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wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

司法に安保法制の違憲を訴える意義(2)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述

 今晩(2016年9月10日)配信した「メルマガ金原No.2565」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
司法に安保法制の違憲を訴える意義(2)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述

 去る9月2日(金)午後2時から、東京地方裁判103号法廷で第1回口頭弁論が開かれた安保法制違憲・国家賠償請求訴訟では、原告訴訟代理人(弁護士)5名及び原告5名による意見陳述が行われ、その原稿が「安保法制違憲訴訟の会」ホームページで公開されています。
 私は、その内、まず寺井一弘弁護士以下、5名の訴訟代理人の陳述を全文ご紹介しました(司法に安保法制の違憲を訴える意義(1)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述/2016年9月6日)。

 今日は、その続編として、同日行われた5人の原告による意見陳述をご紹介することとします。
 陳述されたのは、以下の5人の方々です。肩書きなどは、陳述書を読ませていただいた上での私の心覚えのメモに過ぎません。
 今回陳述された5人は、堀尾先生をはじめとして、皆さん、様々な活動をしてこられた方々ですが、それぞれ参考サイト(私が勝手にセレクトしました)を1つずつご紹介しておきます。
 
 
菱山南帆子さん 祖母が八王子大空襲の被災者 平成元年生まれの市民運動家
※参考サイト
「あらしを呼ぶ少女」菱山南帆子さんが歩んだ道~講演に笑いと共感(レイバーネット日本)
 
辻仁美さん 安保関連法に反対するママの会
※参考サイト
辻仁美氏(安保関連法に反対するママの会から) スピーチ 「みんなのための政治を、いま。市民+4野党党首 有楽町大街宣」 2016.6.19 @有楽町イトシア前(YouTube
 

河合節子さん 
東京大空襲被災者(母と2人の弟を喪う) 東京大空襲訴訟原告
※参考サイト
知って下さい東京大空襲YouTube) 紙芝居(絵・文・上演:河合節子さん)

 
新倉裕史さん 米軍横須賀基地近隣住民 非核市民宣言運動・ヨコスカ
※参考サイト
基地の街で「対話」40年 横須賀の新倉さん、平和運動を本に(東京新聞)
 
 私が選んだ参考サイトを読んだり視聴したりしてくだされば分かると思いますが、今回陳述された5人の皆さんは、様々な体験や属性を背景としながら、日本国憲法の基本理念である恒久平和主義を、日々の実践を通して「不断の努力によつて、これを保持し」てきた方々です(憲法12条)。
 そうであればこそ、憲法を踏みにじった安保法制法の制定は、自らの生き方を否定されたに等しく、立ち上がらざるを得なかったということだと思います。
 そして、そのような思いは、この5人の皆さんほど目立った活動はしていなくても、憲法の平和主義を大切なものと思ってきた大方の国民が共有するところだろうと思います。
 
 それでは、5人の原告の皆さんの陳述をご紹介します。
 一読して共感していただければ、是非、これを周りの方々に知らせてください。このブログをシェアしたり、自分のFacebookタイムラインに貼り付けたり、あるいは「安保法制違憲訴訟の会」ホームページに掲載されたPDFファイルを印刷したり、いろんな方法を活用して、共感の輪を少しでも大きく拡げていきましょう。よろしくお願いします。
 
 なお、第1回口頭弁論終了後の記者会見と報告集会の動画を再掲しておきます。
 
20160902 UPLAN【裁判所前広報・記者会見・報告集会】安保法制違憲・国家賠償請求訴訟第1回口頭弁論(2時間24分)

冒頭~ 裁判前の東京地裁前での集会
40分~ 記者会見
1時間10分~ 報告集会
司会 杉浦ひとみ弁護士
1時間10分~ 寺井一弘弁護士 あいさつ
1時間24分~ 黒岩哲彦弁護士 第1回口頭弁論の裁判の様子
1時間35分~ 伊藤真弁護士 裁判の法的な展開について
1時間43分~ 原告・堀尾輝久さん
1時間48分~ 原告・菱山南帆子さん
1時間51分~ 原告・辻仁美さん
1時間56分~ 原告・河合節子さん
2時間00分~ 原告・新倉裕史さん
2時間04分~ 福田護弁護士 訴訟の今後の展開  
2時間13分~ 質疑応答 
 

