安倍晋三首相の「反立憲主義」を浦部法穂氏の「大人のための憲法理論入門」から照射する
今晩(2014年11月23日)配信した「メルマガ金原No.1918」を転載します。
なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
いよいよ衆議院が解散されたこの時期に、憲法の最も重要な基礎理論である「立憲主義」を取り上げるというのは、悠長過ぎて時宜を弁えないふるまいと思われるかもしれません。しかし、安倍政権による悪政は数々あれど、最大の問題であり、かつ全ての問題の根底にあるのは「憲法無視」「立憲主義の否定」だと思います。
これまでも、憲法違反ではないかと疑われる政策を推進して強く批判された政権も少なくありませんでしたが、「立憲主義の否定」という批判を真っ向から浴びた政権は第2次安倍政権が史上初めてでしょう。
この際、全ての悪政の根底にあるものを再認識することも決して無意味ではないだろうと思います。
これまでも、憲法違反ではないかと疑われる政策を推進して強く批判された政権も少なくありませんでしたが、「立憲主義の否定」という批判を真っ向から浴びた政権は第2次安倍政権が史上初めてでしょう。
この際、全ての悪政の根底にあるものを再認識することも決して無意味ではないだろうと思います。
成蹊大学法学部政治学科を卒業したという安倍晋三氏が、「立憲主義」をどのようなものと理解しているかについては、今年2月の国会答弁でかなり明確になりました。
その模様を整理して YouTube にアップしてくれた親切な人がいます。
安倍晋三首相、立憲主義を否定。
以上の答弁を、衆議院会議録から再確認しておきます。前後の文脈を理解するために、質問者の質問と併せてご紹介します。ただし、動画と照らし合わせて読んでみると一目瞭然ですが、会議録というのは発言そのものを一字一句正確に再現したものではありません。事後的に相当整理されています。
2014年2月3日 衆議院予算委員会
畑浩治委員(生活の党)「教育についてそのようなことをしっかりやっていく必要性というのは私も否定しないし、認めます。そこで、ただ、ここで教育とちょっと切り離して、厳密に言えば通告しておりませんが、憲法との関係でちょっとお伺いしたいんですが、総理、憲法というのはどういう性格のものだとお考えでしょうか。」
以上の答弁を、衆議院会議録から再確認しておきます。前後の文脈を理解するために、質問者の質問と併せてご紹介します。ただし、動画と照らし合わせて読んでみると一目瞭然ですが、会議録というのは発言そのものを一字一句正確に再現したものではありません。事後的に相当整理されています。
2014年2月3日 衆議院予算委員会
畑浩治委員(生活の党)「教育についてそのようなことをしっかりやっていく必要性というのは私も否定しないし、認めます。そこで、ただ、ここで教育とちょっと切り離して、厳密に言えば通告しておりませんが、憲法との関係でちょっとお伺いしたいんですが、総理、憲法というのはどういう性格のものだとお考えでしょうか。」
安倍晋三内閣総理大臣「憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、今まさに憲法というのは、日本という国の形、そして理想と未来を語るものではないか、このように思います。」
2014年2月10日 衆議院予算委員会
長妻昭委員(民主党・無所属クラブ)「これは総理、この予算委員会でも生活の党の畑さんの質問で憲法についてお答えになっておられるんですが、憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方だ、こういうふうにおっしゃられているんですけれども、国家権力が暴走しないように歯どめをかけていく、こういう憲法の役割というのは、当然、総理も御認識されているということでございますか。」
長妻昭委員(民主党・無所属クラブ)「これは総理、この予算委員会でも生活の党の畑さんの質問で憲法についてお答えになっておられるんですが、憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方だ、こういうふうにおっしゃられているんですけれども、国家権力が暴走しないように歯どめをかけていく、こういう憲法の役割というのは、当然、総理も御認識されているということでございますか。」
安倍晋三内閣総理大臣「もちろん、そういう役割もあるのは当然のことでございます。」
長妻昭委員「この答弁というのは、古い考え方だというような趣旨に私は聞こえたんですが、これはどういう意図で言われたんですか。」
