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西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)

 今晩(2016年9月23日)配信した「メルマガ金原No.2578」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)

 西郷章さんの大作『ドジョウスクイ半生記』の中編をお届けします。3人の息子さんにめぐまれた西郷さんは、PTA活動に熱心であった奥様の影響もあり、少年野球チームのコーチ、PTAコーラスへの参加、さらにPTAの役員(和歌山市小中PTA連合会会長、和歌山県PTA連合会副会長まで)を務めながら、様々な場でドジョウスクイを披露していくことになります。
 さらに、ドジョウスクイとの関連はあまりないものの、競技かるたの世界で不世出の天才と謳われる永世名人(社団法人全日本かるた協会認定)西郷直樹さんが、西郷さんの甥(弟さんの息子)であることが明かされます。ちなみに、Wikipediaにも「西郷直樹」という項目がありました。
 少年野球を通じて交流のあった少年(H君)にドジョウスクイを見てもらえた思い出など、印象深いエピソードにもご注目ください。
 

(前編)からの続き
 
                 ドジョウスクイ半生記(中編)
            
                                                             西 郷   章 
 
少年野球のコーチ、そしていつもヘルメットをかぶっていたH君
IMG_0004(1992年 少年野球最後(6年生)の二男) 中国に家族全員で出かけた2年後の1987年には、二男が小学校2年生となり、少年野球のお世話になるようになりました。それまでにも、妻は長男の頃からPTA(楠見地区では「育友会」と称していました)活動に非常に熱心でしたので、その付き合いの関係で、同じ楠見小学校のグランドを借りて行われている少年野球に誘われたのでしょう。そこへ私までもが駆り出されたのです。私は臼杵での少年時代、中学校から商業高校3年生まで、田舎野球ではありますが、一応6年間野球をやっていましたので、少年野球のコーチなら何とか務まるのではないかと思い、しぶしぶと承諾しました。ところが、実際にやりだすと責任感も出てきて熱心に関わるようになってしまいました。その頃、私は住友金属和歌山製鉄所の職工として3交代勤務でしたから、いつも練習などに出られるわけではありませんでしたが、極力出るように努めました。その時にコーチとして仲良くしていただいたIさんとUさんも、和歌山市内の化学工場に勤めており、私と同じように3交代をしながらコーチとしてお世話をされていました。少年野球の練習は平日もありますので、日中勤務のサラリーマンよりも、かえって3交代勤務の者の方が時間的に融通が利くのです。その点では、清掃事業に勤める職員も午後3時頃には勤務が終わりますので、指導するには時間的にも都合よく、彼らと私たちが主になって運営されました。
 少年野球は、自分の子供のために家族が総出で試合の応援をします。もちろん、私の家族もそうでしたが、一緒にコーチを務めていたIさんには、私の三男と同じ年くらいのH君という息子さんがおり、H君は応援の時、いつもヘルメットをかぶってグランドに来るので、余程野球が好きなのかな?と最初は思っていました。しかし、付き合っていくうちにそうではないことが分かりました。H君がいつもヘルメットをかぶってグランドに来るのは、頭にボールが当たったら困るからです。H君は、物心つく頃から脳腫瘍があることが分かり、それを治療するために頭蓋骨に穴を開けなければならず、そこを保護するための防具としてヘルメットをかぶっていたのです。
IMG_0006(1992年 少年野球の家族と瀬戸大橋巡りの旅館で) 私の家族はIとYさんに特に親しくしていただき、いよいよ少年野球も卒業する頃の秋に、3家族で瀬戸大橋の見物を兼ねて四国への一泊旅行に出かけたのです。その夜の食事の時に、私はあらかじめ用意していた小さなザルを持ち、タオルをかぶり、旅館の寝間着姿のまま、子供たちの前でドジョウスクイを踊ったのです。すると子供たちは大喜びです。もちろんH君も喜んでくれました。そのH君も、中学3年生の時にはかなくこの世を去ってしまいました。今でも、あの時に自己流ながらドジョウスクイを踊って子供たちが喜んでくれたことを思う時、ふとH君のはかない人生を想像してしまいます。
(金原注)1枚目の写真は、1992年、少年野球最後の年(小学校6年生)の西郷さんの息子さん(二男)。
 2枚目は、同じ年、少年野球の3家族が瀬戸大橋巡りの一泊旅行をした際の旅館でドジョウスクイを踊る西郷章さん。
 
