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追悼・寺井拓也さん(再配信・『原発を拒み続けた和歌山の記録』地方出版文化功労賞 奨励賞 受賞記念スピーチ(草稿))

 今晩(2016年4月16日)配信した「メルマガ金原No.2428」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
追悼・寺井拓也さん(再配信・『原発を拒み続けた和歌山の記録』地方出版文化功労賞 奨励賞 受賞記念スピーチ(草稿))
 
 今日(4月16日)の午後開かれた「安保法制の廃止を求める和歌山の会 第2回 賛同団体・賛同者のつどい」(於:和歌山市勤労者総合センター6階文化ホール)において、7月の参院選和歌山県選挙区に、与党候補に対抗する統一候補として、由良登信(ゆら・たかのぶ)弁護士を擁立し、県内野党に推薦を要請することが満場一致で決議されました。そのことを書かねばとは思うのですが、それは明日以降ということにします。
 
 今朝、勤労者総合センターに出かける前、午後からの「つどい」の司会を務めることになっていた私は、進行次第を再確認しようと思ってパソコンを立ち上げたところ、Facebookに、西郷章さんからの「寺井拓也さん(和歌山県田辺市)が亡くなられた」という悲しい知らせが届いていました。
 ご病気のため、活動から退かれて療養されていることはうかがっていましたが、やはり早過ぎる訃報でした。

 私が、寺井拓也さんと知り合ったのは、2006年1月に私が「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」の2代目事務局長に就任して以降のことで、紀南地方の中心都市である田辺市で設立された「田辺9条の会」の、当初は寺井さんが事務局長だったと思うのですが、そのような、「9条の会」の事務局長同士として、県下の様々な行事でお会いすることが重なり、次第に親交を深めていきました。
 そのような経緯から、はじめはもっぱら「9条の会」に関わる運動での同士であった訳ですが、とりわけ3.11以降は、寺井さんが、9条だけではなく、脱原発運動にも深く関わってこられた方であることを知るに至りました。
 今から振り返ると、寺井さんが編集の中心を担われた2012年5月刊行の『原発を拒み続けた和歌山の記録』(汐見文隆監修、「脱原発和歌山」編集委員会編/寿郎社刊)は、寺井さんの脱原発活動の総決算だったのだなと思います。
 
 とはいえ、私は、寺井さんが「1946年生まれ。新潟県長岡市出身」であることも、前記書籍巻末の執筆者一覧の記載を読んで初めて知ったくらいで、それ以外の経歴も全然存じ上げず、追悼文を書くような資格はありません。
 けれども、芯の強さを秘めながら、私などには常に穏やかに、控えめに接してくださった寺井さんの温顔が忘れられません。

 幸い、寺井さんは、私の「メルマガ金原」(とそれを転載する「弁護士・金原徹雄のブログ」)のために、2編の原稿を寄せてくださっています。
 今日は、そのうちの1編、『原発を拒み続けた和歌山の記録』が地方出版文化功労賞奨励賞を受賞された際、編集者・執筆者を代表して話された受賞記念スピーチ「フクシマの教訓と和歌山の『記録』」を、追悼のために再録します。
 寺井さんとしても渾身の力をこめて執筆されたスピーチ原稿だったと思います。