安倍晋三内閣総理大臣「つまり、憲法とはまさに権力を縛るためだけのものであるという考え方については、それは古いものではないかということでございまして、そして、その中で生まれたということについては、それは古いものではないか。つまり、例えば、今我々が憲法を改正しようということについては、国家権力を縛るためだけにつくるということではなくて、むしろ、私たちの理想を、例えば前文が一番いい例なんですが、国のあり方、そして私たちの理想と未来について語るものこそ、それは憲法の前文ではないか、こう思うわけでございますが、その中において、当然、これは国民の権利をしっかりと、人権を書き込んでいくわけでありますから、その中においては、国家の権力が縛られていくということが書き込まれていくということは当然のことであります。つまり、憲法が、まさに権力対人民という対立概念だけの中における憲法ということではないということは、前回申し上げたとおりでございます。」
長妻昭委員「この答弁というのは、古い考え方だというような趣旨に私は聞こえたんですが、これはどういう意図で言われたんですか。」
安倍晋三内閣総理大臣「つまり、憲法とはまさに権力を縛るためだけのものであるという考え方については、それは古いものではないかということでございまして、そして、その中で生まれたということについては、それは古いものではないか。つまり、例えば、今我々が憲法を改正しようということについては、国家権力を縛るためだけにつくるということではなくて、むしろ、私たちの理想を、例えば前文が一番いい例なんですが、国のあり方、そして私たちの理想と未来について語るものこそ、それは憲法の前文ではないか、こう思うわけでございますが、その中において、当然、これは国民の権利をしっかりと、人権を書き込んでいくわけでありますから、その中においては、国家の権力が縛られていくということが書き込まれていくということは当然のことであります。つまり、憲法が、まさに権力対人民という対立概念だけの中における憲法ということではないということは、前回申し上げたとおりでございます。」
王様をしばる法 ~憲法のはじまり~
作:明日の自由を守る若手弁護士の会、絵:大島史子、声:きーこちゃん
「あすわか」が作った紙芝居を動画サイト用にナレーションを付けてアップしたものであり、おおよその構成としては、絶対王政→外見的立憲主義→(本来の近代的意義の)立憲主義という流れで説明しようとしているようです。ただし、私が最初にこれを見た時、「王様をしばる法~憲法のはじまり~」というタイトルとも相まって、近代的立憲主義は、絶対王政を打倒した市民革命以降に確立した考え方であるという点について「誤解」を与えかねないのではないかと、一抹の不安を抱いたものでした。
作:明日の自由を守る若手弁護士の会、絵:大島史子、声:きーこちゃん
「あすわか」が作った紙芝居を動画サイト用にナレーションを付けてアップしたものであり、おおよその構成としては、絶対王政→外見的立憲主義→(本来の近代的意義の)立憲主義という流れで説明しようとしているようです。ただし、私が最初にこれを見た時、「王様をしばる法~憲法のはじまり~」というタイトルとも相まって、近代的立憲主義は、絶対王政を打倒した市民革命以降に確立した考え方であるという点について「誤解」を与えかねないのではないかと、一抹の不安を抱いたものでした。
私が、2月3日に安倍総理が「憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって」と語るのを聞き、ひょっとすると、安倍首相は「あすわか」の「王様をしばる法」を一夜漬で勉強して、一知半解のまま国会の答弁に立ったのではないか?と一瞬妄想したほどです(まさかそんなことはないでしょうが)。
もう一つ、この答弁を聞いて呆れたのは、「立憲主義とはこういうものだ」と安倍首相に吹き込んだ家庭教師は誰だ?ということでした(絶対王政の時代にどんな「憲法」があったというのか!)。よもや、成蹊大学で「憲法」の講座を担当していた教員がこのような説を述べていたはずがありません(成蹊大学の名誉のためにそういうことにしておきましょう。第一、安倍晋三氏が成蹊大学で「憲法」を受講したかどうかも怪しいものです)。
畑議員からの憲法についての質問には事前通告がなかったようですが、2月10日の長妻議員は、この前後にも憲法関連の重要な質問をしており、当然、事前通告があったと思われるのですが、それにしては、官僚が用意した答弁用原稿のそつのなさなどなく、はっきり言えば支離滅裂です。
