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「哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義」(國分功一郎氏&木村草太氏)を読む

 今晩(2015年5月25日)配信した「メルマガ金原No.2101」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
「哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義」(國分功一郎氏&木村草太氏)を読む

 気鋭の憲法学者首都大学東京准教授(憲法学)の木村草太さんは、過去何度かこのメルマガ(ブログ)で取り上げたことのある、私にとって、いつも気になる憲法研究者の1人なのです。
 特に、木村さんによる昨年7月1日の閣議決定についての解釈は、「どうも納得できないな」と私が考えていることは、末尾に掲載した私の過去の文章の表題からもお分かりいただけるかと思います。
 それにもかかわらず、私が木村准教授の意見をフォローしているのは、納得できない部分はあるにせよ、そういう部分を含めて、フェアな議論が成り立つように論理的に筋を通した立論をされていると感じるからです。つまり、木村さんの意見を読む(聴く)者をして、「ここは賛同できるが、こちらはこういう理由で賛成できない」という明確な自らの意見を自然に持てるような、そういう懐の深さがあるのではないか、ということなのですが、あまりうまい説明ではないかもしれませんね。
 
 それはさておき、その木村草太さんが、國分功一郎さん(高崎経済大学准教授・哲学)とともに、2014年8月31日、東京・国立市公民館で開かれた「『図書室のつどい』 哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義」という興味深い催しで話された内容が文字起こしされ、朝日新聞のRONZAで(このコンテンツは)無料公開されていることに気がつきました。
 9か月も前の講演と対談ですし、戦争法案(政府は「平和安全法制整備法」及び「国際平和支援法」と呼称)がまさに国会に上程された現在、民主主義と立憲主義を「哲学と憲法学」で読み解こうというお話に耳を傾けるというのは、いささか迂遠ではないかという気がしないでもありません。
 しかし、目を通してみれば、非常に重要なテーマについての示唆に富む見解が、公民館での講座ということで、分かりやすく話されており、これは多くの人に読んでいただく価値があると思い、ご紹介することにしたものです。
 ちなみに、私はこの講演録と対談を熟読するのに1時間半かかりました。普通に読めば1時間内外というところでしょうか。ご一読をお勧めします。
 
WEB RONZA
國分功一郎【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――7・1「閣議決定」と集団的自衛権をどう順序立てて考えるか
(抜粋引用開始)
 哲学というのは論理によって概念を扱う学問です。論理的に様々な概念を論じ、それを巡る議論を整理するのです。ならば、この「解釈改憲」と呼ばれている事件についても、同じことをしていけばいいので
はないだろうか。つまり、概念を使いながら、論理的に議論を整理していく。
 議論を整理していく時に重要なのは、どういう順序で現状を見ていくべきかということです。順序、こ
れがとても大切になります。僕は僕なりの順序を今日皆さんにご紹介したいと思います。
 順序が大切というのはどういうことかと言いますと、別に揶揄(やゆ)するつもりはありませんけれども、この話題になるとしばしば、「戦争反対」とか「戦争が起きる」という言い回しがまず最初に出てく
るんですね。
 そういう言い回しがリアルな感触をもって世の中で語られているという事態は軽視できないことです。しかし、現状を分析し、議論を整理し、順序立てて考えていくためには、多分そこから入るのはよくないだろうというのが僕の考えなのです。だからどういう順序で物事を整理すべきかを考えます。これが一つ
めの課題です。
 もう一つの課題は、この件に関して何度も取り上げられている「民主主義」や「立憲主義」という言葉、あるいは難しく言うと「概念」ですね、これを或る程度定義して、それにまつわる問題を僕なりに皆さ
んに提起することです。この二つの課題を試みたいと思います。
(引用終わり)
 
