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「避難の権利」を考えるための視点~医師、看護師を目指す学生の皆さんに語ったこと

 今晩(2015年12月25日)配信した「メルマガ金原No.2315」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
「避難の権利」を考えるための視点~医師、看護師を目指す学生の皆さんに語ったこと

 クリスマスにもかかわらずというか、年末押し詰まりながらというか、この時期に学習会をやるということで講師に呼ばれるという珍しい経験をしました。
 声をかけてくださったのは、和歌山県民主医療機関連合会というところで、医科大学看護学部看護学校などに在籍する医系の学生さんたちを対象とした学習会ということでした。
 クリスマスプレゼントの交換などの後、約1時間半お話したのですが、主催者が用意した演題は「目の前の人を助けたい」という、医師や看護師を目指す学生の皆さんの前でお話するのにまことに相応しいものではありましたが、さすがにそこまで言い切る自信はなく、私自身が作ったレジュメの演題は、「『避難の権利』を考えるための視点」というものにしました。
 主催者から伺ったところでは、これらの学生さんたちは、原発事故を逃れて避難された方からお話を伺ったり、今後、福島を訪問する希望もあるとのことで、避難者支援などにかかわる話をして欲しいということでした。
 しかし、振り返ってみても、私自身、支援らしい支援をしてきたと言えるような実績はないし、学生さんたちの役に立つようなお話ができる自信は全然ないということで、最初はお断りしようかと思ったのですが、熱心に依頼してくださり、また和歌山民医連には「メルマガ金原」を送信して読んでいただいているという繋がりもあって断り切れず、一昨日(12月23日)半日かけてレジュメを書き上げ、それに基づいて拙いお話をしたという次第です。
 学習会後の懇親会にもお招きいただき、美味しい料理までご馳走になっていたおかげで、別の素材を探してメルマガ(ブログ)を書いている時間はなく、かくなる上は、今日のために書いたレジュメをそのまま掲載するしかないということで(これもよくある話ですが)、以下に全文転載することにしました。
 もちろん、このレジュメのとおり話したということでは全然なく、書いていないこともお話しましたが、骨子はだいたいレジュメ通りであったと思います。
 なお、実際の学習会では、安保法制についても若干お話しましたが、その点については、末尾の過去ブログでご紹介したレジュメなどをご参照ください。
 私自身、若い学生の皆さんを相手にお話する機会などそうそうありませんので、貴重な体験でした。このような機会を与えていただいた和歌山民医連と和歌山生協病院の皆様に心よりお礼申し上げます。
 それから、避難者としての発言を勝手に引用させていただいたINさん、YWさん、森松明希子さん、宇野朗子さん、事後で申し訳ありませんが、何卒ご了解ください。私が「避難の権利」について人前でお話できるのも、皆さんとの出会いがあったればこそです。ありがとうございました。なお、INさん、YWさんとも、事前にお願いすれば「名前を出してもかまわない」と言っていただけたかもしれませんが、時間がなかったのでイニシャルとしました。
 

