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天皇誕生日に皇后陛下の文章を読み天皇陛下の発言を聴く

 今晩(2014年12月23日)配信した「メルマガ金原No.1948」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
天皇誕生日皇后陛下の文章を読み天皇陛下の発言を聴く

 日本社会に暮らす人々にとって、日常生活と密接な関係がありながら、その根拠となっている法律を読んだ者はとても少ないというシステムは別に珍しくありませんが、これだけインターネットが普及し、総務省のデータベースで全ての現行法令を容易に検索することが可能となっているのですから、時には「法律はどうなっているのか?」と気にかける習慣を多くの人が身につけるといいなと私は考えています。
 
 ここで、そもそも法律とは何か?という法哲学上の命題を持ち出すつもりもなければ適切に解説する能力もありませんが、時に政治家や官僚が、あからさまに法律を無視することもありますので(最近では、原発事故子ども・被災者支援法についての法律無視に私は怒っています)、法律というのは、常に誰もが守っている訳ではない、ということを認識しておくことも必要です。
 このことは、憲法尊重擁護義務(日本国憲法99条)を課された公務員が、はたしてどれだけ憲法に忠実であろうとしているのかを常に監視するということにも結びつく態度だと思います。
 
 さて前置きはそれ位にして、試みにある法律をご紹介しようと思います。
 ごく短い法律なので、全文を引用してみましょう。
 私たちの生活に密接な関係を有していますが、別に難しい言葉は使われていませんから、読めば分かります。
 
第一条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。
第二条 「国民の祝日」を次のように定める。
元日 一月一日 年のはじめを祝う。
成人の日 一月の第二月曜日 おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。
春分の日 春分日 自然をたたえ、生物をいつくしむ。
昭和の日 四月二十九日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。
憲法記念日 五月三日 日本国憲法 の施行を記念し、国の成長を期する。
みどりの日 五月四日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。
こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
海の日 七月の第三月曜日 海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。
敬老の日 九月の第三月曜日 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。
秋分の日 秋分日 祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ。
体育の日 十月の第二月曜日 スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。
文化の日 十一月三日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。
勤労感謝の日 十一月二十三日 勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。
天皇誕生日 十二月二十三日 天皇の誕生日を祝う。
第三条 「国民の祝日」は、休日とする。
2 「国民の祝日」が日曜日に当たるときは、その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。
3 その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。
 
 この法律の解釈上、最も問題になり得るのは3条1項でしょう。そもそも「休日」とは何か?という定義規定が置かれていないからです。
 私もしらみつぶしに調べた訳ではありませんが、一般的に「休日」を定義した法令はないのではないかと思います。
 もちろん、「休日」という用語(概念)が登場する法令はたくさんあります。私の仕事柄意識する例では、「期間の末日が日曜日、土曜日、国民の祝日に関する法律 (昭和23年法律第178号)に規定する休日、1月2日、1月3日又は12月29日から12月31日までの日に当たるときは、期間は、その翌日に満了する。」(民事訴訟法95条3項)などがあり、控訴・抗告などの不服申立てを行う際に重要です。
 また、行政機関の「休日」は、「次の各号に掲げる日は、行政機関の休日とし、行政機関の執務は、原則として行わないものとする。一 日曜日及び土曜日 二 国民の祝日に関する法律 (昭和二十三年法律第百七十八号)に規定する休日 三 十二月二十九日から翌年の一月三日までの日(前号に掲げる日を除く。)」(行政機関の休日に関する法律1条1項)と定められています。
 
 ということで、「国民の祝日に関する法律」2条によって、今日(12月23日)が天皇誕生日として祝日と定められ、その結果、多くの事業所と同様、私の事務所も「休日」としており(これは法律ではなく経営者である私が決めたことですが)、時間的余裕があるために蘊蓄を傾けることができるという訳です。
 ついでに、本論に入る前に雑学をもう1つ。平成28年(2016年)から8月11日が「山の日」として祝日の仲間入りをするって知ってました?
 
