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戦地からの“最愛の妻”への手紙~「2016平和のための戦争展わかやま」から

 今晩(2016年7月30日)配信した「メルマガ金原No.2523」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
戦地からの“最愛の妻”への手紙~「2016平和のための戦争展わかやま」から

 今日(7月30日)の午前10時から、和歌山勤労福祉会館プラザホープを会場として開催された「2016平和のための戦争展わかやま」に行ってきました。都合により、午後のピースライブに参加できなかったのはまことに残念でしたが、明日も10時から12時半まで、2Fギャラリーで展示が、2F多目的室で市民参加企画(群読、朗読、戦争体験や抑留体験など)行われますので、まだ行かれていない方に是非お奨めします。。
チラシPDF
 
 午前10時~12時は、4Fホールを会場として、オープニングに引き続き、東京新聞論説兼編集委員の半田滋さんによる講演「日本は戦争をするのか-集団的自衛権自衛隊」が10時半から行われました。2014年4月に青年法律家協会和歌山支部が憲法記念講演会の講師にお招きして以来、2年ぶりに半田さんが和歌山で講演されるということで、朝の講演会というのはほとんど経験がありませんでしたが(映画の上映会なら時々ありますが)、連日の睡眠不足でいささか睡い目をこすりながら、聴講に駆け付けたという次第です。
CIMG6400 いつもながら、しっかりとファクトを踏まえながら、論旨明快に説き進める半田さんのお話はよく分かり、非常に勉強になりました。
 私がとりわけ感心したのは、第二次安倍政権が決定的に対米従属路線をとるに至った転機が、2014年2月、短期間のうちに集中的に米国政府から示された露骨な服従を求めるサインの連続(相次ぐ日米合同訓練のドタキャン、駐日米国大使のNHK番組への出演拒否等)であり、安倍政権がこれに震え上がったのだという見解でした。
 講演会終了後、東京へ戻られる前に少しだけ2Fギャラリーの展示を見ておられた半田さんと久しぶりに少しだけお話できたのですが、てっきり前泊だと思っていたのに、何と今朝5時起きして和歌山に来られ、すぐに東京に戻ることになっているとかで、「朝の講演だと日帰りができてしまうのでよくないですねえ」とぼやいて(?)おられました。
 余談ですが、短くても質疑応答の時間を設けるのに反対する訳ではありませんが、私が主催者なら、適切な質問をしてくれそうな人に根回ししておきますけどね。質疑応答というのは本当に難しい。
 
 ところで、今日メインで取り上げるのは、2Fギャラリーの一画に展示された「戦地からの手紙」です。実は、この手紙は、今年の5月3日に和歌山城西の丸広場で開催された
“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2016”のブースでも紹介されていた手紙であり、私は、その便箋6枚の手紙の1枚目と6枚目をメルマガ(ブログ)でご紹介したのでした。
 
2016年5月5日
写真レポートで振り返る“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2016”
(抜粋引用開始)
 今年の “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2016”の私個人にとってのハイライトは、展示コーナーに置かれた1通の手紙(PDF化したものを拡大してプリントアウトしたのでしょうか)でした。便せん6枚にびっしり書かれたその手紙は、妻と3人の子どもを残して帝国海軍に召集され、駆逐艦乗組となった一兵員が、妻に送った多くの手紙のうちの1通ということでした。もともと字が上手な方であったのだとは思いますが、これを受け取った妻が読みやすいように丁寧に書こうという心遣いを私は感じました。
 私は、開会前にこのコーナーを訪れ、引き入れられるように6枚の便せんの文字を追いながら、その手紙を声に出して読み始めていました。傍らには、この手紙を書いた中村富雄さんの孫娘にあたる方もおられ、判読しにくい箇所の読み方や、登場する人名の執筆者との血縁関係などを説明してくださいました。
(引用終わり)
 
 その「孫娘にあたる方」が、私たちの仲間である歌舞さんこと「にしでいづみ」さんなのですが、今回の「2016平和のための戦争展わかやま」では、西の丸広場でも展示されたPDFファイルを拡大したものに加え、オリジナルの手紙そのものもの展示されるとともに、手紙を判読してワープロ打ちしたものも併せて展示されていました。そして、「にしでいづみ」さんによる「戦地からの手紙」と題した出展者の言葉が掲載されていました。
 