國分功一郎【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(2)】――解釈改憲に向かう憎悪とロジック
(抜粋引用開始)
 まとめるとこうなります。安全保障のことが問題だと言いながらも、安全保障のことはないがしろにされている。集団的自衛権が必要だと言いながら、出てきたものは集団的自衛権なのだかよく分からないも
のになっている。結局何がしたいのでしょうか。筋が通っていない。
 しかし、ある観点からみると筋が通っているんです。どういうことかというと、ここにあるのは「とにかく改憲したい、改憲してみたい、改憲できないならせめて解釈だけでも変えたい」という欲望だということです。つまり、安全保障上の問題があるから改憲の話が出てきたのではない。改憲したいから、世論
が反対しにくい安全保障の話題が使われたんです。
(略)
 もちろん、こう考えるほかありません。すなわち、彼らは戦後の憲法体制、あるいは今の憲法そのものに対する憎悪のようなものを抱いているということです。「戦後の憲法体制がとにかくイヤだ、だから変えたいんだ、とにかく変えたいんだ、何のためにとかじゃなくて、とにかく変えたいんだ」ということで
す。
(略)
 ここで、もう一つの視点の方に移りましょう。
 ここでは、先の場合とは異なり、本当に集団的自衛権が欲しい人たちのロジックが問題になります。政治というのは決して一つの傾向、一つの欲望で動くものではありません。今回の「解釈改憲」のきっかけを作ったのは、先に説明した欲望です。けれども、そうやって流れが作られると、そこにいろいろな人が相乗りしてくるわけですね。この場合だと、本当に集団的自衛権が欲しいと思っている勢力が、これはチ
ャンスだと考えはじめた。
(引用終わり)
 
國分功一郎【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(3)】――民主主義と立憲主義はどういう関係にあるのか?
(抜粋引用開始)
 さて、こう考えていくと、立憲主義と民主主義というのは、なんとなくボンヤリと重ねられて「大切な
ものだ」「守るべきものだ」と思われているわけですが、そこにはある種の対立があることになります。
 両者は別に矛盾しているわけではありませんが、しかし確かに異なった方向性を持っている。したがって、「立憲民主主義」というのは近代が見出した大切な仕組みですけれども、そこには難しい問題が内蔵されています。立憲主義と民主主義はいったいどういう関係にあるのかという問題です。これはとても解
決されたとは言えない問題です。
 この問題にどう答えるにせよ、立憲主義そのものの重要性は揺るがないでしょう。ところが、「私が最高責任者」発言のように、政治家が非常に素朴な発想で立憲主義を蔑ろにするようなことをし始めている
ので、これが現実の政治に関して問われるようになってきたわけです。
(略)
 さて、ここからは今日の話のエピローグになるんですが、最近、僕はこの件について考えながら戦前のドイツに強い関心をもつようになったんです。1918年から33年までのワイマール期、そして33年にナチスの独裁体制が確立され45年の壊滅まで向かう、この激動のドイツですね。第一次大戦で負け、なし崩し的であったが革命が起こる。共和国は非常に先進的と呼ばれる「ワイマール憲法」を作ったが、
結局その中から、たった14年でナチス体制が生まれてきた。
 この二つの時期っていうのは、現代日本のことを考える上で非常に参考になると思うんです。それには
いろいろな理由がありますけれども、一つはワイマール憲法のことです。
 この憲法の特徴は大統領に非常に大きな権限を挙げているところです。ドイツ国民はまだ議会制民主主義になれていない、だから、大統領に強大な権限を与えておかないと政治がうまく機能しないだろうとい
う考えからそうした憲法が作られました。
 つまり、非常に先進的と言われた憲法ですけれども、その中心部分には民衆に対する不信があった。大統領の権限で最も有名なのが48条の規定する緊急令というものです。ナチスはこれを悪用しましたけれ
ども、それ以前から、これがどんどん活用されていた。
 議会がうまく機能しないものだから、緊急令で法律を制定するということが繰り返されていたのです。議会自身が授権法という形で閣僚などに権限を委譲することも日常茶飯事でした。つまり、ワイマール期は早い段階から、議会で話し合って立法するという過程が蔑ろにされていた。それが、事実上、ナチス
裁を準備していく。
 ナチスの独裁というと、おどろおどろしい怪物のような独裁者が社会を支配しているというイメージを抱くと思うんですが、それでは事態を見誤ります。というのも、あの独裁とは何だったかというと、具体
的には、内閣、すなわち行政が正式な立法機関になるということだったからです。
 1933年1月にヒトラーが首相に就任しますが、その直後にナチスは全権委任法という法律を通します。これをもってナチス体制が確立されたと一般に言われますが、この法律はどういうものだったかというと、内閣に正式な立法権を与える法律だった。行政が正式に法律というルールを決められるようになっ
たのです。
 これは独裁が確立された決定的な瞬間でしたが、しかし、先ほど述べたように、議会が立法権を行使せず、大統領や閣僚に権限を委譲してしまうということはワイマール期に繰り返されてきたことでした。その意味で、議会が立法権という権限を保持することに一生懸命でなかったことが、こうした法律を招き寄
せる遠因だった。
 僕は何でもナチスになぞらえるというのはイヤなんですが、やはりどうしても気になってしまう。今回は内閣が「解釈改憲」という形でルールを勝手に決めた、勝手に変えたわけですよね。ナチスの経験から得られる重要な教訓というのは、行政が立法できるようになることほど恐ろしいことはない、つまり、行
政自身がルールを決められるようになることほど恐ろしいことはないということなんです。
(引用終わり)
 
