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徳冨健次郎(蘆花)の『天皇陛下に願ひ奉る』と『死刑廃すべし』

 今晩(2016年2月18日)配信した「メルマガ金原No.2370」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
徳冨健次郎(蘆花)の『天皇陛下に願ひ奉る』と『死刑廃すべし』

 去る2月14日、東京新聞の「本音のコラム」に山口二郎氏(法政大学教授)が書かれた「蘆花の嘆願書」という文章が掲載されたということをFacebookで知りました。
 以下にその一部を引用します。
 
(抜粋引用開始)
 先週、熊本に行った折、徳富蘇峰(とくとみそほう)、蘆花(ろか)兄弟の資料を展示した記念館を見学した。そこで、蘆花が大逆事件の際に、幸徳秋水などの被告人の助命を明治天皇に向けて訴えた嘆願書の直筆原稿を読み、深い感動を覚えた。その中で蘆花は、幸徳たちは放火や殺人を犯した犯罪者ではなく、日ごろ世の中のために考え、行動した志士であると弁護した。立場や思想は違っても、国や人民のため
に真剣に行動する者に対する敬意が原稿にあふれていた。
(引用終わり)
 
 山口氏のコラムの主眼は、蘆花の態度と対比して、「高市早苗総務相が、テレビが不公平な報道をした時には、電波の停止を命じることもあると繰り返し発言した」姿勢を厳しく批判することにあるのですが、その部分はリンク先でお読みください。
 
 山口氏が熊本で訪れた記念館というのは、おそらく熊本市にある徳富記念園の中の徳富記念館のことだろうと思いますが(残念ながら私は行ったことがありません)、そこに展示されていた「嘆願書」というのは、『天皇陛下に願ひ奉る』という標題で知られる短文のオリジナル手稿のことと思われます。

 ここで、「大逆事件」という歴史的な大事件について詳細な解説を加えるのが本稿の目的ではありませんし、その能力もありませんので、幸徳秋水らの死刑が執行されて百年目にあたる2011年に発表された「大逆事件死刑執行100年の慰霊祭に当たっての日弁連会長談話」をご紹介するにとどめます。
 
2011年(平成23年)9月7日 日本弁護士連合会
大逆事件死刑執行100年の慰霊祭に当たっての会長談話

(引用開始)
 1910年(明治43年)、明治天皇の殺害を計画したとして幸徳秋水ら26名が刑法73条の皇室危害罪=大逆罪(昭和22年に廃止)で大審院に起訴された。大審院は審理を非公開とし、証人申請をすべて却下した上、わずか1か月ほどの審理で、1911年(明治44年)1月18日、そのうち2名について単に爆発物取締罰則違反罪にとどまるとして有期懲役刑の言渡しをしたほか、幸徳秋水ら24名について大逆罪に問擬し、死刑判決を言い渡した。死刑判決を受けた24名のうち12名は翌19日特赦により無期懲役刑となったが、幸徳秋水を含む残り12名については、死刑判決からわずか6日後の1月24日に11名、翌25日に1名の死刑の執行が行われた。いわゆる大逆事件である。本年は死刑執行から10
0年に当たる。
 幸徳秋水らが逮捕、起訴された1910年(明治43年)は、同年8月に日本が韓国を併合するなど絶対主義天皇制の下帝国主義的政策が推し進められ、他方において、社会主義者、無政府主義者など政府に批判的な思想を持つ人物への大弾圧が行われた。そのような政治情勢下で発生した大逆事件は、戦後、多数の関係資料が発見され、社会主義者、無政府主義者、その同調者、さらには自由・平等・博愛といった人権思想を根絶するために当時の政府が主導して捏造した事件であるといわれている。戦後、大逆事件
の真実を明らかにし、被告人となった人たちの名誉を回復する運動が粘り強く続けられた。
 死刑執行から50年の1961年(昭和36年)1月18日、無期懲役刑に減刑された被告人と、刑死した被告人の遺族が再審請求を行い(棄却)、1990年代には死刑判決を受けた3人の僧侶の復権と名誉回復がそれぞれの宗門で行われ、2000年(平成12年)12月には幸徳秋水の出生地である高知県中村市(現在、四万十市)が幸徳秋水を顕彰する決議を採択、2001年(平成13年)9月には犠牲者
6人を出した和歌山県新宮市が名誉回復と顕彰を宣言する決議を採択した。
 また、当連合会は、1964年(昭和39年)7月、東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔を建立し、大逆事件で12名の死刑執行がなされたことへの慰霊を込め、毎年9月、当連合会と地元町内会の共催で
慰霊祭を開催してきた。
 政府による思想・言論弾圧は、思想及び良心の自由、表現(言論)の自由を著しく侵害する行為であることはもちろん、民主主義を抹殺する行為である。しかも、裁判においては、上記のとおり、異常な審理により実質的な適正手続保障なしに、死刑判決を言い渡して死刑執行がなされたことは、司法の自殺行為にも等しい。大罪人の汚名を着せられ、冤罪により処刑されてしまった犠牲者の無念を思うと、悲しみと
ともに強い怒りが込み上げてくる。
 当連合会は、大逆事件を振り返り、その重い歴史的教訓をしっかり胸に刻むとともに、戦後日本国憲法により制定された思想及び良心の自由、表現(言論)の自由が民主主義社会の根本を支える極めて重要な基本的人権であることを改めて確認し、反戦ビラ配布に対する刑事弾圧や「日の丸」・「君が代」強制や、これに対する刑事処罰など、思想及び良心の自由や表現(言論)の自由を制約しようとする社会の動きや司法権を含む国家権力の行使を十分監視し続け、今後ともこれらの基本的人権を擁護するために全力で取り組む所存である。また、政府に対し、思想・言論弾圧の被害者である大逆事件の犠牲者の名誉回復の
措置が早急に講じられるよう求めるものである。
  2011年(平成23年)9月7日
     日本弁護士連合会
     会長 宇都宮 健児
(引用終わり)  

