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憲法解釈変更の限界と「憲法が想定する人間像」~岡田健一郎高知大学人文学部准教授による衆議院憲法審査会・高知地方公聴会での意見陳述

 今晩(2015年7月27日)配信した「メルマガ金原No.2164」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
憲法解釈変更の限界と「憲法が想定する人間像」~岡田健一郎高知大学人文学部准教授による衆議院憲法審査会・高知地方公聴会での意見陳述

 去る6月15日、高知市において、衆議院憲法審査会による地方公聴会が開かれました。同審査会では、これに先立つ6月4日参考人として招かれた3人の憲法学者長谷部恭男早稲田大学法学学術院教授、小林節慶應義塾大学名誉教授・弁護士、笹田栄司早稲田大学政治経済学術院教授)全員が、国会で審議中の安保関連法案を憲法違反と断じたことが大きな波紋を呼び、その1週間後の6月11日の審査会は、特に高村正彦自民党副総裁をはじめとする与党委員から見苦しい学者への批判が展開されたことは記憶に新しいところです。
 偶然にも、そのような経緯の直後であったため、高知地府公聴会は、否が応でも注目を集めざるを得ない状況の中での開催となりました。
 
毎日新聞 2015年6月16日
安保法制:陳述6人中5人が「憲法軽視」批判 高知で公聴会

(抜粋引用開始)
 
戦後の安全保障政策を根底から変える安保関連法案の衆院審議が続く中、憲法について広く市民に意見を聞く衆院憲法審査会(保岡興治会長)の地方公聴会が15日高知市であった。意見陳述人6人のうち、尾崎正直高知県知事を除く5人が、同法案を「憲法規範の軽視」「解釈で許される範囲を超えている」などと批判した。
 同審査会では4日の参考人質疑でも憲法学者3人全員が法案を憲法違反だと指摘。研究者だけでなく市民からも厳しい批判の声が上がっている。
 審査会の地方公聴会は昨年12月の衆院選後初。この日のテーマは「改正国民投票法等の施行を受けて、これからの憲法審査会に望むこと」だったが、陳述人全員が安保法案に言及した。陳述人は審査会が公募し、寄せられた意見を基に選んだ。
 徳島県阿南市の自営業、土倉啓介さん(52)は、集団的自衛権行使に賛成するとしたうえで、そのためには憲法改正が必要と主張。「解釈変更による行使容認や安保法制の整備は憲法の形骸化や規範軽視になる」と苦言を呈した。
 一方、高知県いの町の翻訳業、佐野円さん(49)は「政府はあくまで『合憲』と強弁するが、多くの憲法学者が支持しないような強引な法解釈に、国民がどうして納得できるのか」と批判した。
 陳述人には憲法学者もいた。高知大人文学部准教授、岡田健一郎さん(35)は「こんな解釈変更が許されればどの条文でも解釈を変えられる。(徴兵制も)導入可能になるのでは」と懸念を示した。
(略)
(引用終わり)
 
 当日の公聴会では、6人の陳述人による意見表明の後、審査会委員による討論も行われたようです。当日の全体動画の内、意見陳述人による陳述は24分以降です。
 
2015 06 15 衆議院憲法審査会「高知地方公聴会
 

 このうち、唯一の憲法学者として意見を述べた岡田健一郎高知大人文学部准教授の意見をご紹介したいと思います。
 
2015年6月15日 衆院憲法審査会 高知地方公聴会 岡田参考人(公募枠)
 

 この岡田健一郎氏による意見陳述の原稿に、岡田氏自身が加筆・修正を加えたものが、法学館憲法研究所サイトの「今週の一言」コーナーに掲載されました。
 是非、上記動画の視聴と併せて全文をお読みいただきたいと思いますが、以下には私が特に重要と考えた部分を引用します。
 7月1日の閣議決定がもたらした事態を分かりやすく論じており、非常に参考になります。
 
法学館憲法研究所 今週の一言 2015年7月27日
憲法解釈変更の限界と「憲法が想定する人間像」―安保法案の問題点を考える視点―
岡田健一郎さん(高知大学人文学部教員)

