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放送大学長「単位認定試験問題に関する件について」を批判的に読む

 今晩(2015年10月24日)配信した「メルマガ金原No.2253」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
放送大学長「単位認定試験問題に関する件について」を批判的に読む

 メルマガ毎日配信(ブログ毎日更新)などという酔狂なことをやっていると、時に、「書きたくないが、書かざるを得ない」ということがあるもので、一昨日の「放送大学「日本美術史('14)」単位認定試験にかかわる見過ごせない大学の措置について」がまさにそういうものでした。
 私は、「学ぶことは楽しい」という思いから放送大学教養学部)の現役学生を続けているのであって、実際今年の1月30日、翌日は平成26年度第2学期単位認定試験を受験しなければならないというのに「放送大学(オープンコースウェア)受講の勧め~学ぶことは楽しい」などという記事を書いていたくらいです。

 従って、誰も好きこのんで放送大学を批判する文章など書きたくはありません。学位記授与式に日の丸が掲出され、君が代を演奏して参加者に起立を求めるなど、どう考えても大学の卒業式にふさわしいとは思えませんが、どうせ自分は出席するつもりもないので、あえて批判することもしていませんでした。
 
 しかし、今回の件はいけません。「日本美術史('14)」の第1学期単位認定試験の問題を学内サイトに掲載するにあたり、主任講師の佐藤康宏客員教授(東大教授)が明確に反対しているにもかかわらず、その意向を無視して放送大学当局が「現政権への批判が書かれているが、設問とは関係なく、試験問題として不適切」「現在審議が続いているテーマに自説を述べることは、単位認定試験のあり方として認められない」などとして勝手に一部削除したことは、放送大学が、真に「学問の自由」「大学の自治」の担い手としての実態を有しているのかどうかが厳しく問われざるを得ない重大な問題です。
 そのように考えた私は、一昨日、上記の文章を書き上げて公表したという次第です。
 8万人以上在籍している放送大学の学生の中で、私と同じ意見の人がどれだけいるのか知りません。毎日新聞朝日新聞産経新聞東京新聞、NHKなどが報じたのですから、この試験問題「削除」事件を知った放送大学の学生も少なくないと思うのですが、そういう人たちはどう考えたでしょうか。
 
 ところで、この「事件」は、佐藤康宏教授が「日本美術史不案内」を連載している月刊「UP(ユーピー)」(東京大学出版会)10月号に、同連載第78回として、ことの顛末を明らかにする文章(「政治的中立」)を発表したことで明らかになり、まず毎日新聞が取材して記事にし、引き続き、各社が後追い報道をしたという経緯のようです。
 そして、ここまで問題が大きくなったからでしょうが、昨日(10月23日)、放送大学「単位認定試験問題に関する件について」と題する学長名による文章を公表しました。これが、今回の件に関する放送大学の公式見解ということですから、全文ご紹介するのがフェアというものでしょう。
 以下に、引用する放送大学声明を茶色で、一段落ごとに付した私のコメントを黒色で、私が引用した文章は紺色で表記します。
 
              単位認定試験問題に関する件について
                            2015年10月23日 放送大学
 
 現在の放送大学長は岡部洋一氏ですが、この種の文章に個人名は表記しないのが放送大学のならわしなのだろうか?責任の所在を明らかにするためにも、学長名も表記することが望ましいと思います。
 
(第1段落)
 放送大学は、誰もが学べる大学として昭和58年に設置以来、皆様の身近な放送による通信制大学として、テレビ、ラジオ、インターネットを通じた教育の充実に努めてきました。本学としては、科目を担当する教員の学問の自由を基本に大学運営に取り組んでまいりました。
 
 第1文はともかくとして、第2文「本学としては、科目を担当する教員の学問の自由を基本に大学運営に取り組んでまいりました。」というような文章を、2009年4月に全科履修生(その前1年間は選科履修生)となって以来、私は初めて読みました。
 放送大学ホームページの中の、「学長のメッセージ」にも、「設立の趣旨」にも、そんなことは書かれていませんけどね。・・・というような嫌味はこれ位にするとして、あまりにとってつけたような文章であると言わざるを得ません。
 そもそも、ホームページに「科目を担当する教員の学問の自由を基本に大学運営に取り組んでまいりました。」などと書かれていないのは当たり前であって、そんなことは、まともな大学であれば、わざわざ書くのもおかしい「大前提」でしょう。それを、わざわざ書くからには、それなりの目的があるからに決まっています。その目的は、第2段落以降を読めば明らかになるはずです。
 