國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。哲学者。高崎経済大学准教授。早稲田大学政治経済学部卒業。2006年、東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻博士課程単位取得満期退学。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『来るべき民主主義――小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)など。
 

木村草太【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――「多矛盾系」としての集団的自衛権
(抜粋引用開始)
 9条をどう理解すべきか、憲法学説はいろいろ分かれているのですが、A説というのは非常にシンプルに、1項で全ての戦争が放棄されているから、日本政府が外国に対して武力行使することは全て違憲だと
いう説です。
 B説は、1項は国際紛争を解決するための戦争を、限定的に、ある種の戦争だけを放棄している。けれ
ども、2項で戦力は持てないので、結局武力行使は全面的に禁止されるという説です。
 どちらにしても結論は、武力行使の全面禁止です。だから、どちらをとるかということはあまり実益のある議論ではありません。けれども、どちらが、よりエレガントな説明ができるかを競うのが法律学者で
す。世間的にはどちらでもいい話ですが、学界では長く議論されてきました。
 ここでは、どちらの立場を採ろうと武力行使は全面禁止であるというところが重要です。全面的に武力行使が禁止されているので、海外で武力行使をする場合には、その例外を正当化する根拠を、憲法のどこ
かから見つけてこないといけません。
 例えば、刑法199条で日本の法のもとでは人を殺すという行為は禁じられています。けれども、正当防衛という例外を認める規定があって、この場合には、やむを得ないから、違法性を阻却し無罪にする、
というルールになっています。
 法律の世界では、こういうふうに、全面禁止をまず一般的に置いた上で、例外を許容する規定があれば
そこの部分だけは認めるということもあるわけです。
 ですから、9条で武力行使を全面禁止するまではいいのですが、それだけでは結論が出ない。例外を許容する積極的な根拠が条文のどこかにあるのかを探す必要がある。これが9条と武力行使に関する、憲法
解釈の基本的な構造になります。
 私の例え話は、かえってわかりにくいとよく言われるのですが(笑)、好きなのであえて言っておきますと、要するに、憲法9条という隕石によって恐竜が全部消滅している、だから、恐竜がいるという主張
をする側に立証責任がある、という状況です。
 恐竜は全部絶滅していて例外は無い、つまり、全ての武力行使は許されない、自衛隊違憲だ、という解釈をする先生もたくさんいらっしゃいます。確かに、憲法を読んでいても、「こういう時は武力行使
やっていいですよ」とはっきり言っている条文は見当たりません。
 ただ、政府はそういう解釈は採ってきませんでした。「個別的自衛権」という恐竜だけは生き残っていると理解しています。つまり、これまでの政府解釈は、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び
幸福追求の権利が根底から覆される事態であれば実力行使が許される、というものです。
 こうした解釈の根拠、つまり例外を許容する積極的根拠がどこにあるのかといえば、憲法の前文と憲法13条という事になっています。具体的には、前文で「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と書かれています。また、13条には、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とす
る」と書かれています。
 こうした条文からすると、日本国民の平和な生活のために、日本国内の領域の安全を確保する責任が日本政府にあるので、その安全確保のために、必要最小限度のやむを得ない武力行使であれば許されるのではないかという説明です。そのための実力行使であれば2項にも違反しないのではないか、という基準で
これまでやってきました。
 我が国に対する武力攻撃は、当然、我が国の存立を脅かす事態です。したがって、我が国の存立を守る
ための武力行使は許容される。こういうふうに政府は長らく解釈をしてきたわけです。
 こういうふうに、まず日本国憲法の解釈として、「我が国に対する武力攻撃を排除するための武力行使」は許される、ということが導かれます。それを前提に、この武力行使は、国際法上の解釈としては、個
別的自衛権の行使は許容される、という話が続くことになります。
(引用終わり)
 
