読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる

 今晩(2016年7月10日)配信した「メルマガ金原No.2503」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる

(はじめに)
 日本の運命が決定的に暗転した日として振り返られることになるかもしれない7月10日(日)、和歌山県選挙区の事実上の野党統一候補・ゆら登信(たかのぶ)さんの選挙事務所から帰宅したところです。まだ、今度の選挙についての私としての総括を書くような余裕も準備もありませんし、それはいずれ機会を見て、ということにしたいと思います。
 今日は、ここ1ヶ月ほどの間、少しずつまとめてきた寺井拓也さん追悼特集がようやく完成しましたのでお届けすることにします。4月に逝去された田辺の寺井さんは、お元気であれば、今度の選挙でも必ずや大きな力になってくれた方であったと残念に思う一方、寺井さんが残された言葉の数々には、これからの私たち市民の運動が目指すべき針路を指し示してくれる多くの輝きがあることに気付かされます。その意味では、7月10日に「追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる」を読んでいただくのは、これ以上ない良いタイミングなのかもしれません。
 是非、多くの方に「拡散」してください。よろしくお願いします。
 

第1章 2011年9月19日 東京都 明治公園
【「異変」は東京駅1番線から】
 その日、朝一番のJR特急で紀伊田辺駅から新大阪駅へ、さらに新幹線で東京駅へ向かいました。東京駅で中央線快速電車に乗り換えるのですが、実はここから「異変」が起きていました。普段だったらがらがらのはずのこの電車。これがいやに混んでいるのです。祝日の正午すぎです。東京駅1番線からは4~5分間隔で電車は出て行きます。にもかかわらず「この混みようは何だ」。次に四谷駅で乗り換えた各停電車も同様の混みようです。そのほとんどの乗客がどっと降りたのは千駄ヶ谷駅でした。ここで気がつきました。みな、明治公園を目指していたのです。
千駄ヶ谷駅はパニック寸前】
 千駄ヶ谷駅のホームに降り立つと、人の山です。階段の降り口が、まず詰まっています。この時間帯は、上下それぞれ5分間隔で電車が止まります。平均2分30秒ごとに吐き出されてくる人々を階段が吸収しきれないのです。階段を下りるとさらに大変。改札までのコンコースは、おそらく千人を超えるであろう人の波です。「押すな!押すな!」。パニック寸前の駅の改札を抜け出ると、待ち受けていたのはいくつもの団体のノボリ旗でした。
 ここで私も準備です。駅前で、ノボリ旗を組み立てます。「脱原発わかやま」と書かれた60×180㎝の旗がなびきます。旗でPRしながら、人の洪水に流されて明治公園へ。途中「和歌山から来られたんですか」。見知らぬ人から声がかかります。「そうなんですよ」。和歌山県ではかつて4箇所もの原発計画があったことや、激しい攻防の末、今は1基も原発がないことなどを話します。すると「ホーッ。そうですか。」東京の人がまるで知らないのは当然かもしれません。
【入りきれない会場】
 明治公園に到着したのは13時すぎ。開会は13時半です。「間に合った!」。しかし、会場は、すでに人で埋め尽くされていました。約束の場所へ行くのも一苦労。日本青年館側の高台に向います。携帯で打ち合わせようやく、ノボリをみつけて寄ってきて下さったのは、和歌山市から夜行バスでかけつけたKさんら3人の女性でした。まもなく、同じくノボリを目印にやってきた和歌山市のMさんとも会うことができました。これで和歌山組は5人です。しかし、田辺市から来るはずのH夫妻の姿を、とうとう最後まで見つけることができませんでした。あとで事情を伺うと、超満員のため会場へ入ることすら出来なかったそうです。20日付東京新聞(1面)に掲載された空撮写真を見ると、膨れ上がった参加者が会場の出入り口からはみ出し、周辺道路へ、さらに隣接地へも拡がっている状況を知ることができます。
 かつて東京在住の時、幾度となく駆けつけたこの明治公園なのですが、ベトナム反戦運動の高揚期でさえもこれほど膨れ上がった集会を、私は見たことがありませんでした。主催者発表で6万人という数字は実態に近いのでしょう。
(以下略)
 
※2011年9月19日に東京の明治公園で開かれた「さようなら原発5万人(6万人)集会」に参加された寺井拓也さんと松浦雅代さんの参加記を並べて「メルマガ金原No.569」に掲載させていただいたのは、2011年9月23日のことでした。後に、私の第2ブログ「あしたの朝 目がさめたら(弁護士・金原徹雄のブログ 2)」)に転載したヴァージョンから、その前半部分を引用しました。
 寺井さんは、2010年から汐見文隆氏に代わって「脱原発わかやま」の代表に就任されていましたが、その翌年に東京電力福島第一原発事故が発生し、責任感の強い寺井さんとしては、その職責をしっかりと果たさなければという思いが強かったのではないかと推測します。 
 
