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伊勢﨑賢治氏著『本当の戦争の話をしよう 世界の「対立」を仕切る』を読む

 今晩(2015年3月7日)配信した「メルマガ金原No.2022」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
伊勢﨑賢治氏著『本当の戦争の話をしよう 世界の「対立」を仕切る』を読む

 今年の1月に発行された伊勢﨑賢治さんの新刊『本当の戦争の話をしよう 世界の「対立」を仕切る』
朝日出版社)をようやく読み終えました。


 実は、この本のことは、購入前に一度メルマガ(ブログ)で取り上げています。
 
 
 これは、版元である朝日出版社第二編集部のブログに、この新刊の相当部分が公開されていることに驚き、すぐに注文したけれどまだ届く前に紹介したものでした。
 ちなみに、ブログにアップした直後に届いた現物で確認したところ、本文419ページの内、112ページまでの部分が公開されていました(1/4以上!)。
 
 ところで、もう1冊、購入しながらなかなか読めずに気になっていた柳澤協二さんの本をようやく読み上げて読後感を書いた時、伊勢﨑さんの本についても、若干言い訳めいた言及を行っています(柳澤協二氏著『自分で考える集団的自衛権 若者と国家』を読む/2015年2月8日)。
 
「既に読後感の予告編まで書いているのですから、一気に読めるかと思ったのですが、届いた本を手にとってみると、本文419ページに達する県立福島高校生徒との対話を基にした、実際の重量以上に重みを感じる本であり、なかなか読み進めることが出来ていません。」
 
 そう、この本は、ページ数の割には心持ち軽めに(でもしっかりした造本で)作られており、センスの良いブックデザインともあいまち、読者に対する配慮の行き届いた本でした。読み終わった今、そう思います。
 それでも読み上げるのに時間がかかったのは?
 それは、伊勢﨑さんがこの本を書き上げるのに長い時間を要したことと(おそらく)関連があります。

 本書は、2012年1月8日を第1回として、同月から翌2月にかけて計5回(延20余時間)にわた
り、県立福島高校2年生18人との間で行われた「特別授業」を基に構成・執筆されたものです。
 おそらく、全ての講義が終わってから間もなく、伊勢﨑さんのもとには、録音を文字化した講義録が届
けられたはずです。
 もちろん、文字起こしした講義録そのままでは本になりませんから、どう構成し、どう表現するかという著者としての検討と執筆作業が必要ですが(講義後に生徒から寄せられた感想文も執筆の素材となったと注記されています)、「本書は、出版まで2年余を要している。そのあいだ、彼らとの講義で扱った国際情勢は、残念ながら、悪化の方向に目まぐるしく変化している。彼らとのやり取りの上に加筆させてもらった。」と「まえがき」にあるように、国際情勢の「目まぐるしい変化」が刊行までに時間を要した一
因には違いないでしょう。
 けれど、それだけでしょうか?
 以前のブログで引用した部分とかぶりますが、伊勢﨑さんが、なぜ高校生に対して国際紛争や平和構築についての「特別授業」を行ったのかについて語った「まえがき」の一部をあらためて引用したいと思い
ます。
 
(引用開始)
 僕は国際紛争の現場で、戦闘を止めさせるために、武装勢力の犯罪を反故にしたり(なぜなら罰されるとわかっていて銃を下ろすわけがないから)、アメリカが破壊した国を、アメリカの利益になるように作り替えたり、それが上手くいかないとなると、テロリストと呼ばれた人間たちとの和解を模索したり……。つまり、戦闘がない状態を「平和」、悪いことをした人間を裁くことが「正義」だとしたら、両者が必
ずしも両立しない現実を経験し、いや、そういう現実をつくる当事者としてやってきた。
 僕の経験と知見(そう呼べるとしたら)は、あくまで、彼の地における異邦人としての立ち位置のものである。つまり、国際紛争の当事者たちとは、密接にかかわることがあっても、決定的な壁が存在する。
彼らが被る、生存にかかわる「脅威」を理解できても、共有することはない。
 しかし、2011年の大震災と東京電力福島第一原発事故では、日本人として僕自身が「脅威」を共有する
ことになった。
 「脅威」は、時に人間に、それから逃れるための究極の手段として、戦争を選択させる。
 「平和」と「正義」の関係は一筋縄ではいかなくても、やはり、何の罪もない一般民衆が、自らがつくったのではない原因で命を落とすことは、何とか最小限にとどめたい。でも、その「脅威」の形成に、実
は、罪のない民衆自身も主体的にかかわっているとしたら。
 こんな自問自答が、日本に落ち着き、大学に身を置くようになって以来、日増しに強くなっていった。
僕自身、当事者としての「脅威」の実態を見つめる機会と仲間がほしかった。
(引用終わり)
 