木村草太【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(2)】――憲法73条から集団的自衛権を考える
(抜粋引用開始)
 では、最近議論されている集団的自衛権、つまり、自国への武力攻撃が無いにもかかわらず、他国が武力攻撃を受けたことを理由に武力行使する権利についても、考えてみましょう。集団的自衛権は、国際法
上は認められています。国連憲章51条に、きちんと権利として書かれています。
 問題は、日本国憲法の解釈として、他国を守るための武力行使を根拠付けるような条文があるか、ということです。集団的自衛権の可否というのは、憲法9条の問題というよりは、9条以外の条文のどこかか
ら積極的な根拠を見つけてくることができないか、という問題になります。
 結論から言うと、日本国憲法上は、今話題になっている外国の防衛を手伝う作用、他国防衛を基礎付けるような根拠はないと言われています。条文全体を探しても根拠がありません。「無いこと」の証明は、一般にはとても難しいわけですが、集団的自衛権については、案外、それが「無いこと」の決定的な証拠
があるんです。
 それは憲法73条です。この条文をちょっと見てください。9条を読んだことがある人はたくさんいると思いますが、73条を真面目に読んだことがあるという人はあまりいないと思います。
 
第73条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
1 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
2 外交関係を処理すること。
3 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
4 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
5 予算を作成して国会に提出すること。
6 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の
委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
7 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。
 