私は、礒崎陽輔内閣総理大臣補佐官(自民党参議院議員、同党憲法改正推進本部事務局長)が答弁用原稿を書いたのなら「分からないではない」と思いましたけれどね。何しろ東大法学部出身のこの元自治官僚は、「時々、憲法改正草案に対して、『立憲主義』を理解していないという意味不明の批判を頂きます。この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか」とか「私は、芦部信喜先生に憲法を習いましたが、そんな言葉は聞いたことがありません。いつからの学説でしょうか?」などとtwitterで放言した人物ですから(2012年5月28日のこと)。
しかし、答弁の映像をよくよく見直してみると、2月3日にしても10日にしても、これらの答弁の際には原稿に目を落としている様子がありません。ということは、安倍首相が自分の考えをそのまま述べたという可能性もあり、それならこういう信じられない「低レベル」の答弁であっても不思議はないのですが。
ちなみに、2月の安倍首相による「反立憲主義」答弁はこれだけでは収まらず、2月12日の衆議院予算委員会において、民主党の大串博志議員の横畠内閣法制局長官に対する質問に苛立ち、半ば強引に答弁に立った上で、「先ほど来、法制局長官の答弁を求めていますが、最高の責任者は私です。私が責任者であって、政府の答弁に対しても私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるのは、法制局長官ではないんです、私なんですよ。だからこそ、私は今こうやって答弁をしているわけであります」と息せき切ってかみつくという醜態をさらしたのがクライマックスでした。
総理大臣を務めるために憲法学者並みの素養が必要だなどとは言いませんが(オバマ米国大統領は、かつてシカゴ大学ロースクール講師として、合衆国憲法の講義を担当していたそうですが)、首相にとって最低限必要な憲法についての「教養」というものはあるはずです。
総理大臣を務めるために憲法学者並みの素養が必要だなどとは言いませんが(オバマ米国大統領は、かつてシカゴ大学ロースクール講師として、合衆国憲法の講義を担当していたそうですが)、首相にとって最低限必要な憲法についての「教養」というものはあるはずです。
2006年7月26日 マガジン9条
小林節さんに聞いた その1 無知・無教養がはびこるこの国の政治
(引用開始)
民法は、私人間の取引の法、商法は、その中の商売人の取引の法、刑法は犯罪の法、訴訟法(民・刑)は裁判の法、そして最上位法である憲法は、国民が政治権力を管理する法だという、法の基本的な役割分担を国会議員が知らない。
だから、愛国心とか教育とか倫理・道徳の問題に、憲法を直に持ち込もうとするようなことが起こるのだけれども、それは、はっきり言って無知・無教養だからなんだと気がつきました。
(略)
生まれたときからおじいちゃんは国会議員、お父さんも国会議員、そして自分も当選したという人たちですから、権力を離さないし絶対に間違えない、という前提がある。だから、自分たちを管理するという立憲主義の発想にはすごく抵抗があるんだろうね。
(引用終わり)
小林節さんに聞いた その1 無知・無教養がはびこるこの国の政治
(引用開始)
民法は、私人間の取引の法、商法は、その中の商売人の取引の法、刑法は犯罪の法、訴訟法(民・刑)は裁判の法、そして最上位法である憲法は、国民が政治権力を管理する法だという、法の基本的な役割分担を国会議員が知らない。
だから、愛国心とか教育とか倫理・道徳の問題に、憲法を直に持ち込もうとするようなことが起こるのだけれども、それは、はっきり言って無知・無教養だからなんだと気がつきました。
(略)
生まれたときからおじいちゃんは国会議員、お父さんも国会議員、そして自分も当選したという人たちですから、権力を離さないし絶対に間違えない、という前提がある。だから、自分たちを管理するという立憲主義の発想にはすごく抵抗があるんだろうね。
(引用終わり)
憲法の基礎の基礎である「立憲主義」について、「かつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方」と言い放つ人間が、内閣総理大臣という、日本国憲法から授権された強大な権力を持つ地位にあって、好き勝手にその権力を行使しているというのは、真に恐るべき事態と言わねばなりません。
その上、ただ「無教養」なだけではありません。さらに懸念すべき事態が進行しています。
11月18日の夜、在京TV局の報道番組をはしごした安倍首相の態度が「異様」だと(特にTBSの「ニュース23」)話題になっていますが、前々からかなりの人には自明のことであったこの国の首相の「病理」が、ようやく隠し通せなくなってきたということでしょう。一度、「ニュース23」&「安倍」というキーワードで動画検索をしてみることをお勧めします。
