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朝日新聞が紹介した日本カトリック司教団メッセージ「平和を実現する人は幸い~今こそ武力によらない平和を」(2/25)を読む

 今晩(2015年3月19日)配信した「メルマガ金原No.2034」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
朝日新聞が紹介した日本カトリック司教団メッセージ「平和を実現する人は幸い~今こそ武力によらない平和を」(2/25)を読む

 昨日(3月18日)の朝日新聞(朝刊)の34面(私の読む大阪本社版)に掲載された「カトリック「軍備優先」に危機感 戦後70年 日本の司教団がメッセージ」という記事により、日本カトリック司教団が去る2月25日に戦後70年司教団メッセージを発出していたことを初めて知ったという人も多かったと思います(私もそうでした)。
 その記事は、朝日新聞デジタルでも読めますが、会員登録が必要です(無料会員でも1日3本までは記事が読めます)。
 
 
 朝日新聞の購読者は本紙で、そうでない方は無料会員登録をして朝日新聞デジタルでお読みいただきたいのですが、司教団メッセージを読む際に、朝日の記事のこの部分は心に留めておいた方が良いと思った部分を引用します。
 
ローマ・カトリック教会は法王を頂点とするピラミッド型の組織。司教は司祭(いわゆる神父)の上位の聖職者だ。日本での最高責任者である司教団16人によるメッセージは2月25日付で出された。」
 
「司教団は戦後50年と60年の節目にも平和メッセージを出したが、これほど踏み込んではいない。
 発表後、ツイッターでは〈宗教家は、政治介入をするな!〉〈私からするとサヨク運動家にしか見えま
せんが〉といった書き込みも見られた。
 草稿づくりから携わった東京教区の幸田和生補佐司教は「本当は、具体的な政策についてあまり発言したくない気持ちもあります。しかし私たちは『これはおかしい』とはっきり言わなければいけないと感じたのです」。当初は8月に発表する予定だった。「政治の動きがあまりにも早いので危機感を持ち、できるだけ早めに、と判断しました」」
 
「それぞれの国の課題に関する基本姿勢は、各司教団に任されている。今回のメッセージは「安倍内閣」を名指しこそしていないが、事実上の政権批判だ。司教団はすでに内容を法王庁に伝えており、19日から法王庁へ定期訪問する際に改めて説明するという。」
 
 私がこの記事に注目したのは、政権による憲法無視の暴走に宗教界がどのように反応するのか(しないのか)ということに、かねてから関心を持っていたからということがあるのはもちろんですが、もう1つの理由は、これが朝日に掲載されたからです。
 昨年の凄まじい朝日バッシングの後、目立った政権批判を読めなくなったという「失望」を抱いている朝日の定期購読者は少なくないのではないでしょうか。
 今から振り返れば、昨年8月29日に朝日新聞が掲載した社説「A級戦犯法要 聞きたい首相の歴史観」分水嶺だったように思います。
 私はその社説の鋭い切り込みに感心し、「ここまで気合いの入った朝日の社説を読んだのは久しぶりだ」と感心し、自分が登録しているMLやFacebookで紹介したりしました。
 その直後から燃えさかった「朝日バッシング」の中、私は、以下のようなメルマガ(ブログ)を書きました。
 
 
 私は、「産経・読売以外の全ての新聞・メディアが、官邸による憲法無視の朝日たたきを「自らの問題」と捉えて反撃することを切に希望するとともに、“昭和殉難者”に対する追悼メッセージによってまたしても露わとなった安倍首相の歴史認識を徹底的に追及することを期待したいと思います。」という文章で上記記事を締めくくったのですが、残念ながら、事態は私の希望とは反対の方向に推移したと言わざるを得ません。
 肝心の朝日新聞自体の腰が定まっていないのではないかと、私を含めた多くの読者が懸念しているのではないでしょうか。
 もちろん、朝日ほどの大きな組織となれば、セクションごとに独自の視座を持って記事を書く記者もいれば、全国の支局で読み応えのある記事を書く記者もたくさんいる訳で、全く絶望的ということでもないだろうと思い、私は定期購読を継続しているのです。
 もっとも、和歌山では東京新聞中日新聞)が買えないから、という事情もありますが。
 私が18日の34面(ここは文化欄です)に掲載された「カトリック「軍備優先」に危機感」という記事に注目したのは、局地戦で抵抗を続ける記者の存在を知り、頼もしく思ったということなのです。
 
