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西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』

 今晩(2016年3月27日)配信した「メルマガ金原No.2408」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』

 「憲法を生かす会 わかやま」のというか、「関電(関西電力和歌山支店)前金曜アクション」のというか、「ドジョウスクイの紀州熊五郎」のというか、とてもそういう所属や肩書きでは語りきれない活躍を続ける西郷章さんは、今でこそご自身のFacebookで日々積極的な発信を続けておられますが、Facebookを始めるまでは、私のメルマガ(ブログ)によく寄稿してくださっていたものです。
 ただ、今でも年に1度くらいではありますが、これぞという書きたいテーマが浮かんだ時に、非常に力のこもった原稿をお送りいただくことがあります。
 ここ3年ほどの間に西郷さんに寄稿していただいた原稿をご紹介します。十分に再読三読に耐える素晴らしい文章だと思います。
 
 
 ところで、今日ご紹介する西郷さんの寄稿は、去る3月13日に和歌山城西の丸広場で開催された「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2016」及びその後の紀南文化会館(田辺市)での集会のために福島県から駆け付け、熱いスピーチをしてくださった吉沢正巳さん(希望の牧場・ふくしま代表)を和歌山まで案内したというか、運転手をつとめたというか、とにかく波瀾万丈の同行記です。しかも、文章の理解を助ける動画が西郷さんのFacebookにアップされているという周到さです。
 西郷さんからは、吉沢さんが福島に帰られてそれほど間を置かずに原稿をお送りいただいていたのですが、編集者(私のこと)多忙につき、原稿に目を通して掲載用に校正する時間がなかなかとれず、ひとまず西郷さんのFacebookに先行発表して欲しいとお願いしました。
 ということで、掲載が遅くなり、西郷さんには大変申し訳なく思っています。
 それでは、長らくお待たせしました。西郷さんの決死の“ベコトレ”陸送記をお楽しみください。
 
(補注その1)
 メルマガ(ブログ)掲載用の最終稿を確定するため、西郷さんと打合せをしようと思い、メール、Facebookなど、ネットを利用して連絡をとろうとしたのですが、3月24日(木)の午後以降、「音信不通」となっており、今日(3月27日)の午後、「Sound Walk Festa –Democracy Never Falls Silent-サウンド・ウォーク・フェスタ 民主主義は黙らない」が開かれた和歌山城西の丸広場で久しぶりに西郷さんにお目にかかって確認したところ、推測したとおり、パソコンが不調(冷却装置の故障のようです)となり、修理に出しているということでした。ということで、西郷さんの「友達」の皆さん、Facebookで西郷さんの健筆に触れるには、あと少し時間がかかりそうです。
 
(補注その2)
 今日、西の丸広場で西郷さんと掲載原稿について打合せをした際、吉沢さんと「希望の牧場」についての説明がほとんどなく、予備知識のない人が読んでも、文章の趣旨が伝わらないのではないかということを西郷さんが懸念されていました。
 たしかに、吉沢正巳さんと「希望の牧場」については、読者は先刻「ご存知」であることを前提として書かれており、吉沢さんのことも、「希望の牧場」のことも全く知らない人が読んだら、そもそもなぜ吉沢さんが牛のモニュメントをけん引して各地を訪れ、時間を見つけては街宣活動をされているのか、訳が分からないかもしれません。
 そこで、西郷さんにお願いして以下の原稿に補筆してもらうのが良いのかもしれませんが、(補注その1)に書いたとおり、西郷さんのパソコンが修理中で、直るまでに相当日数を要しそうですから、それを待っている訳にもいきませんので、私の方で簡単な説明をさせていただくことにしました。
 3.11当時、吉沢さんは、福島第一原発から直線距離で14㎞の浪江町にある「エム牧場」の浪江農場長として、330頭の和牛を育てていました。原発事故後、警戒区域に指定され、大半の牧場が家畜を繋いだまま避難せざるを得なくなる中(結果として牛たちは餓死することに)、吉沢さんは、社長の方針もあり、牛の世話を続け、さらに、行政から家畜全頭殺処分の方針が出された後もその受け入れを拒否し、牛たちを「原発事故の生き証人」として生かし続けており、現在、非営利一般社団法人「希望の牧場・ふくしま」代表理事を務めておられます。
 そして、様々な機会をとらえて、国や東京電力の責任を厳しく糾弾し、2014年6月には、飼育する牛にあらわれた白斑の調査を要求したにもかかわらず、遅々として進まないことに業を煮やした吉沢さんが、家畜運搬車に白斑のあらわれた牧場の被曝牛を1頭乗せ、東京の農水省まで抗議に押しかけた直接行動は話題を集めました。
 「希望の牧場」訪問記や吉沢正巳さんインタビューはネット上でいくつも読めますが、最もよくまとまっているものとしてお奨めなのが、週刊通販生活に掲載されたフリーランスライター畠山理仁さんが書かれたレポートです。
週刊通販生活 2015年1月20日
「決死救命、団結!」――希望の牧場・吉沢正巳の訴え(前編)
週刊通販生活 2015年1月27日
「決死救命、団結!」――希望の牧場・吉沢正巳の訴え(後編)
 