その上、ただ「無教養」なだけではありません。さらに懸念すべき事態が進行しています。
11月18日の夜、在京TV局の報道番組をはしごした安倍首相の態度が「異様」だと(特にTBSの「ニュース23」)話題になっていますが、前々からかなりの人には自明のことであったこの国の首相の「病理」が、ようやく隠し通せなくなってきたということでしょう。一度、「ニュース23」&「安倍」というキーワードで動画検索をしてみることをお勧めします。
このような人物を2年近くも最高権力者の地位にとどめてきた自民党・公明党の(特に国会議員の)責任はまことに重大であり、今回の総選挙は、彼ら(自公両党の議員)に対して、「安倍晋三氏を首相の座にとどめてきたこと」についての結果責任を問う、という選挙でなければならないと思います。
さて、以上で本稿を終えても良いのですが、実はまだ、「立憲主義」を理解せぬ安倍首相の「無教養」ぶりしか書いておらず、「立憲主義」そのものについてはほとんど触れていないことに気がつかれた方もおられるでしょう。
浅学非才の身で、「立憲主義とは何か?」という問題を正面から論じるような能力などとてもないものの、学習会での講師を頼まれる機会も少なくないため、多くの方の業績を参照させていただきながら考えたことを、末尾に掲載したようなブログ記事にまとめてきていますので、興味のあるものだけでもご参照いただければ幸いです。
浅学非才の身で、「立憲主義とは何か?」という問題を正面から論じるような能力などとてもないものの、学習会での講師を頼まれる機会も少なくないため、多くの方の業績を参照させていただきながら考えたことを、末尾に掲載したようなブログ記事にまとめてきていますので、興味のあるものだけでもご参照いただければ幸いです。
ここでは最後に、論理的にこの問題(立憲主義、ひいては「憲法とは何か?」ということ)を学びたいという人に、是非とも注目していただきたいWEB上の連載をご紹介しようと思います。
それは、神戸大学名誉教授・法学館憲法研究所顧問の浦部法穂(うらべ・のりほ)先生が、法学館憲法研究所サイトに連載を始められた「大人のための憲法理論入門」です。
浦部先生は、これまで同サイトに「浦部法穂の憲法時評」を、概ね月に2回のペースで連載してこられ、その目の付け所の鋭さと説得力豊かで切れ味鋭い文章にかねがね敬服していた私は、ひそかに「現代の末広厳太郎(すえひろいずたろう)」というオマージュを捧げていたものです。
その浦部先生が、「憲法時評」の連載をいったん休止し、新連載を始められた経緯について、以下のように説明しておられます。
(引用開始)
それは、神戸大学名誉教授・法学館憲法研究所顧問の浦部法穂(うらべ・のりほ)先生が、法学館憲法研究所サイトに連載を始められた「大人のための憲法理論入門」です。
浦部先生は、これまで同サイトに「浦部法穂の憲法時評」を、概ね月に2回のペースで連載してこられ、その目の付け所の鋭さと説得力豊かで切れ味鋭い文章にかねがね敬服していた私は、ひそかに「現代の末広厳太郎(すえひろいずたろう)」というオマージュを捧げていたものです。
その浦部先生が、「憲法時評」の連載をいったん休止し、新連載を始められた経緯について、以下のように説明しておられます。
(引用開始)
【2009年4月からほぼ月2回のペースで書いてきた「憲法時評」は、前回をもってひとまず休止させていただきます。今月からは、「大人のための憲法理論入門」と題して、何回か書いていきたいと思っています。"なにが「大人のため」なのだ?"と突っ込まれると答えに窮するのですが、ただ単に「憲法理論入門」では堅苦しい印象を持たれてしまうだろうということと、憲法について一応の勉強はしたという人がもう少し理論的に突き詰めて考えるきっかけみたいなものが必要ではないか、ということから、このようなタイトルにしてみました。憲法がまさに危機にさらされているいま、時々の時勢に応じた評論も、もちろん重要だと思いますが、じっくり腰を据えた「理論武装」もまた重要な意味を持つのではないかと考えます。そのための手がかりとなるような内容のものを書いていければ、と思っています。最初のテーマは、「憲法はなぜ憲法なのか?」です。(浦部法穂:法学館憲法研究所顧問・神戸大学名誉教授)】
これまで、2回分が掲載されましたが、浦部先生ならではの、実に明快な筆致により、「じっくり腰を据えた『理論武装』」のための論理が展開されています。
憲法理論をしっかりと学びたいという人々にとって必読の連載だと思い、ご紹介することとしました。
憲法理論をしっかりと学びたいという人々にとって必読の連載だと思い、ご紹介することとしました。
浦部法穂の「大人のための憲法理論入門」
第1回 憲法はなぜ憲法なのか?