 以下に、2013年11月15日に配信した記事全体を再配信しますが、それに先立ち、地方出版文化功労賞奨励賞の授賞理由をご紹介しておきます。
 
(引用開始)
監修者略歴 汐見文隆氏、1924年京都市生まれ。京都帝国大学医学部卒業。医学博士。和歌山県赤十字病院第一内科部長をへて2002年まで和歌山市で内科医院を開業。長年和歌山で公害問題に取り組み「第四回田尻賞」受賞。著書に『低周波公害のはなし』(晩聲社)、『隠された健康障害 低周波公害の真実』(かもがわ出版)、『左脳受容説 低周波音被害の謎を追う』(ロシナンテ社)など。
発行所 有限会社寿郎社
        札幌市北区北7条西2丁目37山京ビル 電話011(708)8566
発行者 土肥寿郎
体裁 250頁 定価1,575円(税込)
発行 2012年5月11日
<選考理由>
 昭和42年に始まり、平成2年におおむねの終結となった和歌山県内での原子力発電所設置の動きとそれに反対し、終結へと導いた住民をはじめとした関係者の活動をまとめた記録集である。
 他の県でも(鳥取県でも)こうした原発の計画とそれを阻止した住民の活動はあるが、その多くは、だれもが手に取りやすい整理された形での記録としては残されていない。この本のあとがきにも「『和歌山県原発計画があったのですか?』。多くの人から聞く言葉だ。県外だけではない。県内の人からも聞く。若者だけではなく年配者からも聞く。よくは知らない、忘れてしまったという人も多くなった。」と記されている。そんな中で東日本大震災と福島第1原発事故が、それまでの記録として残したいという関係者の気持ちを後押しして、この本が出来上がった。
 第1章ではそれぞれの町に起こった原発設置と反対運動が多くの関係者の表と裏の状況や動きを克明に再現していく。町長や議会、電力会社、漁協、住民、理論面での協力者、支援者、国等々多くの関係者の動きは決して単純ではなく、複雑に絡み合い変化していく。特にこの中での漁協の動きは複雑だが大きな意味を持ち、その臨場感とともに強く印象付けられる。
 第2章では理論的な面での指導者(協力者)と実際の運動を担った人たちにスポットが当てられ、どのように反対運動が行われたかが明らかにされる。ここでは女性の活動とその思いにページを割いているが、こうした部分こそ失われることのないように記録を残したいところと思料する。また、スリーマイルとチェルノブイリの事故が大きな影響を与え、薄氷を踏む思いの結果であったことも両章で明らかにされている。
 審査では記述のダブりや今という時期に書かれたことによる影響が感じられる部分もあること、「今だからこそ必要な本」と「なぜ今なのか」「今ならもう少し相手方のことがかけたのではないか」という議論などがあった。しかし和歌山県という地域にとっての長く大きな出来事を後世に残すための大切な記録であり、日本の原発を考える上での貴重な資料でもある本が著者・編者の努力とともに地方の小出版社から出版されたことが評価された。
(引用終わり)
 
 なお、鳥取県米子市での受賞記念スピーチからやく5か月後の2014年3月11日、寺井さんは、福島県郡山市で開かれた「3.11反原発福島行動2014」において、県外からの発言者として登壇し、スピーチされています。
 その模様を、同行した西郷章さんが撮影し、Facebookにアップされています。映像は小さいですが、音声自体は比較的クリアに収録されており、寺井さんのスピーチの内容がよく聴き取れます。
 この日の集会の模様はいくつかYouTubeにアップされていますが、いずれも音声が聴き取りずらく、やはり一番のお奨めは西郷さんが収録されたものです。
 
 
 なお、寺井さんからはもう1編、2013年に西郷さんらと青森、福島を訪問された際のレポートを寄稿していただいていますが、これは是非リンク先でお読みください。
 
あさこはうす この旅行の際に撮影された写真を1枚ご紹介しておきます。2013年9月22日、寺井さん、西郷章さんら、和歌山から東北をめざした一行5人が、まず向かった先が、大間原発予定地の真ん中に立つ「あさこはうす」でした。写真は、向かって左から、寺井拓也さん、お母さんの遺志を嗣いで「あさこはうす」を守る小笠原厚子さん、そして西郷章さんです。
 
 護憲の、脱原発の先達にして同士であった寺井さん、安らかにお眠りください。
 

 2013年11月15日に配信した「メルマガ金原No.1544」を再配信します。
 
寺井拓也氏『原発を拒み続けた和歌山の記録』第26回 地方出版文化功労賞 奨励賞 受賞記念スピーチ(草稿)
 
 去る2013年10月27日、鳥取県米子市において、「ブックインとっとり実行委員会」が主催する「第26回 地方出版文化功労賞」の表彰式が行われました。
 「地方出版文化功労賞」を受賞したのは渡辺一史著『北の無人駅から』(北海道新聞社)、そして同奨励賞を受賞したのが「脱原発わかやま」編集委員会編・汐見文隆監修『原発を拒み続けた和歌山の記録』(寿郎社)でした。
 