(第2段落)
 このたび、平成27年度第1学期単位認定試験の、「日本美術史(’14)」試験問題を本学学生のみが閲覧できるキャンパスネットワークホームページに公表するに際して、本学がその一部を削除したことに関連して、担当の客員教授が辞任した経緯を取り上げる各種報道がありました。
 本学がこのような措置を講じるに至った経緯につき、本学学生や本学の教育に関心をお持ちの皆様にその趣旨が十分に説明できておらず、ご心配をいただいていると思いますので、改めてここにご説明したいと考えます。
 
 第2段落は、前提的な部分なので、コメントも必要ないでしょうが、強いて言うとすれば(ややいちゃもんめきますが)、「各種報道」がなければ頬被りするつもりだったのですか?ということはありますね。
 それと、「本学学生や本学の教育に関心をお持ちの皆様にその趣旨が十分に説明できておらず」とありますが、「本学教員」はどうなっているのでしょう。専任教員や客員教員の先生方には、「趣旨が十分に説明」されているのでしょうか。
 
(第3段落)
 放送大学の授業は、主として放送授業と面接授業で構成されています。このうち放送授業は、放送による授業と印刷教材の併用により学習し、単位認定試験に合格することによって所定の単位を与えることとしております。
 放送大学は、大学であると同時に、放送法の適用を受ける放送事業者である放送大学学園により設置されており、放送大学が行う放送は、放送法の規制を受け、同法第4条の規定に基づき、政治的に公平であること、意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること等が求められています。
 同法の直接の規制を受けるのは、放送大学が行う放送による授業です。本学においては、放送による授業と印刷教材及び単位認定試験の相互の補完関係及び一体性に鑑みて、単位認定試験についても公平性、公正性の確保が必要と考えてきました。
 
 この段落が最大の問題です。
 第1文と第2文は、前提としての放送大学のシステムを説明する部分ですが、第3文にいたり、「放送大学が行う放送は、放送法の規制を受け」るとして、放送法4条が引かれます。
 
放送法(昭和二十五年五月二日法律第百三十二号)
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
2 放送事業者は、テレビジョン放送による国内放送等の放送番組の編集に当たつては、静止し、又は移動する事物の瞬間的影像を視覚障害者に対して説明するための音声その他の音響を聴くことができる放送番組及び音声その他の音響を聴覚障害者に対して説明するための文字又は図形を見ることができる放送番組をできる限り多く設けるようにしなければならない。
 
放送大学学園法(平成十四年十二月十三日法律第百五十六号)
(業務)
第四条 放送大学学園は、次に掲げる業務を行う。
一 放送大学を設置し、これを運営すること。
二 放送大学における教育に必要な放送を行うこと。
三 前二号に掲げる業務に附帯する業務を行うこと。
2 放送大学学園は、前項に規定する放送以外の放送を行うことはできない。
 
 放送大学が行う放送に放送法の適用があるのはそのとおりであり、同法4条も適用があると解釈すべきでしょう。
 しかしながら、放送大学学園法4条により、放送大学は「教育に必要な放送」以外の放送を行うことはできず、放送法の適用にあたっては、その制約を踏まえた解釈が必要となります。例えば、放送法4条1項3号「報道は事実をまげないですること。」などは、明らかに一般の放送局におけるニュース等の報道番組を念頭に置かれた規定であって、放送大学の放送にそのまま適用されるとは考えられません。
 ただ、学長声明が引用する放送法4条1項2号(政治的公平)や同4号(意見が対立する問題についての配慮)は、一般論としては放送大学の放送にも適用があるでしょう。ただし、政治的公平を厳格に求めるあまり、表現の自由憲法21条)や番組編集権の独立(放送法3条)などを毀損してはならないということは、一般の放送局においてと同様、放送大学においても求められるはずです。
 
 それよりも何よりも、学長声明でおかしいのは、第3段落第4文です。「同法(放送法)の直接の規制を受けるのは、放送大学が行う放送による授業で」あることを認めながら、「本学においては、放送による授業と印刷教材及び単位認定試験の相互の補完関係及び一体性に鑑みて、単位認定試験についても公平性、公正性の確保が必要と考えてきました。」と続くのです。