(抜粋引用開始)
憲法はなぜ憲法なのか? つまり、憲法はなぜ憲法として通用するのか? ―― この問いに、さっと答えられる人は、はたしてどれくらいいるだろう。では、ほかの法律、たとえば民法とか刑法とか、そのほか数多くの法律があるが、それらが法律として通用するのはなぜか? これだったら、多くの人が答えられると思う。そう、国会が定めたものだから、である。国会が制定したものがなぜ法律として通用するのかといえば、 憲法がそう定めているからである。
(略)
歴史的な事実として言えば、憲法というものが作られるのは、多くの場合、革命やクーデターや戦争などによって、国の権力構造が大きく変動したときである。そうして権力を掌握した人々(勢力)が、その新しい体制の安定を図るために、憲法というものを制定したのである。つまり、権力を握った者が憲法として作り宣言したものが憲法だ、ということになる。私が作って宣言しても憲法にならないのは、私は権力を握っていないからである。だから、憲法の制定という行為は、なんらかの「法」にもとづいて行われる行為ではなく、裸の実力にもとづく行為だといえる。しかし、とはいえ、権力者が作って「これが憲法だ」と宣言しても、それだけで憲法として通用することになるわけではない。その権力の支配に服する人々、つまりその国の構成員(近代国家においては国民)が、「これがこの国の憲法だ」と認めてはじめて、それは憲法として通用する。権力を握った者がいくら「これが憲法だ」と宣言しても、それを正当化する法的な根拠はない。だから、被支配者(国民)の承認ということ以外には、正当化根拠は見出せないのである。
国民に承認させる方法として、強権的な支配によって力づくで従わせるという方法もあるだろうし、権力者を神格化しその超越的権威によって承認させるという方法もあろう。しかし、こういう方法は、遅かれ早かれ「化けの皮」がはがれて破綻する。18世紀のいわゆる近代市民革命によって権力を掌握し、「憲法」="Constitution"という支配装置を発明した人々は、より合理的で安定的な方法を開発した。それが「近代立憲主義」である。それは、被支配者である「国民」を至高の存在とし(国民主権)、その「国民」がみんなで一緒に国の基本的なあり方を決めたものこそが憲法であり、この憲法にもとづいて権力は構成され、憲法の認める範囲でのみ権力は行動できる、とするイデオロギーである。絶対王政の専制的な権力を倒して新しい国家体制を打ち立てた当時の人々は、「権力をもつ者は放っておけば権力を乱用する」という、権力に対する懐疑の念を、まさに実体験として共有していた。たとえそれが「国民意思」にもとづく権力であったとしても、実際にその権力を委ねられた者は、やはり放っておけばその権力を乱用しかねない、だから憲法によって権力を縛っておく必要があるのだ、という考え方は、したがって、「国民」に広く受け入れられうるものとなったのである。このイデオロギーによって、憲法は、権力支配の道具ではなく、逆に権力を縛るための国民意思の表明となり、国民の承認を獲得できたのである。憲法は主権者である国民が権力を制限して自分たちの権利・自由を守るために定めたものだ、という考え方が広まることで、国民がそれを憲法として認め、憲法は憲法として通用することとなったといえる。
そういうわけで、憲法が憲法として通用するのは、上記のような考え方が受け入れられて国民がそれを憲法として認めているからだ、ということになる。憲法を憲法たらしめる根拠は、このような、ある意味、非常に脆いものだといえる。しかし、それは逆に、憲法にとっての「強み」でもある。次回は、そのことを考えてみよう。
(引用終わり)
第2回「約束事」がぐらついたら、おしまい
(抜粋引用開始)
前回、憲法が憲法として通用するのは国民がそれを憲法として認めているからだ、と述べた。だから、国民が「こんなものは憲法ではない」と考えたら、憲法はもはや憲法ではなく、小難しい文章の書かれた「紙切れ」に過ぎないものとなる。国のあり方の基本を定める「最高法規」だというのに、その有効性は国民が憲法と認めるかどうかにかかっているというのだったら、憲法というのは何とも頼りない根拠の上に立っているものだ、と思われるかもしれない。
