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菅原文太さんのメッセージと奥様のコメントを全ての日本人に届けたい

 今晩(2014年12月1日)配信した「メルマガ金原No.1926」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
菅原文太さんのメッセージと奥様のコメントを全ての日本人に届けたい

 今日(12月1日)、菅原文太さんの訃報が一斉に伝えられ、驚くとともに力を落とした方も多かったのではないでしょうか。もちろん、私自身がそうでした。
 本格的な追悼記事はこれからでしょうが、マスコミの速報の中から、最近の活動も含めて過不足なくまとまっていた毎日新聞の記事を引用します。
 
訃報:菅原文太さん81歳=俳優、「仁義なき戦い」
(引用開始)
 映画「仁義なき戦い」シリーズなどに主演した俳優の菅原文太(すがわら・ぶんた)さんが死去したことが、1日分かった。81歳。
 仙台市生まれ。早稲田大中退後、雑誌モデルとして活躍中にスカウトされ、1956年「哀愁の街に霧が降る」で映画初出演した。所属した新東宝が売り出すが、61年に同社は倒産。松竹に転じたがそこでも芽が出ず、東映に移籍した。
 任侠(にんきょう)路線全盛の東映では二線級のスターだったが、71年「懲役太郎・まむしの兄弟」(中島貞夫監督)がヒットして頭角を現し、73年「仁義なき戦い」(深作欣二監督)でトップスターに躍り出た。
 75年の「トラック野郎・御意見無用」では、乱暴だが情に厚いトラック運転手をコミカルに演じ、これも人気シリーズに。夏と冬に公開される定番番組として人気を博した。2012年、俳優引退を表明していた。
 98年に岐阜県清見村(現高山市)に移住。07年にぼうこうがんを発症したが、その後回復し、09年には山梨県北杜市で自ら農業生産法人を設立、耕作放棄地で有機農業に取り組んできた。11年の東日本大震災福島原発事故を受け、脱原発を表明。自民党安倍晋三政権の誕生後は、特定秘密保護法集団的自衛権行使容認について「先の戦争の片りんが影絵のように透けて見える」と強く反対し、講演などで発言を続けてきた。11月1日には沖縄知事選で翁長雄志氏の応援演説に立つなど最近まで精力的に活動していた。
(引用終わり)
 
 また、続報によれば、11月28日に逝去されていたということです。
 以下に、奥様が発表されたコメントの全文を引用します。是非、一語一語かみしめてお読みください。
 
シネマトゥデイ 2014年12月1日 15時16分
菅原文太さん、死去 81歳 転移性肝がんによる肝不全のため

(抜粋引用開始)
 俳優の菅原文太さんが11月28日午前3時、転移性肝がんによる肝不全のため、都内の病院で亡くなってい
たことがわかった。81歳だった。30日にすでに福岡県・太宰府天満宮祖霊殿にて家族葬が執り行われた。
(略)
<妻・菅原文子さんのコメント全文>
 七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち「朝に道を聞かば、夕に死す
とも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
 「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。すでに祖霊の一人となった今も、生
者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。
 恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます。
(引用終わり)
 
 菅原文太さんの訃報に接してまず思い出されるのが、わずか1月前の11月1日(土)、那覇市営奥武山野球場(沖縄セルラースタジアム那覇)において開催された、沖縄県知事選挙立候補者・翁長雄志(おなが・たけし)候補を支援する「オナガ雄志 うまんちゅ 1万人大集会」にスペシャルゲストとして登壇し、まことに印象深い応援演説をされたことです。
 その際の映像はいくつかアップされていますが、ここでは、文太さんのスピーチをフューチャーした翁長雄志公式チャンネルの映像をご紹介します。
 
菅原文太氏のスペシャルゲストあいさつ
 

 私はこの大集会の翌々日(11月3日)のメルマガ(ブログ)で、菅原文太さんのメッセージに心揺さぶられた思いを伝えるため、文字書き起こし(IWJによる文字起こしを基に私が校正したもの)をご紹介しました。
 