 その「仲間」が、3.11からまだ1年も経っていない県立福島高校2年生となったのは、版元である朝日出版社の元第二編集部長がたまたま同校の出身者であったという偶然によるもののようですが(「あとがき」)、「特別授業」を行うために同校の仮設教室に向かいながら、伊勢﨑さんは、ここで講義をすることが「必然」だという意識も持っていたのではないかと、文章のはしばしから感じます。
 そして、講義終了から出版用原稿の完成までに2年以上の月日を要したのは、18名の県立福島高校2年生(当時)との「スリリング」な(「まえがき」)「セッション」(「あとがき」)を書籍としてまとめるにあたり、「共演者」たちの期待を裏切ってはならないという責任感と、この「特別授業」の書籍化を通じて、これまでの自分の仕事を総括することになるという予感が、伊勢﨑さんにプレッ
シャーとしてのしかかっていたためではないのか?というのが、私の勝手な推測なのです。

 私が刊行後すぐに入手しながら、本書をなかなか読み切れなかったのは、連日のメルマガ(ブログ)の発信で使える時間が制限される中、あだやおろそかに読み飛ばす訳にはいかない、というプレッシャーが、知らず
知らずのうちに私自身にものしかかっていたからでしょう。
 昨日(3月6日)、東京での会議のために和歌山から日帰り出張したのを機に、往復9時間の新幹線・
特急の指定席で過ごす時間をあげてこの本に捧げることにより、ようやく読み上げることができました。

 ここで、同書の章立てをご紹介しておきます(詳細目次も参照してください)。
 
 
講義の前に――日本の平和って、何だろう?
 2回に分けて公開されています(その1その2)。
 
1章 もしもビンラディンが新宿歌舞伎町で殺害されたとしたら
 この章も全編公開されています。
 
2章 戦争はすべて、セキュリタイゼーションで起きる
 伊勢﨑さんの平和構築学研究の中心命題の1つ「セキュリタイゼーション」について語られています。
 「『脅威』の形成に、実は、罪のない民衆自身も主体的にかかわっている」(「まえがき」より)とい
う伊勢﨑さんの認識を理解するためには必須の概念です。
 この問題については、2012年にマガジン9に以下の論考を寄稿されています(その後、伊勢﨑さんが分担執筆した『安倍新政権の論点Ⅰ 「国防軍」私の懸念』(かもがわ出版)にも収録されています)。
 
 
3章 もしも自衛隊が海外で民間人を殺してしまったら
 ここでは、国際社会の「保護する責任」や自衛隊の「海外派遣」などが議論されます。 この論点に関わる伊勢﨑さんの発言は様々なところで行われていますが、以下のものをご紹介しておきます。
 
 
4章 戦争が終わっても
 私が本書で最も興味深く読んでのは、実はこの章なのです。長く続いた「戦争が終わる」ということは、その後の国家・社会の体制をどう構築していくかということに直結せざるを得ませんが、それが必ずしもうまくいかない、いかない中で少しでも良い方向に進めるためにはどうすれば良いのか、ということが
東ティモールスリランカシエラレオネなどを例に検討されていきます。
 そして、これらの事例を学ぶことは、日本の「憲法9条」が、戦争が終わったあとの体制(安倍首相がかつて「戦後レジーム」と言っていたもの)そのものであるということに私たちが気付き、「国際比較」という視点を獲得するために大変役立つものだと思いました。
 
5章 対立を仕切る
 最後の章では、冒頭「今日で最後の講義ですね。最終日の時間を使って、一緒に考えたいことがあったら、どんなことでもいいから話してみてください。そこから今日のテーマを決めていこう。」とあるように、必ずしも1つのテーマに収斂するものではありません。 ここでは、「はたして、9条が掲げる非戦は、近未来にも有効なのか」という問いかけに対する「本当にまずい事態に陥った時、いままでのツケが回ってくる。いざ他の国が攻めてきたとき、どうしようってなっちゃいます」という答えに関連して、「セキュリタイゼーション」についての説明を回想した上で、以下のように伊勢﨑さんが語る言葉が印象的でしたので、引用します(325、326頁)。
 