 さて、あまりに長い前振りを終えて、そろそろ本論に入りましょう。
 12月23日の天皇誕生日の何日か前には、天皇陛下による記者会見が行われ、その内容が(文字と映像で)天皇誕生日当日に公開されるのが慣例となっています。
 また、祝日ではありませんが、10月20日の皇后誕生日に際しては、宮内記者会からの質問に対して皇后陛下が文書回答する例となっています。
 
 巻末の(弁護士・金原徹雄のブログから)に私が書いたブログ記事の中から、天皇・皇后・天皇制などに関連する記事をまとめておきました。
 その標題でも分かると思いますが、昨年(2013年)のそれぞれの誕生日に際しての文章・発言は、かなり意図して「憲法」について触れられたことがはっきりと分かるものであり、注目を集めました。
 もう一度振り返っておきましょう。
 
宮内記者会の質問に対する文書ご回答
(抜粋引用開始)
 5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。
(略)
 この1年も多くの親しい方たちが亡くなりました。阪神淡路大震災の時の日本看護協会会長・見藤隆子さん,暮しの手帖を創刊された大橋鎮子さん,日本における女性の人権の尊重を新憲法に反映させたベアテ・ゴードンさん,映像の世界で大きな貢献をされた高野悦子さん等,私の少し前を歩いておられた方々を失い,改めてその御生涯と,生き抜かれた時代を思っています。
(引用終わり)
 
天皇陛下の記者会見
(抜粋引用開始)
 戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,様々な改革を行って,今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し,かつ,改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し,深い感謝の気持ちを抱いています。また,当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。戦後60年を超す歳月を経,今日,日本には東日本大震災のような大きな災害に対しても,人と人との絆きずなを大切にし,冷静に事に対処し,復興に向かって尽力する人々が育っていることを,本当に心強く思っています。
(略)
 天皇という立場にあることは,孤独とも思えるものですが,私は結婚により,私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え,これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。
(引用終わり)
 
 以上の文章・発言について、私を含む多くの国民が深い感銘を受けたと思いますが、そうではない人々も当然いた訳で、とりわけ現政権に近いとされる八木秀次麗澤大学教授が月刊「正論」の2014年5月号に掲載した「憲法巡る両陛下ご発言公表への違和感」なるコラム記事は話題となりました。
 原文は読んでいませんが、そのコラムの主要部分を引用して批判した論考にリンクをはっておきますので、関心のある方はお読みください。私がその引用で読んだところでは、天皇制は利用できるだけ利用しようとするが、天皇(皇后)陛下に対する敬愛の念など薬にしたくもないという自民党「日本国憲法改正草案」の思想に立脚しての両陛下批判であるという印象でした。

 そして、2014年に入り、安倍政権による憲法無視の暴走はいよいよ加速されました。ただし、2013年と2014年では、大きく状況が変わった点があります。このことを端的に指摘されているのが内田樹(うちだ・たつる)さんです。

 内田さんは、最新の著書(かな?)『街場の戦争論』(2014年10月刊・ミシマ社)の中で、「2013年の5月にアメリカからきわめてはっきりとしたかたちで『自民党改憲草案のような改憲は罷り成らぬ』というお達しがあった」と推測し、非常に説得力豊かにその論拠を示した上で以下のように結論付けます。「13年の5月に安倍政権は全面改憲を放棄した代わりに『東アジアに緊張関係を作り出さずに改憲の実を取る』という宿題に『解釈改憲による集団的自衛権の行使』と『特定秘密保護法による反政府言論の抑制』という『プランB』を以て回答して、アメリカに『合格点』をもらい、みごとに憲法第9条と第21条の空洞化に『王手』をかけたのでした」(同書142~156頁)。