 
 私は上記文章の中で、「分量の割には長い時間がかかっているのは、年齢ということもあるかもしれませんが、スピーチ原稿に目を落としつつ、発言する時はしっかりと聴衆の方に目を向けて訴えられているからでもあります」と書いてしまったのですが、今となっては自らの不明をお詫びするしかありません。
 おそらくは病勢も相当に進んでいたのだろうと思います。それでも、奥様が言われるように、「日本が
再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう」生命の灯火ある限り、「共に声を上げ」ようとして那覇に赴かれたのに違いありません。

 「すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います」という奥様の言葉に満腔の賛意と敬意を表するとともに、1人でも多くの日本人に菅原文太さんの思いを届ける
べく、11月1日のスピーチ文字起こしを再掲載します。
 既に上記の私のブログには、今日の午後からかなりのアクセスが集まっていますが、奥様のコメントも
併せてご紹介したこの記事の「拡散」にどうかご協力ください。
 そのことによって、「日本が再び戦争をしないという願い」を共有する人を1人でも増やしていくことが、菅原文太さんやそのご遺族の思いに添うことになると確信します。
 
2014年11月1日 那覇市営奥武山野球場(沖縄セルラースタジアム那覇)での「オナガ雄志 うまんちゅ 1万人大集会」での菅原文太さんのスピーチ
 
こんにちは。
沖縄は、何度来ても気持ちがいいね。(拍手)
カートに乗って、楽をさしてもらったけど、80過ぎたんで、さっきの2人みたいに走れないよ。(笑い
と拍手)
30年前なら、あの倍くらいのスピードで走ったけどね。(笑いと拍手)
 
今日は、自分から立候補して、ピッチャー交代、知事交代、ということで押し掛けてきました。(拍手)
 
プロでない私が言うんだから、あてになるのかならないのかは分かりませんけど、政治の役割はふたつあります。ひとつは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。(拍手)
 
もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと!(大きな拍手)
私が小学校の頃、戦国(軍国)少年でした。小学校、なんでゲートルを巻いて、戦闘帽を被って、竹槍持たされたのか、今振り返ると、本当に笑止千万です。もう二度と、ああいう経験は子どもたちに、子どもたちだけじゃない、大学生も雨のなかを、大勢の将来大事な大学生が戦地へ運ばれて、半数が帰ってこなかった。
 
今の政府と、本土の政府ですよ、仲井眞知事は、まさに戦争が起きること、戦争をすることを前提に、沖縄を考えていた。
前知事は、今、最も危険な政権と手を結んだ。(拍手)
沖縄の人々を裏切り、公約を反故にして、辺野古を売り渡した。(そうだ!の声と拍手)
 
古い映画だけど、『仁義なき戦い』に、(拍手)その流れに言うと、『仁義なき戦い』の裏切り者の山守(やまもり)、覚えてらっしゃらない方もいるかな?(覚えてるよー!の声)
憶えてるかー(拍手)
映画の最後で、「山守さん、弾はまだ残っとるがよ。一発残っとるがよ。」というセリフをぶつけた。
その伝でいくと、「仲井眞さん、弾はまだ一発残っとるがよ。」(大きな拍手)
と、ぶつけてやりたい。(拍手)
 
沖縄の風土も、本土の風土も、海も山も空気も風も、すべて国家のものではありません。(大きな拍手)
そこに住んでいる人たちのものです。(拍手)
辺野古もしかり!
勝手に他国へ売り飛ばさないでくれ。(大きな拍手)
 
まあそうは言っても、アメリカにも、良心厚い人々はいます。中国にもいる。韓国にもいる。(拍手)の良心ある人々は、国が違え、同じ人間だ。(拍手)
みな、手を結び合おうよ。(拍手)
 
翁長さんは、きっと、そのことを、実行してくれると信じてる。(大きな拍手)
今日来てるみなさんも、そのことを、肝に銘じて実行してください。(拍手)
それができない人は、沖縄から、日本から、去ってもらおう。(大きな拍手)
 
はなはだ短いけど、終わり(拍手)