(補注その3)
 西郷さんが書かれた2013年の報告記には、同年9月23日に初めて吉沢さんの“希望の牧場」を訪問した様子が書かれており、また、2014年の報告記にも、同年3月13日に再度同牧場を訪問したことに触れられています。
 
(補注その4)
 車両総重量が750kg以下の車をけん引する場合には、けん引免許は必要ありません。
 

        和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた
               ~“ベコトレ”陸送奮闘記
 
                                    西 郷   章
                
吉沢正巳さんが和歌山にやって来る
 3月12日午前8時、福島県郡山駅で吉沢正巳さん(一般社団法人「希望の牧場・ふくしま」代表)と待ち合わせ、彼の愛車の軽バン“希望の牧場号”に同乗させてもらい、翌13日に和歌山城西の丸広場で開催される「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2016」に参加するため、一路和歌山目指して出発です。
 なぜ、私が吉沢さんの車に便乗して和歌山まで帰ることになったのか?その訳から説明します。吉沢さんの「希望の牧場」へは、2013年9月と翌14年3月の2回訪れており、その際、吉沢さんから「和歌山にも行きたい」と言われていたのですが、組織力も何もない私たちは、期待に応えることができませんでした。
 そして、2度目の訪問から1年半以上が経つた2015年末、私も実行委員の一員である「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション」実行委員会事務局の里﨑正さんから、「来年3月の原発ゼロアクションに吉沢さんを呼びたいのだが」という相談があり、さっそく吉沢さんに連絡しますと、3.11前後の忙しい時期にもかかわらず、二つ返事で了解していただきました。吉沢さんとしては、1基も原発を建てさせなかった和歌山に大きな関心をいだいていたようです。
 明けて2016年1月半ばに開かれた「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2016」の第2回実行委員会において、3月13日(日)の全体集会のメインゲストとして、吉沢正巳さんにお話いただくことが正式決定されたのです。
 
3年目の「3・11反原発福島行動」出演要請
 また、これとは別に、2013年に和歌山の仲間5人で大間~福島交流ドライブ旅行を行い福島の方々と交流を深めたこと、その後、和歌山にお招きした椎名千恵子さんの前で披露した私のドジョスクイやアコーディオンの三文芸などが縁となり、2014年と15年に連続して参加してきた福島の「3・11反原発福島行動」実行委員会さんから、「今年の集会の『皆で歌おう』コーナーでのアコーディオン伴奏をやってほしい」との突然の出演依頼があり、「私の下手な伴奏でも福島の皆さんのお役に立てるなら、喜んで協力させてもらいます」とお受けしたことでした。
 突然と言いますのは、私が福島の方たちと交流するきっかけを作ってくれたTさんが病気のために療養が必要となり、市民運動を休止せざるをえなくなったため、私は今年の福島行きはあきらめていたのです。そこへ、1月末に出演依頼があったため、それにお応えすることにしたのですが、そこで思い出したのが吉沢正巳さんのことです。
 もともと飛行機に乗ることがあまり好きでない私は、「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2016」へのゲスト出演のため和歌山に来られる吉沢さんのことを思い出し、吉沢さんに「和歌山に行くときに一緒に乗せていただけないですか」と頼んだところ、最初は戸惑っている様子でしたが、すぐに「いいですよ」と承知してくれたのです。
 このように、私の福島入りが3月10日、吉沢さんの和歌山行きが3月12日と日程のタイミングがうまく噛み合って了承いただいたことで、まさか牽引車があるなどとは夢にも知らない私は、喜んでその気になったのでした。
 