正調・安来節を覚えた中学PTA役員の頃
 安来節には2つの踊りがあります。1つは「女踊り」で、緩やかなテンポで♪出雲~名物~荷物にゃならぬ~♪と歌われ、踊り自体も上品さこそ感じても面白いものではありません。それに比べて「男踊り」は、♪オヤジ~どこ行く~裏の小川に~ドジョ取りに~♪と早いテンポで歌われ、踊りもそれに合わせてリズミカルに腰を振ります。私がこれまで自己流で踊っていた踊りは、「女踊り」の歌に合わせたものでした。そして、ローカルで踊られる一般的な昔からの踊りは、この「女踊り」の歌に合わせて、男が面白おかしく踊るものでした。それに比べて、本場の面白い安来節として覚えようとしたのが、テンポの速い「男踊り」だったのです。
 さて、小学校では少年野球とともに、妻の勧めで早くから育友会(PTA)のコーラス部に入っていました。男性が少ないために一度顔を出すとなかなかやめることができません。小学校育友会のコーラス部に参加する一方で、少年野球でお世話になった二男が中学2年生になる頃には、中学校のPTAの役員も掛け持ちするようになりました。正調・安来節を覚えたのはその頃ではなかったかと思います。ところが、二男と入れ替えに3つ違いの三男が中学に入ると、中学校育友会(PTA)の会長を務める羽目になったのです。楠見中学校は、楠見、楠見西、楠見東の3つの小学校区からなり、中学の育友会長はそれぞれの小学校が輪番制で受け持たねばならないため、会長に一番ふさわしいからとか、なりたいからといってなれるものではありません。たまたま順番が楠見小学校にまわってきて、その条件の中で、それまで2年間、他の役員を務めてきた私が会長にされてしまったのです。そして、会長になったこの頃に、ドジョスクイ(正調・安来節)を初めて育友会の宴会の席などで1~2回は披露したのではないかと思いますが、はっきりと覚えていません。
 私はその後、計3年間楠見中学校の会長を務め、最後の3年目には、和歌山市小中PTA連合会長にされてしまいました。市の会長になりますと、和歌山市は自動的に4人いる県PTА連合会副会長のポストが付いてきます。やはりドジョスクイで一番華やいだのはこの頃でした。宴会の時は必ず引っ張り出され、ある時には和歌山市教育長と一緒に踊ったこともありました。当時の市の教育長は坂口さんという方で、色々芸達者な方でしたが、その中の一つにドジョウスクイがありました。自己流ながらドジョウスクイの名人との評判があり、私はぶっつけ本番で2人踊りをやったのですが、ストーリーなどはなく、めいめいが勝手に踊るのです。ところが坂口さんは、本場安来市で踊った時に、そこの名人から「あなたは胴が長いからドジョウスクイにはピッタリです」と言われただけあって、その巧みな腰つきには唖然とさせられました。この2人踊りが評判となり、瞬く間に5名の女性の役員さんが弟子になってしまったのです。しかも嬉しいことに、皆さんドジョウスクイにはぴったりの美貌ぞろいで私も大満足でした。