北の無人駅から


原発を拒み続けた和歌山の記録


 
 表彰式では、受賞者による記念スピーチが行われ、奨励賞を受賞した『原発を拒み続けた和歌山の記録』については、和歌山県田辺市の寺井拓也さんがスピーチをされました。
 このたび、寺井さんからそのスピーチのために書かれた草稿をお送りいただき、ご紹介できることになりました。
 そこで語られている見解は、もちろん寺井さん個人のものではありますが、原発建設を阻止すべく闘った先人や、和歌山県民のみならず、全国の原発廃絶を願う多くの人々の共感を得られる意見ではないかと思います。
 是非お読みいただきたくお薦めします。
 
 なお、当初「40分」という予定時間に合わせて草稿を書いていたところ、直前になって「30分」にせざるを得なくなり、実際にはカットした部分があるそうですが、ここにご紹介するスピーチ草稿は「40分用完全版」です。
 

      『原発を拒み続けた和歌山の記録』 地方出版文化功労賞 奨励賞
                 受賞記念スピーチ(草稿)
           
フクシマの教訓と和歌山の『記録』
                         
                                       寺 井 拓 也
 

1  はじめに・・・監修者に代わって
 ただ今ご紹介頂きました寺井でございます。
 今日の受賞式には、本来、監修者である汐見文隆氏がまいり、ご挨拶をすべきところですが、ご高齢で、体調が優れないため、まいることができません。そこで今日は、私たち編集・執筆者4人のうち、浅里耕一郎さん、中西仁士さんと、私、寺井の3名がまいりました。よろしくお願い致します。
 なお、今日の私のスピーチは、「脱原発わかやま」としてではなく、寺井個人の思いであるということを、最初に申し上げておきたいと思います。
 
2 主催者への御礼
 まず、ブックインとっとり実行委員会が、たくさんの地方出版物のなかから、私たちの本を選考して頂きましたことに御礼を申し上げます。
 このような大切な文化事業鳥取県の皆さんが26年もの長い間、取り組んできておられますことに敬意を表したいと思います。
 さらに、選考過程をお伺いいたしますと、各地区の推薦委員の方々などによる投票や、次には審査委員の方々による数ヶ月にわたる審査を経て、約650点の中から選考されたということでございまして、こういうお話を伺いますと身の引き締まる思いでございます。
 
3 「脱原発わかやま」について
 ここで、「脱原発わかやま」について、簡単にご説明申し上げたいと思います。和歌山県原発計画についてですが、1967年から4つの町の5箇所で建設計画が進められました。20年以上にわたり激しい攻防が繰り広げられました。その結果、和歌山県には原発は、現在1基もございません。この反対運動のさなかに発生したチェルノブイリ原発事故のあと、県内各地に結成された市民グループが、1989年にそのネットワークを結成したものであります。つまり、この鳥取の地方出版文化賞が始まった1988年の翌年に発足したことになります。以来、毎年、講演会などの活動をしてきております。
 
4 本の執筆経緯
 次に執筆の経緯ですが、そもそもの出発点は、一昨年の8月のこと、ある会合の場で執筆者の1人である中西さんが、提案されたものでありました。
 これまで、和歌山県原発反対運動に関しては、まとまった記録が一つもありませんでしたので、まとめておく必要性はあると、私も感じていました。しかし、私は、中西さんの提案に対して、今になって白状しますと、内心及び腰でした。なぜかと申しますと、私には荷が重過ぎました。どれほどの時間とエネルギーを要するのか。それに時間的な制約も合わせ考えると、自分には手に負えない、その重さに耐えられない、こう感じたからでした。
 しかし、他方で、福島の大事故の衝撃は大きく、背中を押されて踏み出すことになった次第です。
 結局、かつて反対運動に関わっていた6人で、編集・執筆にとりかかることになったわけですが、作業を分担して、原稿をまとめあげてみますと、短時間だったこともあって、当初思ったような出来上がりになっていませんでした。それにもかかわらず、原稿の価値を認めて寿郎社が取り上げて世に送り出してくださったのは、ありがたいことでした。
 それだけに寿郎社の土肥さんにとって大変なお骨折りだったと思うのですが、出版されてみると、私たちの当初の予想を超えた反響がありました。それは、県内だけではなく、全国からでありました。これは驚きでした。
 そして、今回の受賞でございます。これは私たちにとりましては、まさに青天の霹靂でございました。ここで、驚きとともに、一つの疑問が浮かび上がってきました。なぜ受賞なのか。なぜ、私たちの予想をこえて、注目され、多くの人々に読まれるのか。
 その理由が福島の3・11事故にあることは間違いありません。大事故がとうとう起きてしまった。ホントにおきてしまった。チェルノブイリが日本にやってきた。後戻りのできない、とりかえしのつかない核汚染の衝撃が、全国の人たちにとって、和歌山の運動の記録をも問い返すきっかけになったのだろうと思います。
 もし、あの事故がなかったならば、日本の社会の原発問題への関心はそれほど高くなかったでしょうし、原発問題の重要性もこれほど注目されなかったことでしょう。従って、今回のこの本の受賞はきっとなかったでしょう。そもそも、私たち自身も、この時期に、この本を執筆することはなかっただろうと思います。
 そいうことを考えますと、今日の受賞は、2011年の「3・11」という甚大な被害と悲しみにつながっていて、それによって今回の受賞が生まれているといえるわけでございます。その点で本受賞を素直に喜べないものがあるのも事実でございます。
  