「私(西郷)もアコーディオンによる歌の伴奏で出演した『3・11反原発福島行動'16』の集会場で、割れんばかりの声で思いのたけを訴える吉沢さんです。」
 
いざ和歌山へ
 そして、そのような気軽な気持ちでいた私は、以下に述べるような現実の中で、ある種の重要な任務を自覚せざるを得なくなっていったのです。
 それは、前日(11日)、郡山市の開成山野外音楽堂で開かれた「3・11反原発福島行動'16」出演時からすでに風邪をこじらせていた吉沢さんの体調が、一夜明けた今日になっても回復しないまま出発しなければならず、私は必然的に自分が運転の大半をやらなければいけないと覚悟を決めたことでした。
 3月12日の朝8時、いよいよ和歌山に向けて郡山駅前を出発です。
 当初、私は和歌山までの所要時間を15時間とみていましたが、吉沢さんの話によると、途中で浜松の工場に修理に出している牛のモニュメントを積んだトレーラー(べコトレ)を連結しなければならないということでした。なぜそのような寄り道をしなければならないのかというと、実は吉沢さんは、和歌山に出向く1週間前に、三重県の集会で話をするために出かけていたのですが、その帰途、引っ張っていった牛のモニュメントを積んだトレーラー(べコトレ)の車輪軸のベアリングが浜松付近の高速道路上で砕けてしまって走行できなくなり、やむなく浜松の最寄りの修理工場に「早急に直してもらえないか」と依頼したのです。
 そして吉沢さんには、そのベコトレを何としてでも12日までには修理を完了して和歌山に持って行き、皆さんに見てもらいたい気持ちがあったのです。けれども、郡山出発の時点では、そのベコトレの修理が完了しているかどうかは微妙なところで、行ってみなければ分からないものの、とりあえず浜松へ行くために首都高速を通過することにしました。 まず、出発時は吉沢さんの運転です。そして、2つ目のドライブインで私と交代しました。その後、東京都心へと向かいますが、私の運転は相当頼りないと感じたことでしょう。しかし、吉沢さんにしてみても、体調不良の時だけに背に腹は代えられません。そのような事情もあって、運転中は世間話などもほとんどすることはありませんでしたが、その一方で牧場からの電話はよくかかってきます。「バス2台でお客が来た」とか、「もう1台増えたからパンフなどはどれを渡せばいいのか」などと忙しそうでした。
 そうこうしているうちに、私が慣れない首都高速を心配しながら運転しているところへ、浜松の修理工場から「べコトレが直った」との連絡が入りました。そして、あと少しで首都高速を抜けるという時に横道にそれてしまったのです。そのため、吉沢さんに運転を代わってもらい、進路を修正するのに20分くらいはかかったと思います。何とか軌道修正した後も、浜松の修理工場までは、そのまま吉沢さんに運転を続けてもらいました。
 
