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原発賠償関西訴訟(第1回、第2回)を模擬法廷・報告会の動画で振り返る(付・森松明希子原告団代表が陳述した意見)

 今晩(2015年4月11日)配信した「メルマガ金原No.2057」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
原発賠償関西訴訟(第1回、第2回)を模擬法廷・報告会の動画で振り返る(付・森松明希子原告団代表が陳述した意見)

 今年の3月11日、いつものようにFacebookに流れる「友達」からの投稿を流し読みしていると、原発賠償関西訴訟の原告団代表、森松明希子さんの、次のような投稿に目がとまりました。
 
(引用開始)
震災から4年、3.11の今日、
私の避難元の福島県郡山市に住むママ友だちから
「こんにちは。元気ですか?こないだ○○(子どもの名前)が甲状腺検査したら
2センチ膿疱が2個以上見つかりました。」
というメールが届きました。
何て返事をしたらいいのだろう・・・。
あえて今日、3.11のこの日に私にメールをしてきた彼女の気持ちを考えると
適切な返答は私には出来ないけれど、
避難出来ている私も、福島にいる彼女も
まさに一生涯、放射線被曝の「恐怖」から免れる事はないわけで、
本当に理不尽な話だと思うのです。
昨年9月に第1回口頭弁論期日で、
意見陳述の機会を頂きました。
私は意見陳述を通して大阪地裁の裁判長に問いかけましたが、
本当は、全世界の人々に問いかけたいです。
全世界の人々にシェアして欲しいです。
(引用終わり)
 
 「全世界の人々にシェアして欲しい」という森松さんからの要請にもかかわらず、その時「シェア」ボタンを押さなかったのは、いずれ他の関連資料と併せてブログでしっかりと紹介しようと思ったからですが、それから早1か月があっという間に過ぎ去り、来月5月28日(木)午後2時からの原発賠償関西訴訟・第4回口頭弁論期日(私も弁護団の一員として出席予定)も近付いてきてしまいましたので、いくら何でも自らに課した宿題を果たさねばと、今日・土曜日の朝からパソコンに向かい合った次第です。
 
 2013年9月17日・第1次提訴、同年12月18日・第2次提訴、2014年3月7日・第3次提訴、総勢81世帯、225名の原告が国と東京電力を訴えた原発賠償関西訴訟(大阪地方裁判所)は、2014年9月18日から審理に入り(第22民事部)、これまで3回の口頭弁論期日を重ねてきました。
 
第1回口頭弁論 2014年9月18日(木)午後2時
第2回口頭弁論 2014年12月4日(木)午後2時
第3回口頭弁論 2015年3月5日(木)午後2時
 
 第3回期日までに原告・被告双方から提出された主張関連書面(訴状答弁書、準備書面等)は、弁護団(東日本大震災による原発事故被災者支援関西弁護団)ホームページの中の活動報告コーナーに掲載されています。
 
 なお、毎回、傍聴の抽選にはずれた支援者などのために、裁判所近くの会場を借り、裁判と同時刻に、法廷で行われているであろう内容を再現する(原告意見陳述も弁護団員が原告役を務める)模擬法廷、及び同じ会場での裁判終了後の報告会が実施されてきました。
 この内、第1回期日及び第2回期日の模擬法廷及び報告会の模様を撮影した動画がYouTubeにアップされていますので、以下でご紹介します(第1回については既にブログで紹介済みですが、再掲します)。
 そして、第1回口頭弁論期日で行われた原告団代表・森松明希子さんの意見陳述(原稿)については、第1回模擬法廷の動画に続いて全文転載します。
 
2014年9月18日 原発賠償関西訴訟 第1回期日 模擬法廷
 

(第1回口頭弁論期日における原告番号1番(森松明希子氏)意見陳述より引用開始)
1.「20年後のあなたへ」

 ここに一通の手紙があります。
 2013年3月11日、東日本大震災から2年が経過した日、私は、子どもたちに手紙を書きました。
 「20年後のあなたへ」です。
 私の子どもたちが大人になった時に読むことを想定して書きました。
 避難当時は、ゼロ歳だった娘と3歳だった息子に宛てた手紙です。
 