(引用開始) 
 脅威に対する人間の本能が社会集団として増幅し、このままではだめだと、それまでの国のあり方を変える政治決定が下される。このプロセスを分析する「セキュリタイゼーション」について、2章で話したね。僕たちの針は常にフラフラ振れつづけることを自覚すると、それが大きく振れたときに元に戻そうとする「脱セキュリタイゼーション」(高揚する脅威に冷や水をかけて落ち着かせること)の能力をもてるかどうかが肝だとわかる。 そのためには、まず、知ることかな。将来、敵になるかもしれない相手のこ
とを知っておく。そこの独裁体制がなぜ生まれたか、何が彼らをそうさせるのか。
 知らないことは楽だよね。セキュリタイゼーションが起こったら、何の疑いもなく空気に身をまかせ、みんなで恐怖におののき、その原因とされるものへの怒りに熱狂する。そういうなかで、「ちょっと、どうよ!」みたいなことを言うのって、度胸がいる。KYとか言われたりして(笑)。村八分になるかもし
れない。その意味で、平和は闘いなんだと思う。
(引用終わり)

あとがき
 福島高校での「特別授業」を振り返った部分を引用します。
 
(引用開始)
 大まかな授業のシナリオを用意してはいたが、ジャズでいうアドリブの掛け合いのような進行になっていった。今まで何回も語ってきた僕の経験談のなかに、新たな発見をする場面がいくつも出てきた(結局、僕自身も、人殺しを厭わない正義の民意をつくる「仕掛け人」をやっていた・・・とか)。気がついたときには、こちらが丸裸にされていた。理系、新聞部、音楽をやっている子など、バラエティに富んだ生
徒と僕とのアドリブがグルーヴし、出すものは出し切った感で、この“セッション”は終わった。
(引用終わり)
 
 そして、最後に、本書のやや不思議な書名(後段)『世界の「対立」を仕切る」とはどういうことかについて説明した部分を引用します(「カシミールの双方をつなぐプロジェクト」については、後掲のビデオニュース・ドットコムに出演した動画をご覧ください)
 これが本文419ページにのぼる本書の最後の文章です。
 ここまで読んできた私の最終的な感想は、先にも少し述べたとおり、伊勢﨑さんは、本書を書き上げることによって、今までの「紛争屋」として携わってきた自分の仕事にとりあえずの決着をつけ、さらにそこから一歩を踏み出そうと
しているのではないか、というものでした。
 ご本人にすれば、「そんな大仰なものじゃないよ」と言われるかもしれませんが。
 皆さんにも、是非ご一読をお勧めしたいと思います。
 
(引用開始)
 今、出し切った後の一抹の空虚感に浸っているが、本書の最後に言及した軍事境界線で分断されたカシミールの双方をつなぐプロジェクトは、鋭意、やるつもりである。これは、華やかな外交の舞台にはあら
われることのない地味なものだ。
 「対立を仕切る」とは、「仕切り屋」になることでも、それを養成することでもない。対立が仕切られ
る環境を構成する人づくりにあるのだと思う。
 そういう人づくりとは、教育論なのか。はたまた、その手法の開発なのか。まだ体系化には程遠いが、その答えを出すために、本書が記録したプロセスを、同じ時間をかけて、カシミールの学生たちとグルー
ヴしてみたい。
(引用終わり)
 
(参考映像)
ビデオニュース・ドットコム マル激トーク・オン・ディマンド 2015年8月29日
【5金スペシャル・PART1】伊勢崎賢治氏:カシミールパレスチナ、世界の紛争の根っこにあるもの

ビデオニュース・ドットコム マル激トーク・オン・ディマンド 2015年8月29日
【5金スペシャル・PART2】伊勢崎賢治氏:カシミールパレスチナ、世界の紛争の根っこにあるもの
 
 
(最後の最後の付記)
 本書には、非常に印象的で分かりやすい挿絵が豊富に挿入されていますが、全て伊勢﨑さん本人が描いたものです。そういえば、伊勢﨑さんは、早稲田大学理工学部建築科を卒業しているのですから、デッサン力があるのは当然ですね。
 
(弁護士・金原徹雄のブログから)
2013年4月17日
伊勢﨑賢治さんの最近の論考から
2013年10月25日
伊勢﨑賢治さんが日本人に問う“リスクを引き受ける覚悟”(マガ9の動画)
2014年6月18日
「自衛隊を活かす会」呼びかけ人から学ぶ(3)伊勢﨑賢治二さんが提起する“非戦”のリアリズム

2014年7月30日
補遺「自衛隊を活かす会」シンポジウムから学ぶ(1)「自衛隊の可能性・国際貢献の現場から」~伊勢﨑賢治氏
2014年9月30日
伊勢﨑賢治さんの講演会が和歌山市で開催されます(11/14)
2014年11月11日
若者憲法集会(6/22)での伊勢﨑賢治さんの講演を紹介します~キーワードは「補完」です
2014年11月15日
『日本人は人を殺しに行くのか 戦場からの集団的自衛権入門』(伊勢﨑賢治氏著)を読む
 

(付録)
"Footprints" トランペット:伊勢﨑賢治