 内田さんのこの興味深い、しかも非常に論理的な仮説は、次のような冷厳な現状認識から来ています。少し長くなりますが引用します。

この国は久しく重要な政策については自己決定権を持っていません。重要な政策についてはアメリカの許可なしには何もできない。自前の国防戦略も外交戦略も持つことができない。起案しても、アメリカの同意がなければ政策を実現することができない。最終決定権を持てないのであれば、それについてあれこれ議論しても始まらない。それについて考えてもしかたがない。だったら、自前で考えて、それについてアメリカに可否の判断をいちいち仰ぐより、最初から『アメリカが絶対に文句を言いそうもない政策』だけを選択的に採用すれば効率的ではないか、そう考える人が統治システムのあらゆる場所で要路を占めるようになりました。すべての政策が『アメリカが許可するかどうか』を基準にして議論される。自分たちとしてはこれがいいと思って熟議した後に差し戻されて、またやり直すくらいなら、最初から『アメリカが許可してくれそうなこと』を忖度して政策起案したほうが万事効率的である。そういう考え方を人々がするようになった。それが70年2世代にわたって続いている」(同書93頁)
 
 2013年後半から2014年にかけての日本の憲法をめぐる情勢が、「プランA」(明文改憲路線)から「プランB」に大きく舵が切られたことは間違いなく(「プランA」が放棄されたかどうかはともかくとして)、その背後に「アメリカの意向」という補助線を引くことによって、初めてその実態を正確にとらえることができるという点において、内田樹さんの見方は首肯できると私は思います。
 また、内田さんはそこまで書いていませんが、このような大枠で事態を捉えれば、「集団的自衛権行使容認に公明党が何故あのようにあっさりと同意したのか?」という疑問についても、公明党がアメリカの意向を「忖度」したからだと考えれば、少しも不自然ではないということになりそうです。
 
 さて、2014年10月20日と12月23日、今年の誕生日に際し、皇后陛下天皇陛下はどのような発言をされたのでしょうか。
 まず、皇后陛下の「文書ご回答」です。以下には「問2」に対する回答全文と「問3」に対する回答の一部だけを引用していますが、それ以外の部分も是非リンク先でお読みいただければと思います。
 少しでも文章に馴染んだ方、自分で文章を書く習慣のある方なら説明の必要もないと思いますが、これほど立派な文章が書ける人というのはめったにいません。
 
皇后陛下お誕生日に際し(平成26年)
宮内記者会の質問に対する文書ご回答

(抜粋引用開始)
問2 皇后さまは天皇陛下とともに国内外で慰霊の旅を続けて来られました。戦争を知らない世代が増えているなかで,来年戦後70年を迎えることについて今のお気持ちをお聞かせ下さい。
皇后陛下
 今年8月に欧州では第一次大戦開戦から100年の式典が行われました。第一次,第二次と2度の大戦を敵味方として戦った国々の首脳が同じ場所に集い,共に未来の平和構築への思いを分かち合っている姿には胸を打たれるものがありました。
 私は,今も終戦後のある日,ラジオを通し,A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません。まだ中学生で,戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく,従ってその時の感情は,戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく,恐らくは国と国民という,個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する,身の震うような怖れであったのだと思います。
 戦後の日々,私が常に戦争や平和につき考えていたとは申せませんが,戦中戦後の記憶は,消し去るには強く,たしか以前にもお話ししておりますが,私はその後,自分がある区切りの年齢に達する都度,戦時下をその同じ年齢で過ごした人々がどんなであったろうか,と思いを巡らすことがよくありました。
 まだ若い東宮妃であった頃,当時の東宮大夫から,著者が私にも目を通して欲しいと送って来られたという一冊の本を見せられました。長くシベリアに抑留されていた人の歌集で,中でも,帰国への期待をつのらせる中,今年も早蕨(さわらび)が羊歯(しだ)になって春が過ぎていくという一首が特に悲しく,この時以来,抑留者や外地で終戦を迎えた開拓民のこと,その人たちの引き揚げ後も続いた苦労等に,心を向けるようになりました。
最近新聞で,自らもハバロフスクで抑留生活を送った人が,十余年を費やしてシベリア抑留中の死者の名前,死亡場所等,出来る限り正確な名簿を作り終えて亡くなった記事を読み,心を打たれました。戦争を経験した人や遺族それぞれの上に,長い戦後の日々があったことを改めて思います。
 第二次大戦では,島々を含む日本本土でも100万に近い人が亡くなりました。又,信じられない数の民間の船が徴用され,6万に及ぶ民間人の船員が,軍人や軍属,物資を運ぶ途上で船を沈められ亡くなっていることを,昭和46年に観音崎で行われた慰霊祭で知り,その後陛下とご一緒に何度かその場所を訪ねました。戦後70年の来年は,大勢の人たちの戦中戦後に思いを致す年になろうと思います。
 世界のいさかいの多くが,何らかの報復という形をとってくり返し行われて来た中で,わが国の遺族会が,一貫して平和で戦争のない世界を願って活動を続けて来たことを尊く思っています。遺族の人たちの,自らの辛い体験を通して生まれた悲願を成就させるためにも,今,平和の恩恵に与っている私たち皆が,絶えず平和を志向し,国内外を問わず,争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を積み重ねていくことが大切ではないかと考えています。
 