原告意見陳述  堀 尾 輝 久
 
私が本件の原告になることを決意した理由
 
1 私の成育史
 私は1933年福岡県小倉生まれ。1937年、4歳の時日中戦争がはじまり、父は戦場へ。6歳の時、中国北部で戦病死した。靖国に祀られ、我が家は「誉れの家」となった。学校では戦争は「東洋平和のために」と教え込まれ、やがて私は当然のように軍国少年になっていた。
 敗戦は12歳、小倉中学1年の夏。終戦の安堵と将来の不安。教科書の墨塗り体験は、それまでの価値観を自分の身体で否定する、否定される体験であり、翌年配られた「新しい憲法のはなし」は新鮮な驚きであった。戦後改革、憲法教育基本法のもとでわたしの青年期は始まる。
 大学では比較的に自由な法学部政治学科に入ったものの、なじめず、さらに人間の問題を深く考えたいと思い、人文科学研究科の大学院で教育哲学・教育思想を専攻した。
 
2 研究者として、教師として
 戦争と平和の問題は、なぜ自分は軍国少年であったかの問いとして、学部生の時からの関心事であった。法学部では、丸山真男ゼミで「日本におけるナショナリズムファシズム」、尾高朝雄ゼミでカントの「永久平和論」を読み、大学院では現場教師の平和教育実践に触発される。私の研究も戦後改革への関心から憲法教育基本法の成立過程を精査して、『教育理念』(東大出版1976)として上梓。その後も、新資料に基づき憲法9条の押し付け論を批判し、その世界史的意味を考察してきた。(「戦争と教育そして平和へ」『総合人間学会年報』4 号2010、「憲法9条幣原喜重郎」『世界』2016.5 月号)
 また人格形成を軸とする人間教育にとって、平和は条件であり、目的であると考え、平和主義を教育思想の中軸に据え、さらには自分の生き方として捉えるようになってきた。(『人間形成と教育』岩波1991、『地球時代の教養と学力』かもがわ2005)
 東京大学では、教育学、教育思想の講義とともに「平和と教育」ゼミを続け、中央大学では国際教育論を講じ、現在も総合人間学会で「戦争と平和の問題を総合人間学的に考える」研究会を主催している。
 この間憲法に対する確信も深まり、憲法9条の精神を守るだけではなく世界に拡げることをこそ憲法は求めていると考え、同じ思いの先輩方を引き継いで、国際憲法学会や9条世界会議、パリでの国際平和教育会議にも参加してきた。今は「9条を持つ地球憲章を!」の国際的な運動をすすめるため、世話人の一人として準備をしている。私の研究・教育活動の軸には平和への希求と9条の理念があったのだと改めて思う。
 
3 精神的打撃
 この間の経緯と現在の状況は私の精神のありようにとって厳しいものがある。安倍内閣のもとでの教育基本法制定(2006年)は衝撃的であり、教育学研究の根拠を奪われる思いであった。しかし憲法がまだ生きている、と思い直してきた。
 しかし、安保法体制が進めば、マスコミと教育は国民馴化のための手段となり、社会から、学校から自由の雰囲気が消えていき、再び軍国少年少女が育てられるのではないか。貧困と格差は経済的徴兵の温床となるのではないか。そのような事態こそ、人格権としての幸福追求の権利を制約し奪うことになろう。
 このような憲法が侵される事態は堪え難い苦痛である。それは研究者としての苦痛であるとともに、平和主義を自分の生き方として選びとってきた私にとっての人格権の侵害そのものと言うべき苦痛である。
 長らく教育研究に身をおき、平和の思想史と平和教育の実践的研究に携わり、前文・9条に誇りをもって生きてきた者として、さらに「9条を持つ地球憲章」を創る仕事に取り組もうとしている者として、この事態は、私の研究の根拠を、さらには私の生き方を国家権力によって否定され、奪われる思いである。
 これまで教育関連の裁判においては、学者として意見書を書くことはあっても、自ら原告になることはなかった。しかし今度ばかりは、自ら原告となる道を選んだ。それほどの苦痛を受けているということである。それは個人としての苦痛にとどまらず、教育研究者として未来世代に責任を負うものとしての憤り( 公憤) でもある。
 戦前戦中そして戦後を生きてきた人間の一人として、 未来世代の権利を護る責任をもつ世代の一人として、法の前に立ちたいと思う。
                                        以上
 