 
第2章 2012年3月11日 和歌山県田辺市 
 和歌山における20年の闘いが問いかけるものは何か。闘いで一貫して掲げられた言葉は「いのちの大切さ」であった。いのちを守ろう。いのちの源である海、山、川を守ろう。それを子や孫に残そう。振り返ってみれば、和歌山の原発反対運動はそのことを訴え続けていた。
 たとえば「和歌山県原発反対住民連絡協議会」は結成総会を前に「空青し、山青し、海青し紀州を子々孫々に引き継ぐために」(1981年6月)と呼びかけた。「日置川町原発反対連絡協議会」は結成時の大会宣言で「子供や孫たちが安心して生活できるよう」と訴えた(昭和61年12月)。日高浦漁協は原発を「世界最大の危険物」であり「人類の抹殺、かつ沿岸漁民を餓死に導く」ものとして県知事らに抗議した(昭和43年3月)。
 反原発の闘いは生と死の闘いだった。これはフクシマ以前も以後も変わらない。原発を再稼働させてはならない。原発を輸出してはならない。放射能と人間は共存し得ない。だからこれからは脱原発社会しかない。福島での事故はそのことをあらためて示しているのではないか。
(略)
 今回の我々の試みは、和歌山県原発の歴史のごく一部に過ぎない。このほかに知られざる幾多の闘いがあり、多くの人々の活動があったであろう。はなはだ不十分な記録であることは否めないが、明日の「脱原発社会」のために役立つことを願って世に出すことにしたものである。
 最後に、本書の執筆・編集に際してご協力をいただいた和歌山県をはじめとする全国各地に散らばる仲間と関係者の皆様に謝意を表する次第である。
     2012年3月11日   寺井拓也    
 
※2012年5月11日に刊行された『原発を拒み続けた和歌山の記録』(汐見文隆監修、「脱原発わかやま」編集委員会編、寿郎社刊)の編集者を代表して寺井拓也さんが執筆した「あとがき」の一部を引用しました。
 
 

第3章 2012年10月7日 和歌山県和歌山市
 本日(10月7日)午後4時から、和歌山城西の丸広場をスタート・ゴール地点として、「Twit No Nukes 和歌山」(代表:奥野亮平さん)主催による「原発さよなら行進@和歌山市2」が行われました。
 7月22日の第1回に続く2回目の今回、心配された前夜来の雨もすっかり上がり、気持ちの良い秋空の下、約150人の参加者を得て成功裡に実施されました。
 人数だけでいえば、前回(約200人)より少なくなっているとはいえ、3連休の中日という日程、様々な行事が重なる秋の休日、学校の運動会シーズンとバッティングしたことなども考え合わせれば、よく集まったと言えると思います。
 なお、参加者の内の子どもさんの数は、実は前回(20人)よりも多い24人であったことを付け加えておきます。
 以下、今回のエピソードを箇条書き風に・・・。
(略)
和歌山城を行く田辺市の寺井拓也さんをはじめ、本メルマガ読者の方が何人も参加してくださいました。ありがとうございました(寺井さんは、今度の金曜日、国会・官邸前行動に参加するため東京に行かれるそうです。頑張ってきてください)。
(略)
○今回のデモの主催者として、段取り一切を取り仕切っていただいた奥野亮平さんと奥様の麻美さんですが、Facebookのプロフィールによると、亮平さんの誕生日が「10月8日」、まみさんの誕生日が「9月27日」ということです。おめでとうございます。
 これからもよろしくお願いします。
 
※2012年10月7日(日)、奥野亮平さんが個人で企画して呼びかける手作りデモ「原発さよなら行進@和歌山市2」(和歌山城西の丸広場を出発して関西電力和歌山支店前を通過し西の丸広場に戻る約1時間の行程)が開かれ、その模様をその日のうちに「メルマガ金原No.1130」として配信し、後にブログ「あしたの朝 目がさめたら(弁護士・金原徹雄のブログ 2)」に転載したものから一部引用しました。
出発前(田辺からも参加) この日の和歌山市でのデモに参加すべく、寺井拓也さんも田辺市から駆け付けてくださっていましたが、寺井さんは、黄色い幟を持参されており、デモの間中、その目立つ幟を翻しながら行進されていました。当時、私は「脱原発わかやま」が作った幟かな?程度の認識で、寺井さんに詳しく幟制作の経緯や意図などをお尋ねすることもしなかったのですが、今回の追悼特集のために当時の写真を確認したところ、黄色地に黒く大きな文字で「子どものいのちを守れ」と染め抜かれ、下の方には横書きで何と書いてあるのでしょう?「・和歌山」は分かるのですが、その前の文字が確信を持てません。「市民」と書いてあるようにも読めるのですが、そうすると「市民・和歌山」ということになります。寺井さんは、翌週には、首相官邸前の金曜抗議行動や「10・13さよなら原発集会in日比谷」への参加を予定されていましたから、「和歌山からやってきた一市民」という心意気で作られたのでしょうか?もっと詳しくお聞きしておけば良かった。
 しかし、『原発を拒み続けた和歌山の記録』の「あとがき」を読み返してみて、「子どもたちのいのちを守れ」という、ごく当たり前の言葉に込められた深い祈りに全然気がついていなかったのかもしれない、という思いや切なるものがあります。
 なお、当日、出発前に私が撮影した写真も1枚ご紹介しておきます。向かって右から寺井拓也さん、松浦攸吉さん、花田惠子さんで、思わず「大物そろい踏み」と紹介してFacebookに投稿したことを思い出します。
 