5 フクシマの教訓
 ここで、今日のタイトルについて考えてみたいと思います。
 かつて和歌山において、なぜ原発を拒み続けてきたのか、なぜ、20年にわたって歯を食いしばって運動を続けてきたのか、といえば、今から考えますと、フクシマのような悲惨な事故が起きないようにと願ってのことでした。すなわち、未来へ向けて、私たちが放射能におびえないで安心して暮らせる社会を願って、訴えている記録であります。
 ところが、一昨年、フクシマで大事故が起きてしまいました。ここで日本が反省して、ドイツのように脱原発の道を選んだとしたら、和歌山の記録は、単なる過去の記録に終わったことでしょう。しかし、実際は日本は原発を続ける道を選び、フクシマ事故をくりかえしかねない道を歩むとなると、「和歌山の記録」の使命は続くことになります。和歌山の20年の願いと闘いは、引き続き重要な意味を持ち続けることになる、といえましょう。
 そういう意味で、フクシマの教訓は和歌山の運動の教訓と重なります。
 それでは「フクシマの教訓」として、私たちは何を学んだらよいのでしょうか。私は3点をあげてみたいと思います。
 第一の教訓は、二度とくりかえしてはならない、ということ。第二はだまされてはならない、ということ。第三は責任をとるということです。
 
5-1 二度と繰り返してはならない
 
 5-1-1 今度起きたら破局
 まず教訓の第一点目は、「二度とくりかえしてはならない」ということです。それは今度事故が起きたら、日本が破局を迎えるのではないか、と思うからです。今日のタイトルにはカタカナの「フクシマ」と書きましたが、ヒロシマナガサキがカタカナで表示されると同じように、福島が、いまや歴史的な核の惨事としてカタカナで表さなければならなくなったわけです。
 ここで、福島の3・11事故直後を振り返ってみます。あの時日本は一歩間違うと、破局を迎えていたかもしれない、ということが、あとで分かってきました。それは4号機です。この貯蔵用プールには使用済み核燃料が1500本冷却されていました。この4号機が傾き始め、倒壊する危険性が出ていました。もし倒壊して、この使用済み核燃料の冷却に失敗したら、東日本全体に深刻な影響が出るはずでした。当時の近藤原子力安全委員長が、極秘に総理大臣に提出した資料は、半径250キロ圏内を避難させなければならなくなる、というものでした。菅直人首相は、首都圏5000万人の避難を考えたといいます。しかし、幸運にも奇跡的な偶然に恵まれ破滅的危機を免れることができたのでした。
 ここで和歌山のことですが、つい最近、10月22日付の地元の地方紙「紀伊民報」の一面トップに「原子力災害時 避難受け入れ」とありました。もし、福井で原発事故が起きたならば、そのとき、京都府綾部市の人たちを迎え入れる協定を結ぶというのです。この記事は気持ちのいいものではありませんでした。なぜか。もし、福井で事故が起これば、日本が終わるのではないかと恐れるからです。逃げなければならないのはもちろん綾部市民だけではありません。福井、滋賀、京都などの、おそらく100万人を超える人々が緊急避難を迫られるでしょう。さらに、琵琶湖が汚染されますから、それを飲料水にしている京都・大阪の1400万の人々が住めなくなるのです。1000万人もの人々の救出も大移動も不可能だと知るべきです。
 もし、再びこのような事故が起これば、福井のみならず、全国のどこの原発であれ、日本が破局を迎えることを覚悟しなければならないのではないでしょうか。
 このように考えるならば、フクシマの未曾有の惨事の教訓を学ぶとすれば、「二度と事故を起こしてはならない」ということをおいてほかにないといえるでしょう。
 