愛する子どもたちへ
(抜粋して朗読)
 生きていてくれてありがとう。
 私の愛するあなたたちが健康で健やかに成長し、今、20代の輝く未来に夢をふくらませている青年になっているとしたら、私は母として、本当に嬉しく思い、ただひたすら安堵の胸をなでおろさずにはいられません。どうか、「生きている」ことの意味を深く考え、
「生かされている」ことに気づき感謝をしてください。
 わたしはあの日、2011年の3月11日をさかいに、「生きる」ということの本当の意味を深く考えるようになりました。あの日を経験して、ただ生きている、それだけで充分だし、ただそれだけで感謝すべきことだと改めて気付かされたのです。
 それまでは、あなたたちふたりが健康で生まれてくれたことを喜びはしたものの、そのことに感謝することを忘れ、もっとこうなってほしいだとかああなってほしいだとか、ただ単純に元気で生きていてくれることがどれだけ素晴らしいことなのかをすっかり見失っていたような気がします。
 わたしたち家族は、同じ屋根の下に住む途を選ばずに、家族が別々に暮らすという選択をしました。
 当時3歳で、物心がついているあなたには相当の精神的ストレスを与えたことでしょう。
生まれて半年も経っていないあなたには、もしかしたら家族のかたちが何なのか、生まれながらにしてわからないままに育っていたのかもしれません。
 家族が不仲でもないのに二軒の家にバラバラに住むというのは変かもしれません。
 でも、一般論を振りかざして家族一緒に住むべきだといういう人がいたとしても、あの震災があった午後2時46分、家族バラバラでそれぞれの生死がわからなくて再会できるまではお互いの死をも覚悟した経験はないのです。その後、食料や飲水をどうやって一家四人分確保し、分けあって生き延びるかという極めてサバイバルな体験をしたわけではないのです。放射性物質が出た水を飲む決断をする状況、それが体に悪いと分かっていても飲むしかなかった経験はないのです。
 私たち夫婦も多分、あの避難所での一ヶ月を家族四人で共に体験し、乗り越えていなければ、これほど長期にわたる母子避難生活を続けることはできなかったかもしれません。
 地震直後にすぐに母子だけで福島から逃げおおせていたなら、あなたたちの父親の仕事への情熱、使命感を理解することなく、一般論や常識に従って、家族は一緒に住むべきだと主張し、そのとおりにしたかもしれません。
 どうか「普通」ということばを簡単に使わないで下さい。
 何が普通なのか、普通はこうだ、とか、普通ならこうする、とか、そういった「普通」には絶対に惑わされないで下さい。

 思慮深く自分の頭で考え、その時の状況を冷静に把握した上で、自分の本当に信じるものに従って、それが「正しい」と判断したのなら、決めたら迷わず、信念を持って進んで下さい。
 前進する中で、もちろん困難な状況に陥ることもあります。そんな時は、助けを求める勇気を持って下さい。助けてくれる人は必ずいます。
 あなたたちと私は、そんな人々に支えられて「今」があるのです。
 だから、必要なときには必要な助けを求めて下さい。助けを求めることは恥ずかしいことではないと思うのです。必要なことを思いつく限りの言葉を駆使して伝える努力をするのです。そうすれば必ず途は開けます。
 そして最後に、「感謝すること」を忘れない人生をこの先もずっと歩んでいって下さい。
それが、あの日、あの時をともに乗り越えた母が、愛する私の子どもたちに今一番伝えたい、たった一つのことなのです。
 
2.この裁判の原告になると決意したこと
 今、なお続く避難生活は、経済的にも精神的にも本当に大変です。でも、何が一番辛いか。「避難する」という行為が、あたりまえのこととして認められていないことです。
 そもそも、自分自身が裁判に出るなんて思ってもいませんでした。「誰か」がやってくれると思っていました。私は幼児を抱えて這々の体で避難してきたのだもの、誰か余裕のある人が声を上げてくれるはず、国の「知らせない、調べない、助けない」という過ちを訴えてくれるはずと思っていました。
 しかし、違うのです。みんな大変な思いをして避難してきた人ばかりなのです。「誰か」は誰でもない避難してきた当事者自身なのです。当事者の声は切実です。想像や憶測ではない現実です。当事者がまず声を上げないといけないと思うに至りました。
 だから私は原告になる決意をしました。
 