 それでは、以上の朝日新聞の記事を導きとして、日本カトリック司教団が発表したメッセージを読んでみましょう。相当長いものですが、一部をカットすることもはばかられますので全文引用としました。ただし、注釈は省略していますので、是非リンク先でお読みください。
 
日本司教団公文書 2015年2月25日
戦後70年司教団メッセージ
平和を実現する人は幸い~今こそ武力によらない平和を

(抜粋引用開始)
キリストにおける兄弟姉妹、ならびに平和を願うすべての方々へ
 
 日本カトリック司教団はこれまで、1995年に『平和への決意 戦後五十年にあたって』、また2005年には『「非暴力による平和への道」~今こそ預言者としての役割を』というメッセージを発表してきました。戦後70年を迎える今年、ここに改めて平和への決意を表明することにいたします。
 
1.教会は人間のいのちと尊厳に関する問題に沈黙できない
 カトリック教会にとって今年は、1962年から1965年にかけて行われた第二バチカン公会議の閉幕から50年という記念すべき年にもあたります。二十世紀の前半、ヨーロッパを中心としたキリスト教会は、二つの世界大戦やナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺などを経験しました。これらの悲劇の反省から教会は、いわゆる宗教的な領域に閉じこもるのではなく、人類の問題を自分の問題として受け止めなければならないと自覚するようになりました。第二バチカン公会議の終わりに発表された『現代世界憲章』の冒頭
には、その自覚が次のような文章ではっきりと示されています。
 「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの
心に響かないものは何もない」。
 第二バチカン公会議後のカトリック教会は、フランシスコ現教皇にいたるまで、人間のいのちと尊厳の問題、とくに抑圧された人や排除された人の問題に真剣に、積極的に向き合おうとしています。
 
2.戦争放棄への決意
 1945年までの日本の朝鮮半島などに対する植民地支配、中国や他のアジアの国々に対する侵略行為はアジアの人々に大きな苦しみと犠牲をもたらしました。また、日本人にとっても第二次世界大戦は悲惨な体験でした。1945年3月10日の東京大空襲をはじめ、日本の多くの都市への大規模な空爆がありました。沖縄における地上戦によって日本や外国の兵士だけでなく、多数の民間人が犠牲になりました。そして8月6日広島への原爆投下と8月9日長崎への原爆投下。これらの体験から平和への渇望が生まれ、主権在民戦争放棄基本的人権の尊重を基調とする日本国憲法が公布されました(1946年)。日本はこの平和憲法をも
とに戦後70年、アジアの諸国との信頼・友好関係を築き、発展させたいと願って歩んで来たのです。
 一方、世界のカトリック教会では、東西冷戦、ベルリンの壁崩壊などの時代を背景に、軍拡競争や武力
による紛争解決に対して反対する姿勢を次第に鮮明にしてきました。
 ヨハネ二十三世教皇は回勅『地上の平和』において「原子力の時代において、戦争が侵害された権利回復の手段になるとはまったく考えられません」と述べています。第二バチカン公会議の『現代世界憲章』は、軍拡競争に反対し、軍事力に頼らない平和を強く求めました。1981年、ヨハネ・パウロ二世教皇が広島で語った平和アピールのことば、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死
です」にも、はっきりとした戦争に対する拒否が示されています。
 以上の歴史的経緯を踏まえるならば、わたしたち日本司教団が今、日本国憲法の不戦の理念を支持し、尊重するのは当然のことです。戦争放棄は、キリスト者にとってキリストの福音そのものからの要請であり、宗教者としていのちを尊重する立場からの切なる願いであり、人類全体にとっての手放すことのできない理想なのです。
 
3.日本の教会の平和に対する使命
 日本カトリック司教団は、特別に平和のために働く使命を自覚しています。それは何らかの政治的イデオロギーに基づく姿勢ではありません。わたしたちは政治の問題としてではなく、人間の問題として、平和を訴え続けます。この使命の自覚は、もちろん日本が広島、長崎で核兵器の惨禍を経験したことにもよりますが、それだけではなく戦前・戦中に日本の教会がとった姿勢に対する深い反省から生まれてきたも
のでもあります。
 1986年9月26日、東京で開催されたアジア司教協議会連盟総会のミサにおいて、白柳誠一東京大司教(当時)は次のように述べました。「わたしたち日本の司教は、日本人としても、日本の教会の一員としても、日本が第二次世界大戦中にもたらした悲劇について、神とアジア・太平洋地域の兄弟たちにゆるしを願うものであります。わたしたちは、この戦争に関わったものとして、アジア・太平洋地域の2千万を越える人々の死に責任をもっています。さらに、この地域の人々の生活や文化などの上に今も痛々しい傷を残し
ていることについて深く反省します」。
 これは一個人としてのことばではなく、司教協議会会長として司教団の総意を代表して述べたことばでした。さらに日本司教団は戦後50年と60年にあたっての平和メッセージ(上掲)の中で、戦前・戦中の教会の戦争責任を反省し、その上に立って平和への決意を表明しています。
 