 5-1-2 今、フクシマで何が起きているのか
 しかし、今の日本の社会は、このフクシマの教訓を忘れようとしています。忘れて、再び原発を運転しようとし、あるいは海外へ原発を輸出しようとしているわけです。世論もマスコミを含めて2020年の東京オリンピック招致に大騒ぎをし、あるいは景気の動向に一喜一憂しています。
 しかしながら、フクシマの事故の甚大な被害と悲しみは、今も続いているのであります。この先、何十年、あるいは何百年という単位でこの負の遺産を負っていかなければならない苦しみがあります。そのためには何十兆円もの国費を投じていかなければならないことでしょう。
 先月9月の末のことですが、私たちは、5名で青森県の大間原発と福島の現地を訪問する機会がありました。現地の方々にもお会いして、お話を聞くことができました。福島県では、福島市、川俣町、飯館村南相馬市浪江町へと案内して頂き、話を伺ってきました。そこで感じたことは、西日本では味わうことのできない放射能汚染の深刻さと重苦しさでした。
 法治国家である日本の法律では、従来から、年間1ミリSb以下のところでしか住んではいけないことになっています。しかし、フクシマでは、それをはるかに超える汚染地に何十万人もの人々が住んでいます。病院のレントゲン室の中が指定される放射線管理区域と呼ばれ、通常立ち入ってはいけないところに、多くの人々が毎日住んでいるわけです。この異常さが日常化してしまっているわけです。移住したくてもそれがかなわず、そこで生活を続けなければならないところに、重苦しさがあり、辛さがあり、うめきがあるのだと思います。
 先日、福島へ一緒に行ったメンバーの1人が言いました。「寺井さん、どう思いますか。私の中の日本というのはこんなはずの国ではなかった」と。私もまったく同感でした。日本という国はもっと、「人の命を大切にする国」、「人権を大事にする国」だと思っていたのでした。しかし、フクシマの現実は、これを否定します。公然と健康が脅かされ、人権が侵害されたまま放置されているのです。
 私は、チェルノブイリ事故の時には、旧ソ連という国は、ひどい国だと思いました。しかし、今の日本の国はというと、それよりも、もっとひどい国だと言わざるをえないのです。
 具体的にフクシマの現実とチェルノブイリ事故と比較すると、その異常さが分かります。ウクライナでは、年間1ミリSb以上の地区に住む人には、移住する権利が与えられます。しかし、日本ではその権利は与えられていません。ウクライナでは5ミリSb以上では移住が義務となります。しかし、日本では、その義務がありません。ということは、国は移住の面倒を見ないということです。それどころか、20ミリSbもの高い地域に、除染作業のあとに戻れといっているのです。この20ミリSbという基準値は、2011年4月に内閣官房参与だった東京大学大学院教授の小佐古敏荘(こさことしそう)氏が、こんな滅茶苦茶な基準は受け入れがたいと抗議して辞表を出した、そのときの数値でもあります。その時、小佐古氏は涙ながらにこう訴えました。
 
 「年間20mSv近い被ばくをする人は、約8万4千人の原子力発電所放射線業務従事者でも、極めて少ないのです。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたい・・・」
 
 実際、福島の子どもたちの健康に異変が起きていて、すでに甲状腺がんなどが見つかり始めています。福島県の「県民健康管理調査」検討委員会の、今年8月20日の発表によれば、18歳以下の子どもたちの甲状腺を検査したところ、甲状腺がんと確定した者が18名、その疑いのある者が25名でした。その数は毎月じわりじわりと増えています。通常、100万人に1人とか数十万人に1人といわれる確率から致しますと、その百倍以上の高い確率で、甲状腺障害が発生している計算になります。チェルノブイリ原発事故では、甲状腺がんが、事故後4~5年で急増しています。この福島のデータは、事故からわずか1~2年のものですから、今後が心配です。
 福島では今も、目には見えない放射線による遺伝子への絶え間ない攻撃が、人々に加えられています。それは「サイレント・ウォー」とよばれる静かな「戦争」状態とも言えましょう。
 