IMG_0005(1997年 和歌山市PTA連合会最後の懇親会) いよいよ私のPTA活動も終わろうという時、年に1回の全国大会の開催地が大分県に決まったのです。順番からすれば熊本県のはずでしたが、あろうことか、に熊本県の幹部役員が会費を着服したことが発覚して、急きょ大分県に変わったのです。大分県は私の故郷ですから、こんな運のいいことはありません。何しろ、和歌山という遠いところに18歳で職工として就職し、その地で県PTAの副会長までさせていただき、その最後の年に、一生に一度回ってくるかどうかわからない故郷・大分県で全国大会が行われるわけですから。しかも、幸運はそれだけではありません。その時期、臼杵市の教育長は、私の中学時代に野球部の監督であった村上先生が就任していたため、あらかじめ村上先生に、「和歌山から20名ほどのPTAの役員が臼杵見物をしたいので、名所を紹介していただけないか」とお願いしたところ、快く引き受けてくださり、村上先生直々に、大友宗麟の城下町や、臼杵の石仏などを案内していただくことができました。この時ほど、誇らしく、大船に乗った気持ちになったことはありませんでした。そしてその晩は、ドジョウスクイで皆さんに臼杵の情緒を楽しんでいただいたことは言うまでもありません。ちなみに、この年の日本PTA全国協議会の会長は、なんと臼杵市にある高野山ゆかりの寺・興山寺住職の岡部観栄さん(奥さんは和歌山高野山の人)だったのですから、これも驚きです。かくして、PTA役員を務めた時代は、私のささやかな現場作業員人生の中で、ドジョウスクイのおかげで一番華やいだ頃であったと言えます。
 しかし、楽しかったPTA時代の思い出を語るときに忘れてならないのは、陰で私を支え続けてくださった楠見中学校の当時の校長、坂本晃清(こうせい)先生です。坂本先生は、那智勝浦町の出身で、和歌山大学在学中は、休みになると勝浦に帰り、漁船に乗って近海漁のアルバイトをして学費を稼ぐといった苦学の人で、誠実で温厚な人柄である上に、責任感が強く、部落問題にも良く理解を示し、育友会活動も熱心に指導してくださいました。そのため、私も思い切ってPTA会長の役職を務めることが出来、意気投合した活動の中で義兄弟のような気持すら持ちました。その坂本先生も、停年退職をして何年もしないうちに、それまでの生真面目な性格の心労がたたったのか、早くに亡くなってしまわれました。私は今、原発反対の仲間とともに、毎週金曜日の夕方、関西電力和歌山支店前に立つようになって4年以上になりますが、当初からの仲間に貴志公一さんがおられます。貴志さんと一緒に行動する中で、坂本先生が貴志さんと和歌山大学学芸学部(現教育学部)時代の同期生であることを知りました。その貴志さんからもまた、坂本先生と同様に筋の一本通った頼もしい先輩として、いろいろと教えを受け、楽しく付き合わせていただいていているところです。
(金原注)写真は、1997年、和歌山市小中PTA連合会最後の懇親会で(ちなみに、西郷さんの相方は坂口教育長ではなく、本物の女性だそうです)。
 