                          「避難の権利」を考えるための視点
 
                                    弁護士 金 原 徹 雄
 
はじめに~自己紹介をかねて
 我が国における法曹(弁護士、裁判官、検察官)養成制度は、近年、大きな変貌を繰り返しているが、私が司法試験に合格し、司法修習生として過ごした2年間(1987年~89年)は、変貌が始まる前の「旧体制」下の比較的安定した時期だった。毎年の合格者は500人を少し下回る程度に抑えられ、司法修習生には国家から給与が支給された(もちろん、修習専念義務が法律で課されていた)。弁護士法1条1項の「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。」という規定を読んでも、冷笑的になることなく、素直にそれを受け容れることのできる社会的基盤が用意されていたというべきかもしれない。
CIMG4927 とはいえ、司法研修所のカリキュラムで、憲法や人権が教え込まれていたなどと思ったら大間違いである。少なくとも、私は、司法研修所憲法の講義を聴いた記憶など一切ないし、民事裁判・刑事裁判・民事弁護・刑事弁護・検察という主要5教科の講義や起案の中で、持参した六法全書の冒頭に収録された憲法の条文を参照する必要があったことすら(多分)なかったように思う。
 修習生は、原則として全員司法試験に合格しているのだから、憲法についての知識は持っていて当たり前であり、あらためて研修所で教える必要はない(これは他の実定法についても同じ)。憲法を活用して人権救済に務めるというのは、実務に就いた後の基本的な法曹としての身の処し方、心構え、理念の問題であって、そういうことは教えられるものではない(各自が努力して身につけるべきもの)。従って、研修所としては、実務法曹として最低限必要なスキルを身につけさせる教育に力を注ぐ。・・・と聞いた訳ではないものの、おそらくそういうことなのだろうと思っていた。
 1989年に司法研修所を修了し、地元の和歌山弁護士会に入会して以降、特段世間の耳目を集めるような大事件を担当することもなく、特殊専門的な分野を持つ訳でもなく、依頼があった事件をこつこつと処理する、普通の田舎の「町弁(まちべん)」としての生活を続けてきた。
 その間、弁護士会の委員会活動の中では、子どもの権利委員会にずっと所属していたこともあり、歳を重ねるにつれ、弁護士会から推薦されて、要保護児童対策地域協議会などの委員に就任する機会が多くなるのは自然なことだった。
 やや特筆すべきは、2005年5月に設立された有志弁護士による任意団体「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」の2代目事務局長を6年間(2006年~2012年)務めたことだろう。その6年間の最後の1年にとんでもない事件が起こった。
 
3.11で人生が変わった人、変わらなかった人
 2011年3月11日に東北地方を襲った大地震津波によって生じた大災害は、日本に住む全ての人に大きな衝撃を与えたが、とりわけ過去の大災害と決定的に異なったのは、福島第一原発が全電源喪失に陥り、内閣総理大臣から原子力緊急事態が発令されるという未曾有の事態が生じたことであった。
 その後の経過について、これを要領良くまとめる能力の持ち合わせは私にはないが、皆さんには、せめて「国会事故調 報告書」(徳間書店/1600円+税)は、(報告書の内容はインターネットでも閲覧できるが)安価なこともあり、是非1冊は手元に置き、折に触れて目を通すことをお奨めしたい。

 ところで、私は3.11から17日後の2011年3月28日に、現在に至るまで「毎日配信」を続けている「メルマガ金原」なるささやかな個人メールマガジンの配信(BCCによるメールの一斉送信)を始めた。親しい友人・知人25人が最初の読者だった(現在では和歌山民医連事務局を含めて247人)。
 これを始めた動機は?といえば、政府広報が全く頼りにならないと見切りをつけた以上、情報の洪水の中で、最も信頼に値する情報はどれかということを、つたない自分のスキルを可能な限り研ぎ澄ました上で選択し、少しでもそのような情報を得たいと考えている人に届けるべきではないかという、目標はかなり壮大でありつつ、その実体はまことにささやかなパーソナル・メルマガであった。
 もっとも、客観的にはささやかな営みではあるが、テーマを決めて情報を集め、その中から取り上げるに値する情報を選択し、出来ればこの情報に対する私の意見・評価も添えて配信するという作業を毎晩1人でやり続けるということは、想像以上に大変な負担となった。何より睡眠時間が少なくなった(これは現在まで続いている)。
 この「毎日配信」しているメルマガについては、2013年1月からは、全て「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載することにしており、私は自動的に「毎日更新」するブロガーにもなっている。
 なぜこのような活動を続けているのか(来年の3月で丸5年になる)については、過去何度か話したり書いたりしたことがあるが、再説させていただく。
 一言で言えば、私を駆り立てているものは「悔恨」である。小出裕章氏(元京大原子炉実験所)は、「自分を含めた原子力の専門家には事故を防げなかった責任がある。しかし、だまされた者にも責任がある」と主張されており、まことにその通りだとは思うが、私自身をかえりみた時、「はたしてだまされていたのだろうか?」ということが問題である。私の周囲には、長年、和歌山に原発を建てさせないために体をはった闘争を続けてきた方もおられ、原発の危険性を学ぶための学習会にもたびたび誘ってただいていた。そして、私自身、詳しく分からぬながら、「原発は危険なもので止めた方が良いのだろう」と漠然と考えていた。しかし、私は何もしなかった。そして、3.11が起きてしまった。
 本質的な危険性を隠蔽しながら原発を推進してきた政治家、官僚、電力会社をはじめとする経済界、学者、マスメディアなどが重大な責任を負うべきは当然である。法律家の観点からこれを評すれば「確信的故意犯」にあたる。また、これら「確信的故意犯」にだまされて、原子力発電に何の疑いも抱かなかった人たちにももちろん責任はあるが、法的にいえばこれは「過失犯」にとどまると言うべきである。
 それでは私はどうなのか?原発は安全だと思いこまされていたのか?そんなことはない。積極的に学ぶことはしていなかったけれど、電力会社の原発CMなどを見ながら「うさんくさい」と思う程度の感性は持っていた。原発の真実にたどりつく糸口はいくらでも周りにあった。けれど、何もしなかった。ここでも法的比喩を用いれば、「未必(みひつ)の故意」ということになるだろう。簡単に言えば、結果が発生するかもしれないことを認識しながら、そうなっても仕方がないとして、あえて結果発生を防止せずに放置する心的態度、ということである。
 当然、「未必の故意」も故意犯である。だまされた過失犯より大きな責任を負わねばならない。
 3.11を境に人生が変わった、という人の多くは、おそらく以上の私と同じような「悔恨」を出発点としているのではないかと推測している。「悔恨」を抱くということは、福島第一原発事故について「個人的な責任」があると自覚するということと同義なのだから。
 
