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『よみがえる科学者~水戸巌と3・11~』(映像'16)を視聴する前に

 今晩(2016年2月19日)配信した「メルマガ金原No.2371」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
『よみがえる科学者~水戸巌と3・11~』(映像'16)を視聴する前に

 毎日放送MBS)が月に1回(最終日曜日)の深夜に放送する『映像』というドキュメンタリー枠が
あります。
 私がこの番組の存在を知ったのは、3.11直後、大変粗い画質の、多分ホームビデオで録画したものをデジタル変換したかと思われるTVドキュメンタリー番組がネットにアップされて話題を
呼んでおり、それが『なぜ警告を続けるのか~京大原子炉実験所・"異端"の研究者たち』という、「映像'08」の枠で放送された異色の番組だったことによります。
 和歌山ともご縁の深い、京大原子炉実験所に所属しながら原子力安全研究グループに集った研究者の皆さん、いわゆる「熊取6人組」を取り上げたこの番組を放映したばっかりに、関西電力からの強硬な抗議のため、番組関係者が大変な目に遭ったということが大きな話題になったのも、3.11直後ならではのことでした。
 ネットでの番組視聴時には、登場された5人(亡くなられた瀬尾健さんを除く)の方々の顔と名前がなかなか一致しないという情けない状態であった私も、その後、幸い5人全員とお目にかかる機会を持つことが出来ました。
 
 3.11まで反原発運動に全く関わって来なかった私も、その後、和歌山での原発立地阻止運動の歴史を学びながら、住民の反対運動を支えてくれた研究者のお名前を憶えていくという階梯を登って行ったのですが、どうしても関東を中心に活動されていた研究者についての知識は乏しいまま今に至っています。
 そのような知識の欠落の1つを埋めてくれそうな番組が、毎日放送「映像'16」で放送されると予告さ
れていました。
 番組ホームページには、「3月6日(日)深夜1時25分~」と書かれていますが、通常放送は「毎月
最終日曜日 24時50分~25時50分(※都合により放送日時が変更になる場合があります)」と表記されていることから考えて、実際に放送されるのは、3月6日(日)深夜ではあるけれど、日付は変わって「3月7日(月)午前1時25分~」なのかもしれません(とりあえずこちらの説を採用しますが、放送日が近付いたら「毎日放送 番組表」でご確認ください)。
 
2016年3月7日(月)01時25分~02時25分(3月6日深夜)
毎日放送ドキュメンタリー「映像'16」
よみがえる科学者~水戸巌と3・11~

(番組案内から引用開始)
山間の仮設住宅で暮らすひとりの男性がつぶやいた。
「あの人の言葉に耳を傾けていれば、こんなことにはならなかった・・・」
男性は福島県浪江町の漁師。「あの人」とは物理学者の水戸巖である。
水戸巖は東大原子核研究所の研究者。日本の原子力研究の最前線に立った。
だが原子力の利用はあまりにもリスクが大きいと、原子力政策に警鐘を鳴らすようになる。1970年代
以降、東海村を皮切りに各地の原発訴訟では科学者の立場から原告の住民を支援。福島第一原発の周辺地
域にも通い、浪江町の漁師たちとも交流した。そしておきた「3・11」。
番組では、科学者水戸巖の足跡を辿ることで日本の原子力政策の歴史と課題を振り返り、科学者のありようについても考えてみる。1986年、厳冬の剣岳2人の息子とともに遭難死した水戸巖。没後30年。そして「3・11東日本大震災」から5年を迎えるいま、「行動する科学者」水戸巖がよみがえってきた

(引用終わり)
 
 正直、水戸巖さんという研究者のお名前を聞いても思い浮かぶことは何もないという無知な私にとって、大いに勉強になる番組ではないかという気がします。
 そこで、番組視聴までの予習用に、以下の講演録と遺稿を、可能な限り読んでおこうかと思っています。
 
【講演録】
1978年4月22日 
講演「原発はこんなに危険だ」
1979年6月16日 
講演「原発はいらない」
1983年7月8日
原発の事故解析と災害評価
1986年5月14日
講演「チェルノブイリ原発事故と東海」
1986年7月10日講演
「チェルノブイリで一体何が起ったのか」
 
(水戸巖・略歴/Wikipediaより)
1933年(昭和8年)3月2日、横浜市鶴見に生まれる。
第二次世界大戦中、福島県疎開、同地の中学校を終戦後に卒業。栃木県立宇都宮高等学校卒業後、東京
大学理学部に進学、同大学大学院修了後甲南大学教員となり6年間勤務する。
1967年(昭和42年)、東京大学原子核研究所助教授となる。専門は放射線物理学。同年10月に起きた「羽田事件」において、「羽田10.8救援会」を組織して学生たちを支援、同年、日高六郎、羽仁五郎らと「救
援連絡センター」を設立、活動の支柱となる。
1971年(昭和46年)頃より反原発運動にかかわり、以後日本の反原発の主導的役割を担う。特に水戸との関係は深く、東海第二発電所の計画に際して起った設置阻止市民運動が、後に裁判に持ち込まれると「訴
状」作成段階から裁判の全過程を科学者として支えた。
1975年(昭和50年)、芝浦工業大学電気工学科教授となる。
1983年6月、第13回参議院議員通常選挙比例区無党派市民連合から立候補[1]、落選。
1986年(昭和61年)12月30日、双子の息子である京都大学大学院生の共生、および大阪大学学生の徹とともに、親子3人で北アルプス剱岳の北方稜線で消息を断つ、翌夏3人は遺体として順次見つかる、満53歳没。
 
(参考書籍)
原発は滅びゆく恐竜である─水戸巌著作・講演集』(緑風出版)
原発は滅びゆく恐竜である
水戸巌
緑風出版
2014-03-07

(出版社ホームページより)
原子核物理学者・水戸巌は、世界中が原子力発電の夢に酔っていた時代に、いち早く専門家として原子力発電の危険性を力説し、建設反対運動の現場に寄り添い、地域を駆け巡って反対を説き、反原発運動の
黎明期を切り開き、その生涯をかけて闘いぬいた。
 原発推進派や御用学者たちの冷笑と中傷の中で、水戸巌は破局的事故が起きる可能性について理路整然と指摘し、周辺で生じる被害についても警告を発し続けた。彼の分析の正しさは、チェルノブイリ原発
故、福島第一原発事故で悲劇として、本人がもっとも望まない形で、ものの見事に実証された。
 本書は、彼の論文・講演・裁判関連の文章を集め構成したものである。その文章の端々から、フクシマ以後の放射能汚染による人体への致命的影響が驚くべきリアルさで迫ってくる。」 
 

(付録)
東電に入ろう(倒電に廃炉)』(高田渡自衛隊に入ろう』の替歌)
作詞:ヒポポ大王 演奏:ヒポポフォークゲリラ(?)