第4章 2012年10月12日 東京都 経産省前、首相官邸
 寺井拓也さんは、和歌山市での「原発さよなら行進@和歌山市2」に参加した5日後の10月12日(金)、新幹線で東京に向かいました。目的の一つ目は「経済産業省前のテントひろば訪問」、二つ目は「首相官邸前の金曜抗議行動への参加」、三つ目は「翌日の「10・13さよなら原発集会in日比谷」への参加」でした。
 几帳面な寺井さんですから、当初から、ご自分が所属する「つゆくさと大地の会」や「脱原発わかやま」の仲間に文章で報告することを考えておられたと思うのですが、私の「メルマガ金原」への掲載も快くご了解いただきました。
 『経産省前テントひろば訪問と首相官邸前デモ報告記』と題された寺井拓也さんの手記は、2012年10月22日「メルマガ金原No.1145」として配信し、同日、「wakaben6888のブログ」に転載しましたが、以下には、後に「あしたの朝 目がさめたら(弁護士・金原徹雄のブログ 2)」に掲載したヴァージョンで「寺井拓也氏の『10/12経産省前テントひろば訪問と首相官邸前デモ報告記』」をご紹介します。


第5章 2013年9月20日~24日 青森県大間町福島県
あさこはうす 2013年9月20日の夜に和歌山を車で出発した5人のグループが、青森県大間町の「あさこはうす」に小笠原厚子さんを訪ね、その後、福島県に立ち寄り、浪江町の「希望の牧場」や福島市の「ふくしま共同診療所」を見学し、佐藤幸子さんらと交流して帰途についたツアーについては、参加した寺井拓也さん自身、「こんな強行ツアーは自分の人生において、前にもあとにもないだろう。」と述懐されたとおりのスケジュールだったようです。
 寺井さんが「つゆくさと大地の会」の会報「つゆくさ頼り」に掲載するために執筆された『青森~福島「反原発」ツアー』を、私の「メルマガ金原No.1521」(2013年10月23日配信)とブログに転載することを寺井さんからご快諾いただき、ご紹介しました。
 なお、写真は、このツアーの際に「あさこはうす」で撮影されたもので、向かって左から、寺井拓也さん、小笠原厚子さん、西郷章さんです。
 

第6章 2013年10月27日 鳥取県米子市
 2013年10月27日、鳥取県米子市において、「ブックインとっとり実行委員会」が主催する「第26回 地方出版文化功労賞」の表彰式が行われ、奨励賞を受賞した「脱原発わかやま」編集委員会編・汐見文隆監修『原発を拒み続けた和歌山の記録』(寿郎社)の編集者を代表して寺井拓也さんが受賞記念スピーチをされました。
 時間の都合で、草稿の一部はカットしてスピーチされたとのことでしたが、今読み返してみても、寺井さんが、脱原発にかけた自らの人生を振り返り、一種の「総括」を試みたのではないかという気がします。
 2013年11月15日に「メルマガ金原No.1544」として配信し、その当日に「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載しましたが、寺井さんの訃報に接した今年の4月16日、追悼のためにこの受賞記念スピーチ草稿を再配信しました。
 この草稿は、後にご紹介する2016年5月28日に田辺市の「ララロカレ」で開催された「寺井拓也さんを偲ぶ会」でも、プログラムの一部として式次第などとともに印刷され、参加者に配布されたそうです。
 是非、何度でも繰り返してお読みいただければと思います。
2013年11月15日
寺井拓也氏『原発を拒み続けた和歌山の記録』第26回 地方出版文化功労賞 奨励賞 受賞記念スピーチ(草稿)
2016年4月16日
追悼・寺井拓也さん(再配信・『原発を拒み続けた和歌山の記録』地方出版文化功労賞 奨励賞 受賞記念スピーチ(草稿))
 