 山口二郎氏のコラムが、大逆事件被告人の助命を天皇に嘆願しようとした徳冨蘆花の文章を読んだ感動を語りつつ、返す刀で高市早苗総務相による電波停止発言を批判する文脈(関連性)がよく分からなかった方がいるかもしれませんが、上記の日弁連会長談話をお読みいただければ、「思想及び良心の自由、表現(言論)の自由が民主主義社会の根本を支える極めて重要な基本的人権であること」をこそ訴えようとしたコラムであることが腑に落ちるとともに、これは、2月15日の衆議院予算委員会における民主党山尾志桜里議員と安倍晋三
首相による「表現の自由の優越的地位」問答(?)にも共通する、非常に重要な問題であることに思い至ります。
 しかし、このテーマに踏み込むと、今日の本論にいつまでたってもたどり着けなくなることは明らかので、ここでは、15日の質疑の動画とその一部文字起こしをご紹介するにとどめます。
 
国会中継民主党 山尾志桜里 衆議院 予算委員会 2016年2月15日(37分)

 さて、本論は徳冨蘆花(とくとみ・ろか)です。小説『不如帰(ほととぎす)』(1899年)や随筆『自然と人生』(1900年)で有名な(私自身、後記『謀叛論 他六編・日記』を除けば、この2冊しか読んだことはないのですが)作家・徳冨蘆花(本名:健次郎/1868年~1927年)が、大逆事件に際し、幸徳秋水ら12名の死刑執行を何とかとどめたいと願い、当時疎遠となっていた兄・徳富蘇峰(「國民新聞」主宰・ジャーナリスト・思想家)を通じて桂太郎首相に助命嘆願を願う手紙を送ったもののなしのつぶてであったため(中野好夫氏による後掲岩波文庫解説中の推論による)、東京朝日新聞主筆の池辺三山宛に掲載を依頼して送った明治天皇
宛の嘆願書が、後年(終戦後)『天皇陛下に願ひ奉る』として知られることになった文章です。
 ただし、この原稿が届いた時には、幸徳らの死刑は既に(1911年1月24日に)執行されており、原稿は掲載されることなく、そのまま蘆花のもとに返却されました。山口二郎氏が熊本の徳富記念館で見た「嘆願書」というのは、東京朝日新聞から返ってきた手稿そのものでしょう。
 
 この『天皇陛下に願ひ奉る』の最も読みやすい版は、1976年に中野好夫氏が編集して岩波文庫から刊行された『謀叛論 他六編・日記』の巻頭に収められたものでしょう。ただし、どうやら現在品切れのようですが、AMAZONマーケットプレイスなど、インターネットサイトから中古品を求めることは容易です(それほど高騰もしていないようです)。
謀叛論―他六篇・日記 (岩波文庫)


