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西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)

 今晩(2016年9月25日)配信した「メルマガ金原No.2580」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)

 西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)をお届けします。いよいよ最終編となる今回は、今まで以上に「ドジョウスクイと人生」が語られています。
 実は、西郷さんから最初にお届けいただいた『ドジョウスクイ半生記』の原稿には、「ドジョウスクイは平和の踊り」という小見出しのついたパートがありました。非常に魅力的なキャッチフレーズではあったのですが、本文の内容と符合しておらず、まことに「惜しい」と思いながら、別の小見出しに変更しました。
 私自身、西郷さんによるドジョウスクイの実演を拝見したのは全部で3回、会場は全て和歌山城西の丸広場でした。
2014年3月9日 「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」
2014年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”
2015年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”
西郷章さん(ハッピーバースデイ憲法2014) 本来、お座敷芸として発展したドジョウスクイを踊るのにふさわしい会場とはとても言えない広いところで、それでも西郷さんが果敢に踊られたのは、「世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。」(本稿「福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して」より)という決意があったからでしょう。
 本稿が、今年の5月、「寺井拓也さんを偲ぶ会」での、平和・人権・脱原発に尽力して先立った亡き親友に捧げるドジョウスクイで締めくくられたのも、まことに感慨深いものがあります。
 私も、微力ながら、西郷さんとともに「人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたい」という思いや切なるものがありますし、本稿を最後まで読んでくださった多くの方も同じ思いを共有してくださるものと信じます。
(金原注)写真は、2014年の憲法記念日和歌山城西の丸広場の特設ステージでドジョウスクイを踊る西郷章さん(“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”にて/撮影:金原)。ドジョウスクイの写真にしては「凜々し過ぎる」かもしれませんが、西郷さんの平和にかける熱い思いの表れでしょう(もしかしたら、痛風の痛みをこらえていたからかもしれませんが)。


(中編)からの続き
 
         ドジョウスクイ半生記(後編)
            
                                     西 郷   章 
 
ドジョウスクイを踊れる幸せ
 私は、職工時代には合理化などに反対したため、会社からはあまり好かれていなかったかもしれません。しかし、職場の中では、ドジョウスクイを踊ったり、アコーデオン伴奏をしたおかげで、多くの同僚には好意をもって接してもらうことができたと思っています。
IMG_0008(2010年 住金職場忘年会) 2000年頃の年の瀬も迫る夕方に、同じ会社で働いていた(職場は全然違います)同期入社のM君がやつれた格好で訪ねてきて、「寒い、今は普通の生活ができていない。」と言ってきたので、自分の着古した防寒着などを与え、ご飯を食べさせて、とりあえず一泊させてあげることにしました。しかし、その日は、泊まりがけの忘年会でしたので、妻に後のことを頼んで宴会場へ行くと、得意なドジョウスクイを踊ってみんなで忘年会を楽しみました。そして、次の日に自宅に帰ると、M君は自分の一別以来の人生を語りながら、「この冬をしのぐのに釜ヶ崎に臨時の宿泊所があり、そこは1万4千円払えば一冬越せるだけ泊まらせてもらえるから金を貸して欲しい。」と言うので、言われるままに金を貸してあげることにしました。すると、「この恩は決して忘れない。金は必ず返しに来ます。」と言って立ち去りました。私は、彼の言うことをほとんど信用していませんでしたから、金は落としたものとしてあきらめました。しかしその時、彼は本当にそう思っていたのか、その後、忘れた頃に手紙が来て、中身をみると熱心な文章で、お礼と必ず約束を守るようなことが書かれていました。しかし、次に彼から電話があったのは、それから1年ほど経った夏の夜中の2時頃のことでした。「今、京都のある駐在所で保護されているので、身元引受人になって欲しい。」との連絡でした。さすがに明日仕事があるのに、夜中の2時に起こされた私は、「いい加減にしてくれ、私は知らない。」と言って電話を切りました。彼はその後どうしているのか、生きているのかどうかも分かりませんが、それきり何も言ってこなくなりました。高校を卒業して九州から集団就職さながらこの地に来て、合理化の波にのまれ、要領を得ずしてあのような人生を送らねばならなかったのは決して彼が悪いわけではなく、私自身にも一つ間違えば起こり得る、誰にでも起こり得る過酷な運命と隣り合わせに生きていることを知らなければならないと思いました。
(金原注)写真は、2010年ころ、職場(住友金属)の忘年会で踊る西郷章さん。