第7章 2014年3月11日 福島県郡山市
 日本の原発の歴史を振り返りますと、敗北の連続でした。しかし、原発立地計画を止めたところがないわけではありません。福島県の浪江・小高をはじめ、全国でその数は30を超えます。和歌山県もその中に入ります。
 和歌山県では、1967年から20年を超える激しい攻防の末、5箇所の立地計画全てを拒むことができました。(拍手)
寺井拓也さん(3.11反原発福島行動2014) 中でも最も激しく闘われたのは、日高原発でありました。1988年3月のことです。漁協は、満を持して臨時の総会を招集致しました。3月30日午後1時、総会が始まります。質疑が始まるやいなや、総会は混乱を始めます。途中で議長は、質疑打ち切りを宣言します。すると会場内は、椅子を振り上げる者、あるいは議長席に詰め寄る者、大混乱に陥ります。ついに、待機していた県警機動隊約30名が会場に入ります。そして、いったんは静まった会議は、またまた紛糾をいたします。このさなか、1人の反対派理事が、壇上に駆け上がるや、その議長である組合長の顔をめがけて拳を思い切りぶつけた訳であります。(拍手)その一発のパンチが引き金となって、組合長は廃案を宣言し、役員総辞職になった訳であります。(拍手)結局、これをもって、日高原発は、事実上白紙撤回となりました。(拍手)
 ところで、漁協内の反対派理事は、長い間少数で闘ってまいりました。理事の構成は、推進派10名に対し、反対派は2名から3名、10対3という圧倒的少数でもって長い間闘い抜き、大多数の漁協の幹部たちに対して闘った訳であります。(拍手)
 このことは、少数でも多数に勝利することができる。(拍手)小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる。そのことを、こらからの私たちの運動に教えるものではないでしょうか。(拍手とかけ声)
 日本政府は現在、200万福島県民を放射能に晒し、福島を切り捨てるという、いわば人道に対する罪を犯しています。その上、反省も謝罪も全て放り去り、モラルというモラルをかなぐり捨てて、今開き直って再び私たちに「再稼働」を突き付けています。悪辣な政府を打ち倒すのは容易ではありません。
 しかし、少数であっても多数に勝利することができる。小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる。この希望をもって前進しようではありませんか。(拍手)
 そして、古くは大逆事件、あるいは足尾鉱毒事件、あるいは水俣病事件など、かつて国家犯罪に立ち向かった我々の先人たちに学び、人類の歴史、その勝利を確信して、孤立を恐れず、共に歩もうではありませんか。(拍手)
 
※2014年3月11日に郡山市の郡山総合体育館で開かれた「3.11反原発福島行動’14」での寺井拓也さんのスピーチを、金原において文字起こししました。なお、掲載した写真は、実行委員会ホームページに掲載されていた写真を、同委員会のご了解を得て転載させていただいたものです。
 文字起こしのベースは、寺井さんと同行して大会に参加した西郷章さんが撮影し、Facebookに投稿された動画(の録音)を使用しました。寺井さんのスピーチを撮影した動画は他にも複数ありますが、西郷さんが撮影されたものが一番クリアに聴き取れます(画像は遠景ですけど)。


第8章 2016年4月14日 和歌山県田辺市 ご逝去
 新緑がまぶしい季節を迎えました。お元気でお過ごしでしょうか。
 お便りをさし上げますのは、夫 寺井拓也のことで、悲しいご報告をしなければならないからです。夫は、4月14日午前2時31分、他界致しました。
 昨年7月、精密検査で大腸がんのステージⅣであることがわかり、8月手術、退院後はゲルソン療法を基調とした食事療法をしながら、自宅療養をしておりました。今年2月頃まではずっと小康状態で、今までにない(病に倒れる直前まで市民活動に奔走していましたので)家族との穏やかな日々を過ごしておりましたが、転移性肝臓がんが進行していることがわかり、1月末よりカテーテルによる肝臓への抗がん剤治療を始めました。しかし、その効果はなく、ついに肝不全となって息を引き取った次第です。
 肝臓がんの進行が週単位でなく日単位で早いだろう、と医師から告げられた3月23日の夜、夫がどんなにショックを受けているだろうと胸を痛めている私に向かって、夫はニコニコとさわやかな笑顔で申しました。「生まれてきたのも自分の意志ではない。全ては何か大きなものの意志が働いているのだと思う。こうして痛みがなく過ごせたこと、そして、今までの人生、自分はとても幸せだった。」、という意味のことを。また、腹水がたまって4月に入って入院し、そのまま自宅に帰らぬまま旅立ったのですが、病院のベッドの傍に置いているメモ帳に記していたのは「人生は感謝なり 喜びなり 祈りなり」という短い言葉でした。若き頃に内村鑑三の著書に感銘を受けた、無教会派の敬虔なクリスチャンであった夫の心の在り様が伝わってきて、哀しみの中にも安堵を与えられた私でした。
 寂しさと無念さは拭えませんが、自宅療養の7ヶ月は、不安を抱えながらも夫を中心に家族として濃密な幸せな時間を過ごすことができたことが、今は遺された私と娘たちの慰めとなっています。
 最後に、故人生前にいただきましたご厚情に心よりお礼申し上げます。
     2016年4月23日
                   寺 井 秋 代    
 