CIMG6392 「にしでいづみ」さんも書かれているとおり、この手紙を妻に送った中村富雄さんは、海軍一等機関兵曹として乗り組んでいた駆逐艦「早波」が米海軍潜水艦の魚雷攻撃によって撃沈され、戦死されました。歳35。乗組員の内、戦死者253名、救助者45名であったと伝えられています。
 
 以下に、「にしでいづみ」さんのご了解を得て、にしでさんが出展にあたって書かれた文章と、お祖父様(中村富雄さん)が“最愛の妻”(すが江さん)宛に戦地から送った手紙の全文を書き写します。
 なお、以下に掲載したものは、展示用に拡大された手紙を(私が)写真撮影し、これを基に私自身の責任において判読した結果を転記したものです。
 この手紙は、基本的に句読点が(例外はありますが)使われておりませんので、そのとおりに再現することにしました。また、本来であれば読点があっても不思議でない箇所に心持ち空白の間隔が置かれていることがありますので、その箇所は半角スペースで表示しました。
 さらに、難読と思われる漢字には括弧書きで読み方を示しました。
 ところで、(おそらく)主催者が行った判読の結果と思われるワープロ打ちの再現原稿とも照合しました。参考とさせていただいた箇所も多いのですが、異なった判読結果を採用した箇所も少なくありません。以下に掲載した内容は、あくまで私の責任で転記したものであり、読み誤りがあった場合の責任は全て私にあります。
 
 まず、「にしでいづみ」さんによる出展者の言葉をお読みください。
 
(引用開始)
戦地からの手紙
                              にしでいづみ
 
 夏休みに祖母の家に遊びに行くと、朝に夕に、仏壇に炊きたてのご飯を供え、祖父の遺影に静かに手を合わせる祖母の姿を見ていた。ある夏の日、もう理解できる歳だと思ったのだろうか。祖母は、戦地に就いていた祖父から来た手紙の束を古い箱から取り出し、私に見せてくれた。祖母は手紙を読むでもなく、当時の話しをするでもなく、ただ黙ってそばに座っていた。
 続け字で漢字も多く、ところどころしか読めなかったが、どの手紙も、最後はこう締めくくられていた。
 
「最愛の我が妻 すが江へ」
 
CIMG6391 昭和19年6月7日、祖父は、魚雷を受けた駆逐艦とともに、南海の底深くに沈んでいった。享年35歳。祖母は28歳だった。
 戦争になれば、兵士たちは家族と離れ、戦地に向かう。それは誰かを殺すためであると同時に、殺されるかもしれない旅立ちになるということ。前線で過ごす夜、家族や故郷を思いながら手紙を認(したた)める時間を想像してみる。故郷では、きっと無事に帰ってくると祈りながら待ち続ける家族の気持ちを想像してみる。
 憲法を変えようとする動きが始まった時、何の躊躇(ためら)いもなく反対運動に加われたのは、祖父の手紙があったからかもしれない。
 憲法改悪が現実味を帯びてきた今、もう誰にもこんなに悲しい手紙を書かせたくない、もう誰にもんなに悲しい手紙を受け取らせたくない、一人でも多くの人に戦争の現実を伝えたい、そんな思いから、今年の憲法記念日のイベントで祖父の手紙を紹介させて頂いた。
 70年余りの時を経て、便箋の白は赤茶け、風化し、今にもハラハラとまるで櫻の花びらのように散ってしまいそうになっている。
 そうなってしまわないうちに・・・子どもたちに平和な世の中を手渡せるよう、これからも声をあげ続けよう。祖父もそれを願っていると思う。
(引用終わり)
 