3.子どもたちの被害
 わが家は、福島県郡山市にとどまっている医師である夫、大阪に避難している2人の子どもたち、そして私の4人が原告になりました。なぜ、子どもたちまで裁判させるのか。
それは、この事故の一番の被害者は、誰でもない子どもたちだからです。私たち大人が容認した原子力発電所の事故により、健康面でも経済面でも、精神的にも物理的にも、あらゆるしわ寄せが子どもたちにきています。
 私は、抑圧された避難所生活に耐えかねて子どもたちを屋外に出してしまいました。事故直後の最も放射線量が高かった頃、子どもたちを雨風に当ててしまいました。いやがる子どもたちにマスクを強要することはできませんでした。放射能汚染状況を知らされないまま不用意に子どもたちを被曝させてしまったのです
 知らなかった、いえ、知らされなかったとはいえ、私は一生の不覚だと思っています。
 悔やんでも悔やみきれるものではありません。
 もしかしたら、子どもたちに健康被害がでるかもしれない、いえ、もう出ているかもしれないという不安と恐怖です。私が生きている限り、将来にわたって向き合っていかなければならない不安と恐怖があります。
 事故から2ヶ月経ってようやく関西に母子避難できました。低線量被曝から子どもたちを守るためです。しかし、医師である夫は、患者を放置することはできず福島に留まりました。子どもたちは父母の意思に反して父親から分離されています。束の間の父と子の面会も、会った瞬間から別れの時までのカウントダウンが始まります。避難してきた時、息子は3歳でした。大好きな父親と引き離されてどれほど精神的ダメージを受けるのか気を揉んだのですが、別れ際は「バイバイ、また来てね」と意外と明るく乗り越えていました。
しかし、震災から2年を向かえる3月10日の日曜日、家族全員で過ごした夜、いつもの別れの時間がやってきました。5歳になっていた息子は、その夜初めて、父親との別れ際に号泣しました。
 母子避難は、子どもの命を守るための苦渋の選択です。「避難をしたからもう終わり」ではなく、毎日が「避難を続ける」という決断の連続なのです。
 2013年7月、避難してきて丸2年が経ちました。私の子どもたちにも、ようやく福島県民健康調査として甲状腺のエコー検査を受ける順番が回ってきました。私たちは、最も線量が高かった時期に何も知らずに福島にとどまっていました。大丈夫かどうか、異常が出やしないか、検査を受けること自体相当の覚悟がいります。一刻も早く結果は知りたい、いや知って受け止めることは恐ろしい・・・そんな気持ちです。約1ヶ月後に検査結果が届きました。私は怖くて、一人では検査通知を開封することはできませんでした。夫の来阪日まで、ずっと開けられずにいたのです。結果は、息子はA1、娘はA2の判定でした。
 A2というのは、5ミリ以下の結節が1個見つかったということでした。説明には「結節は現在の状態から判断して。すぐに変化するものではないと考えます。時間の経過とともに、少しずつ大きさや数が変わることがありますので、次回の検査も必ず受診してください」とだけありました。次の検査は2年後といいます。
 私は、2年待たずに、2014年3月に、大阪の医療機関で、甲状腺のエコー検査を受けさせました。結果、8ヶ月前にA1だった息子にも5ミリ以下の結節が発見され、A2ということになりました。
 A2くらいは普通だよと言われても、A1でなければ不安は頭をよぎるし、今A2でも半年後は分からない、その不安と一生闘い続けていかなければなりません。
 憲法の前文には「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」と書かれています。私は、3.11以降、放射線被曝の恐怖から免かれ、平和のうちに生存していると思えたことは一度もありません。
 あの日福島の空気を吸い、福島の水を飲んだ私が背負う十字架はあまりに重いのです。
 