3.11で避難を余儀なくされた人々との出会い
 福島第一原発事故によって放射能が拡散される中、福島県を中心に、東北や関東から多くの人々が全国各区地に避難した。和歌山にも、少なくない数の人々が避難してきたが、事情により避難元に帰還した人、さらに他県や(場合によっては他国に)再避難した人なども多い。
 そのような避難者のうち、私が直接お話を伺う機会のあった4人の女性の印象的な言葉をご紹介したい。
 
INさん(福島県川俣町から3人の子どもを連れて和歌山県紀美野町の空き家になっていたお母さんの生家に避難)
「だんだん生活に慣れてくるにつれ、今まで馴染んできた、大好きな川俣での大好きな人たちとの生活が、突然奪われた喪失感が深くなりました。仕事や家事を忙しくしている時には感じないのですが、買い物に出かけて夕焼け空を眺めた時や、車を運転している時にふと、「なんでここにいるんだろう。なんで私はここにいなきゃならないんだろう。」と思ってしまうのです。
 子どもの授業参観や運動会に行っても、知らない子どもたちと知らない父兄が多く、寂しさを強く感じてしまうのです。自分の子どもだけでなく、よその子たちの成長を見るのも楽しみだったんだなあ、と今になって分かります。
 仕事と子育てをしていると生活のリズムは出来上がるので、「慣れましたか?」と聞かれると、「はい、おかげさまで。」と答えるのですが、心は置いてけぼりでした。
 今まで10回以上引っ越しをし、自分の意志ではなく転居せざるを得なかったことも何度もありますが、今回の避難は、どうしても前向きに受け止められずにいました。子どもには、和歌山に来た当初、「人間、どこででも生きられるよ!」と言い聞かせていたのに、自分は後ろ向きのままでした。」
※2011年3月16日未明に紀美野町に車でたどり着いたINさんの、ようやく同町での生活にも慣れてきたころの思いを、手記『放射能から逃げて~福島県川俣町からの避難記録~』(月刊「むすぶ」2011年12月号、2012年1月号)から抜粋引用した。ちなみに、この手記のオリジナル原稿は、まず「メルマガ金原」に9回に分けて連載した。
 