原告意見陳述  菱 山 南 帆 子
 
 私は、1989(平成元)年生まれです。両親が共働きだったため、一人っ子の私は、日中祖母の家に預けられることが多かったです。祖母は、戦争のことを私によく話してくれました。戦争で祖母の兄弟や家族が亡くなり、祖母自身も戦火に逃げ回ったそうです。祖母は1945年8月2日の八王子大空襲を経験しています。八王子の街の約80%が焼かれて何もなくなったということです。「火に追われ必死に逃げ回っているのは、今の私ではなくてあなたくらいの子どもだったのよ」と言われ、私は自分自身が火に追われ逃げる様子を想像し、親を亡くすことを想像するようになりました。心から怖いと思いました。祖母は、戦争の話をした後、いつも「今は二度と戦争をしないという憲法ができたのよ」と本当にうれしそうに話してくれました。私は八王子の街を逃げ回らなくてもいいし、親を亡くして独りぼっちになってしまうこともないと子ども心に安堵しました。私は、「憲法があって良かった!」と心から思ったのです。
 
 小学校6年生の秋にアメリカの9.11がありました。私は、なんでこんなテロを起こしたのか疑問を持ちました。私は、アフガンの人たちがアメリカを憎む原因を考え、また、9.11で犠牲になられた人たちの苦しみを想像しました。アメリカが始めた、いわゆる「正義の戦争」はアフガンの人たちから見たら「正義」ではなく「悪」ではないだろうか。そして、なぜテロを起こしたのかと考える中で、「貧困」や「差別」がもとにあり、「戦争」は憎しみの連鎖にしかならないということは、12才の私にも分かりました。
 中学1生だった2002年12月、イラク戦争が始まる直前に、初めて母と一緒にイラク戦争反対の集会に日比谷野外音楽堂に行きました。同じ思いの人が集まり、思いを共有することに感動しました。それから私は一人で集会などに参加するようになりました。
戦争で人の命や生活が失われるということに焦りを感じで、何かしなければならない、という思いに突き動かされていました。
 当時は、ツイッターフェイスブックスマートフォンもなかったため、情報源は「ビラ」でした。私は学校内で友だちに伝えようと「ビラ」を作り学校内で撒きました。
 イラク戦争が始まった3月20日以後は、寝袋をもってアメリカ大使館前で泊まり込んで訴えたりしました。
 私はそれまで、おまわりさんは優しい人たちと思っていましたが、大使館前に座り込んでいる私たちを時には暴力を持って排除しようとしたのを見ました。
 私は、こんなふうに運動に関わる中で大人の人たちの話から、戦後の運動の歴史や、憲法というものの中味、憲法9条だけでなく13条や24条など私たちにとってとても大切なことを書いた条文がたくさんあることを知りました。
 中学3生から高校2年までの長期休みの時は沖縄の辺那古の海に行きました。そこで、体を張って基地を建設させない運動を続けている人たちを知り、私も仲間に入れてもらいました。ここでも国の人が住民を海に突き落とすという姿を見ました。
 私は、祖母が安堵した平和を守る憲法を、このままの姿で守りたいのです。
 戦争の加害者になって心の傷を負う人を作りたくない。
 安倍政権の憲法破壊をやめさせ、のびのびと安心して生きられる社会を残したい。
 安全保障法制によるアメリカとの一体化する政策は、自衛隊をこれまでの中立者から明確な敵兵と豹変させることであり、日本を一気に危険な状態へと陥れます。本裁判提起後である、7月2日、バングラデシュの首都ダッカで、テロ事件が起こり7名の日本人が犠牲となりました。私たち日本人は、安全保障法制を制定したことによって、ISのようなアメリカやその同盟国を標的とするテロリストにとっての、標的となりました。私たちの身には現実のテロの危険が迫っています。
 また、私たちの国家の基本法である憲法をかくも違法な手続きで破壊した安全保障法制は、私たちに憲法97条が定める「この憲法がさだめる基本的人権は侵すことのできない永久の権利として信託されたものある」ことを、改めて私の心に呼び起こしました。私が祖母から教えられた戦争を行わないかけがえのない憲法9条が、安全保障法制によって破壊されてしまったことは私の心に大きな傷跡を残しました。
 安倍政権が強引に成立させた安全保障法制によって、私が、平和の為には最善のものと考えている憲法9条が歪められています。私の中には、主権者としての意識、政府が憲法に従うべき立憲主義という考え方が、15年以上前に私の中に育まれ、これまで蓄積されてきました。しかし、安全保障法制によって私の考えがドンドン破壊され続け、絶望的な気持ちになっています。
 私は祖母から思いを託された者として平和憲法を踏みにじる安保法制を認めることはできません。自分が平和の中で安心して暮らしてきたことを、そのまま次世代に渡すために、安全保障法制を違憲とする原告となります。
                                        以上
 