 これは非常にマニアックな条文で、憲法学者でも1年のうちにそんなに見ることはないものです。
 内閣というのは行政権を担っていますが、「内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ」と書い
てあります。要するに内閣がやる仕事はこの範囲でやりますよ、と内閣の仕事を列挙した条文です。
(略)
 日本国憲法を見ていくと、実はこの第73条に軍事の規定がないんです。内閣の権限規定はここにしかないので、73条の1~7号に掲げられていない限り、その活動はできません。しかし、そこに軍事に関する記述がない。したがって、日本国憲法は軍事活動をしないことが前提になっている、そういう憲法
のです。
 当たり前ですが、軍事活動を想定している国は大抵、軍事のための条項を設けています。大日本帝国憲法でも、非常にいびつな形ではありましたが、軍事権、つまり統帥権天皇の大権ですよと憲法に書いてありました。これと対比して日本国憲法を読むと、その73条に列挙されていないということは、軍事権限を消去しているということです。したがって、内閣は軍事権の行使として説明できるような活動はしな
いということになります。
 自国内の安全を確保するための、個別的自衛権の行使として説明できるような武力行使は、もちろん疑義もありますが、消防活動や警察活動の延長にあって、行政権の一種ということになるでしょう。国内の犯罪者が、放火や殺人をしたら警察が捕まえるのに、それを外国政府がやったら、何も対抗手段が無い、
というのは不自然です。
 しかし、日本国内の安全ではなく、外国のために、日本国外で武力行使を本格的にやるということになると、これは行政権の延長としては理解できません。軍事権ということになります。軍事権を行使できるのだとすれば、当然、憲法典に書かれていなければならない。けれども、どこにも書いていない。
 ですから、今すぐ集団的自衛権を行使できるようにしなければならない、と言っている人を見ると、「やりたいのは分かったけど、73条のどこの事務なの?」と聞きたくなります。しかし、これは、やりたいとおっしゃっている方の大抵は答えられません。
 「一般行政事務」ではないですね。一般行政事務というと、市役所に行って住民票を出してもらうみた
いなことをイメージしますので、外国を空爆するのとは大分違います。
 「国務を総理」も違いますね。「外交関係を処理」は先ほど言ったように、外交というのは相手国の主権を尊重してこその作用ですから、まさか武力行使がこれに含まれるというわけにいかない。ということ
で、本文、1号、2号、3号まで簡単に潰れます。
 残るのは4、5、6、7号ですが、4、5、6号は、もっと望みがなくて(笑)、官吏に関する事務を掌理する――ことではないですね、予算の作成、これも違う。政令の制定、これも違いますね。ということで残ったのは大赦、特赦、減刑、刑の執行、これが集団的自衛権と関係しているなんて言ったら、何を
考えているんだということになります。ですから、結局はできないですね、ということになるわけです。
 普通は、「書いてないということはやらないということなのだな」と解釈します。集団的自衛権の行使
は、どう解釈しても無理だろうというのが、一般的な解釈です。
 今、初めてこの話を聞かれると、何だ、そんなことかと思われるかもしれませんが、集団的自衛権の解釈では憲法9条ばかりに注目が集まっていて、9条だけで考えると実はわからないというところが大切な
んですね。
 9条だけを見ていると、自衛隊が許されるなら、個別的自衛権が許されるなら、集団的自衛権だって認められるはずじゃないか、そういう安直な議論になってしまいがちです。しかし、個別的自衛権集団的自衛権は、たとえ国際法上は並べて議論されているとしても、日本国憲法上は、まったく話が違うんです
ね。
 憲法9条はもちろん重要ですが、9条を前提に、その例外を許す特別な根拠規定があるかと探してみると、集団的自衛権を基礎付けるようなものそれはどこにもないし、73条を見ると、明確にないと言って
いるわけです。
(引用終わり)
 
木村草太【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(3)】――ネッシーは本当にいるのか?
(抜粋引用開始)
 閣議決定の内容は非常に簡単な話です。
 「我が国の存立が脅かされる事態であれば、実力行使が許される」。これが従来の政府解釈でした。今
回の閣議決定を文書として読んでみると、他国への武力攻撃によって日本の存立が脅かされる事態が生じ
た場合には、それは我が国の存立を脅かす事態ですから、武力行使ができます、としたわけです。
 そして、ここにいう「我が国の存立が脅かされる事態」というのは、これまでの文脈だと、要するに、我が国への武力攻撃という意味です。今回の閣議決定は、「他国への武力攻撃によって、我が国への武力
攻撃が発生した場合には、それに対し武力行使ができる」といっています。
 これは、どういうことかというと、個別的自衛権の行使としても説明できる場合には、集団的自衛権の行使をしてもよいのではないか、個別的自衛権集団的自衛権のどちらでも説明できるときには、集団的自衛権の行使と説明することはできるのではないかと言っている。文章自体はそういう内容になっています。ですから、國分先生のおっしゃっていたとおり、これまでの憲法解釈を変更するものでないといえば
、文章自体は、実は変更していないことになっているわけです。
(略)
 では、自民党はどうか。「日曜討論」(NHK)に出させていただいた際、小野寺防衛大臣(当時)に直接、「今回の閣議決定は、個別的自衛権と重なる範囲で、集団的自衛権の行使を認めたものということ
になっていますが、アメリカ政府にもそれは、きちんと伝わっていますか」と質問をしました。
 すると、「はい、限定的なものであるというふうに伝えております」というふうにお答えになった。こ
れは公共の電波に乗ったことですから、言質がとられています。
 ご本人が、どれぐらい発言の意味を意識されていたかどうかはわかりませんが、少なくとも、現役の防衛大臣も、集団的自衛権の行使に、非常に強い限定をかけた閣議決定であるということを認めたわけです
。私は、この発言をいつでも取り出せるように録画しております(笑)。
 このときは、もう自分が決勝点のゴールを挙げたつもりで帰ってきたんですが、あんまり反応がありま
せんでした。
(略)
 ただ、だからといって安心できる状況にはないというのは、國分先生がおっしゃったとおりです。閣議決定の文章自体はこうなっているわけですが、安倍首相やその周辺の発言を聞いていると、もっと踏み込
んだことを当然やるつもりのようですし、今回の閣議決定でできるようになったと思っているらしい。
 つまり、憲法も、自分たちで決めた閣議決定の範囲も、それを自分たちで決めたことすらも破ってしま
うかもしれない、そういう状況にあるのです。
(引用終わり)
 