問3 皇后さまは音楽,絵画,詩など様々な芸術・文化に親しんで来られました。皇后さまにとって芸術・文化はどのような意味を持ち,これまでどのようなお気持ちで触れて来られたのでしょうか。
皇后陛下
(略)
 建造物や絵画,彫刻のように目に見える文化がある一方,ふとした折にこれは文化だ,と思わされる現象のようなものにも興味をひかれます。昭和42年の初めての訪伯の折,それより約60年前,ブラジルのサントス港に着いた日本移民の秩序ある行動と,その後に見えて来た勤勉,正直といった資質が,かの地の人々に,日本人の持つ文化の表れとし,驚きをもって受けとめられていたことを度々耳にしました。当時,遠く海を渡ったこれらの人々への敬意と感謝を覚えるとともに,異国からの移住者を受け入れ,直ちにその資質に着目し,これを評価する文化をすでに有していた大らかなブラジル国民に対しても,深い敬愛の念を抱いたことでした。
 それぞれの国が持つ文化の特徴は,自ずとその国を旅する者に感じられるものではないでしょうか。これまで訪れた国々で,いずれも心はずむ文化との遭遇がありましたが,私は特に,ニエレレ大統領時代のタンザニアで,大統領は元より,ザンジバルやアルーシャで出会った何人かの人から「私たちはまだ貧しいが,国民の間に格差が生じるより,皆して少しずつ豊かになっていきたい」という言葉を聞いた時の,胸が熱くなるような感動を忘れません。少なからぬ数の国民が信念として持つ思いも,文化の一つの形ではないかと感じます。
(略)
(引用終わり)
 
 続いて、12月19日に記者会見された際の天皇陛下の発言です。
 
 
天皇陛下お誕生日に際し(平成26年)
天皇陛下の記者会見

(抜粋引用開始)
問1 この1年を振り返り,社会情勢やご公務,ご家族との交流などで印象に残った出来事をお聞かせください。来年に向けてのお考えもあわせてお答えください。また,来年は戦後70年という節目の年を迎え,両陛下のパラオご訪問が検討されています。改めて先の戦争や平和に対するお考えをお聞かせください。
天皇陛下
(略)
 新聞に大きく取り上げられるような災害ではありませんが,常々心に掛かっていることとして多雪地帯での雪害による事故死があります。日本全体で昨冬の間に雪で亡くなった人の数が95人に達しています。この数値は広島市の大雨による災害や御嶽山の噴火による災害の死者数を上回っています。私自身高齢になって転びやすくなっていることを感じているものですから,高齢者の屋根の雪下ろしはいつも心配しています。高齢者の屋根の上での作業などに配慮が行き届き,高齢者が雪の多い地域でも安全に住めるような道が開けることを願ってやみません。
(略)
 先の戦争では300万を超す多くの人が亡くなりました。その人々の死を無にすることがないよう,常により良い日本をつくる努力を続けることが,残された私どもに課された義務であり,後に来る時代への責任であると思います。そして,これからの日本のつつがない発展を求めていくときに,日本が世界の中で安定した平和で健全な国として,近隣諸国はもとより,できるだけ多くの世界の国々と共に支え合って歩んでいけるよう,切に願っています。
(引用終わり)
 