YWさん(福島県郡山市から和歌山市に3人の娘を連れて母子避難)
「郡山に戻ったところ、ほとんどの店舗が営業を再開し、外見上、日常生活はほぼ元に戻っているように見えた。しかし、このまま子どもたちとここに住み続けて良いのかという疑念は消えず、避難のための支援は得られないものかと、情報を探し続けた。すると、自主避難者を対象とした民間による支援が各所で行われていることを知った。特に目が釘付けになった支援情報があった。「高台にあり津波の心配なし。3DK。テレビ、冷蔵庫、寝具4組等備え付け。家賃、光熱費無料」という信じられないような内容だった。それが和歌山大学のそばにあるエス・ティー・ワールドという海外旅行専門の旅行代理店が所有する施設だった。
 その情報を知った10日後、子ども3人と荷物を満載した車を運転し、日本海経由で和歌山を目指した。高速道路から初めて眼下に広がる和歌山の市街を見たのは夕暮れ時だった。子どもたちはみんな眠りこけていた。夕焼けに染まる和歌山の市街を見おろしながら、郡山から860㎞離れたこの街で、今日から自分はこの子どもたちの母親兼父親になるのだと決意した。」
原発事故直後、神奈川県の親戚方に一時避難したYWさん親子だったが、いつまでも親戚の家にやっかいになる訳にもいかず、いったん郡山市に戻った後、ネットで知った支援情報により、あらためて和歌山市に母子避難することになった。上記の文章は、YWさんが、2014年11月1日、「和歌山障害者・患者九条の会」の学習会に招かれて話された内容を、私が整理してメルマガ(ブログ)に掲載したものである。
 
森松明希子さん(福島県郡山市から大阪市に子ども2人を連れて母子避難)
「避難を続けて4年半以上が経ちましたが、あの時と状況は何も変わっていないと私は感じます。(略)
 皆さん、会場の斜め後ろを振り返って、ちょっとあの白板をご覧いただけますでしょうか。関西から持ってきました。チラシにもお配りしていますように、東日本大震災避難者の会 Thanks & Dreamが、関西に避難をした人たちの声を一生懸命この1年をかけて集めました。例えば、川柳「避難者あるある575」を集めました。こんな川柳があります。「安全論 健康被害を 無きことに」(ペンネーム:空さん)。「母子避難 私が倒れたら どうなるの・・・」(「けっこう切実です」さん)。「避難して 底を尽きてく 我が貯金」(ペンネーム:「どなたか庭の除染土お引き取りいただけますか?」さん)。「子の不調 その都度ひばくに 思いはせ」(ペンネーム:症状ありさん)。こんな形で、声を集めれば、こうしてスピーチをしに大阪から、関西から駆けつけれないけども、多くの思いを持った避難者の方たちが、この日本の国には、北海道から南は沖縄まで、全国ばらばらに散らばって、今なお避難生活を続けています。(略)
 私は、関西で今司法裁判所に「避難の権利」を求めて、近畿地方では、大阪地方裁判所京都地方裁判所神戸地方裁判所に、それぞれ100人以上の避難者たちが集団で提訴をしています。損害賠償という形をとっていますが、日本の国は民事訴訟か刑事訴訟しか出来なくて、憲法訴訟は出来ないからやっているんです。多くの全国で起こっている1万人を超える原告になった人たちは、みんな口を揃えて言います。「この裁判は、人権救済裁判なんだ」と。子ども被災者支援法という法律が出来ても、中身がなく、骨抜きにされ、店ざらしの状態では、具体的に人は救えません。もう頼るところは、司法裁判所しかなくなったから、裁判所にお願いをしている訳です。
 普通の暮らしをしていた、皆さん(と)同じように普通に暮らしていた普通の人たちが、裁判を起こしてまで「避難の権利」を訴えなければばらないんですか。危険を感じたら逃げるのが当たり前だと私は思うのです。どうして、命を守るという原則的な行為が、裁判所にまで訴えて、確立をしなければならないのか、というところに私はとても今の現状のおかしさを感じます。そのことを、今日はこんなに大勢の心ある皆さんと共有できて、本当に私は嬉しく思います。」
原発賠償関西訴訟原告団代表であり、東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)代表でもある森松明希子さんは、「避難の権利」を訴えるために東奔西走しておられる方である。このスピーチは、2015年10月29日に参議院議員会館で行われた「『避難の権利』を求める全国避難者の会」設立集会のリレートークで話されたことの一部である。
 