その場その時で臨機応変に踊る
 ドジョウスクイを踊る場所は、その時々により全部違います。ですから、踊る直前にその場を見定めて、あそこではこう踊る、ここはこうすると、あらかじめ自分で計算しておかなければなりません。といっても、踊り自体は基本の動作を4~5回程踊るだけですからきわめて単純です。出来るだけお客さんの近くで、与えられたスペースを計算して踊りの順序を間違えなければ、ほぼうまくいったと言えるでしょう。狭すぎるところ、広すぎるところと色々経験しましましたが、一つ変わった場所で踊ったことをご紹介しましょう。市民運動の仲間で、和歌山の隣りの市で市会議員をやっているОさんの選挙の時でした。
Оさんは、ずいぶん前まではある民間労組の組合長をしており、その時によく歌った『頑張ろう』という歌を出陣式で歌いたいということで、私がアコーデオンで伴奏をすることになったのですが、それだけではなく、事務所の前で私にドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれたのです。なぜドジョウスクイなのかとОさんに聞きましたところ、「ドジョウをスクウ=票をスクウで縁起がいいからです。」との答えが返ってきました。それにしても、私はドジョウスクイをお座敷で踊ったことは何回もありますが、お土敷(砂利の上)で踊るのは初めてです。お座敷ですら、真剣に踊れば、知らないうちに必ず向う脛(すね)のあたりが赤くむくれてしまうのに、石ころだらけの土の上でまともに踊るとどうなるか、経験的、直感的に身の危険を察知しました。そのおかげで、危ないところでは手加減をして怪我をすることなく踊り終えることができたのです。
 そして、その後に嬉しいことがありました。私の踊りを見ていた前の後援会長の奥さんと1週間ぶりに会った時、奥さんは、亡くなられたご主人の仏前で、私の踊りのことを「いいものを見せてもらった」と報告しましたと言ってくれたのです。一見場違いに思えるところでも、そんなに喜んでもらえる人がいたことに、どこで踊っても決して無駄ではないと自信を持ちました。
 その市会議員のОさんから2016年の8月下旬に電話があり、「私の住むI市では、10月初旬に市長選がある。現職は5期20年務めており、これ以上市長をやらせることは市政のマンネリ化に拍車をかけ、市民にとって決して好ましいことではなく、市民の方を向いた政治をするため、また無投票当選を防ぐためにも私が市長選に立候補するからよろしく頼む。」と言ってきました。Оさんが市長選に立候補するのは今回で2度目であり、先日事務所開きに行ってきました。ところが最近になって、「出陣式の時に元気の出る歌なら何でもいいからアコーデオンを引いてくれないか。」という依頼のメールが届きましたので、快く了承したものの、今年の3月、郡山市で開かれた「3.11反原発福島行動’16」で弾いて以来全く触っていなかったので、9月25日の出陣式に向けて慌てて練習をしているところです。今回の出陣式では、「三百六十五歩のマーチ」を歌ってもらおうと思っていますが、残念ながらドジョウスクイはお呼びがかかりませんでした。
 