原告意見陳述  辻  仁 美
 
 私は二人の子どもを育ててきました。娘は、この春、大学を卒業して社会人になりました。息子は大学2年生です。
 私は3.11の原発事故までは政治に特に関心を持ったことはなく、いわゆるノンポリでした。
 3.11以来、政府の出す情報がおかしいのではないかと思うことが重なり、放射能のことや食の安全に関しても、自分で考えて行動しなければと思うようになりました。当時子どもたちは高校生と中学生でしたので、子どもを守るための市民活動をするようになりました。その延長線上に、昨年7月に参加するようになった「安保関連法に反対するママの会」の活動があります。ママの会は「だれの子どももころさせない」を合言葉にしています。
 国民の8割が時期早尚と言っていたのにもかかわらず、国会で十分に審議が尽くされないまま、また立法事実のないままに安保法制が強行採決されたとき、私は、とうとう日本が海外に出かけて行って戦争できる国になってしまったのだと絶望感にさいなまれました。
 私たちの国は「政府の行為によって再び戦争の惨禍がおこることのないようにすることを決意したのではなかったのですか?」
 安倍首相は安保法制の成立を受けて「国民に丁寧に説明していく」といいましたが、安保法制が施行されたいまも、丁寧に説明してくれたことはあったでしょうか。
 政府への不信感から、私は、安保法制が施行されてから子どもを持つ母として不安でたまらなくなりました。
 原発だらけの日本へのテロ攻撃の心配も現実となってきています。今年3月22日のベルギーのテロ事件を知って、ますますその心配が高まっていたところ、今年の7月初めにはバングラデシュのダッカで明らかに日本人がターゲットになったテロ事件が起きました。ベルギー事件以上に、ダッカ事件は私に恐怖をもたらしました。安保法制によって、日本は外国から見れば、明らかに平和主義を捨てたとみられていることがはっきりしたからです。このようなことは国の内外を問わず、これからは私たちに起きるのだと思い知らされました。
 これで「安保法制は国民の生活や安全を守るために必要不可欠」なんていえるのでしょうか?
 先月、私は、沖縄の東村・高江のアメリカ軍ヘリパッド建設工事に反対している人々の応援に行きました。参議院選挙が終わるのを待っていたかのような、突然の工事の再開、そして7月22日に行われた本土の機動隊員によるあまりの横暴な強制排除の映像を見て激しいショックを受けました。だから私は、いてもたってもいられず、高江に行ったのです。
 そこで、私が自分の目で見て感じたこと、それは「権力の暴走した実際の姿」でした。本土の各地から動員された若い機動隊員たちが、非暴力で抗議行動をする現地の人々を羽交い絞めにして暴力的に排除する姿がありました。彼らは、法律を無視し自分たちのしたい放題の規制をしており、ここは本当に日本なのだろうかと恐ろしくなったほど、現場はまさに「無法地帯」でした。
 戦争できる国になるということは、こういった暴力が許される社会であり、それを現場で担わされるのが若者なのだと実感しました。大学生の半分が利息付の返済が必要な奨学金を借りているという現実に照らすと、息子のような若者を使って、数年先、本土でこの光景であるかもしれないと思うと身震いがしました。
 私たち普通の市民は、安保法制のもとであっても、この国で生きるしかありません。この社会が、言いたいことも言いにくくなって徐々に息苦しい社会に変化してきていることも実感しており、押し寄せる圧迫感と不安や恐怖と闘う毎日になっています。権力の暴走を止めるのが憲法であるはずなのに、憲法にその機能がなくなってしまったら私たちは何をよりどころに暮らしていけばいいのでしょうか。
 