 以上のとおり、今年は両陛下とも、「憲法」についての直接の言及はありませんでした。ただ、私は、これが官邸からの圧力によって発言を控えられたのだとは必ずしも思っていません。特に、天皇陛下記者会見では、昨年の質問が「80年の道のりを振り返って特に印象に残っている出来事や,傘寿を迎えられたご感想」などであったのに対し、今年が「1年を振り返り~印象に残った出来事」「先の戦争や平和に対するお考え」をというものであったため、上記のような内容になったのでしょう。

 今年は、もっぱら皇后陛下が「文書回答」の中で、言うべきことを言われたのだと思います。「LITERA」も指摘するように、安倍首相が、高野山で開かれたA級戦犯を含む「昭和殉難者」の法要に「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」と賞揚する追悼メッセージを自民党総裁として送っていたことが報じられたのが、皇后誕生日の約2ヵ月前である8月下旬のことでした。
 昨年の記者会見で天皇陛下は「私は結婚により,私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました」と言われていたではないですか。皇后陛下の意見は、天皇陛下が言いたいことを代弁しているという側面もあるはずだと思います。
 
 最後に、今年の両陛下の発言に「憲法」への言及がなかったもう1つの理由は、先ほど紹介した内田樹さんの仮説(アメリカの指示によって明文改憲を断念し、アメリカの了解が得られた「プランB」を目指すことになった)によって説明できるのではないかということを述べて、今日の稿を終わります。
 
 「天皇制と日本国憲法」についての私の意見はまた別の機会に書ければと思います。もっとも、まだ人前で語れるほどには熟していないので、いつのことになるかは分かりませんが。
 
(付記)
 昨年からお始めになった私的ご旅行では,5月に洪水の防止と足尾銅山から流出した鉱毒の沈殿化を目的に作られた渡良瀬遊水地及び足尾銅山鉱毒問題に取り組んだ田中正造に関する資料を展示する佐野市郷土博物館をご訪問。また,足尾銅山跡地では,鉱毒ガスや乱伐等による荒廃した山林がボランティア等の植樹活動により予想以上に再生されている様子をご覧になり,お喜びになりました。9月には青森県をご訪問。東日本大震災により被害を受けた八戸港をご視察,復興状況についてご聴取になった後,種差海岸をご散策。翌日は黒石市のりんご生産農家と青森県産業技術センターりんご研究所を訪問されました。
 
(弁護士・金原徹雄のブログから)
2012年3月19日(2013年2月24日に再配信)
3/11天皇陛下の「おことば」とマスコミ報道
2013年4月4日
「主権回復の日」式典と天皇陛下
2013年10月30日
五日市憲法草案を称えた皇后陛下の“憲法観”
2014年1月6日
天皇陛下の“日本国憲法観”(付・「陛下」という敬称について) ※追記あり
2014年1月14日
「日本傷痍軍人会」最後の式典での天皇陛下「おことば」と安倍首相「祝辞」(付・ETV特集『解散・日本傷痍軍人会』2/1放送予告) ※追記あり
2014年8月30日
“平和主義と天皇制”~「戦後レジーム」の本質を復習する

2014年9月1日
戦争に敗けるということ~加藤朗氏『敗北をかみしめて』を読んで考える
2014年9月14日
安倍晋三氏の“昭和殉難者”追悼メッセージを忘れるな(「朝日たたき」の陰にあるもの)