)。
那須塩原駅には、おそらく県外に脱出するためにそこまで運転してきた人たちが放置してい
ったと思われる車が多数停められていた。荷物がいっぱい詰まったリュックを背負わせた子どもたちとともに駅の階段を上り、ようやく新幹線に乗車し、やがて那須塩原を発車して東京に向かって進み始めた窓外の光景を見ながら、心底ほっとした。
○ただし、神奈川県の避難先は老夫婦2人だけの家庭で、そこにいきなり旅行気分の子ども
5人を含む7人もの人間が押しかけたのだから、「とても長居はできない」と思わざるを得なかった。何とか、別の避難先を見つけられないかと思い、インターネットで探したりしたが、自主避難者である自分たちを受け入れてくれる先を見つけることができず、手持ちのお金も底をつき、新学期が始まる前に郡山に帰らざるを得なかった。
○郡山に戻ったところ、ほとんどの店舗が営業を再開し、外見上、日常生活はほぼ元に戻っているように
見えた。しかし、このまま子どもたちとここに住み続けて良いのかという疑念は消えず、避難のための支援は得られないものかと、情報を探し続けた。すると、自主避難者を対象とした民間による支援が各所で行われていることを知った。特に目が釘付けになった支援情報があった。「高台にあり津波の心配なし。3DK。テレビ、冷蔵庫、寝具4組等備え付き。家賃、光熱費無料」という信じられないような内容だった。それが和歌山大学のそばにあるエス・ティー・ワールドという海外旅行専門の旅行代理店が所有する施設だった。
○その情報を知った10日後、子ども3人と荷物を満載した車を運転し、日本海経由で和歌
山を目指した。高速道路から初めて眼下に広がる和歌山の市街を見たのは夕暮れ時だった。子どもたちはみんな眠りこけていた。夕焼けに染まる和歌山の市街を見おろしながら、郡山から860㎞離れたこの街で、今日から自分はこの子どもたちの母親兼父親になるのだと決意した。
○夫が母子避難に乗り気でなかったこともあり、このような恵まれた条件で避難者支援をしてく
れる企業があったればこそ、避難できたと感謝している。
○和歌山で暮らすようになってから一番感じたのは、人の心の温かさだった。子どもが学校でい
やな思いをすることはないだろうか、福島ナンバーの車を見て人が避けるのではないかなど、色々な心配もあったが、幸い杞憂だった。子どもの学校の先生も、自宅や携帯の番号まで教えてくれて、何でも相談するようにと言ってもらえたし、エス・ティー・ワールドの社員、和歌山大学の学生、NPOの皆さんなどが様々な心遣いをしてくださったおかげで、避難生活を続けられたと思う。
原発事故から3年半が経過し、福島など避難元に戻る人、逆に避難先に永住する人が増
えて来て、自分のような「いずれ戻れるようになったら戻りたい」という避難者は、正直「きつい」状況を迎えている。家族がばらばらに住む2重生活の中で「父と子どもを引き離しているのは自分だ」という負い目を感じ続けた3年半だった。
○数日前のニュースで、鹿児島県薩摩川内市議会が、九州電力川内原発の再稼働に同意した
というニュースを見た。3年半前に日本中の人が悲しみ、このようなことを2度と繰り返してはいけないと考えたはずである。原発事故によって13万人の福島の人が避難を余儀なくされ、その内5万人は県外に避難したままである。このように多くの人が故郷に帰れないという現実がありながら、どうして原発を再稼働しようという動きになるのか分からない。
 
 渡辺さんのお話は、和歌山に避難してくるまでのお話が中心でしたが、数々の印象深いお話が伺えました。
 私にとって、最も心に残ったエピソードは、那須塩原駅に向かうタクシーの車中から、ガソリン
がなくなって立ち往生する人たちを見ながら何もできなかった(しなかった)という場面、そして、初めて和歌山の街をみおろして「この子どもたちの父親になる」と決意した場面です(書いていて涙が滲んできました)。
 皆さんならどうでしょうか?
 