 私が購入した岩波文庫は、1995年3月8日発行の第6刷ですが、いつ読んだかまでは記憶にありま
せん(買ってもすぐに読むとは限りませんから)。
 けれども、2011年2月16日に私が「9条ネットわかやま」メーリングリストに以下のような投稿をしていたことは間違いありません。
 
「昨晩の投稿でご紹介した徳冨蘆花の「謀叛論」は、幸徳秋水らが刑死した直後に第一高等学校で行った講演でしたが、その直前、何としても幸徳らの死刑執行をとどめたいと願った蘆花が、明治44年(1911年)1月25日、東京朝日新聞主筆の池辺三山宛に郵送し、掲載を依頼したものの、その前日、幸徳らの死刑は既に執行されており、掲載には至らなかった「天皇陛下に願ひ奉る」という文章があります。
 幸徳秋水らの嫌疑が冤罪であったことは今や明らかであり、徳富蘆花もそれは承知であったと思うのですが、あえて天皇の恩典を請うという嘆願書の形式をとってでも、何とか幸徳らの命を救いたいと願った一人の誠実な文学者の文章が胸を打ちます。」
 
 そして、以上の述懐に続けて、岩波文庫から『天皇陛下に願ひ奉る』(2ページにわたっていますが、実質的にはほぼ1ページの分量です)を丸ごと書き写して紹介しました。50年の著作権保護期間はとうに過ぎていましたしね。後にこの投稿は私のブログ「あしたの朝 目がさめたら(弁護士・金原徹雄のブログ 2)」に転載しました(徳富蘆花の『天皇陛下に願ひ奉る』/2013年4月18日)。
 
 その後、この『天皇陛下に願ひ奉る』が青空文庫などのネット図書館に掲載されているのではないかと思い、時々調べてみるのですが、いまだに他に本文自体をアップしたサイトはないようです。
 そこで、山口二郎氏のコラムを読んで触発されたこともあり、再度、このメルマガ(ブログ)でご紹介
しようと思い立ちました。
 今回は、『天皇陛下に願ひ奉る』に加え、同じく『謀叛論 他六編・日記』(岩波文庫)に収録されて
いる『死刑廃すべし』という、これも短い文章(文庫で3ページ)を併せて掲載することにしました。中野好夫氏は解説の中で、「当時ほとんど同じ時期に(金原注:『天皇陛下に願ひ奉る』が書かれた時期に)、やはり大逆事件に触発されて草されたものであることは、内容からして明らかだが、発表された形迹はない。」と述べています。
 
 この2つの短文を読んで皆さんはどう思われるでしょうか。
 私の感想を一、二、書いておきます。
 まず『天皇陛下に願ひ奉る』です。5年前に「9条ネットわかやま」MLに書いたことに付け加えると
すれば、執筆者と天皇(この場合は明治天皇ですが)との間の意識上の距離の近さです。これは、2011年2月1日、徳冨健次郎(蘆花)が第一高等学校で行った講演「謀叛論」の草稿を読んでもすぐ分かることです。中野好夫氏は『謀叛論』についての解説の中で、「これ(天皇崇拝)は蘆花、というよりは徳冨一族のアキレス腱であり、あくまでもやはり彼の本音、決して当時の言論閉塞状態を考えての奴隷の言葉ではない」と評しています。

 ところで、山本太郎参議院議員園遊会で今上陛下に手紙を手渡した「事件」が報じられた時、田中正造による明治天皇への直訴事件(足尾銅山鉱毒からの住民救済を訴える)を引き合いに出す人が多かったと思いますが、私は徳冨蘆花の『天皇陛下に願ひ奉る』を思い出していました。そういえば、田中正造の直訴状(の草稿)を書いたのは幸徳秋水だったと伝えられており、十分関連性も脈絡もある訳です。

 これに対し、『死刑廃すべし』は、「天皇崇拝」という文脈から離れ、「人間には人を殺す権理(金原
注:おそらく権利に同じ)はない」というストレートな信念が吐露されており、蘆花による大逆事件被告人らの死刑阻止のための奔走が、彼のヒューマニズム人間主義)に根ざしたものであったことを推測させて
くれます。 
 
 以下に、2つの短文を底本(岩波文庫)から転記しますが、このような短い文章であればこそ、様々な
解釈や受け取り方があり得ます。
 是非、多くの方に読んでいただきたいと思います。
 なお、『天皇陛下に願ひ奉る』は、岩波文庫版からルビを省略して転記したものだけでは読みにくいと思いますので、かなりの漢字を平仮名に開き、残った難読漢字に振り仮名を付加したものも掲載しておきます。 
 