福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して
 3・11福島第一原発事故があり、それから1年が過ぎた頃から、今は亡き親友の寺井拓也さんの努力により、福島の被災者の皆さんとの交流が生まれました。そして、そのような関係の中から、「3.11反原発福島行動’14」の会場でドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれることになり、大きな会場で踊ったことのない私は、そのリハーサルも兼ねて、福島(会場は郡山市)での集会の2日前に和歌山城西の丸広場で開催されたイベント(フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション)に出させてもらいました。和歌山では、その後も、“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”という大きなイベントなどでドジョウスクイを踊る機会をいただいたりしています。
飯舘村民仮設住宅を慰問して ところで、2014年3月の反原発福島行動に参加することになった私は、「被災者の皆さんが避難をされている仮設住宅に慰問に行きたい」と現地の友人にお願いしたところ、その希望がかない、アコーデオンとドジョウスクイの道具一式を持参して飯館村の高齢者の皆さんが暮らしておられる仮設住宅を訪問することになりました。その時、目的地に向かうタクシーの中で、運転手さんが話されたことが印象的でした。「ドジョウスクイですか。福島はドジョウがたくさん取れるところです。1時間もしないうちにバケツ一杯も取れます。今でもたくさん取れます。しかし、それを食べることはできません。」ということでした。慰問先の仮設住宅の皆さんは、よく笑ってくれました。しかし、大成功かに見えた慰問でしたが、1つだけ気がかりなことがありました。それは、最後に『故郷(ふるさと)』という歌をみんなで歌ってもらった時のことです。歌詞の3番♪こころざしを果たして~いつの日にか帰らん~♪の歌詞に差しかかりますと、皆さんの声が聞こえなくなったのです。それで私は、「もう一度大きな声で歌いましょう。」と合図をしながら歌ったのですが、なぜあの時に声が途切れたのか、その理由を案内の人に聞きました。するとその人は、「飯館村の人たちは、東電や国が情報を隠して知らせなかったために避難するのが遅れてしまい、その後も毎年もうすぐ帰れると行政に騙され続け、帰れないことを体で知ってしまったのです。だから3番は歌えないのです」と言ったのです。その話を聞いた時には本当にショックを受けました。その後も、希望をなくしたお年寄りは、帰れない故郷のことを思いながら次々に亡くなっていきます。そして政府や行政は、「安心、安全、大丈夫だ。」と言いながら飯館村にも帰還政策を推し進めていますが、この人たちのことを思うときに本当に切ない気持ちになります。
 私はこの10月で古希(満70歳)を迎える年になりました。しかし、世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。
(金原注)写真は、2014年3月、福島県伊達市仮設住宅飯舘村の方が避難)を慰問してドジョウスクイを踊る西郷章さん。
 なお、今のところ私が西郷さんのドジョウスクイを生で見た最後の機会となっているのが“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”です。その写真レポートを私のブログに書いており、西郷さんのステージ(この年は土の上)姿の写真も掲載していますのでご参照ください(写真レポートで振り返る“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”)。
 