※奥様(寺井秋代様)が知友に送った死亡通知をご了解を得て転載しました。
 

第9章 2016年5月28日 和歌山県田辺市 寺井拓也さんを偲ぶ会
ご挨拶
 去る4月14日、私たちが敬愛してやまない寺井拓也さんがご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 寺井さんは、長年、平和や人権、環境といった課題に関わってこられ、当地方での草の根の市民たちによる運動の中心的な役割を担ってきてくださいました。またルポライター“長岡拓也”としても数冊の著書を出されています。
 私たちが運動を進める上で、理論的、精神的支柱として頼りにしていた寺井さんは、同時に事務仕事やこまごまとした雑用を引き受けられることも多く、縁の下から地道に運動を支えてくださる方でもありました。また、社会の中で疑問を感じ、行動を起こそうとする人たちからの相談をいつも真摯に受け止め、的確な助言をしてくださったり、必要だと思われるものは惜しみなく提供してくださったりしました。特に若い方々のチャレンジに対して、温かい支援と励ましを送られ、活動の中心は紀南であっても、その視線の先は、未来へ、世界へとつながっていました。寺井さんの日々行動される姿から、社会構造の中で権力によって痛めつけられ、声を上げられずに苦しんでいる人の怒りや思いへの共感、そんな社会を作ってきてしまった大人の一人としての責任感、より良い社会を次の世代に渡さなければという強い思いを、その誠実さと共に受け取ってこられた人は多いと思います。
 平和な世界をつくるために全力で人生を駆け抜けられた寺井さんを偲び、これまでに関わりがあったさまざまな方々と思い出を語り合う機会を持たせていただくことを計画致しました。
 短い時間ですが、寺井さんが私たちに残してくださったものをご一緒に分かち合うひとときにできればと願っております。
呼びかけ人一同
  つゆくさと大地の会  奥野佳世
  脱原発わかやま    冷水喜久夫
  田辺・9条の会    田所顕平
世話人 浅里耕一郎(脱原発わかやま)、笠松美奈(フェアトレードエコロジーのお店ぴーす/9条ママnetキュッと/なつおmeets南風)/木川田道子(つゆくさと大地の会/田辺・9条の会/紀南9条交流ネット/紀南ピースフェスタ実行委員会)/西郷章(9条ネットわかやま)、中西仁士(脱原発わかやま)
協力 RaRa Locale
 
※ご逝去から1ヶ月半が経った5月28日(土)午後2時から、田辺市の RaRa Locale(ララロカレ)2階において、「寺井拓也さんを偲ぶ会」が開かれました。『原発を拒み続けた和歌山の記録』を出版した寿郎社代表の土肥寿郎さんご夫妻が北海道から駆け付けてくださった他、寺井さんゆかりの約70人の方々が集まり、故人の思い出を語り合う素晴らしい会になったようです。
寺井拓也さんを偲ぶ会 私も、何とかして参加したかったのですが、どうしても日程の調整がつかずに断念しました。その代わり、司会の木川田道子さんが、椎名千恵子さん(福島共同診療所世話人)と私からのメッセージを読み上げてくださったというご報告をいただきました。木川田さん、ありがとうございました。
 なお、掲載した当日の写真は、「原発がこわい女たちの会」公式ブログに掲載されたものを、ご了解を得て使用させていただきました。
(付記)「偲ぶ会」にも参加してスピーチをされた「原発がこわい女たちの会」代表の松浦雅代さんによる追悼文『寺井拓也さんを偲ぶ』が同会ブログに掲載されていますので、是非お読みください。
 