                    天皇陛下に願ひ奉る
 
 乍畏奉申上候
 今度幸徳伝次郎等二十四名の者共不届千万なる事仕出し、御思召の程も奉恐入候。然るを天恩如海十二名の者共に死減一等の恩命を垂れさせられ、誠に無勿体儀に奉存候。御恩に狃れ甘へ申す様に候得共、此上の御願には何卒元凶と目せらるゝ幸徳等十二名の者共をも御垂憐あらせられ、他の十二名同様に御恩典の御沙汰被為下度伏して奉希上候。彼等も亦陛下の赤子、元来火を放ち人を殺すたゞの賊徒には無之、平素世の為人の為にと心がけ居候者共にて、此度の不心得も一は有司共が忠義立のあまり彼等を苛め過ぎ候より彼等もヤケに相成候意味も有之、大御親の御仁慈の程も知らせず、親殺しの企したる鬼子として打殺し候は如何にも残念に奉存候。何卒彼等に今一度静に反省改悟の機会を御与へ遊ばされ度切に奉祈候。斯く奉願候者は私一人に限り不申候。あまりの恐多きに申上兼居候者に御座候。成る事ならば御前近く参上し心腹の事共言上致度候得共、野渡無人宮禁咫尺千里の如く徒に足ずり致候のみ。時機已に迫り候間不躾ながら斯くは遠方より申上候。願はくは大空の広き御心もて、天つ日の照らして隈なき如く、幸徳等十二名をも御宥免あらんことを謹んで奉願候。叩頭百拝
 
 
                  天皇陛下に願ひたてまつる
 
 おそれながら申し上げたてまつりそうろう。
 このたび幸徳伝次郎ら二十四名のものども不届き千万なることしだし、おんおぼしめしのほども恐れ入りたてまつりそうろう。しかるを天恩海のごとく十二名のものどもに死減一等(しげんいっとう)の恩命
をたれさせられ、まことにもったいなき儀に存じたてまつりそうろう。ご恩になれ甘へもうすようにそうらえども、このうえのお願いには、なにとぞ元凶と目せらるる幸徳ら十二名の者どもをもご垂憐(すいれん)あらせられ、他の十二名同様にご恩典のごさたなしくだされたく伏してこいねがいあげたてまつりそうろう。彼らもまた陛下の赤子(せきし)、元来火をはなち人を殺すただの賊徒にはこれなく、平素世のため人のためにと心がけおりそうろう者どもにて、このたびの不心得も、ひとつは有司(ゆうし)どもが忠義だてのあまり彼らをいじめ過ぎそうろうより彼らもヤケにあいなりそうろう意味もこれあり、大御親(おおみおや)のご仁慈(じんじ)のほども思ひ知らせず、親殺しのくわだてしたる鬼子(きし)として打ち殺しそうろうは、いかにも残念に存じたてまつりそうろう。なにとぞ彼らにいま一度静かに反省改悟の機会をお与えあそばされたく切(せつ)に祈りたてまつりそうろう。かく願いたてまつりそうろう者は私一人に限りもうさずそうろう。あまりの恐れ多きに申し上げかねおりそうろうものにござそうろう。なることならば、御前(みまえ)近く参上し心腹(しんぷく)のことども言上(ごんじょう)いたしたくそうらえども、野渡無人(やとひとなく)宮禁咫尺千里(きゅうきんしせきせんり)のごとく、いたずらに足ずりいたしそうろうのみ。時機すでに迫りそうろうあいだ、ぶしつけながらかくは遠方より申し上げそうろう。願はくは大空の広きみ心もて、天(あま)つ日の照らして隅(くま)なき如く、幸徳等十二名をも御宥免(ごゆうめん)あらんことをつつしんで願いたてまつりそうろう。叩頭百拝(こうとうひゃくはい)
 

底本
 岩波文庫『謀叛論 他六編・日記』(徳冨健次郎著・中野好夫編)7~8頁(1995年3月8日第6刷)を底本として使用した。なお、底本では振り仮名(ルビ)は該当箇所の右横に付されているが、本稿では、まず振り仮名を省略した本文を掲載し、次に漢字の多くを平仮名に開き、残した漢字の一部の読み方を括弧書きで表記した(一部金原の判断による読み方もある)。
 なお底本の校訂方針は、「『天皇陛下に願ひ奉る』、『日記』については、新字体を採用し、句読点、濁点を補い、ルビを付加するにとどめ、できるだけ原形を保存することとした。」とされている(凡例より)。
 