 
5-1-3 和歌山の20年は「フクシマを招くな」
 次に和歌山の歴史を振り返ってみます。放射能の危険性については、漁師の人たちは、早くから訴えていました。今から45年前の1968年のことです。日高郡の14漁協が組織する「日高浦漁協」は、知事と県議会議長にあてた陳情書で、原発を「人類最大の危険物」だとし「人類を抹殺」するものだとして、次のように述べています。
 
 「県当局は如何に如何様にこの危険物を誘致に誘導するか。世界最大なる危険物の取り扱いにより人類の抹殺、且つ沿岸漁民を餓死に導くが如きこと、これが施策か(略)かかる全世界人類最大の危険物の誘致に対し漁民の真意をよく御諒察戴き、さてまた百万県民の福祉、幸福と民族の繁栄の策を講ぜられんことを茲に血涙を流し陳情いたします。」
 
 また、日置川原発をめぐり争った1988年の町長選挙で、当選を果たした三倉重夫候補は、こう言いました。
 
 
「町を荒廃させる原発より過疎の方を選びたい。それが子孫に残してやれる唯一の道」である。
 
 現在の福島県双葉町大熊町の荒廃を予見していたかのように、原発の危険性を指摘していたのでした。
 また、原発から出る核のゴミの問題も、当時「トイレなきマンション」ということばがありましたが、和歌山でもすでに指摘されていました。最近、小泉純一郎元首相が脱原発を主張し始めましたが、そのきっかけは、「10万年にもわたり安全に保管し続けなければならない放射性廃棄物の処理の困難さを知ったからだ」と報じられています。しかし、当時の和歌山の運動のスローガンやキャッチコピーには、こうありました。たとえば「紀伊半島を核の墓場にするな」とか、あるいは「1000年間責任を持ってくれるのはだれ?」と。今から40年前に、すでに和歌山の漁師や住民たちは、それらの問題を知り、訴えていたのであります。
 こうして、和歌山の記録を読み返してみますと、実は、フクシマのような事故が起きないように、安全神話にだまされないようにと、必死に闘ってきたことがわかります。
 20年にわたり、原発建設に反対して闘ってきた、延べ何万、何十万の人々の戦いは、「チェルノブイリを繰り返すな」であり、それと同時に、「フクシマを招くな」でもあったといえましょう。
 フクシマの事故のあと、和歌山の私たちの身の周りでは、こういう会話が交わされました。「和歌山に原発がなくてよかったね」「南海地震がまもなくやってくるというのに、よかった、よかった」と。かつて原発推進を主張していた人もそう言います。「原発をつくらなくて正解だった」というのが、大方の人たちの結論です。
 
5―2 だまされてはならない
 次は、フクシマ事故の教訓の第2点目の「だまされてはならない」ということです。
 原発に関しては、これまでに、私たち国民はずいぶんだまされてきましたし、実は、今もだまされているのではないか、と思うのです。
 
 5-2-1 和歌山の原発計画では
 和歌山の原発計画の過程でも、国や県はずいぶんウソをつきました。たとえば1979年にスリーマイル島事故がアメリカで起きると、国の原子力安全委員会は、事故の詳細さえ分からない、わずか2日後に「こんどのような事故は、日本ではほとんど起こりえない」という委員長談話を発表しています。また、1986年のチェルノブイリ事故の時にも、国は、事故の7ヵ月後に資源エネルギー庁長官名で「我が国では考えられ難い事故であったことがほぼ明らかになった」と安全宣言を出しています。日本の原発は安全であるから大丈夫だ、心配するなと。このご託宣は、国から県へ、県から町へと下ろされ、「お上の言うことに間違いはない」と地元に大きな影響を及ぼしたのでした。
 しかし、それがみんなウソだったことが、悲しいことですが福島の事故で証明されてしまったわけです。
 