宇野朗子(うのさえこ)さん(福島市から京都府に避難)
「うのさんのお話の中でやはり胸を打たれたのは、原発事故子ども・被災者支援法が出来て、その内容を避難している人たちに説明したところ(福岡でのこと、ということだったと思いますが)、2条2項で、避難するという選択も尊重されなければならないと定められていることを知って、自分たちの決断を「認めてもらえた」という思いで皆涙を流したこと、また、この理念の実現に努力することによって、被災地にとどまった人たちのためにも力になれると信じられたことなどでした。
 それから2年、基本方針が定められてから8ヵ月、実際の支援施策が到底当初の期待に添ったものではないという現実とどう折り合いをつければ良いのか、どのように将来に向かってモチベーションを高めれば良いのか、おそらく様々な葛藤があったのではないでしょうか。
 そのことは、昨日の院内集会での うの さんの短い会場発言(後半の1時間08分~)を聞いただけでも、何となく想像されます。」
※2014年6月21日、「子どもたちの未来と被ばくを考える会」の招きにより、和歌山ビッグ愛で宇野朗子(うの・さえこ)さんが話された内容のうち、最も印象深かった部分を私がメルマガ(ブログ)に書いたもの。
「皆さん、こんにちは。今日はお集まりいただきまして、ありがとうございます。「避難の権利」とは、原発事故により、放射能汚染を被った地域で、地域の人々が、被ばくによる被害を避けるために避難をすることが、避難を選択することが出来る、そのために実質的な支援が存在する、それの権利です。
 この権利は、私たち、今避難している避難者の人たちが、避難し続けることができる、移住し、新しい暮らしを始めることができる、そのための権利であるばかりでなく、今汚染を被っている地域に暮らす人々が、最大限、被ばくから免れるための医療支援や、様々な支援がそこに存在し、私たちに実質的に、避難をするか、そこに暮らすか、そういうことを自己決定することができる、そのための大切な権利だと私たちは考えています。
 今この権利は、残念ながらこの国では保障されてはいません。事故から4年7か月が過ぎ、今日2015年10月29日、今日全国から集まった避難者、それから帰還者の私たちは、ここに集い、あらためて私たちには「避難の権利」があることをここに表明したいと思います。そして、「避難の権利」を求め、「避難の権利」の保障される社会を目指して、「「避難の権利」を求める全国避難者の会」を設立致します。」
※2015年10月29日、参議院議員会館で行われた「『避難の権利』を求める全国避難者の会」設立集会での同会共同代表・宇野朗子さんによる開会挨拶から。
 
避難の権利~平和的生存権・個人の尊厳~原発事故子ども・被災者支援法
 森松さんや宇野さんが、そして全国の避難者が求める「避難の権利」。その究極の憲法上の根拠は以下の各条項だろう。
 
前文第二段第三文 われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 
十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
 
 「究極の」とわざわざ断ったのは、他に実定法上の根拠がなくても、直接憲法の規定を適用して裁判所に救済を求め得る権利か否かという論点を想定しているからである。そもそも、「避難の権利」によって何を実現しようというのかを明確にしない限り、それがあるとか、ないとか、訴訟で救済されるとか、されないとかの結論は出しようがない。
 例えば、自主避難者に対するほぼ唯一の実効性ある支援策である避難先での住宅無償提供(災害救助法に基づく)が、2017年3月をもって打ち切られるという方針が国・福島県から公表されており、これが実施されることになると、経済的理由によって、心ならずも帰還を余儀なくされる人々が続出するのではないかと懸念されている。
 しかしながら、このような「住宅支援をしない」「打ち切る」ことを阻止する効力を直接憲法の規定に求めることには相当無理がある。
 であればこそ、基本法である原発事故子ども・被災者支援法東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の生活を守り支えるための被災者の生活支援等に関する施策の推進に関する法律(平成二十四年六月二十七日法律第四十八号))が重要となるのだが、超党派議員立法による良さもないわけではないものの、その限界も露呈しているのがこの法律である。何より、被災者支援のための具体的な施策を政府に丸投げしてしまっており(同法4条、5条)、しかも致命的なことに、肝心な支援対象地域(その地域における放射線量が政府による避難に係る指示が行われるべき基準を下回っているが一定の基準以上である地域)をどの範囲とするかまで、政府が基本方針で定めることにしてしまったため(8条、5条)、まことに恣意的な運用を許すことになっている。
 同法2条(基本理念)の内でも最も重要な規定は2項だろう。「被災者生活支援等施策は、被災者一人一人が第八条第一項の支援対象地域における居住、他の地域への移動及び移動前の地域への帰還についての選択を自らの意思によって行うことができるよう、被災者がそのいずれを選択した場合であっても適切に支援するものでなければならない。
 しかし、現実がそれを裏切るものとなっていることは、住宅支援の打ち切りという国の方針一つをとっても明らかである。
 