 

                            死刑廃すべし
 
 僕が八歳の年の事だ、ある日学校生徒一同を集めて先生が僕を呼び出し、健次郎さん、あなたはかくかくの日にかくかくの場所でかくかくの人にかくかくの事をしたそうだ。不届きだから竹指篦(しっぺい)の罰に処する、膝を出しなさい、といってはや竹指篦を弓形に構えた。まるで覚(おぼえ)もない事で、呆然としていると、生徒の中から誰やら声をかけて、先生違います、それは吉村健次郎さんの事でござります、というた。健次郎違いで僕は今些(いますこし)で両膝に蚯蚓(みみず)ばれをこさえてもらうところだった。
 ある裁判官の話に、どんな良い裁判官でも、一生の中(うち)には二三人位無実の者を死刑に処する経験がない者はないというた。既に先年も讃岐(さぬき)で何某(なにがし)という男が死刑に定まって、もはや執行という場合に偶然な事からその同名異人であったことがわかり、当人は絞台からすぐ娑婆へ無罪放免となったことがある。死刑は実に剣呑(けんのん)なものである。
 全体法律ほど愚なものはない。理屈なんてものは?粉(しんこ)同様いかようにでも捏(こ)ねられるものだ。証拠なんぞは見方見様で、いかようにでも解釈がつく。もし悪意があって、少し想像を加えれば、人を罪に擠(おと)すなんか造作もないことだ。
 稲妻強盗坂本慶次郎は思切(おもいき)って猛烈な罪人であった。それが心機一転して旧悪を悔い、以前の猛虎(もうこ)は羊のごとくなって絞台に上った。彼は昔の稲妻強盗ではない、復活した坂本慶次郎である。発心(ほっしん)した者を、何の必要があって、何の権理があって死刑にするか。こんな場合に死刑はほとんど無意味である。
 野口男三郎はついに十分の懺悔(ざんげ)をせずして死んだ。彼は始終自己を客観して、責任を感じなかった。寸毫(すんごう)も後悔の念は無かったのである。悔いざる者を殺したって、妄執晴るる時がなければ、再び人間に形をとって殃(わざわい)するは知れた事である。こんな場合に死刑は何の効もない。某(なにがし)の悪婆は死刑に臨んで狂い叫び、とうとう狂い死にに死んだ。立合いの裁判官や教誨師(きょうかいし)は、三日も飯が食えなかったそうだ。こんな場合の死刑は残忍至極ではないか。 
 要するに人間には人を殺す権理はない。国家の名を以(もっ)てするも、正義の名を以てするも、人を殺す権理は断じてない。
 我(わが)日本国民は正直で、常に義理に立つ国民である。義理は復讐(ふくしゅう)をゆるす、義理は罰をゆるす、戦争をゆるす、死刑をゆるす。
 しかしながら我々はこの義理の関を突破して、今一層の高処に上りたい。個人としても、国民としても今一層の高処に上りたい。それは仁の天地である、愛の世界である。
 我日本国民は死を恐れざる国民である。死を恐れぬということは長所で、同時に短所である。吾(わ)が命を惜まぬ者は、とかく人の命を惜まぬ。手取早(てっとりばや)い平均を促す種族である。暗殺を奨励する国である。刺客を嘆美する民である。一種の美はあるが、我々は今一層進歩したい。
 この意味において、僕はいかに酌量すべき余地はあるにせよ爆裂弾で大逆の企をした人々に(もし真にそのこころがあったなら)大反対であると同時に、これを死刑にした人々に対して大不平である。お互に殺し合いはよしたらどうだろう。
 註文は沢山ある。まず僕は法律の文面から死刑の二字を除きたい。廃止を主張する。
 
 
底本 岩波文庫『謀叛論 他六編・日記』(徳冨健次郎著・中野好夫編)38~40頁(1995年3月8日第6刷)を底本として使用した。なお、底本では振り仮名(ルビ)は該当漢字の右横に付されているが、本稿では、そのうちの一部を括弧書きで表記した。
 なお底本の校訂方針は、「表記は原則として、新字体・新かなを採用、ルビをふやし若干の漢字をかな書きに改めた」とされている(凡例より)。