(略)
もし国民が現行の憲法を憲法として認めなくなったとしたら、現在の統治機構はその存立根拠を失い機能しなくなる。政府も国会も裁判所も、その他どんな機関も、すべて現行の憲法のもとで存立し権限を認められているのだから、その憲法が否定されたら、いっさいの国家機関は「無」の状態となり、そのもとに成立している国家権力は正当性を完全に失う。つまりは、国家の崩壊である。人々が1万円札を「ただの紙切れだ」と思うようになったら経済が崩壊するのと同じく、国民が憲法を「ただの紙切れだ」と思うようになったら国家が崩壊するのである。だから、いまの国家体制を守ろうとするなら、したがって国家権力を握っている者は、国民に、いまの憲法を憲法だと認めさせ続けなければならない。憲法理論上は、本来そうなのである。
その国民の承認を獲得するために考え出されたのが、前回も述べたように、憲法とは「権力を制限するために国民が制定したものだ」とするイデオロギー、すなわち、「国民の憲法制定権力」を前提とする「立憲主義」の考え方である。だが、「権力を制限するために国民が制定した」というのは、必ずしも歴史的な「事実」ではない。歴史的な事実の問題としていえば、権力を握った者がその権力支配の安定を図るために憲法を制定したというのが、ほとんどであろう。にもかかわらず、「権力を制限するために国民が憲法を制定した」ということにしておかなければ、権力は(少なくとも「国民主権」とか「民主主義」ということを標榜する権力は)正当性は主張できず、したがって国家の権力体制を維持することができない。だから、これも、ある意味、1万円札と同じ意味での「約束事」である。「事実」がどうであれ、つまり、誰が憲法の草案を起草し誰がそれを確定したか等々の「事実」がどうであれ、《国民が憲法として制定したということにしておこう》という「約束事」である。実際、多くの国の憲法は、制定過程の「事実」がどうであれ、それが国民意思の表明として国民の制定したものであるということを、憲法自身のなかに明文で書き込んでいる(たとえば、アメリカ合衆国憲法前文、ドイツ基本法前文、フランス憲法前文、そして、日本国憲法前文)。この「約束事」が国民の間で共有されていることによって、憲法は憲法として通用し、そして権力は、その憲法にもとづくものとして正当性を認められることとなるのである。だから、いまの国家権力体制を維持しようとするなら(したがって権力を握っている者にとっては)、この「約束事」がぐらつかないようにすることが、権力支配の安定のために、きわめて重要なこととなるはずである。
(略)
以上に述べたことに対しては、日本の実情とは全然違うではないか、と訝しく思う人も多いだろう。たしかに、日本は、まったく逆だと言ってもいい状況である。政権を握っている勢力が現行憲法を否定するようなことを平気で言う。「押しつけ憲法」で日本国民が自主的に作った憲法ではない、などと、上に述べた「約束事」をぐらつかせるような言説が、ほかならぬ権力の側からしつこく流布される。それにもかかわらず、その「反憲法」勢力の政権は、正当性を否定されるどころか、ほとんど安泰である。本来なら、現行憲法を否定する勢力はそのもとでの権力体制を否定する「反体制派」だということになるはずで、そんな勢力が政権の座についたら、一種の「クーデター」であって、その正当性に疑問符が付けられるのが普通だろう。そうした正当性に対する非難を受けることもなく、「反憲法」勢力が、現行憲法下でのほとんどの期間、政権の座に居座り続けているというのは、異常と言わずして何であろう。憲法理論的には、ありえない状況である。
ありえない状況が現にあるのはなぜか? 私なりの一応の答えの用意がないわけでないが、ここは読者諸氏にじっくり考えてもらったほうがよいのではないかと思う。
(引用終わり)
第1回 憲法はなぜ憲法なのか?