カルタ取り「小倉百人一首」の名人、甥の西郷直樹君のこと
 私は5人兄弟の二男で、兄弟の子供たち(甥と姪)が合計13人います。その中で、1人ズバ抜けた頭脳の持ち主がいました。西郷直樹君といって、私より4つ下の弟の子供です。弟夫婦には2人の男の子がおり、大分の公団住宅で生活をしていました。そして、子供たちは、カルタの優れた指導力を持った先生に恵まれて、小学校の頃からカルタに打ち込んでいました。兄の拓也君が小学生の頃からカルタ競技を始めると、弟の直樹君もまだ幼稚園の頃からお母さんとともにそれを熱心に見ていました。そして、すぐさま自分でも競技をするようになりました。その腕前たるや、拓也君は小学生の部、中学生の部で日本一になりました。重い病気をしたこともあり、また学業に専念するために競技を断念しました。弟の直樹君も兄と同じように小学生の部、中学生の部と日本一になり、カルタ界では「西郷兄弟」と言われるようになったそうです。そして高校生の部でも日本一になり、早稲田大学に進学後も大学で日本一になり、カルタ大会では最高峰の名人戦に出場したのです。初挑戦となった1999年の名人戦(五回戦勝負)、二連敗の後に三連勝する大逆転勝利で、ついに史上最年少名人の座に上り詰めたのです。その後、5期連続で名人戦に勝利し、永世(えんせ)名人となり、その後も勝ち続けて連続記録や在位記録などのカルタ会のすべての記録を塗り替えました。
 ここで競技カルタについて説明したいと思います。詳しくはネットで、「百人一首入門」等を検索していただけばわかりますが、ここでは、私が10回以上競技場で観戦した知識なども基にしながら紹介したいと思います。競技カルタは、全数100枚のうちの「取り札」は無作為に50枚を抜き取り、対戦者双方の前に25枚ずつ置きます。そして読み札は100枚あり、読み方は、一回戦ごとに100枚全部を読みます。そして、読み方が最初の一言、二言と読んだときに相手より早く取る技を競うものです。、上の句の一言、二言、場合によっては3つも4つも同じ上の句で始まるものもありますから、競技者は、間違いなく相手より早く取らなければなりません、そこに幾つものルールがあって50枚のうちに先に多くとった方が一回戦の勝ちとなり、普通一試合で三戦を先に取った方が勝者となります。
 カルタ競技のことを知らない人は、十二一重(ひとえ)の着物を着たお姫様が楽しそうに笑いながら遊びに興じている姿を連想するでしょうが、実際は格闘技のようなもので、それは、瞬発力、暗記力、集中力、持続力のすべての体力や気力を必要とします。直樹君の瞬発力について、昔「夕陽のガンマン」か「荒野のガンマン」か忘れましたが、西部劇がはやった頃に、拳銃をホルダーから抜いて引き金を引くまでの時間が、0.3秒とかいう早業が人気になったことがありました。それと同じように、カルタを取る速さも、読み方が上の句を言おうとすると、すでに手が動き、カルタを払いのけるまでの速さが0・3秒なのです。また暗記力は、50枚の取り札を何分間かで暗記したのちに、それを裏返しにして、読み方が読む札を余程の間違いがない限りは、ほぼ50枚全部を当てる暗記力を持っています。集中力のためには試合時間中(場合によっては朝から晩まで)食事は抜いて水しか口にしません。直樹君はそのようなすべての力を駆使して前人未踏の記録を達成することになったのです。
 話をドジョウスクイに戻しますと、直樹君は、早稲田大学時代のカルタ仲間の女性と縁ができ、結婚をすることになりましたが、その東京での結婚披露宴で、私はドジョウスクイを踊ってお祝いしたことがあります。
IMG_0007(2001年 新春大会で3年連続名人(22歳)の頃の直樹君) そうして、彼の記録はその後も止まることを知らず、あまりの強さから、2012年に14年連続優勝したのを機に、自ら名人戦への出場を辞退して身を引きました。私は最後の1~2回は応援に行けなかったものの、それまではほとんど毎年、新年早々、名人戦とクイーン戦が行われる琵琶湖のほとりの近江神宮に応援に駆け付け、彼の偉才を目の当たりにしていました。もし辞めずに続けているなら、恐らく体力的にも技能的にもあと10年くらいは勝ち続けたかもしれません。
 記録を出し続けたその過程では、100年に1度出るか出ないかの偉才の出現を記念して、近江神宮の正門に向かって左横には西郷直樹と名前が刻まれた植樹がなされています。その樹木も今は相当大きくなっているのではないでしょうか。そして今は、忙しい仕事の合間を縫って、母校の早稲田大学での後進の指導や、自分の住む静岡県の子供たちの育成指導にも励んでいると聞きました。
(金原注)写真は、2001年の新春大会で3期連続名人となった22歳の西郷直樹さん。
                                                                                          (後編に続く)
 

(「メルマガ金原」から後日「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)
2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)
2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)
2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』
 
(「メルマガ金原」から即日「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる
※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。
2016年9月22日