 沖縄滞在中に、戦跡を訪ね戦争被害の体験者のお話も聞き戦争とはどういうものかわかりました。戦争をしない国を次世代へ繋いでいくことこそが今を生きる私たちの使命なのではないか。そのように思いました。私たちの国はいったいどこに向かおうとしているのですか?
 私は、子どもたちには世の中に役に立つ人に育てようと、しっかりと教育をしてきたつもりです。
 しかし、子ども達を戦争に加担させるために産み育ててきたのでは、断じてありません。武器輸出解禁や自衛隊海外派遣などのニュースは私を不安にさせます。平和に生きる権利を侵害されたと感じます。高江での体験で、さらに不安が増しました。精神的にも肉体的にも大きな負担と苦痛を与えられていると感じます。裁判所におかれては、どうぞ、この思いをお受け取り下さいますようにお願いいたします。
                                        以上
 

原告意見陳述  河 合 節 子
 
 戦争によって家族を殺され、傷つけられた被害者の一人として、この安保法制が強引に成立させられたこと、施行されたことで、私が受けた被害を訴えます。
 昭和20年3月10日の東京大空襲は、2時間あまりの間に東京下町の約10万人が焼き殺され、約100万人が罹災したというすさまじい戦争被害でした。私は、母親と2才、3才の幼い弟を焼夷弾の火炎の中で、失いました。父親は、大火傷を負いながらも、生き長らえましたが、住居、生活用品、食物すべてを失いました。家族全員を奪われた人々も沢山いました。家族も生活のすべも失った者たちが、その後を生きることは、本当に大変なことでした。   
 大火傷を負った父は、病院に収容されましたが、薬もなく火ぶくれになった皮膚に、油を塗る程度の劣悪な医療環境の中で、やっと命を取りとめました。しかし、眼瞼や唇は反り返り、耳たぶも融けてなくなり、顔中ケロイドの状態になりました。
 当時、誰もが貧しく、なにがしかの被害を負った生活でしたが、それでも父のケロイドの顔面は人が目を背けるようなひどい様子でした。父が奇異の目にさらされながらも、働いて、幼い私を育てることは、どんなに大変だったかと思います。父はそんな被害を受けながらも、妻や子を守ってやれなかったことに苦しんでいました。父の辛さ切なさが分かる年齢になり、私自身も胸のつぶれる思いです。
 戦時中、兵士も戦いましたが、一般市民も戦争にまき込まれました。自分達の住む街が戦場になったのです。近代戦においては、国のすべての住人が標的となりました。
 私の人生は、母や弟たちを失い、父を苦しめ続けた、そんな戦争の傷跡の中で形作られてきたのです。
 国内外に膨大な被害をもたらして終わった戦争の結果、「私達は、もう二度と戦争はしない」と決め、現在の憲法が制定されました。私に大きな重荷を負わせた戦争を「やってはいけないことだ」と国が認め、「二度と戦争しない」と私たちに約束してくれたのです。二度と私のような苦しみを子どもや孫たちが負うことはないと、その約束と引き換えに大きな心の痛みや苦しみをこらえて生きてきました。
 私は、いわゆる東京大空襲の被害者として国を相手に裁判を起こす原告になり、約7年間裁判をしました。でも、司法は、この戦争被害についての救済の必要性を判断せず、立法府にゆだねました。
 ところが、国の立法機関は、司法に指摘されたかつての戦争の後始末をするどころか、その反省さえ忘れてしまいました。
 この安保法制に、私達戦争体験者は70数年前の異常な日々のくらしの記憶を呼び覚まされ、更に、自分や家族の頭上に、火の玉となって戦争が降ってくると、怯えて暮らすことになりました。
 この法制の成立によって、再びかさぶたをはがされるように、生々しい心の傷としてすべてが蘇ってきます。亡くなった母の顔や、小さかった弟たち、そして苦しんで苦しんで私を育ててくれた父のあのケロイドの残った面影、すべてが今現実のものとして蘇ってくるのです。
 戦争する国になることは世界を平和にはしません。恨みが恨みを招き、やがてその恨みは自分たちの元に返ってきます。私は、9条の戦わない平和な日本を家族の犠牲と自分の人生の犠牲の引き換えに70年手にしてきました。この先人の犠牲を無にするようなことは絶対にやめてください。
 裁判所は私たちの被害をしっかり受け止めてください。
                                        以上
 