満蒙開拓団がつなぐ縁
 吉沢さんが運転する“希望の牧場号”はやがて静岡県に入りましたが、外を見ると空は曇っており富士山を眺めることはできませんでした。
 そして、郡山を出てからここまでの間、吉沢さんが風邪ひきで体調が良くないこともあり、ほぼ込み入った話をすることもなかったのですが、1つだけ私のほうから吉沢さんのお父さんの満蒙開拓団での話を尋ねたのです。と言いますのは、私の義父(嫁の父)も同じ満蒙開拓団員として「九死に一生を得る」経験をしたからです。開拓団員の移住先は各県ごとに違うようで、吉沢さんのお父さんは福島(千葉だったか?)から吉林省へ送り込まれ、私の義父は和歌山から奉天へと送り込まれました。
 最初のうちは良かったかもしれませんが、実質的な関東軍の最下級兵として、食糧調達係や、馬賊、卑(ひ)賊から満州鉄道や田畑を守る任務が命じられていたのではないかと思います。戦況が不利になるころには関東軍に見捨てられ、ソ満国境付近でソ連軍の侵攻から逃げ延びるために荒野の中をさまよった挙句ついに捕らえられ、シベリアの捕虜施設に収容されることになります。その極寒地での寒さと飢えの過酷な生活に多くの者が耐え切れず犠牲になったといいます。
 しかし、吉沢さんのお父さんも私の義父も、運よく過酷な条件の中を生き延びることができたのです。吉沢さんの牧場は、そのようなお父さんが苦労して残した土地でした。
 私の義父も満州では3町歩~5町歩位の土地を任されたのではないでしょうか。そんな広い土地を手にした義父は、和歌山に45坪ほどの宅地を買うときに、足元に土地があるのに、どこに土地があるのかという目で遠くを眺めていたのを思い出します。そして、真冬でも足袋や靴下を履かない芯の強い人でした。
 
丸木美術館での特別展「牧場」と企画展「光明の種 POST 3.11」
 もう一つ印象深い話がありました。
 それは、埼玉県東松山市にある「原爆の図」で有名な丸木美術館に、希望の牧場の牛の巨大な〔何メートルか忘れましたが〕壁画のような絵画が展示されているという話を吉沢さんに聞いたことです。実は同時期、丸木美術館には、和歌山にも友人が沢山いる彫刻家の安藤栄作さんの作品も展示されていることを思い出したからです。
 福島へ行く3週間くらい前に、芸術などにおよそ縁のない三文芸しかできない私のもとになぜか、3.11以後、福島県いわき市から避難して現在奈良県で暮らしている安藤栄作さんから、丸木美術館で仲間とともに展覧会を開催することになった(3月5日~4月9日)ということで、その案内パンフレットが届いたのです。私は、埼玉県のことですので、自分は何かの用事でもない限り立ち寄ることはないと思っていましたが、たまたま埼玉の3人の友人のことを思い出し、安藤さんたちの展覧会のことを知らせました。するとその中の一人の女性から、「丸木美術館に見に行こうと思っています。丸木ご夫婦の尽力、また美術館を維持されている皆さんに心から敬意を表したいと思います」との一文を添えた手紙が届いたのです。その手紙を受け取って1週間以上たちましたが、私は彼女に吉沢さんの牧場の牛の絵のこともぜひ知らせてあげたいと思っています。
 安藤さんから案内状をいただいた時には、まだ吉沢さんの牧場の牛の絵画が丸木美術館に展示されていることこそ知りませんでしたが、福島から吉沢さんと和歌山に向かうことが分かっていましたから、その途中で安藤さんの作品を見に立ち寄りたいという思いも頭をよぎったのですが、その日(12日)のうちに和歌山に到着しなければならないことを考えると無理な話でした。もし、丸木美術館に立ち寄ることができたなら、さらに良い思い出になったと思うと非常に残念な気がしました。
 
(金原注)
 3月5日~4月9日という同じ期間、丸木美術館では、以下の2つの特別展・企画展が開かれています。
◎アートスペース特別展示 2016/3/5~4/9 山内若菜展「牧場」
◎企画展 2016/3/5~4/9 「光明の種 POST 3.11」
 