 この見解には、大きく2つの問題点があると思います。
 まず、「単位認定試験についても公平性、公正性の確保が必要」であるとする根拠が、どうやら「放送による授業」と「単位認定試験」の「相互の補完関係及び一体性」に基づき、放送法4条1項2号及び4号の趣旨を「単位認定試験」にも及ぼすべきだということにあるらしいのです。
 別の言い方をすれば、放送法4条1項2号及び4号は、「放送による授業」には直接適用され、「一体性」に基づき、「単位認定試験」にも類推(適用)されると考えているようです。
 そもそも、放送法4条1項は、放送が「公衆によつて直接受信されることを目的とする電気通信(略)の送信」(同法2条1号)」であるという性格を有することから、番組の編集にあたっての基本的方向性を示した規定であるのに対し、「単位認定試験」は、科目登録した学生だけが受験し、その後の問題文の公開もインターネットを通じて行われるというものであって、「公衆によつて直接受信されることを目的とする電気通信(略)の送信」とは何の関係もありません。
 学長声明が示した見解が筋違いなのは、「一体性」の持ち出し方が根本的に誤っているからです。つまり、「単位認定試験」と「一体性」が認められるのは、「放送による授業」の内の「授業」とであって、「放送」との一体性などないということです。
 
 そして、2つめの問題点は、「単位認定試験についても公平性、公正性の確保が必要」という見解それ自体についてです。結局は「公平性、公正性」をどう解するかということに帰着するかもしれないのですが、今回の事例から推測するに、放送大学当局のこの見解は、国民の間に意見の対立がある問題、とりわけ政府と多くの国民の意見が対立する問題について、その一方の側に立ったり、政府を批判する側に立ったりすることは「公平性、公正性」を欠くことになり、「認められない」ということになるということでしょう(そう解するしかないように思われます)。
 それはおかしいでしょう。第1段落に書かれた「本学としては、科目を担当する教員の学問の自由を基本に大学運営に取り組んでまいりました。」との整合性はどうなるのですか?やはり、この文章は、「学問の自由」を尊重しない大学運営をカモフラージュするために冒頭に置かれたのですか?
 この学長声明を素直に読めば、大学当局が「公平性、公正性」を欠くと判断すれば、場合によっては、(まだ試験実施前であれば)単位認定試験問題の差し替えを(主任講師の意見を排除してでも)実行する(これまでもしてきた)というように読めますが、本当にそういうことなのですか?
 
(第4段落)
 平成27年度第1学期単位認定試験において試験が実施された「日本美術史(’14)」は、本学教養学部「人間と文化コース」の専門科目であり、同科目の試験問題は、担当の客員教授が作成し、同コース専任教員による校正を経た上で出題されています。今回公表に際し、その一部を削除した問いは、第二次世界大戦の戦前・戦中期の美術に関する問題でした。
 同問題の導入部分において、設問の主旨と直接関係のない、多様な意見が存在する事柄について、担当の客員教授の考えのみが述べられており、このことについて本学としては、不適切と考えました。本学では、試験実施後、キャンパスネットワークホームページに試験問題を公表するに際し、このような本学の考え方を同教授にお伝えしましたが、残念ながらご理解をいただけず、本学の責任において一部削除した上で公表することとしました。
 本学の今回の対応は、単位認定試験問題としての適切性の観点から講じた措置であります。
 
 この段落については、一昨日私が書いた文章(放送大学「日本美術史('14)」単位認定試験にかかわる見過ごせない大学の措置について)をお読みいただければ十分かと思います。
 ただ、一言だけ付け加えるとすれば、この段落で最も気になるのは、「本学としては、不適切と考えました。」とか「適切性の観点から講じた措置」という表現です。
 第3段落において、(おそらくは)放送法4条と「一体性」の理論(?)を根拠として、単位認定試験にも「公平性、公正性」が求められるとした上での第4段落ですから、ここでいう「不適切」とは、「公平性、公正性を欠く」ということと同義と解して良いのでしょう。
 そして、はっきりとは書いていませんが、ここにはその「適切性」を最終的に判断するのは、主任講師でもなければ、専門コース(「日本美術史(’14)」の場合は「人間と文化コース」)の専任教員でもなく(現に、今回校正を担当した専任教員は問題にしていません~おそらく)、学長以下の大学執行部であるという含意があるとしか考えられません。
 これで、「本学としては、科目を担当する教員の学問の自由を基本に大学運営に取り組んでまいりました。」と言われても、「冗談はやめてほしい」と言うしかありません。
 