木村草太【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(4)】――二つの憲法の対立
(抜粋引用開始)
 最近の政治状況を見ていると、「他者の視点」を経由することを回避しようという姿勢があちこちにみえているのが、大きな懸念材料です。2013年は、96条を改正して、国会議員の過半数で憲法改正
発議が出来るようにしようとしました。これは、少数派の意見を無視しようという態度です。
 また、先ほどの北岡先生をはじめとした安保法制懇のメンバーは、集団的自衛権をぜひとも行使しよう、という考えで一致した人ばかりです。さらに、内閣法制局長官の人事でも、これまでは法制局勤務の長い方が長官に就任していたのですが、安倍首相は、集団的自衛権について積極的な立場である小松氏を、
自身の判断で異例の抜擢をしたりしました。
 こうした、自分と異なる意見の人を排除してことを進めようという態度は、とても危険です。政策論的には、集団的自衛権を行使できる国というのも、十分にあり得ることです。立憲主義・民主主義の先進国とされているフランスやドイツでも、集団的自衛権を行使しています。しかし、他者を排除する態度とい
うのは、立憲主義にも民主主義にも反します。
 集団的自衛権、外国の自衛を手伝いにいくこと自体にはいろいろ議論があっていいでしょう。外国の人でも困っている人は助けなくてはいけないというのは一つの考え方です。しかし、それをやるにしても、
その検討のために必要な他者の視点というのを置けるのかどうか。そこが今、問われていると思います。
(引用終わり)
 
木村草太(きむら・そうた) 首都大学東京准教授(憲法学
1980年生まれ。東京大学法学部卒業後、同大学助手を経て、首都大学東京准教授。専門は憲法学。著書に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)、『憲法の急所』(羽鳥書店)、『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)、『憲法の創造力』(NHK新書)、『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)、共著に『未完の憲法』(潮出版社)など。趣味は音楽鑑賞と将棋観戦。棋譜並べの際には、菱湖書・竹風作の彫埋駒を使用。
 
 
 

(付記)
 なお、木村さんも國分さんもともに呼びかけ人となっている「立憲デモクラシーの会」が、来る6月6日に「立憲主義の危機」と題したシンポジウムを開催すると告知されています。
 多くの司法試験受験生がお世話になったはずの憲法学の泰斗・佐藤幸治先生(京都大学名誉教授)が基調講演とパネルディスカッションに登壇されます。是非注目したいと思います。
(引用開始)
シンポジウムのご案内 「立憲主義の危機」
 下記のように本会主催のシンポジウムを開催します。ぜひご来場ください(会費無料、事前予約不要)。
日時 2015年6月6日 午後6時~8時30分(開場午後5 時30分)
会場 東京大学(本郷)法文1号館 25番教室
開会の辞 山口二郎(共同代表・法政大学教授)
基調講演 佐藤幸治日本学士院会員・京都大学名誉教授)
「世界史の中の日本国憲法立憲主義の史的展開をふまえて」
パネルディスカッション「憲法は何をまもるのか」
佐藤幸治
樋口陽一(共同代表・日本学士院会員・東京大学名誉教授)
石川健治東京大学教授)
司会 杉田敦(法政大学教授)
閉会の辞
(引用終わり)