浜松で“希望の牧場号”と“ベコトレ”が合体 
 さて、話をもとに戻します。
 父親たちの満州で話をしながら浜松の修理工場にたどり着いたのは、東名高速から一般道に降りて20分くらい経った頃でした。浜松の修理工場では、ここまで乗ってきた“希望の牧場号”と連結する際、“ベコトレ”のライトアップ用電気系統の補修に1時間くらいかかりましたが、ようやく直って、ここからは“希望の牧場号”と“ベコトレ”の合体車になりました。
 ここからも、しばらくは吉沢さんが試運転を兼ねて運転をします。車内には修理が間に合ったことを喜ぶかのようにロック調の激しく軽快な音楽が流れます。この歌を吉沢さんは何回も繰り返して聞かせるので、よく歌詞を聴いていると極めてまじめな歌であることが分かりました。あとでこの歌のことを聞きますと、吉沢さんの友人のグループの歌で、2015年の紅白歌合戦にも出場したと言っていました。タイトルも歌手名も忘れましたが、もう1度聞きたい歌になりました(金原注:色々考えてみましたが、これだけでは全然見当もつきません)。
 
「約1週間前に車軸ベアリングが破損して浜松の修理屋に頼んでいた“ベコトレ”(牛のモニュメントを積んだトレラー)は治っていたものの、ライトアップの配線がどうもうまくいっていないので少しもたついてしまいましたが、1時間ほどで直りました。和歌山に間に合った。もう大丈夫です。」
 
「浜松で修理がなった“ベコトレ”の調子も快調で東名高速を順調に走ります。」
 
「目的地和歌山城に向かって『希望の牧場号』は吉沢さんの友人の音楽に励まされて名古屋の手前あたりを走ります。」(金原からのお願い・誰かこの楽曲のアーティスト名と曲名を教えてください)
 
“ベコトレ”をけん引して九死に一生を得る
 さて、名古屋に差しかかるころにいよいよ私と運転交代です。牛の人形というかモニュメントを積んだ台車とはいえ、牽引車を運転するのは初めてのことで、やはり緊張します。恐る恐るの運転は徐々にしか慣れてきません。慣れかかったころに第1発目の驚きがやってきました。名古屋中心部の大きな橋を渡っているときです。ガガッと何かに当たったような音が2度ほどして、グラグラッと揺れたのです。「なんだ!なんだ!」と驚きの声を上げると、吉沢さんは「大丈夫です。風のせいです」といいます。私には初めての感覚です。
 その後、車線を右に変更しょうとしたときに突然死角から並行車が追い抜いて行ったので、これもびっくりしました。
 一番肝をつぶしたのは、三重県に入って第二名阪に入るのを間違えて伊勢道に入り、間違いに気が付き、津市でUターンした時のことです。一般道をトコトコと引き返して第二名阪の入り口に来たので進入しようとしたところ、吉沢さんから「そこは出口です」と言われたので、10メートルほど向うの進入口までヒョロヒョロと対向車線を踏むように走行すると、その時に直進車が接近してきて衝突しそうになり、さすがの吉沢さんも「危ない!」と叫んでしまいました。吉沢さんの標語は「決死救命!」ですが、危険認識の甘い私にとっては「必死賭命」(命がけ)の運転となりました。
 
ようやく和歌山に到着
 第二名阪に入りますと、嵐が去ったように運転も落ち着いてきて、吉沢さんも安心したのか深い眠りに入ったようです。奈良から大阪を経由して和歌山にたどり着くまでの1時間半位は眠っていたようで、目を覚ましたのは和歌山市の楠見地区でガソリン補給をしていた時でした。当初は、早く到着しそうなので、仲間と一緒に食事でもするつもりでしたが、結局は予定時間近くの22時30分くらいになってしまったので、吉沢さんの風邪のこと、明日の朝のことを考えて、そのままホテルへ直行することになりました。けれども、“希望の牧場号”と“べコトレ”連結車は長過ぎてホテルの駐車場には駐められないため、私の家の近くの紀の川河川敷内の駐車場に置かせていただくことにしました。
 