原告意見陳述  新 倉 裕 史
 
 神奈川県横須賀市の南部、長沢に暮らしている新倉裕史と申します。住まいは、在日米海軍横須賀基地から約10キロメートルの距離にあります。
 父親が米軍基地で働いていたため、基地の存在は幼いころから身近に感じていました。慣れ親しんでいた基地ですが、成人するにつれてその存在に疑問を持つようになり、現在、小さな市民運動に参加し、基地の存在と市民の平和な暮らしについて、考え続けています。
 安保法制が成立しました。基地の街に暮らす市民として、安保法制の成立は、大きな不安材料です。本日、この場で証言する機会を頂きましたので、基地の街の住民が抱いている不安について、証言できればと思います。
 
 最初に、米海軍横須賀基地に配備されている米艦船が、実際にしてきたことについて報告します。
 横須賀基地を母港とする空母機動部隊は、湾岸戦争イラク戦争で、先制攻撃の中軸を担ってきました。イラク戦争では横須賀母港の2隻のイージス艦が、巡航ミサイル・トマホークを発射して戦争が始まっています。先制攻撃のあと横須賀母港の空母キティーホークの艦載機が5000回以上の攻撃を行いました。
 イラク戦争の犠牲者は19万人。その7割の13万4000人が戦闘に巻き込まれて死亡した一般市民といわれています。アメリカ軍兵士の戦死も4500人を超え、除隊後の自殺者や戦争後遺症に苦しむ元兵士の多さが深刻な問題となっています。
 開戦理由とされた、フセイン政権による「大量破壊兵器の保有」も、「テロリストをかくまっている」も事実ではなかったことが、米国自身の調査で明らかになっています。
 今年7月には、同盟軍であったイギリスの独立調査委員会(チルコット委員会)も、「侵攻は法的根拠を十分に満たしていたと言うにはほど遠い」と調査報告書を発表しました。
 
 基地の街に暮らす市民として心に重くのしかかるのは、こうした国際法に反した先制攻撃による軍事力の投入が「平和」を遠ざけ、より大きな混乱を作り出りだしているという現実です。歴史学者のエマニュエル・トッドは「ISを生んだのは、アメリカのイラク侵攻だ」(朝日、2015.2.19)と指摘します。欧米諸国が過去数十年にわたって繰り返してきた空爆や地上戦が、夥しい数の中東の市民を犠牲にしてきたことが、今日の「テロの脅威」を呼び込んでいます。
 こうした現状を冷静に見れば、安保法制の成立によって、私たちが暮らしている横須賀の米軍と自衛隊が、より同盟化を強め、一緒になって、新たなテロを生み出すことにつながる軍事行動を起こすことになりはしないかと、心から心配しています。
 
 米軍基地自身が、随分前から「テロ」を現実問題と考えていることを、私たちは知っています。
 2001年9月11日、アメリカで発生した「同時多発テロ」に関連して、在日米軍基地がとった対応をみれば、そのことは明らかです。
 9.11「テロ」の直後、米陸軍相模補給廠の入口には土嚢が積まれ、その上部には機関銃が据え付けられました。重武装の兵士が構える銃口は市民に向けられていました。
 横須賀基地の正面ゲートでは、基地で働く人々の通勤時には、弁当の中身や着替えの下着までがチェックされ、人権侵害の指摘が新聞記事になりました。
 9.11の2日前の「星条旗新聞」は、1面で「テロに注意、韓国と日本の米軍基地が攻撃の対象に」という警告記事を掲載していました。
 そして、空母キティーホークは、テロを恐れて横須賀基地から避難しました。このとき、横須賀の海上自衛隊の2隻の護衛艦は、集団的自衛権の行使というべき、米空母の警護をすでに行っています。14年前のことです。安保法制の成立によって、こうした軍事行動がより日常的になれば、米軍自身が自覚している横須賀基地への「テロ」の脅威は、さらに増すものと思います。
 行政も、「テロ」問題を現実的な問題として扱っています。
 横須賀市の「国民保護計画」(2011年3月)は第1編「総論」、第5章「市国民保護計画が対象とする事態」のなかで、「基地等の機能発揮阻止のため、これらの攻撃が想定される」と位置づけています。
 さらに横須賀市の「国民保護計画」は、こうした攻撃には、「武力攻撃原子力災害」が含まれ、「米海軍の原子力艦が横須賀基地へ寄港することから、原子力艦の武力攻撃原子力災害に対しても対処を定める必要があるという特殊な地域特性を持っている」(第3編、第4章)と書きます。
 
