wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

テレメンタリー2015『南相馬 四年間の記録~闘う医師の遺言~』を視聴するために求められる複眼的な視点

 今晩(2014年3月9日)配信した「メルマガ金原No.2024」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
テレメンタリー2015『南相馬 四年間の記録~闘う医師の遺言~』を視聴するために求められる複眼的な視点

 今日は、2月28日に配信した「3.11以後の世界を共に生きるために~フクシマ以後を描くTV特番と映画『friends after 3.11』のご紹介」の続編です。
 ご紹介するのは、テレビ朝日系列各局が制作する「テレメンタリー2015」の1本です。
 
朝日放送 2015年3月15日(日)午前5時20分~5時50分
テレビ朝日 2015年3月17日(火)2時21分~2時51分(月曜深夜)
(他の系列局での放映時刻は番組ホームページでご確認ください)
テレメンタリー2015
『“3.11”を忘れない55 南相馬 四年間の記録 ~闘う医師の遺言~』

(番組案内から引用開始)
 東日本大震災後、南相馬市に残り被災地の医療を守り続けた産婦人科医の高橋亨平医師。末期のがんと闘いながらも妊婦宅を除染し、妊婦と子供達を支えてきた。その亨平医師が2013年1月に亡くなった。遺志を継ぎ、内部被ばく検査を続けている坪倉医師。遺言を果たすべく子供達を支え続けている塾講師の番場さん。亨平医師が存命の時からともに南相馬の子供達を守ろうと奮闘してきた。
3人の“先生”の4年間の記録。
制作:福島放送
(引用終わり)
 
 この番組が取り上げる南相馬市高橋亨平医師については、既にいくつかのメディアが取り上げてきましたから、福島県外の人でもご存知の方もおられるかもしれません。例えば、以下のような報道が今でも読めます。
 
NHK ニュースウォッチ9 2012年9月13日
特集 被災地の老医師 命をかけて…

(抜粋引用開始)
震災直後、高橋さんは南相馬市の遺体安置所で、死亡確認の作業にあたりました。
目にしたのは、津波の中で懸命に生きようとしながら命を落としていった人たちでした。
医師 高橋亨平さん
「首から上は何とか必死に浮かぼうとするが、水の中ではガッチガチに材木で腰椎だろうと足だろうと骨折している。
本当に恐ろしい。」
引用終わり)
 
東京新聞 2013年1月24日
南相馬医療に尽力がん闘病74歳 医師・高橋亨平さん死去

(引用開始)
 東京電力福島第一原発事故被災した福島県南相馬市産婦人科医で、自らがん闘病を公表した高橋亨平(たかはし・きょうへい)氏が二十二日、死去した。七十四歳。死因は明らかになっていない。
 第一原発の北約二十五キロにある原町中央産婦人科医院の院長。南相馬市原発事故で広い範囲が避難区域に指定され、医療関係者も多くが避難した中、病院でただ一人の常勤医として勤務。「きょうへい先生」と慕われた。
 二〇一一年の原発事故発生後にがんが見つかり、一二年八月、病院のホームページに「私の体の現状と医師募集のお願い」と題し「いつまで生きられるか分からない。もし、後継者がいてくれればと願ってやみません。私の最後のお願い、どうかよろしくお願いいたします」とメッセージを寄せていた。
(略)
 大腸がんが見つかってからも医療現場にとどまり続けた。妊婦や幼児のいる家の除染手弁当で始め、子どもを守るために奮闘する亨平先生のもとに、人は集まった。
 東大医科学研究所の研究員で、同市立総合病院で診療にあたる坪倉正治医師(31)は「南相馬の精神的支柱だった」と悼む。「最近も『やっぱり痛いんだ』と苦しんでいたけれど、会うたびに地域復興のアイデアを話してくれた。探求心あふれる人柄は変わらなかった」
 地域住民一人一人の内部被ばく量を減らす診療に取り組む坪倉医師は「患者に向き合うことが大切だと学んだ」と惜しんだ。勤務医時代から数えて一万五千人の新生児を取り上げた亨平先生は最晩年、怒りを込めて繰り返した。「子どもと妊婦を大事にしない国に未来はない」(中山洋子)
(引用終わり)
 