 5-2-2 福島の事故以降のウソ
 それでは、現在の私たちは、だまされていないといえるのでしょうか。
 最近は総理大臣が堂々とあからさまなウソをつきます。
 一昨年の12月、野田首相は、「原子炉は収束にいたった」と事実にまったく反することを言い、また安倍首相は、最近、オリンピック招致に絡んで、汚染水問題について「はっきり申し上げる。状況はコントロールされている」とウソの発表をしました。
 これだけあからさまだと国民もすぐに気がつくのですが、気がつきにくいものもあります。そ一つが、目下、問題になっている再稼動に伴う安全審査の問題です。安倍首相は、つい先日、10月18日、参議院本会議で、「世界で最も厳しい基準で審査していく」と胸を張りました。だから安全なのだと。しかし、ここに落とし穴があることを見抜かなければなりません。
 現在、福島の事故は進行中であって原因が分かっていません。ですから今原子力規制委員会が進めている審査というのは原因不明のままつくられた、いわばインチキな基準に基いているわけです。物事には順序があります。事故が起きたらまず原因を究明する。次にその原因を取り除いて安全なものをつくる。これが順序です。ところが、この順序を逆にしているわけです。ものごとの基本をごまかしているのが、安倍首相の国会における答弁なわけです。
 事故原因について、今、浮かび上がっている疑問が、メルトダウンの原因についてです。現在の安全審査はメルトダウンの原因は津波だという前提で進められています。ところが最近、それを否定する見解が強まっています。もしその通りだとすると、今の基準は意味をなしません。安全審査の基準を一から見直さなければならなくなります。つまり、地震の揺れで配管類が破壊しないかどうか、もう一度評価をし直さなければならなくなります。それは、全国の原発に波及します。これから少し具体的な問題に入りますが、大事なところなのでお許し下さい。
 この疑問については、以前から田中三彦さんら何人かの専門家によって指摘されてきています。しかし、東電は不都合なデータを隠したり、提出してきても肝心な部分を墨で隠したりしてきました。こういう会社の東電が最近ようやくのこと、あるデータ出してきたのですが、そのデータによって、その疑いが一層濃厚になってきています。
 問題を追究しているのは、元東電社員の木村俊雄さんという技術者です。木村さんは福島第一原発で12年間勤務し、炉心の運転や設計の業務に携わっていた人です。彼は東電がデータを隠していることを知り、要求してようやく、今年の8月に入手します。それは原発ボイスレコーダーといわれ100分の1秒刻みのデータを記録した「過渡現象記録装置」というものです。それを分析して、原子炉容器内の水流や水位を調べたところ、地震の直後に配管類が損傷してしまっていたという結論に至りました。地震後1分30秒で、原子炉圧力容器の中の水がほぼゼロにまで抜け落ちた。それは配管のどこかが破損していなければ説明がつかない現象だ、というのです。この問題は今後、国会等で議論されていくだろうといわれています。これは今月(10月)9日岡山市での講演で木村さんが解説していまして、ユーチューブでも見られますので、ご関心のあるかたはご覧下さい(タイトル「メルトダウンは津波ではなく地震で引き起こされた」)。
 また、朝日新聞の連載記事である「プロメテウスの罠」でも取り上げられていまして、それは9月の27日と28日付の同紙に掲載されています。
 こうした点は、昨年まとめられた「国会事故調査委員会報告書」も、その可能性を示すものになっており、次のように指摘しています。
 
 「当委員会は、事故の直接的原因について、「安全上重要な機器の地震による損傷はないとは確定的には言えない」」。「本地震地震動は、むしろ、安全上重要な機器、配管系を損傷する力を持っていたと判断される。」
(2.2.1 東北地方太平洋沖地震による福島第一原発地震動)あるいは、福島第一原発は、地震にも津波にも耐えられる保証がない、脆弱な状態であったと推定される」とこう結論付けています。
 
 総理大臣が「世界一厳しい安全基準」という、その実態は、まことに怪しいといわなければなりません。
 
5-3 責任をとるということ・・・人としてのモラル
 次に第3点目の「責任をとるということ」について考えてみたいと思います。政府と電力会社、御用学者は、安全神話をつくり、長年にわたって国民をだまし続け、その結果としてフクシマの大惨事を引き起こしたのですから、まずは国民に謝罪し、責任をとるべきでしょう。これだけ、深刻且つ壊滅的被害をもたらしたら、昔なら、切腹あるいは打ち首はまちがいないでしょう。しかし、これまで、責任者は誰一人として公式に謝罪していませんし、責任をとっていません。それどころか開き直ってさえいます。
 これでは人としての基本的な道、道義に欠けているといわなければなりません。
 