 
第10章 2016年5月31日 西郷章さんによる追悼文
『寺井拓也さんとともに歩いて』(書き下ろし)
 寺井拓也さんとは、11年前の「9条ネットわかやま」の準備会が発足したころに、同じ呼びかけ人でしたから何度か会っているはずなのに思い出せず、はっきりと記憶しているのは奥さん(寺井秋代さん)との出会いからでした。
 今から9年前に、私は、天木直人さんの選挙を手伝う機会があり、その時に、天木さんのファンということで奥さんと田辺で会ったのが最初だったと思います。奥さんの第一印象は、ハキハキと物を言う理知的な人というものでした。
 奥さんとバトンタッチをするように、拓也さんとは、その後すぐに親しく交際するようになりました。その当時、私は現役の労働者でしたから、和歌山から田辺まで行って直接会うことはめったにありませんでしたが、「憲法を生かす会・和歌山」としての市民運動を少し手掛けていましたから、その関係の資料等が定期的に手に入るため、それを郵送しますと、どんなつまらない資料でも、かならず返礼の手紙が送られてくる大変礼儀正しい人でした。
 ところで、2010年は大逆事件100周年記念の年でした。私は偶然にもそれより2~3年くらい前に、紀南に初期社会主義の動きがあったとの噂を聞いて、非常に関心を持ち、レポートを書きたいと思っていましたので、拓也さんに「紀南での社会主義者の動きのことを知らないですか?」と尋ねますと、元田辺図書館長・杉中浩一郎先生の『紀南雑考』があることを教えてくれました。そこで早速『紀南雑考』に目を通すと、全体としては大逆事件での紀南の犠牲者のことが書かれているものの、「平民社」にかかわった荒畑寒村や菅野スガなどの人物が登場しており、知りたかったことの手掛かりになると思い、私が書くレポートのベースとなる参考文献として使わせていただくことを、拓也さんを通じてお願いしました。すると、杉中先生は快く許可してくださいました。
 私の拙いハンドブックが完成した後、拓也さんの自宅のお近くにある杉中先生宅にお礼に伺いますと、体調が思わしくないと伺っていたにもかかわらず、大変喜んでくださり、こちらが長居を気にするほどの長時間、和歌山の大逆事件とそこに登場する本宮町の成石平四郎のことなどを話して下さり、すっかりお邪魔してしまいました。
 また、その後、拓也さんに大正ロマンを彷彿とさせるレストランに案内してもらい、おいしい食事をごちそうになりました。このレストランは残念ながら、今はもう閉店してしまっています。
 その後、特に印象深いのは、やはり2011年の3.11以降の脱原発のための意欲的な活動の多くを共にできたことでした。
 私は、「原発事故は戦争より始末が悪い」と思い、一念発起して自分にもできる「さよなら原発1千万署名活動」に打ち込みました。2011年の8月頃から署名集めを始め、2012年の花見シーズンも過ぎた5月中旬ころまでに2500筆以上を集めることができました。
 その過程で(700~800筆ほど集まったころに)、たくさん集めていることを拓也さんに報告しますと、拓也さんから「その活動のありさまをレポートに書いて仲間の皆さんに知らせてあげれば、いい刺激になりますよ」というアドバイスを受けましたので、おりおりに署名活動のレポートを書きました。当時、私はまだFacebookを始めていませんでしたので、知り合いの金原弁護士にお願いして、「メルマガ金原」に掲載していただきました。
 すると、私の署名集めに触発されてかどうか分かりませんが、寺井さんの奥さん(秋代さん)が頑張って、短期間に800筆~900筆近くも集められたと聞き、これにはさすがの私も驚きました。
 そして同じころ、拓也さんは拓也さんで、3.11に遭遇したことによって、まとめ上げることを決意した「脱原発わかやま」の仲間との共書である『原発を拒み続けた和歌山の記録』の仕上げのために、2012年の正月を返上して、徹夜で作業することもあったと聞きました。拓也さんたちが頑張ったおかげで、歴史的な著作が私たちに残されました。