4.歴史認識集団的自衛権行使容認などの問題
 戦後70年をへて、過去の戦争の記憶が遠いものとなるにつれ、日本が行った植民地支配や侵略戦争の中での人道に反する罪の歴史を書き換え、否定しようとする動きが顕著になってきています。そして、それは特定秘密保護法集団的自衛権の行使容認によって事実上、憲法9条を変え、海外で武力行使できるようにする今の政治の流れと連動しています。他方、日本だけでなく、日本の周辺各国の政府の中にもナショナリズム強調の動きがあることにわたしたちは懸念を覚えずにはいられません。周囲の国と国との間に緊張がある中で、自衛権を理由に各国が軍備を増強させるよりも、関係改善のための粘り強い対話と交渉
をすることこそが、この地域の安定のために必要なのです。
 また日本の中でとくに深刻な問題は、沖縄が今なお本土とは比較にならないほど多くの基地を押しつけられているばかりか、そこに沖縄県民の民意をまったく無視して新基地建設が進められているということです。ここに表れている軍備優先・人間無視の姿勢は平和を築こうとする努力とは決して相容れません。
 
5.今の世界情勢の深刻な危機の中で
 今、世界を見渡せば、各地で軍事的な対立やテロの悲劇が繰り返されています。国家間、民族間の対立、宗教の名を借りた紛争が激しくなり、対話を不可能と感じさせるような状況が世界各地に広がっています。その中で数多くの人々、とくに女性や子ども、少数民族宗教的マイノリティーの人々のいのちが脅かされ、実際にいのちが奪われています。世界各地で続くこのような惨状について、フランシスコ教皇は「第三次大戦」という人もいるだろうとの懸念を表明し、過ちを繰り返さないようにといさめました。この世界は、結局のところ、力がものをいう世界なのかと疑わざるをえないような危機的状況に直面しています。人間性を尊重する理性はどこへ行ってしまったのでしょうか。暴力を押さえ込むために新たな暴力
を用いるようなやり方を繰り返していては、人類全体が破滅に向かうだけです。
 世界はグローバル化された企業や金融システムの力に支配されています。その中で格差は広がり続け、貧しい人々が排除されています。人間の経済活動は気候変動や生物多様性の喪失を引き起こすまでになっています。平和の実現のためには、このような状況を変えること、世界の貧困や環境の問題、格差と排除の問題に取り組むことが不可欠です。わたしたち一人ひとりにも地球規模の問題に対する無関心を乗り越え、自分の生活を変えることが求められています。わたしたちにできることは、すべての問題を一気に解決しようとせずに、忍耐をもって平和と相互理解のための地道な努力を積み重ねることです。
 
おわりに
 もう一度、ヨハネ・パウロ二世教皇が広島で語った『平和アピール』のことばを思い起こします。
 「目標は、つねに平和でなければなりません。すべてをさしおいて、平和が追求され、平和が保持されねばなりません。過去の過ち、暴力と破壊とに満ちた過去の過ちを、繰り返してはなりません。険しく困難ではありますが、平和への道を歩もうではありませんか。その道こそが、人間の尊厳を尊厳たらしめるものであり、人間の運命をまっとうさせるものであります。平和への道のみが、平等、正義、隣人愛を遠
くの夢ではなく、現実のものとする道なのです」。
 わたしたちは「平和を実現する人は幸い」(マタイ5・9)というイエス・キリストのことばにも励まされます。戦後70年、第二バチカン公会議閉幕50年にあたり、平和を求め、平和のために働く決意を新たにしましょう。わたしたち日本のカトリック教会は小さな存在ですが、諸教派のキリスト者とともに、諸宗教の信仰者とともに、さらに全世界の平和を願うすべての人とともに、平和を実現するために働き続けることを改めて決意します。
 
2015年2月25日
日本カトリック司教団
(引用終わり) 
 

(付録)
『イマジン』 作詞・作曲:ジョン・レノン 日本語詞・演奏:李政美