「『フクシマ島を忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2016』に持ち込まれれる“ベコトレ”と牽引車の“希望の牧場号”は、私の家の近くの紀ノ川河川敷公園駐車場に置かせていただきました。怪しげな光に浮かび上がる牛のモニュメントです。」
 
和歌山と田辺で吉沢正巳さんが魂の訴え
 さて、3月13日の当日、吉沢さんがスピーチする「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2016」の全体集会は午前10時から始まることになっていましたが、吉沢さんは、始まる前の30分ほど、和歌山城の周辺を“ベコトレ”をけん引しながら街宣したいと言っていたのですが、念のため、街宣の前に会場に行って実行委員会事務局に説明すると、「今すぐ会場内に車を入れてほしい」ということで街宣は取り止めになり、ステージ代わりの大型トレーラーのすぐ側に、“希望の牧場号”と“ベコトレ”を横付けしました。早くから会場に足を運んでおられた参加者が、“ベコトレ”の牛のモニュメントを興味深げに眺めたりしていましたが、あとで他の実行委員から聞いたところでは、吉沢さんの行動に深く共感した女性が大阪から駆け付け、“ベコトレ”をバックに吉沢さんと記念撮影したりしていたそうです。
 やがて、サクソフォン奏者の中川美保さんによるオープニングの演奏、そして実行委員会からの開会挨拶に引き続き、メイン・ゲストとしての吉沢さんのスピーチが始まりました。最初は静かな口調でしたので、「まだ風邪がこじれて元気が出ないのかな」と思っていますと、だんだんとボルテージが上がってきます。ついに本領発揮、会場が割れんばかりの大演説となったのです。完全に計算しつくされた見事な演説だと思いました。
 そのあとすぐに田辺の講演会場へと向かいましたが、田辺でもきっと心をつかむ迫力満点の演説をやってくれたに違いないと思いました。
 
「『フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2016』のメインゲストとして和歌山城西の丸広場の会場で腹からの演説をする吉沢さん。」
 
3月14日朝 和歌山駅前での街宣 そして帰途に
 田辺市の紀南文化会館での講演の後、和歌山市内に戻り、当地での2泊目となりましたが、実行委員会のメンバー何人かと吉沢さんとで簡単な食事をした際、翌朝福島に向けて出発する前の午前9時から半時間ほど、和歌山駅前で最後の街宣をする約束をしてくれたのです。
 翌朝は、冷たい雨が降りしきっていましたが、私は少し早めの8時40分ごろに予定の和歌山駅前に行きますと、もうすでに吉沢さんはしゃべっているのです。そして、ほかの仲間が約束の9時に来た時にはすでに終わっており、私だけが半分程度聞くことができたのですが、その言葉の中には、原発事故によって福島県浪江町を奪われた口惜しさ無念さと共に、和歌山に来て、また一つ強い絆が結ばれた喜びや、お世話になった仲間の皆さんへの感謝の気持ちを感じました。私たちも遠路はるばる来ていただいた吉沢さんに大きなパワーをもらい、原発をつぶす決意を新たに出来たことに感謝したいと思います。
 
「3月14日(月)朝8時40分、和歌山駅前での吉沢さんの街宣活動。9時過ぎに福島に帰る“希望の牧場号”に同乗するスタッフが到着するまで、風雨が強いために車内からアピールをする吉沢さん。」
 
「3月14日(月)朝9時過ぎ。風雨の中、和歌山駅前街宣で和歌山にお礼を言って福島へと向かう吉沢さんとスタッフ。」
 
 吉沢さん本当にお疲れさまでした。今後ともお元気でご活躍ください。ありがとうございました。 
                                       おわり(2016年3月16日・記)
 
(追加映像)
 3月13日、「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2016」(和歌山城西の丸広場)全体集会での吉沢正巳さんのスピーチを収録した別動画として、小谷英治さん撮影してYouTubeにアップされたものもご紹介しておきます(20分10秒)。