14573f18-s 私たちの交友がさらに濃密なものとなっていったのは、何といっても、2013年9月に総勢5名で訪れた大間・福島交流ツアー以降でした。本州最南端の串本から最北端の大間までの往復3千キロ近くを4泊5日の間に2か所で交流をしながらに車で駆け抜ける強行スケジュールで、ただ車に乗っているだけの私でも一生に一度きりにしたい非常に疲れる旅でした。
 けれども、その交流ツアーを機に、小笠原厚子さんや椎名千恵子さんにも和歌山に来ていただいて現地の苦労話なども報告していただくことになりましたし、それとは前後しますが、2013年以来、「3.11反原発福島行動」に参加するようになっていた拓也さんとともに、私も2014年から参加させてもらうことになり、拓也さんの病気が発見されて療養生活に入る前の「3.11反原発福島行動’15」まで、大集会後のデモには必ず2人で加わりました。
 そのような折りに、拓也さんはこんなことを何回か私に言いました。「人生60年だ。あとの人生は儲けものの人生だ。」と。その時は、その意味が漠然としか分かりませんでした。拓也さんは70歳で亡くなり、それまでの儲けた人生を人々の幸せのために余すことなく燃焼させた生きざまから、彼は人々に尽くすために生まれてきたことに喜びを感じていたのだと思い、儲けた人生を何に使わなければいけないかを教えられた思いでした。
 その拓也さんに、私は時として背中を押してもらったおかげで、人間的に一回り大きく成長したと思っています。そして、私にとっては人生二度と出会うことのない、掛けがえのない親友となりました。
 いよいよ体調が思わしくなく入院をするときに、拓也さんから一枚の「戦争法阻止」と黄色の生地に黒字で書かれた旗が手渡されました。この旗は、今となっては、拓也さんが今日まで歩んできた道の誇らしさが刻まれた旗であり、果たせなかった夢を託す希望の旗であり、私は特別なこの旗を高く掲げて歩む決心をしました。
 拓也さんが亡くなってしばらくして、奥さんから一通の挨拶状が送られてきました。そこには、生前の拓也さんが奥さんを気遣う様子などが書かれており、お医者さんの宣告に拓也さんが「どれほどシヨックを受けているのだろうか」と奥さんが心配したのに対し、拓也さんが死の寸前まで、にこにことさわやかな笑顔で奥さんに向かい、「生まれてきたのも自分の意志ではない、すべては何か大きなものの意志が働いているのだと思う。こうして痛みがなく過ごせたこと、そして、今までの人生、自分はとても幸せだった」とご家族と仲間の皆さんへの感謝の気持ちを語ったのだそうです。最後となった病院のベットの横に置いたメモ帳には「人生は感謝なり、喜びなり、いのりなり」と崇高な人生観を書き残した拓也さんは、内村鑑三氏を敬愛し、自らも無教会派の敬虔なるクリスチャンでした。
 内村鑑三。私はその人を調べて驚きました。明治の日露戦争開戦前に勤務していた新聞社『万朝報』(よろずちょうほう)が非戦論から開戦論へと転換したため、内村鑑三は、同じ非戦論を唱える堺利彦幸徳秋水らとともに同社を退社しました。その後、内村は、『東京独立雑誌』『聖書之研究』『無教会』などを発刊して非戦論を貫きます。一方の堺や幸徳は「平民社」を立ち上げて、非戦論を展開しました。そして、拓也さんは内村鑑三を師と仰いでその人に学び、私は社会主義者の堺利彦を尊敬してきました。この二人の非戦論を学んだ者同士がここで出会ったのは不思議な縁というよりも、偶然にして必然的な出会いであった、と大きく感動しました。
 拓也さんは、今も私たちの心の中に生きており、これからも人々の幸せを願って私たちとともに歩き続けます。
 私も、拓也さん同様に儲けた人生を余すことなく燃焼したいと思います。
 拓也さん、これまで長年、本当にお世話になりました。安らかにお眠りください。
              2016年5月31日 記  西郷 章
 