(抜粋引用開始)
憲法はなぜ憲法なのか? つまり、憲法はなぜ憲法として通用するのか? ―― この問いに、さっと答えられる人は、はたしてどれくらいいるだろう。では、ほかの法律、たとえば民法とか刑法とか、そのほか数多くの法律があるが、それらが法律として通用するのはなぜか? これだったら、多くの人が答えられると思う。そう、国会が定めたものだから、である。国会が制定したものがなぜ法律として通用するのかといえば、 憲法がそう定めているからである。
(略)
歴史的な事実として言えば、憲法というものが作られるのは、多くの場合、革命やクーデターや戦争などによって、国の権力構造が大きく変動したときである。そうして権力を掌握した人々(勢力)が、その新しい体制の安定を図るために、憲法というものを制定したのである。つまり、権力を握った者が憲法として作り宣言したものが憲法だ、ということになる。私が作って宣言しても憲法にならないのは、私は権力を握っていないからである。だから、憲法の制定という行為は、なんらかの「法」にもとづいて行われる行為ではなく、裸の実力にもとづく行為だといえる。しかし、とはいえ、権力者が作って「これが憲法だ」と宣言しても、それだけで憲法として通用することになるわけではない。その権力の支配に服する人々、つまりその国の構成員(近代国家においては国民)が、「これがこの国の憲法だ」と認めてはじめて、それは憲法として通用する。権力を握った者がいくら「これが憲法だ」と宣言しても、それを正当化する法的な根拠はない。だから、被支配者(国民)の承認ということ以外には、正当化根拠は見出せないのである。
国民に承認させる方法として、強権的な支配によって力づくで従わせるという方法もあるだろうし、権力者を神格化しその超越的権威によって承認させるという方法もあろう。しかし、こういう方法は、遅かれ早かれ「化けの皮」がはがれて破綻する。18世紀のいわゆる近代市民革命によって権力を掌握し、「憲法」="Constitution"という支配装置を発明した人々は、より合理的で安定的な方法を開発した。それが「近代立憲主義」である。それは、被支配者である「国民」を至高の存在とし(国民主権)、その「国民」がみんなで一緒に国の基本的なあり方を決めたものこそが憲法であり、この憲法にもとづいて権力は構成され、憲法の認める範囲でのみ権力は行動できる、とするイデオロギーである。絶対王政の専制的な権力を倒して新しい国家体制を打ち立てた当時の人々は、「権力をもつ者は放っておけば権力を乱用する」という、権力に対する懐疑の念を、まさに実体験として共有していた。たとえそれが「国民意思」にもとづく権力であったとしても、実際にその権力を委ねられた者は、やはり放っておけばその権力を乱用しかねない、だから憲法によって権力を縛っておく必要があるのだ、という考え方は、したがって、「国民」に広く受け入れられうるものとなったのである。このイデオロギーによって、憲法は、権力支配の道具ではなく、逆に権力を縛るための国民意思の表明となり、国民の承認を獲得できたのである。憲法は主権者である国民が権力を制限して自分たちの権利・自由を守るために定めたものだ、という考え方が広まることで、国民がそれを憲法として認め、憲法は憲法として通用することとなったといえる。
そういうわけで、憲法が憲法として通用するのは、上記のような考え方が受け入れられて国民がそれを憲法として認めているからだ、ということになる。憲法を憲法たらしめる根拠は、このような、ある意味、非常に脆いものだといえる。しかし、それは逆に、憲法にとっての「強み」でもある。次回は、そのことを考えてみよう。
(引用終わり)
第2回「約束事」がぐらついたら、おしまい
(抜粋引用開始)
前回、憲法が憲法として通用するのは国民がそれを憲法として認めているからだ、と述べた。だから、国民が「こんなものは憲法ではない」と考えたら、憲法はもはや憲法ではなく、小難しい文章の書かれた「紙切れ」に過ぎないものとなる。国のあり方の基本を定める「最高法規」だというのに、その有効性は国民が憲法と認めるかどうかにかかっているというのだったら、憲法というのは何とも頼りない根拠の上に立っているものだ、と思われるかもしれない。
(略)
もし国民が現行の憲法を憲法として認めなくなったとしたら、現在の統治機構はその存立根拠を失い機能しなくなる。政府も国会も裁判所も、その他どんな機関も、すべて現行の憲法のもとで存立し権限を認められているのだから、その憲法が否定されたら、いっさいの国家機関は「無」の状態となり、そのもとに成立している国家権力は正当性を完全に失う。つまりは、国家の崩壊である。人々が1万円札を「ただの紙切れだ」と思うようになったら経済が崩壊するのと同じく、国民が憲法を「ただの紙切れだ」と思うようになったら国家が崩壊するのである。だから、いまの国家体制を守ろうとするなら、したがって国家権力を握っている者は、国民に、いまの憲法を憲法だと認めさせ続けなければならない。憲法理論上は、本来そうなのである。