避難者と向き合う視点
 私は、弁護士として、避難者の代理人として原発ADR(原子力損害賠償紛争解決センター)に対して和解仲介手続申立てをしたり、今は、国と東京電力を被告として、大阪地方裁判所に提訴した原発賠償関西訴訟の代理人となったりしている。
 このように、自分の専門分野で避難者支援に役立つことがあれば、可能な範囲で協力したいとは考えているが、私の力など微々たるものであり、訴訟での準備書面の検討・作成などは、実質、大阪弁護士会所属の主要メンバーに任せきりである。
 それはさておき、一市民として、原発事故からの避難者の皆さんとどう向き合うかについて一言して、本日の拙いお話のまとめとしたい。
 原発事故によって避難を余儀なくされた、避難を決断した人たちは、間違いなく原発事故(3.11)によって「人生が変わった(変わらざるを得なかった)」人々である。
私が、今日のお話の最初の方で、「3.11で人生が変わった人、変わらなかった人」
ということを語ったのは、原発事故によって「人生が変わった(変わることを余儀なくされた)」人たちと向き合う時に、「自分たちはどうなんだ?」ということを自問して欲しいと思ったからである。
 3.11から間もなく5年が過ぎようとしている。原発事故が発生した時はまだ未成年だったという人もこの席には多いようだし、そういう人に、原発事故についての「責任」があるとは私も思っていない。
 しかしながら、原発事故から「我が子を守る」「我が身を守る」ことを決断することを、決してひとごととは思って欲しくない。3.11当時、54基もの原発が立地する原発大国になりおおせていたこの国で生活していく以上、誰が避難者になってもおかしくはない。事故を起こしたのが、たまたま福島第一原発であったから、福島県を中心に、東北・関東の人々が避難しなければならなくなったけれど、これが高浜原発大飯原発メルトダウンしていれば、私たち関西の人間が避難しなければばらなくなっていたという想像力を持つことは最低限必要である。
 避難するという選択が「我がこと」と思えれば、避難者に向き合う際の意識も全く変わるはずだと思う。
 私たちは、政府の役人ではない。原発を推進する必要などさらさらない。私たちと全く同じ立場の仲間が、たまたま窮地に陥った時、自分は何をすべきかと考えれば良い、と私は思う。
 そして、原発事故について、自分にも「個人としての責任」があると考えるのであれば、その責任の取り方を自分で考え、実行するのみである。
                                                    以 上
 

(弁護士・金原徹雄のブログから)
2015年6月21日
“原発事故子ども・被災者支援法”施行から2年 東京から 和歌山から

2014年8月20日
東日本からの避難者健診のご案内(和歌山民医連)
2014年11月2日
原発避難者と原発阻止運動オーガナイザーの講演を聴く~これからの私たちの行動のために(11/1和歌山障害者・患者九条の会)
2015年8月13日
「第3回 和歌山民医連 東日本からの避難者健診」のご案内(付・9/5シンポ「これでいいのか!? 福島県県民健康調査」大阪弁護士会)
2015年10月30日
「避難の権利」を求める全国避難者の会が設立されました
2015年11月14日
9.19以降の「安保法制」学習会用レジュメ(論点絞り込み90分ヴァージョン)
2015年11月29日
予告12/12「『避難の権利』を求める全国避難者の会 設立記念集会 Part.2 つながろう!はじめの一歩 in 京都」(付・宇野朗子さんによる「設立宣言」文字起こし)