(第5段落)
 放送大学は、学問の自由が基本である大学であり、個々の授業科目の内容について、学問の自由を前提としつつ、公平性、公正性が確保できるよう努めてきたところです。また、授業科目の中では、現代社会において様々な意見が存在する解決困難な課題に関しても取り扱ってきています。
 
 第2文「授業科目の中では、現代社会において様々な意見が存在する解決困難な課題に関しても取り扱ってきています。」をあえて否定するものではありません。私自身、これまで受講した科目の中にも、まさに「様々な意見が存在する解決困難な課題」について、いかに学生に主体的に考えてもらうかに腐心しながら、自らの見解を明確に説くという、尊敬すべき先生が何人もおられました。
 そうであればこそ、今回の放送大学当局による単位認定試験問題の一部削除は残念でなりません。
 
(第6段落)
 放送大学が今後とも我が国における生涯学習の中核的な大学として、本学学生や本学の教育に関心をお持ちの皆様のご期待に応えられるよう努めてまいりたいと決意しておりますので、皆様方のご理解を賜りますようお願い申し上げます。
 
 2回にわたり、ここまで放送大学を批判しても、私自身の放送大学に対する愛着に変わりはありませんし、退学する気もありません。
 11月の末に和歌山学習センターで受講する予定の面接授業も楽しみにしています。
 願わくは、8万以上在籍している放送大学学生の皆さんが、1人でも多く、放送大学における「学問の自由」とはどうあるべきかについて、自らの問題として考えてくださることを。
 
 なお、この学長声明に対し、佐藤康宏教授が、ご自身のFacebookで批判されています。 
 「公開設定」になっており、シェアも推奨されていますので、その前半部分を引用したいと思います。佐藤教授の懸念される事態が進行せぬことを心から願っています。
 
佐藤康宏氏(東京大学教授)のFacebookタイムラインより
「私の出題した問題の一部を放送大学が勝手に削除した件について、学長の声明というのが出ました。
 単位認定試験問題が放送法の規制対象外であることは、総務省のコメントでも明らかですが(『朝日新聞』)、放送大学はそれを放送授業と一体のものととらえ、公平性、公正性を必要と考えるのだそうです。
 つまり、今後とも放送法を口実にして、「公平性、公正性」を欠くと大学が判断した事柄については同様の措置を行なう、という宣言でもあります。
 放送大学の教員や学生は、この声明文をよしとしているのでしょうか。こういう理屈なら、規制の対象は試験問題にとどまらず、印刷教材、面接授業などにも広げることができます。だれかから「公平性、公正性」に問題があるという指摘が出ないように、教員の自主規制は進み、声明文の後の方に取ってつけたように記されている「学問の自由」とか「様々な意見が存在する解決困難な課題」とかは軽んじられていくことでしょう。」
 

(忘れないために)
 「自由と平和のための京大有志の会」による「あしたのための声明書」(2015年9月19日)を、「忘れないために」しばらくメルマガ(ブログ)の末尾に掲載することにしました。
 
(引用開始)
  あしたのための声明書
 
わたしたちは、忘れない。
人びとの声に耳をふさぎ、まともに答弁もせず法案を通した首相の厚顔を。
戦争に行きたくないと叫ぶ若者を「利己的」と罵った議員の無恥を。
強行採決も連休を過ぎれば忘れると言い放った官房長官の傲慢を。
 
わたしたちは、忘れない。
マスコミを懲らしめる、と恫喝した議員の思い上がりを。
権力に媚び、おもねるだけの報道人と言論人の醜さを。
居眠りに耽る議員たちの弛緩を。
 
わたしたちは、忘れない。
声を上げた若者たちの美しさを。
街頭に立ったお年寄りたちの威厳を。
内部からの告発に踏み切った人びとの勇気を。
 
わたしたちは、忘れない。
戦争の体験者が学生のデモに加わっていた姿を。
路上で、職場で、田んぼで、プラカードを掲げた人びとの決意を。
聞き届けられない声を、それでも上げつづけてきた人びとの苦しく切ない歴史を。
 
きょうは、はじまりの日。
憲法を貶めた法律を葬り去る作業のはじまり。
賛成票を投じたツケを議員たちが苦々しく噛みしめる日々のはじまり。
人の生命を軽んじ、人の尊厳を踏みにじる独裁政治の終わりのはじまり。
自由と平和への願いをさらに深く、さらに広く共有するための、あらゆる試みのはじまり。
 
わたしたちは、忘れない、あきらめない、屈しない。
 
     自由と平和のための京大有志の会
(引用終わり)