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放送予告(3/19)ETV特集「名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔~」

 今晩(2016年3月17日)配信した「メルマガ金原No.2398」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
放送予告(3/19)ETV特集「名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔~」

【“人間爆弾”桜花~第721海軍航空隊~】
 
太平洋戦争末期、日本海軍が開発した特攻兵器「桜花」は、重さ1.2トンの大型爆弾を搭載し、1機で戦艦や空母をも撃沈できるとされた切り札だった。
 桜花の搭乗員は一人。操縦席には高度計や速度計など最低限のものしかなく、着陸用の車輪もなかった。攻撃目標近くで爆撃機から投下され、グライダーのように滑空。加速するためのロケットを噴射し、操縦する人間もろとも目標に突入する。一度出撃したら必ず死に至る兵器だった。
 桜花作戦を行う第721海軍航空隊は通称、神雷部隊と呼ばれた。桜花の搭乗員の多くは特攻作戦に志願してきた若者たちで、茨城県の神ノ池基地で訓練した後、多くは出撃拠点である鹿児島県・鹿屋基地に移り出撃命令を待った。
 昭和20(1945年)年3月21日。神雷部隊に初めての攻撃命令が下る。目標は九州の沖合を航行する米軍艦隊。野中五郎少佐が率いる攻撃隊の桜花15機と、それを運ぶ一式陸上攻撃機(一式陸攻)が出撃した。しかし桜花を積んだ一式陸攻は速度が落ち、護衛の戦闘機も十分ではなかった。攻撃隊は目標地点の110キロ手前で米軍機と遭遇。一式陸攻すべてが桜花とともに撃墜されてしまった。
 その後、桜花作戦は10回にわたり行われ、4月12日には土肥三郎中尉が搭乗した桜花が米駆逐艦を撃沈した。桜花作戦によって撃沈した米艦艇はこの1隻のみで、出撃機の多くが目標にたどり着く前に撃墜された。桜花作戦で失われた命は特攻による戦死と確認されているだけで430人に上った。
NHK戦争証言アーカイブス 特集 特攻 5.人間爆弾「桜花」より
 
 「特攻」について考える時、日本人は誰しも冷静を保つことが難しいのではないでしょうか。それを批判するにせよ、賞揚するにせよです。
 日本は、先の大戦で、あまりにも多くの兵員を「特攻」で死なせました。それも「組織的」に。
 従って、「特攻」を考える時、多くは「志願」した、あるいは「志願」せざるを得なかった兵員の立場から考えるか、あるいは「特攻」を制式の「作戦」にしてしまった日本軍という組織の在り方から考えるか、ということが中心になってきたように思います。
 
 最初に、NHK戦争証言アーカイブスの中の「特集 特攻」から「桜花(おうか)」の説明を引用したのは、今週末(3月19日)に放送されるETV特集が、「桜花」と非常に密接な関係を持ってしまった人物の戦後の軌跡を追ったものであるからです。
 番組案内を引用します。
 
本放送 2015年3月19日(土)午後11時00分~
再放送 2015年3月26日(土)午前0時00分~(金曜深夜)
NHK・Eテレ ETV特集
名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔~

(引用開始)
 その男は生きていた。人間爆弾と呼ばれた特攻兵器"桜花"を発案した元海軍中尉の大田正一。終戦直後、ひとり零戦に乗って海に飛び込み、自殺を遂げたはずだった。
 "桜花"は太平洋戦争中、海軍が零戦の特攻に先駆けて開発を進めた特攻専用の有人飛行爆弾で、人間が操縦したままロケットを噴射し敵艦に体当たりする。この非情な兵器を考え出し、海軍上層部に提案したのが大田正一だった。しかし現実の桜花は、母機が敵艦に近づく前にアメリカの戦闘機に撃ち落とされ、ほとんど戦果を挙げられなかった。発案者の大田正一は終戦の3日後、零戦に乗って海に飛び込み、自殺を遂げたとされていた。しかし、その大田正一は生きていた。偽名を使い大阪で新しい家庭を作っていた。
 息子の大屋隆司さん(63)が父の本当の名前を知ったのは中学生の時だった。子煩悩でやさしかった父と、非情な兵器を考え出した父とが結びつかず、それ以上詳しい話を聞くことはできなかった。父は本当はどんな人間だったのか。父が背負い続けたものはいったい何だったのか。戦後70年の節目を迎え、隆司さんは戦争中の父を知る元桜花搭乗員を訪ね、その人生の痕跡を探り始めた。知らなかった父の過去と向き合おうとする息子の姿を通して、今なお残る戦争の傷跡を探る。
語り:三浦貴大(内容59分)
(引用終わり)
 
 「桜花」の発案者・大田正一元中尉が「生きていた」こと自体は、既に知られたことであったようで、「桜花」についての非常に詳細な解説が書かれているWikipediaにも、以下のような説明があります(ちなみに、Wikipediaの解説の質は、項目によってばらばらですが、「桜花」の項は優れているという印象を受けます)。
 
(引用開始)
 桜花発案者の一人大田正一中尉は、自ら桜花に搭乗したいと操縦の手ほどきを受けていたが適正がないと判定されると、多くの戦友を死地に送ったという事実だけが残り、心の平静を失いおかしな言動が目立つようになった。その為、自殺の危険性があると懸念され周囲から警戒されていた。終戦となると自分が戦争犯罪者になると思いこみ、遺書を書いた後に、零戦を強奪すると自決の為と称して鹿島灘に飛び立った。そのまま事故死したと処理され戸籍からも抹消されたが、その後漁船に救助されて改名して生存していた事が判明し、無戸籍のまま1994年にその生涯を終えた。(出典:加藤浩『神雷部隊始末記』P.488)
(引用終わり)
 
 自ら発案してその実現のために奔走し、「多くの戦友を死地に送った」人間の後半生がいかなるものであったかに番組がどこまで迫れたか、見届けたいと思います。
 
(付記)
 おそらく「桜花」の最初の出撃時(1945年3月21日)に米軍機から撮影されたと思われるカラー映像があります。この時出撃した「桜花」15機は、全て母機「一式陸攻」から放たれることなく、母機もろとも全機撃墜されました。