 
5-3-1 内村鑑三
 そこで、人としての道、すなわち倫理・道徳の面から問いかけたいと思います。今日は偶然にも、二つの受賞作品が北海道に関係していますので、北海道ゆかりの思想家を引き合いに出させて頂きます。
 内村鑑三です。彼は北海道大学の前身である札幌農学校の第2期生です。
 内村鑑三の名著に『後世への最大遺物』があります。彼は、後世に残すべきものは何か、と問いかけます。金持ちになって人々のために役立てる。事業を起こして社会に貢献する。教育や思想を遺す。しかし、どれも、誰にもできるものではありません。そこで誰にでもできるものは何か。最大の遺物は何かというと、「勇ましい高尚なる生涯である」(岩波文庫 54頁)。こう言います。そして、それは、次のような生き方だというのです。
 
 「アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したい」岩波文庫 69頁)。
 
 これを一言でいえば、「真面目なまっとうな生き方」といえるでしょう。
 こうした生き方と正反対の生き方が、無責任な原子力村の人々や指導者たちの生き方であり、それがフクシマの事故の深い原因ではないでしょうか。
 
 
5-3-2 指導者たちの不正義
 それでは、彼らは、どのような不正や不義を働いてきたのでしょうか。これを国会の事故調査委員会の報告書からみてみます。
 
 「今回の事故は、これまで何回も対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局及び東電経営陣が、それぞれ意図的な先送り、不作為、あるいは自己の組織に都合の良い判断を行うことによって、安全対策が取られないまま3.11を迎えたことで発生したものであった。」「何度も事前に対策を立てるチャンスがあったことに鑑みれば、今回の事故は「自然災害」ではなくあきらかに「人災」である」。
 
 彼らの罪は重いと思います。国民の健康と命を目先の金儲けのために売り飛ばしたわけです。しかし、罪が深いのはそれだけではありません。ただ単に安全対策を怠っただけではなく、その危険性を指摘する良心的学者や技術者を批判し、抑圧し、組織内から排除し続けてきました。しかも組織的、国家的にです。しかも事故後においても、反省することもなく。都合の悪い資料は隠し、都合の悪い現場の立ち入りを拒否してきました。
 
 私たちは、今こそ、過去の過ちから教訓を学び、地球上で生き延びる道を歩まなければならないと思います。フクシマの事故を知って、海の向こうのドイツでは、メルケル首相が脱原発へと舵を切りました。しかし、事故発生元の肝心の日本にそれができないのはなぜなのでしょうか。
 過去に学ぶ大切さについては、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領のことばをお思い起こすのであります。
 
 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」
 
 これは、核戦争にも等しいフクシマの事故後も、反省することなく過去に目を閉ざしている日本の指導者たちへの警告といえるのではないでしょうか。
 
 無反省で無責任な日本の指導者たちをみると、そこに著しいモラルの低下をみることができるのですが、一方、それとは対照的に生きる人たちは、手前味噌かもしれませんが、私たちの運動の周りにみることができました。損得なしに、うそをつかず、愚直なまでに真面目な生き方を貫いた人たちです。人としてまっとうな生き方をした人たちともいえるでしょう。国を支える人々というのは、このような人たちだと、私は思うのです。
 和歌山の反原発運動とフクシマ原発事故の底流には、このような、人としての道義・モラルの問題が横たわっていることを付け加えたいと思います。
 
 今日は「フクシマの教訓」として3点を申し上げましたが、これは同時に和歌山の20年の運動の願いであり、目標でもあります。
 こうした教訓を学び、願いをかなえて、後の世代が安心して暮らせる社会にしていきたいものだと考えます。
 
 日本の過去を振り返りますと、8月6日のヒロシマがあり、8月9日のナガサキがあり、そして今、3月11日のフクシマがあります。わが国が二度と核の被害を繰り返さない道を歩むことを祈って私のスピーチを終わりたいと思います。
 ご清聴ありがとうございました。