その国民の承認を獲得するために考え出されたのが、前回も述べたように、憲法とは「権力を制限するために国民が制定したものだ」とするイデオロギー、すなわち、「国民の憲法制定権力」を前提とする「立憲主義」の考え方である。だが、「権力を制限するために国民が制定した」というのは、必ずしも歴史的な「事実」ではない。歴史的な事実の問題としていえば、権力を握った者がその権力支配の安定を図るために憲法を制定したというのが、ほとんどであろう。にもかかわらず、「権力を制限するために国民が憲法を制定した」ということにしておかなければ、権力は(少なくとも「国民主権」とか「民主主義」ということを標榜する権力は)正当性は主張できず、したがって国家の権力体制を維持することができない。だから、これも、ある意味、1万円札と同じ意味での「約束事」である。「事実」がどうであれ、つまり、誰が憲法の草案を起草し誰がそれを確定したか等々の「事実」がどうであれ、《国民が憲法として制定したということにしておこう》という「約束事」である。実際、多くの国の憲法は、制定過程の「事実」がどうであれ、それが国民意思の表明として国民の制定したものであるということを、憲法自身のなかに明文で書き込んでいる(たとえば、アメリカ合衆国憲法前文、ドイツ基本法前文、フランス憲法前文、そして、日本国憲法前文)。この「約束事」が国民の間で共有されていることによって、憲法は憲法として通用し、そして権力は、その憲法にもとづくものとして正当性を認められることとなるのである。だから、いまの国家権力体制を維持しようとするなら(したがって権力を握っている者にとっては)、この「約束事」がぐらつかないようにすることが、権力支配の安定のために、きわめて重要なこととなるはずである。
(略)
以上に述べたことに対しては、日本の実情とは全然違うではないか、と訝しく思う人も多いだろう。たしかに、日本は、まったく逆だと言ってもいい状況である。政権を握っている勢力が現行憲法を否定するようなことを平気で言う。「押しつけ憲法」で日本国民が自主的に作った憲法ではない、などと、上に述べた「約束事」をぐらつかせるような言説が、ほかならぬ権力の側からしつこく流布される。それにもかかわらず、その「反憲法」勢力の政権は、正当性を否定されるどころか、ほとんど安泰である。本来なら、現行憲法を否定する勢力はそのもとでの権力体制を否定する「反体制派」だということになるはずで、そんな勢力が政権の座についたら、一種の「クーデター」であって、その正当性に疑問符が付けられるのが普通だろう。そうした正当性に対する非難を受けることもなく、「反憲法」勢力が、現行憲法下でのほとんどの期間、政権の座に居座り続けているというのは、異常と言わずして何であろう。憲法理論的には、ありえない状況である。
ありえない状況が現にあるのはなぜか? 私なりの一応の答えの用意がないわけでないが、ここは読者諸氏にじっくり考えてもらったほうがよいのではないかと思う。
(引用終わり)
(弁護士・金原徹雄のブログより)
2012年5月3日(2013年1月26日に再配信)
憲法記念日に考える(立憲主義ということ) 前編
2012年5月3日(2013年1月26日に再配信)
憲法記念日に考える(立憲主義ということ) 後編
2012年5月30日(2013年2月16日に再配信)
「立憲主義」を聴いたことがないという参議院憲法審査会委員
2013年4月3日
日本国憲法「第10章 最高法規」を読む 前編
2013年4月3日
日本国憲法「第10章 最高法規」を読む 後編
2013年7月13日
この7年間、私たちは何をしていたのか?~「小林節さんに聞いた」(2006年/マガジン9条)を読んで~
2013年8月2日
『あたらしい憲法のはなし』と“立憲主義”(運動の再構築のために)
2014年2月13日
こういう人間に支配される国であってはならない(2014年2月12日・衆議院予算委員会) ※追記あり
2014年6月7日
“立憲主義”を理解していない首相が連発する“法の支配”とは?
2014年8月5日
安倍首相の答弁から露呈した「外見的立憲主義」
2013年2月25日
浦部法穂氏が説く「憲法尊重擁護義務」(法学館憲法研究所)
2013年7月30日
浦部法穂先生の「憲法時評」を読む
2013年9月11日
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2013年9月26日
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2014年4月28日
浦部法穂さんが説く“日本国憲法と自衛権”
2012年5月3日(2013年1月26日に再配信)
憲法記念日に考える(立憲主義ということ) 前編
2012年5月3日(2013年1月26日に再配信)
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