(抜粋引用開始)
1、憲法審査会が直面している問題
 今回、私がお話ししたいのは、昨年7月に政府が行った、集団的自衛権に関する憲法解釈の変更についてです。私には、この解釈変更が、日本の平和主義だけではなく、憲法改正問題や立憲主義、そして憲法審査会に対しても、深刻な影響を与えているように思われるからです。
 そこでまず取り上げたいのが、憲法解釈の変更と、憲法改正との違いです。
 実際に日本国憲法を見てみるとわかりますが、その条文は、その多くが抽象的な言葉遣いになっています。それは、憲法というものが、いわば「この国のかたち」を定めるものであることに由来します。すなわち――国や社会のかたちを、あらかじめ、全て細かく決めておくことは難しい。したがって、ある程度、かたちの大枠を抽象的に書いておく。そして、時代が変化しても、憲法の解釈を変えていくことによって、その度ごとに憲法改正の手続を踏まなくても、社会の変化に対して、ある程度、柔軟に対応していく――というわけです。したがって、一般論として、憲法解釈の変更はそれ自体、絶対に許されない、というわけではありません。
 しかしながら、ここには大事なルールがあります。それは、憲法解釈の変更には限界がある、ということです。条文から大きく逸脱した解釈は許されません。したがって「解釈の限界を越えて憲法の内容を変えたい場合には、憲法96条に従って憲法を改正せよ」というのが現行憲法のルールなのです。このことは、憲法99条で定められた憲法尊重擁護義務からも要請されると考えられます。
 先ほども述べた通り、憲法は人権や統治機構など、国家や社会の基本原理を定めたルールですが、その内容が政府の解釈変更によって頻繁に変わることになれば、人々は一体どのように行動すればよいのか、わからなくなってしまいます。これが、最近よくいわれる「法的安定性」の問題です。
 さらに憲法96条は、憲法改正のために、国会の議決に加え、国民投票も要求しています。したがって、日本において憲法を改正する決定権は、最終的には有権者にあると考えられます。本来なら憲法改正手続を踏むべき場面なのに、政府が憲法解釈の変更によってその場面を切り抜けようとする、いわゆる「解釈改憲」は、政府が有権者から憲法改正権を奪うことになってしまいます。
 しかも、今回の解釈変更は、数ある憲法の条文の中でも、平和主義という国家の基本原理というべき内容に関わるものでした。
(略)
 なるほど、確かに安全保障環境は変化しています。だから、私はそうは思いませんが、日本の平和のためには、集団的自衛権を行使できた方がよいのではないか、と考える方が少なからずいらっしゃるとしても、無理はありません。
 しかし、そうだとすれば、先ほども述べたように、解釈変更ではなく、憲法改正によって対応するのが筋といえます(ただし、集団的自衛権の行使を可能にするような改正は「憲法改正の限界」を越えるのではないか、という問題は別途検討する必要があります)。
 さて、ここまでの話は最近よく議論されていると思います。
 ですが、私がさらに危惧するのは、次のような問題です。すなわち、このような解釈変更が許されるのならば、もはや、どんな条文を、どんな内容に解釈変更することだって可能ではないか、ということです。
 例えば、従来の政府解釈は、徴兵制が、苦役を禁じる憲法18条などに反するため許されない、としてきました。しかし、集団的自衛権に関する解釈変更が許されるのならば、「日本の安全保障環境の変化などを踏まえると、必要最小限度の徴兵制憲法に反しない」などと政府解釈を変更し、徴兵制を導入することも可能ではないでしょうか。「まさか、そんなことはありえない」と思われるかもしれません。しかし、政府は昨年7月、国家の基本原理の解釈を、憲法の改正手続をとることなく変えたのです。そうだとすれば、徴兵制に関する解釈変更がどうして不可能だと断言できるでしょうか?
(略)
 要するに、憲法改正を考える際には、私たちの政府が憲法を守るということを、私たちがどこまで信頼できるのか、がポイントになるわけです。「今ある憲法は守らないけど、改正後の憲法は守ります」というのは、いささか都合のよい話といわざるを得ません。
 そして、昨年の解釈変更を踏まえると、残念ながら、現在の政府に、そのような「信頼」を置くことは、私にはいささか難しいように思われます。そうだとすれば、そもそも現在の日本は憲法改正を議論する環境にない、といわざるを得ません。これは、「憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議……等を審査する」ことを、その使命とする憲法審査会にとっても、深刻な問題ではないでしょうか。したがって、少なくとも、政府による昨年の解釈変更は撤回されるべきだ、と私は考えます。

2、憲法は、どのような「人間像」を想定しているのか?
 さて、ここまでの話をお聞きになって「憲法学者とは何と面倒臭いこと、あるいは融通の利かないことを言うのだろう」と思われるかもしれません。しかし、この「面倒臭さ」「融通の利かなさ」は、この日本国憲法が拠って立つとされる、いわゆる近代立憲主義の性格に由来します。すなわち、人々の基本的人権を守るために、国家権力を法で縛る、という考え方です。
 私は、この近代立憲主義は、一つの人間像を前提にしていると考えます。それが典型的に現れているのが、アメリカ憲法の制定時に活躍した政治家、ジェームズ・マディソンの「人間は天使ではない」という言葉です。人間は天使ではないからこそ政府を作るわけですが、残念ながら、その政府で働く人間たちもまた、天使ではありません。民主的に選ばれた、どんなに素晴らしい政治家も、天使ではない以上、時には間違えることもあるし、時にはわざと悪事をはたらくことがありえます。したがって、その暴走を防ぎ、人権を守るために、憲法で国家を拘束する必要があるのです。
 この、ある種の「人間に対する不信感」、言い換えれば、自分自身も含めた人間の弱さ、不完全さに対する、冷徹な認識は、トマス・ジェファーソンの「信頼は、どこでも専制の親である。自由な政府は信頼ではなく猜疑〔さいぎ〕にもとづいて建設される」という言葉、さらには、その80年後に、この土佐・高知の自由民権活動家、植木枝盛が述べた「世に良政府なし」という言葉にも見ることができると思われます。
(ある意味で植木の「敵」ともいえる伊藤博文でさえ、憲法をつくる目的は国家権力を制限して人々の権利を保護することだ、という近代立憲主義を一応理解していたことは注目すべきです)
 しかし恐らく、彼らはいたずらに悲観主義に陥っていたわけではありません。一方で、彼らは確かに、人々の力や民主主義に希望を見ていたように思われます。そしてその民主主義を可能にする仕組みこそが近代立憲主義だったわけです。
 だからこそ、権力を縛る法を権力が自ら緩めては困るのです。憲法学憲法解釈の限界にこだわる理由はここにあります。
(略)
(引用終わり)
 

(付録)
『世界』 作詞作曲;ヒポポ田 
演奏:ヒポポフォークゲリラ