※早い段階で西郷さんからこの追悼文をお送り戴いていながら、ここまで掲載が遅くなってしまったことを深くお詫びします。主たる要因は、西郷さんの追悼文だけではなく、私の手元にある寺井さんに関わる素材をコラージュし、とりわけ3.11以降の寺井さんの脱原発に捧げた活動の全体像の一端なりともご紹介したいという希望が頭をもたげ、その構想をまとめるのに時間がかかったこと、そうこうするうちに参院選にゆら登信(たかのぶ)弁護士が立候補することになり、いよいよ寺井さん追悼特集をまとめ上げる時間がなくなってしまったことによります。
 しかし、次の「終章 寺井さんに導かれて」に書いたとおりの事情から、何とか7月中には間に合わせようと、毎日のメルマガやブログの発信のかたわら、少しずつまとめてきたものです。
 なお、掲載した写真は、2013年9月の大間・福島交流ツアーの途次、「希望の牧場」を訪問した際のもので、向かって右から寺井拓也さん、「希望の牧場」代表の吉沢正巳さん、西郷章さんです。 
 

終章 2016年6月15日 和歌山県田辺市 寺井さんに導かれて 
 2016年6月15日(水)、私(金原)は、夜の7時から田辺市朝日ヶ丘の西牟婁教育会館で行われる「憲法をまもりくらしに活かす田辺・西牟婁会議」総会後の憲法学習会の講師を依頼され、自民党改憲案についての話をすることになっていました(その講演用のレジュメは、メルマガ(ブログ)で配信しました)。
 ところでその日、私は午後から御坊市で仕事があり、そこからいったん和歌山市にとって返して午後4時からの会議に出席し、5時には再び車を運転して田辺市を目指すという、なかなかタイトなスケジュールを組んでいました。
 ところが、午後最初の御坊市での仕事(地域包括支援センターで講師を務めていました)が予定よりも長引き、とても4時までに和歌山市に戻るのは無理となりましたので、4時からの会議はキャンセルし、御坊から直接田辺に向かうことにしました。
 ところが、いくらゆっくり地道を走っても、御坊から田辺は1時間弱、5時前には目的地に着いてしまいました。
 講演開始まで2時間以上もあるのでどうしようか?と困惑し、結局、どこかで時間をつぶすしかないと思ったのですが、選択肢はいくらもありました。例えば、
① 車で田辺市内の適当な複合施設にでも行き(オークワのパビリオンシティとか)時間をつぶす。
② 田辺市内に住んでいる知り合いに電話して、都合が良ければ訪問する。
③ 田辺市内に住んでいる親戚に電話して、都合が良ければ訪問する。
④ 教育会館の付近を散策し、商業施設でもあれば時間をつぶし、簡単な夕食でも済ませる。
という風に。
 結局、夕食時ということもありましたので、適当な思いつきで④を選び、教育会館が高台にあったため、歩いてぶらぶらと道を下りて行きました。そして、カーナビ便りで車で通ってきた道の方に曲がるかどうか考えたのですが(元来た道を下れば、坂を下りきった付近に商業施設もレストランもあることが分かっていました)、自分でもなぜそうしたのか不明ながら、元来た道の方には曲がらず、まっすぐ坂を下りて行ったのです。下りきったところがどこかも全然分かっていませんでしたが、時間もたっぷりあるので、しばらく田辺の市街を散策するのも悪くはないと思ったのでしょう。
 そして、ようやく広い道に出たところ、向かいに「オークワ オーシティ田辺店」を発見し、とりあえずそこに行くつもりで交差点を渡ったのです。
 すると、原付にまたがった女性から「金原先生!」と声をかけられて驚きました。振り返ってみると、何と見覚えのある寺井秋代さんだったのです。寺井拓也さんの奥さん・秋代さんは、ご主人と一緒に私の講演会に来てくださったこともあり、多分、2~3回はお会いしています。
 最初は交差点の付近で立ち話をしていたのですが、私が7時からの講演会までの時間つぶしに坂を下りてきたことを知ると、「自宅は、今先生が下りてきた坂の途中を右に入ってすぐのところなので、是非寄ってください」とお誘いいただきましたので、お言葉に甘えることにしました。
 かくして、私の初めての寺井さん宅訪問がこのような偶然の結果実現したのです。
 ご自宅には、18歳の猫ちゃんが出迎えてくれただけですが、お嬢さんがよく様子を見に来てくれるとか。
 寺井拓也さんの遺影に、無教会派キリスト教の作法など全く分かりませんので、ただ頭を下げただけでしたが、久しぶりにお会いできたという懐かしさでいっぱいになりました。
 また、奥様は、5月28日の「偲ぶ会」にはとても慰められたと喜んでおられました。
 寺井さんの思い出の他、ご自宅に飾っておられる絵画の話から、美術の教師をされていた奥様のお父様(田上實様)の死後、その画集を自費出版されたことなど、6時半ころまでゆっくりと奥様とお話することができました。
 寺井さんが亡くなられた後、何をする気力もなくしていた奥様でしたが、「偲ぶ会」もきっかけとなり、徐々に日常の生活を取り戻しつつあるそうで、その日も、奥様が参加しておられるアマチュアオーケストラ(第二ヴァイオリンとか)の友人が、寺井さん方に来て一緒にパート練習をしていたとかで、居間に譜面台などが置かれていました。
 私からは、「偲ぶ会」のプログラムに掲載された鳥取でのスピーチ原稿が素晴らしい文章で、多くの人(これから和歌山の脱原発運動に加わる人を含め)に感銘を与え続けるだろうということ、また、2014年3月11日に郡山の集会で行った寺井さんのスピーチを、西郷章さんが録音・録画してFacebookにアップしており、寺井さんの肉声で素晴らしいスピーチを聞くことが出来る貴重な記録が残されていることなどをお話しました。
 それにしても、私が6月15日の夕方5時15分ころ(だったと思います)に、田辺の「オーシティ」前に立っていたというのは、偶然も偶然、私自身がその直前まで全く想像すらしていないことでした。
 そもそも、御坊の仕事が長引かなければ、私はいったん和歌山にとって返して4時からの会議に出席し、その後、5時から再び車で田辺を目指すつもりだったのです。
 また、5時前に田辺に着いてしまい、どうやって時間をつぶそうかと考えた際にも、いくつかの選択肢の中から、「教育会館の付近を散策する」ことにしたのも偶然なら、会場からまっすぐ坂を下るというルートを進んだのも、初めて通る道で、どこに通じているのかも全然分からぬながら、「つい何となく」選んだ結果です。
 私も奥様も、「お導き」というのはあるのだ、と思わないわけにはいきませんでした。
 寺井さん、本当にお世話になりました。
 寺井さんの「3.11反原発福島行動’14」でのスピーチの末尾「かつて国家犯罪に立ち向かった我々の先人たちに学び、人類の歴史、その勝利を確信して、孤立を恐れず、共に歩もうではありませんか。」という呼びかけが、まさに切実に身にしむ現在の日本の状況ですが、その呼びかけに呼応して、なし得る限りの努力をすることを誓い、この追悼特集を終えることとします。