 さて、講演の後半は橋本武人(はしもと・たけんど)さんのお話でした。
 橋本さんは、元中学校教諭、日高地方労働組合連絡協議会(日高地区労)事務局長
当時に日高原発反対阻止闘争に関わるようになり、1987年10月、日高原発反対30キロ圏内住民の会を結成し、事務局長に就任された方です。
 間もなく和歌山市で上映される映画『シロウオ~原発立地を断念させた町』は、(特に日
原発のパートでは)主として海を守ろうとした漁民の視点から反対運動を捉えた作品ですが、橋本さんが担当したのは、 原発建設計画阻止という目標を達成するために、いかにして住民運動や労働運動の力を結集して組織化し、当面の活動の重点をどこに定めるかというオーガナイザーとしての役割であったと思われます。
 そのお話の内容を再現する能力はないので、橋本さんが用意されたレジュメの内、30キロ
圏内住民の会結成以降の部分を抜粋してご紹介しようと思います。

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(レジュメ「日高原発反対のたたかい」から抜粋引用開始)
3.1987年10月1日 日高原発反対30キロ圏内住民の会結成
 ・戦いの意義
 ・論議の中で意思統一したこと
(1)初期の運動
(2)圧倒的多数をとれば怖いものはない
(3)多様な運動を提起
 ・各地住民の会の結成
 ・意見広告
 ・第1回故郷の未来を語る集い
 ・美浜町有権者過半数署名(決戦直前)
(4)比井崎漁協臨時総会(1988年3月30日)→勝利
(5)守りから攻撃に転換・・・すべてを成功させた(30キロへの信頼)
 ・住民の会づくり
 ・有権者過半数署名
 ・故郷の未来を語る集い
 ・原発反対運動支援バザー
 ・総括と学習
(6)国・県・町長・関電の原発推進
(7)町長選での勝利を目指す
 ①志賀正憲氏
 ②いよいよ日高町
  ・地区懇
  ・バザー
  ・アンケート
  ・故郷の未来を語る集い
 ③臨時総会6月
 ④特別委員会を設置
  ・対話部
  ・集約部
  ・情宣部
  ・街宣部
 ⑤新しい日高町を作る会
 ⑥9月30日 台風上陸の中で選挙
(8)志賀氏と連携した取り組み
(9)完全勝利
4.その後のたたかい 
(引用終わり)
 
 日高原発反対運動には様々な人々が参加し、それぞれの立場で力を発揮されたからこそ、原発阻止という目標を達成できたのであって、誰か1人か2人の力で原発計画を止められたのでないことは言うまでもありません。
 とはいえ、それぞれが役割分担した中でも、とりわけ重要な立場を担うことになった人というの
いるもので、1988年3月30日、運命の比井崎漁協臨時総会で壇上に駆け上がった濱一己さんの「蛮勇」と並び、橋本さんのオーガナイザーとしての力量も不可欠だったのだろうと想像します。
 「組織論」だけで目標を達成することはできませんが、「組織論」抜きでの運動の成功もおぼつ
かないでしょう。
 今後の反原発運動を考える上でも、非常に参考となる点が多いお話であったと思います。
 
 なお、最後の質疑応答・意見交換セッションの最後で、司会の西岡敦子さんから急に指名された私は、11月29日(土)に和歌山市あいあいセンター6階ホールで行われる『シロウオ~原発立地を断念させた町』を紹介し、参加を呼びかけさせてもらいました(何だか映画の宣伝に行ったようですね)。和歌山障害者・患者九条の会会員の中からも「観たい」という声もあがっているとか。皆さん、是非よろしく。
 
 今どき、「9条の会」が原発問題を取り上げることをとやかく言う者はほとんどいないと思いますが(いや、いるかな?)、考え方の基本は、「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」(憲法前文)ということに根ざしているのであって、少しもおかしなことではありません。
 和歌山障害者・患者九条の会の好企画に参加させていただき、非常に勉強になりました。こ
れからもよろしくお願いします。
 
(弁護士・金原徹雄のブログより)
2014年8月31日
映画『シロウオ 原発立地を断念させた町』と鈴木静枝さん『女から女への遺言状』
 
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/39945047.html
2014年9月20日
映画『シロウオ~原発立地を断念させた町~』(11/29和歌山市)を観る意義
 
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/40300738.html