天国の親友に捧げたドジョウスクイ
 私は、2015年の暮れから2016年の春にかけて2人の親友を相次いでなくしました。一人は、若いときの職場の同僚で、千葉から和歌山の住友金属に入社した友人でした。彼は、近い将来茨城県の鹿島工場が操業した時に、即戦力となる技術を身につけるために和歌山工場に来たのでした。おとなしい性格の彼とは良く気が合い、私のアパートで一杯飲んだり、お互いの故郷のことなどを語り合い、親しく付き合っていました。
 やがて、彼も鹿島転勤の時が来て、故郷の銚子に帰って行きましたが、それから幾年もしないうちに結婚の知らせがありました。その後、千葉から鹿島まで通っていた彼は、製鉄所の仕事を辞め、近くの個人企業に勤めるようになり、給料は減ったものの家庭は平凡ながら幸せに暮らしていたようです。それから数十年の時を経ても、私たちは、ずっと年賀状だけは自分の近況を書き添えて届け合っていました。そして、2016年の春先に奥さんから「実は主人が昨年末に肺がんが転移して亡くなりました」という手紙が届いたのです。私は、「近いうちにお悔やみに伺います」と約束をして、5月の妻が連休の時に2人で軽自動車に乗って、銚子の犬吠埼(いぬぼうさき)近くのお墓にお参りしてきました。お墓は彼の家のすぐ近くにあり、奥さんは毎日墓参りをしているものの、「それでも急に寂しくなりました」と言っていました。銚子は、私の先祖が遠洋漁業で世話になった特別の思い入れのある土地ですから、そのことのお礼の気持ちも含めて、彼のもとを訪ねることができたことに安堵感を覚えました。
 また、千葉の友人の墓参りに行く前の今年の4月半ば、和歌山では、市民運動仲間から、「田辺の寺井拓也さんが亡くなり、なきがらは病院へ献体するので、それに間に合うようにお悔やみに行きます」という知らせを受け、私も田辺へと駆け付け、少し細くなった彼の安らかな寝顔に接することができました。寺井さんもまた、直腸癌が肺に転移して半年もしないうちに亡くなったのです。
龍神村にて(寺井拓也さん、小笠原厚子さんと) 寺井さんと私は同じ昭和21年生まれですが、寺井さんは早生まれで学年は1つ上ということもあり、年は同じでも能力には大差があり、頼もしい寺井さんの市民運動での活躍に、私はいつも指導される方でした。その私たちが急速に親しくなったのは、2006年から2007年頃で、全国では憲法9条が危ないということで、多くの9条の会が発足した時期でした。その頃以降、私が紀南にゆかりの大逆事件の歴史を調べたり、「さようなら原発1千万署名」を進める上で、寺井さんから貴重な助言を得ることができましたし、9条を守る市民運動でも活発に交流するようになりました。そうした中、特に2人が意気投合して行動を共にするようになったのは、3.11福島第一原発事故から2年半を経た2013年9月に敢行した大間~福島の反原発交流ツァーにおいて、大間(あさこはうす)の小笠原厚子さんや、福島共同診療所の椎名千恵子さんたちと親交を結んだ頃からでした。そのような関係は、寺井さんが亡くなる前年まで続きました。特に2014年の福島訪問の際には、一度は仮設住宅に暮らす避難者の方を慰問したいという私の願いがかない、飯館村の避難者の皆さんが暮らす伊達市仮設住宅にドジョウスクイの道具とアコーデオンを持ち込んで慰問することができました。それらの行動の折に触れ、寺井さんは、「人生60年だ。あとの人生は儲けものだ。」と言われました。そして、70歳まで生きた寺井さんは、その言葉を行動で示すように、儲けた10年間の人生を、人々の平和と幸せのために、市民活動家として一直線に駆け抜けた純粋な人でした。また、謙虚で一本筋の通った寺井さんが無教会派の敬虔なるクリスチャンであることを、亡くなった翌月、「偲ぶ会」が行われる少し前に知りました。寺井さんは、クリスチャンとして明治の日露戦争主戦論に抗して非戦論を唱えた内村鑑三の教えを若い頃から人知れず実践していたのです。そして、私はといえば、中年を迎えてから、内村鑑三とともに万朝報(よろずちょうほう)で非戦論の論陣を張った堺利彦社会主義者)の影響を受けました。万朝報を去った2人の非戦論者がそれぞれの道を歩み、内村と堺の非戦論の影響を受けた私たちが、こうして出会えたのも、偶然にして必然であったのだと思いました。
 2016年5月28日に、寺井さんの地元、和歌山県田辺市の「ララ・ロカレ」で行われた「寺井拓也さんを偲ぶ会」では、私にとって生涯無二の親友であった寺井さんに天国から観てもらうためにドジョウスクイを精一杯踊りました。私は、今後も寺井さんに教わった「儲けた人生」を余すことなく使って、人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたいと思います。
(金原注)写真は、2014年4月、和歌山県田辺市龍神村にて。向かって右から、寺井拓也さん、小笠原厚子さん(あさこはうす)、西郷章さん。
                                            おわり
 

(「メルマガ金原」から後日「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)
2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)
2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)
2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』
 
(「メルマガ金原」から即日「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる
※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。
2016年9月22日
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(前編)
2016年9月23日
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)