 以下に、中村富雄さんから妻・すが江さんへの手紙を全文転記します。
 
(1枚目)
拝啓
其の後 躰
(からだ)の方は、如何(いかが)
ですか 一別以来絶えて
たよりに接せぬままに あの当時の事ばかり偲ばれ
如何
(どう)して居る事かと 按(あん)
じて居ります
由紀子や重樹は無事進學
(しんがく)
しましたか
母上は達者ですか 立つ時、禎二の納骨に京都へ
行く様云って居たの お参り致しましたか
何だか、あの彼岸頃に夢を何度も見ました
私も日々の勤務にも少し宛
(ずつ)
落付きが出来る程に
なれて来た様に感じ 前戦の日々も送って居ります
日が経つ程に気を付けてゐる所為
(せい)
か胃の方の患ひも
忘れ 目方も十六貫目と 肥えて来ました
誰ともなく 今日も感謝の一日は終れり と
(2枚目)
夜すぎ 電気の消える頃ともなれは ひとり 私にも その気持が
する。朝起きれは 遙拝
(ようはい)を 家郷(かきょう)
の方に向いて 朝の
挨拶を 毎朝して居ます
体操もその朝禮
(ちょうれい)の済んだ直後に 十分位宛(ずつ)
するのです
海軍体操 それは朝のラヂオ体操とは全然違って居り
やる程に躰を鍛える様なものです
好きだけれど 未だ充分に出来ない感じがする
いつか休みの時に戰友達が機械体操をして居るのを見て
あゝ 自分は出来ない、と 今更乍
(いまさらなが)
ら 年少の頃から 体を
鍛えてなかった事を フット 偲び出される
人の出来る事かと思ふが どうも不得手だ
重樹等も一度浦田さんと浜寺へ連れて行ってやった
時 とても水を恐れて入りたがらなかった が
(3枚目)
あの様な事から想像して もっとのびのびと遊ばせてやり
少し位乱暴でも 人並には何でも出来る様で無いと
可愛そうなと思ふ 何かと不足勝
(ふそくがち)
であり 不自由な昨今
では 子達の発育に就而
(ついて)
も お前も相当気を遣ふ事と
思ふが 要は精神力で せめてもしっかり 育てゝやって
呉れる様
(くれるよう) それのみ 寫眞(しゃしん)を見る度(たび)
思って居る
前線の勤務にも はげしい訓練の後には 十分な睡眠と
酒保
(しゅほ)等許されるが 此(この)
若い 元気一杯張り切って居る
人達ばかりなので随分 面白い事もある
その中で自分は 子達は三人もあり 二人進學
(しんがく)
して
居る事を話すと 何かと話の花が咲く
年も相当上であり 海軍に入ったのも早いと云ふ点より
或る意味で信頼もされるが 仲々に 萬事を頭に入れる
(4枚目)
事は一苦労だ 内地の事を絶えず〇〇(注:読み取り不能。「戦争展」主催者は「特写」と解読)電報で聞く
相当銃後も引締められて居り 一億が緊張して来たの
を眼
(ま)
のあたり見る様です
此の頃大本營の発表も少ない様ですが 兎も角
(ともかく)
日の
過つ
(たつ)
程に基地の(大東亜共榮圏)開発も進み 敵としても
取り返す事は至難になって来る事でせう
此方
(こちら)
が苦しい戰ひなら 敵も矢張り苦しいのだと思って
前線は勿論銃後は只(ただ)生産一途(いちず)に邁進(まいしん)しなければな
らぬと思ひます
此の様な事を考へるだけ 前線の兵士達に暇がある
のかと思われるかも知れぬが 戰争は化學(かがく)の力に依っ
て支配されるとまで云はれるのからして考へても
銃後の化學の力をドンドン前線に送って貰ひ度い(もらいたい)
(5枚目)
化學の方面では未だ未だ(まだまだ)日本は相手に遅れて居る
のではないかと思ふ
そんな事は他所事
(よそごと)
と思ふだろうか あらゆる角度から
検討する時 隣組や町会で兎や角
(とやかく)
云ふ事に對す
る応答も 正確な戰争意識 云い換えれば 日本は
この戰争に必ず勝つんだ との気持が はっきり掴めると
思ふ 戰果の擧
(あが)
らぬのは 満を持して居るのだ 又一つには
銃後生産陣の責任であるのだと 自分は思ふ
 (注:この後3~4字程度が抹消されたのではないかと思われる)
だ 今年こそと頑張って居る様子なので 桜花咲けども
われ関せずで 花見等 今年こそ少ない事と思ふ
天長の佳節を週日の後に向ふ
(注:「迎ふ」の宛字か)
 何卒 皆 元気に
出来れは速水
(注:滋賀県長浜市速水)
引越しの件も充分考慮して 良いと
思ふ方向にどんどん進んで欲しい
(6枚目)
あれ程云って置いたので 躰の方は 充分手当をして
元気になって居る事と思ふが 要はお前の躰
(からだ)
が一番
大事なんだから 充分気を付けて
母様や子達の生長を手落なくやって呉れる様
色々とりとめもなく書いたが
右の意味を充分かみしめて 日々の事に当る様
             前線ニテ
                  中 村 富 雄
最愛の
 我が妻
  すが江 殿

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