4.この裁判で訴えたいこと
 大阪市内の中学校で全校生徒に、避難体験をお話しする機会をいただきました。私は、震災当日のことから、福島での生活の様子、放射能汚染による健康被害から身を守るための行動、その最たるものが家族バラバラにはなるけど「母子避難」という選択であったことなどを、できる限り具体的に、包み隠さずお話ししました。全校生徒300人から感想文を送ってもらいました。ほとんどの生徒が、私の話を自分に置き換えて聞いてくれていたことがよくわかりました。
 「もし自分だったら・・・・」「自分には同じ年の弟がいるけど、今なおお父さんと離れて暮らすなんてあまりに辛すぎる」「自分にも小学生の頃、父親の仕事の都合で離れて暮らした時期があるけれども・・・」「中学生の自分でもだんだん暑くなっていく時期に長袖長ズボンは耐えられない、ましてやマスクだなんて」「放射能から身を守るために、自分が親だったら同じことができるだろうか・・・・」。私の子どもは幼すぎて自分の気持ちや我慢を言葉では上手く表現できませんが、中学生の皆さんが、わが子の立場に立ってその気持ちを伝えてくれました。また、今なお被曝にさらされている福島にとどまる子を案じ、私のこどもたちの健康を心の底から心配する言葉が、そこには綴られていました。
あたりまえの暮らしがどれほど大切かを感じ取ってくれていたのです。
 そのときに思いました。低線量被曝から健康を守るために避難するという選択は、中学生でも子どもでも分かる単純なことなのかもしれない、中学生でも分かる話なんだもの、裁判官が分からないはずはない、と。
 私の子どもだけでなく、この子たちの未来も奪ってはいけません。そのためにもきちんと声を上げて、ひとたび原子力発電所が事故を起こしたら、人々の日常が奪われること、深刻な健康被害のおそれと一生涯向き合っていかなければならないという事実を、世の中にきちんと伝える使命があると思っています。
 
 裁判では、「知らせない、調べない、そして助けない」ということがどれほど人権を蹂躙していることなのかをきちんと判断してもらいたいと思います。
 その思いを胸に、私はこの裁判に臨みます。
 裁判長、人の命や健康よりも大切にされなければならないものはあるのでしょうか?私は、放射線被曝から免れ、命を守る行為が原則であると考えます。
 私からは以上です。
(引用終わり)
 
2014年9月18日 原発賠償関西訴訟 第1回期日 報告集会
 

2014年12月5日 原発賠償関西訴訟 第2回期日 模擬法廷

 
 この第2回期日の模擬法廷では、特に12分~を是非視聴していただきたいと思います。ここは、原告「準備書面3-被害実態について-」を陳述した部分なのですが、とりわけ第1次訴訟原告番号10-1の女性が自らの体験(記載した準備書面)を陳述する部分が心を打ちます(私は法廷で直接ご本人の陳述を聞いていました)。なお、避難していた実家のある町で配布された安定ヨウ素剤を、住民票がないばかりに1歳の息子のために入手することができなかった母親の痛恨の思いについては、私もブログで何度か取り上げています(避難ママのお茶べり会編『20年後のあなたへ』手記2参照)。
 また、「準備書面3-被害実態について-」も是非お読みください。
 
2014年12月5日 原発賠償関西訴訟 第2回期日 報告集会
 

 3月5日の第3回期日では、被告東電及び国が準備書面を陳述しました。
 弁護団が開いた模擬法廷や報告会の動画(多分撮影されていると思うのですが)はまだ公開されていませんが、見られるようになり次第、ご紹介したいと思います。
 是非、引き続きご注目ください。
 
(弁護士・金原徹雄のブログから)
2013年1月6日(同月13日に再配信)
三春町の4日間(安定ヨウ素剤配布・自治体の決断) 前編
2013年1月6日(同月13日に再配信)
三春町の4日間(安定ヨウ素剤配布・自治体の決断) 後編
2013年8月31日
『20年後のあなたへ-東日本大震災避難ママ体験手記集-』を読んで
2014年4月30日
もう一度「安定ヨウ素剤の予防服用」を考える
2014年12月18日
「知ること」は「行うこと」~『20年後のあなたへ~東日本大震災避難ママ体験手記集~』をあらためてお薦めします
2013年12月21日
森松明希子さんが語る原発避難者の思い(12/19大阪市立大学にて)
2014年2月8日
母子避難者の思いを通して考える「いのち」(「母と女性教職員の会」に参加して)
2014年9月12日
原発賠償関西訴訟と森松明希子さん『母子避難、福島から大阪へ』
2014年10月15日
原発賠償関西訴訟の第1回口頭弁論を模擬法廷で追体験する
2014年11月29日
東日本大震災避難者の会「Thanks & Dream」(略称「サンドリ」)の活動に期待します