 2008年から横須賀に配備された原子力空母は、一時寄港ではなく、横須賀基地で定期修理も行い、平均的な滞在日数は200日前後。加えて、原子力潜水艦の寄港もあり、年に300日近くは、横須賀基地に原子力艦が停泊しているのが現状です。こうした原子力艦が攻撃され、原子炉が破壊されれば、取り返しのつかない惨事となります。
 その被害は、首都圏全域に広がると、原子力資料情報室のシミュレーション結果は警告します。
                                        以上
 

(付記その1 東京・差止訴訟 第1回口頭弁論について)
 「安保法制違憲訴訟の会」が、4月26日に東京地方裁判所に提起したもう1つの訴訟(安保法制違憲・差止請求訴訟)の第1回口頭弁論が9月29日(木)午後2時から、今回の国賠請求訴訟と同じ、同地裁の103号法廷で開かれます(同地裁民事第2部に系属)。
 まだ、第1回口頭弁論の進行予定などは聞いていませんが、原告の志田陽子さん(武蔵野美術大学教授・憲法学)による意見陳述はきっとあるに違いない、と密かに期待しているのです。
差止請求訴訟「訴状」
第1回口頭弁論フライヤー
 
(付記その2 マガジン9に掲載された原告の声)
 マガジン9の中に、「注目!安保法制違憲訴訟」というコーナーが設けられ、ほぼ月に1本のペースで新たな原稿が追加されていっています。
 これまでお2人の原告が原稿を執筆されています。こちらも是非お読みください。
2016年6月29日 UP
脱線国家を、道に戻そう~志田陽子(安保法制違憲訴訟原告)
2016年7月13日 UP
隣人として~崔 善愛(安保法制違憲訴訟原告)
 
(弁護士・金原徹雄のブログから)
2015年9月27日
安保法制違憲訴訟を考える(1)~小林節タスクフォースへの期待と2008年名古屋高裁判決

2015年9月30日
安保法制違憲訴訟を考える(番外編)~法律の公布ということ
2015年10月3日
安保法制違憲訴訟を考える(2)~『今、改めて「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」判決文を読む』を弁護士にこそ推奨したい
2015年10月27日
安保法制違憲訴訟を考える(3)~「5党合意」は違憲論にどんな影響があるのか?(検討用メモ)
2015年11月25日
珍道世直さんの新たな闘い~「閣議決定・安保法制違憲訴訟」を津地裁に提起
2015年12月2日
安保法制違憲訴訟を考える(4)~伊藤真弁護士(安保法制違憲訴訟の会)による決意表明(11/19@国会前)と小林節氏の現時点(11/21@和歌山県田辺市)での見解
2015年12月23日
「安保法制違憲訴訟の会」による記者会見(12/21)と原告募集のご紹介
2016年3月29日
安保法制施行の日に「安保法制違憲訴訟」を思う
2016年4月21日
いよいよ4月26日「安保法制違憲訴訟」を東京地裁に提起~4/20決起集会から
2016年4月27日
安保法制違憲訴訟(4/26東京地裁に提訴)の訴状を読んでみませんか?
2016年6月4日
安保法制違憲訴訟を地方から起こす~「安保法制違憲訴訟おかやま」の動き
2016年6月18日
「安保法制違憲訴訟おかやま」提訴(6/17)~これで全国6地裁に(付・動画4本雑感) 2016年7月27日
安保法制違憲訴訟~昨日(7/26)の信州訴訟(長野地裁)で8番目
 

(付録)
『世界』 作詞・作曲:ヒポポ田 演奏:ヒポポフォークゲリラ