日本経済新聞 2013年3月29日
さよなら亨平先生(震災取材ブログ)@福島・南相馬

(抜粋引用開始)
 「余命半年の産婦人科医が診療と除染活動を続けているらしい」。そんなニュースを目にして、先生に初めて会ったのは11年の秋だ。貴重な時間を割いてもらう感謝と申し訳なさで、緊張して病院を訪れたところ、先生は、ぼそぼそとした素朴な口調で話し始めた。復興へのアイデアに満ちていた先生の話は止まらず、次の患者を待たせたまま30分以上が経過。看護師さんの視線を感じながら、診療後の写真撮影の約束を取り付けた。
 手術室などで撮影しながら市の現状を聞いた。先生は振り絞るような声で「子どものいない町に未来はないからね」と語った。当時、地域医療の中核を担う南相馬市立総合病院に、内部被曝(ひばく)線量を計測するWBC(ホールボディーカウンター)の設置を、関係機関への粘り強い交渉の末、ようやく成功させたばかりだった。「これでようやく、継続的に子どもたちを計測できる。お母さんたちにも『安心』を数字で見せることができる」と、その日初めて笑顔を見せた。
(引用終わり)
 
 この他、地元・福島テレビが『生まれ来る子ども達のために 高橋亨平医師』というドキュメンタリー番組を制作しています。
 
 ところで、上記記事の中でも言及されている2012年8月に高橋亨平医師が医院のホームページに掲載したというメッセージは今でも読むことができます。
 
私の体の現状と医師募集のお願い
平成24年8月12日
医療法人誠愛会
原町中央産婦人科医院
理事長 高橋 亨平

(抜粋引用開始)
 外なる敵と戦っている間にも、癌という内部の敵は決して手加減はしてくれなかった。そして又、抗がん剤の副作用に耐えられなく、もう治療はやめようと思い、やめてしまった人もたくさんいると聴いた。確かにその理由も分かった。自分でも、何のためにこんな苦しみに耐える必要があるのかと、ふと思う時がある。しかし、この地域に生まれてくる子供達は、賢く生きるならば絶対に安全であり、危険だと大騒ぎしている馬鹿者どもから守ってやらなければならない。そんな事を思いながら、もう少しと思い、原発巣付近の痛み、出血、の緩和のため、7月25日から、毎日放射線治療を開始、通院している。午前
9時から12時まで自医院の外来診療、その後、直ちに車に乗り1時間20分かけて、福島医科大学放射線治療科へ、そこでリニアック照射を受け、直ちに帰り、3時から再び自医院の外来診療を6時まで、しかし、遅れる事が多かったので、最近は3時から4時に変更した。そんな私の我侭に対しても、患者さん達は何も言わずに、ちゃんと待っていてくれた。それでも、多い日は100人以上、少ない日でも70人は下らない。
 産婦人科医でありながら若き日の信念から、全人的医療(holistic medicine)を目指し、現在に至っている。
 原発事故後、分娩できる施設が無かった南相馬市も、南相馬市立病院の産婦人科、西潤レデイスクリニック等今年の4月から分娩を開始した。
 私の役割は終わったと思ったが、どうしてもという患者さんは断れない。もういいかなとふと頭をよぎる誘惑に、頑張っている20名の職員の笑顔がよぎる。
 こんな医療法人誠愛会から全国のドクターにお願いがしたい。こんな診療所ですが、勤務していただける勇気あるドクターを募集します。分娩は止めて、ももう大丈夫だし、婦人科、内科、消化器科、循環器科、総合診療科、なに科でも結構です。広く学ぼうとする意思と実践があれば充分です。
 癌との闘いながら、頑張ってきたが、あまくは無いなと感じることが多くなってきた。何時まで生かられるか分からない・・神の思し召すままに・・と覚悟は決めていても、苦しみが増すたびに、もし、後継者がいてくれればと願ってやみません。私の最後のお願い、どうか宜しくお願い致します。
※連絡は下記へ、忙しい時間帯は対応出来ない事もあります。
(以下略)
(引用終わり)
 
 高橋医師の「この地域に生まれてくる子供達は、賢く生きるならば絶対に安全であり、危険だと大騒ぎしている馬鹿者どもから守ってやらなければならない。」という信念がどこから来ているのか、何を根拠に「安全」だと断言できるのかという疑念を持たれる方も当然おられることと思います。
 正直、私もこのメッセージを読んで、「読み方次第では非常に危険なメッセージではないか」という印象をぬぐえませんでした。
 また、高橋医師を取り上げたメディアが、その報道によってどのようなメッセージを発信しようとしたのかについては、慎重な吟味が必要でしょう。
 
 しかしながら、好むと好まざるとにかかわらず、南相馬にとどまって出産するという選択をせざるを得ない女性、家族にとって、献身的にサポートしてくれる産婦人科医や助産師の存在は絶対になくてはならないこともまた事実です。
 福島放送が制作した今回の番組を視聴するに際しても、一方的な決めつけではなく、複眼的な視点から考えるという態度が必要なのだと思います。