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西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(全)

 今晩(2016年9月27日)配信した「メルマガ金原No.2582」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(全)

 2016年5月22日から25日までの間、「メルマガ金原」に3回に分けて掲載し、ただちに「弁護士・金原徹雄のブログ」と「wakaben6888のブログ」に転載した「西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』」は、西郷さんが、ドジョウスクイという切り口から自らの半生を振り返った自分史であると同時に、「ドジョウスクイは平和の踊り」という信念が実現される世界を目指して努力を続けるのだという決意表明でもありました。
 ところで、メルマガ掲載版をブログに転載するに当たり、細かな校正漏れを修正したりしていましたので、「弁護士・金原徹雄のブログ」版を底本とし、あらためて『ドジョウスクイ半生記』全編をまとめてご紹介することとしました。とりあえず、私が編集・校訂を担当した版としてはこれが確定稿となります。
 既に3回分載版で『ドジョウスクイ半生記』を読んでおられる方々にも、これを機にもう一度新たな気持ちで全編を味読していただければと思います。
 なお、3回分載時に私が書いた(リード文)は、まとめて本文の後ろに掲載しました。
 

                               ドジョウスクイ半生記
   
                                       西 郷   章 
 
はじめに
 私がドジョウスクイを覚えたのは、父親(西郷市松)の影響によるものでした(以下、ドジョウスクイにまつわる話ですから父親のことはオヤジと書かせていただきます)。私は終戦直後の昭和21年生まれです。私が物心つく頃の我が家の生計は、オヤジの遠洋漁業の雇われ船員としての収入によって支えられていました。遠洋漁業は「突き棒船」という臼杵市(うすきし/大分県)独自のカジキマグロを追う大変珍しい原始的な漁獲法ですので、歴史的な経緯も含めてあとで紹介したいと思います。
IMG_0002(1974年か5年 弟の結婚式での市ちゃん最後の踊り) オヤジがどこでドジョウスクイを覚えたのか、軍隊の時に覚えたのか、あるいは戦後漁師に復職してから覚えたのか知りませんが、軍隊では下関か門司だったか、大砲部隊の鬼軍曹の教官として恐れられ、軍国主義思想で凝り固まったクソまじめな人間だったオヤジが、なんであんな面白い踊りが踊れるのか、私は子供心にも不思議に思えてなりませんでした。 そして、私がドジョウスクイを覚えようと決めたのは、29歳で結婚をして、三男が中学校に入る1~2年前の48歳の頃でした。オヤジから見覚えた踊りは面白いのですが、あくまでもローカル的で、親しい仲間内ではよく踊っていても、どうしても品格に欠けますので、どこでも踊れるというわけにはいきません。私は、きちんとした踊りを覚えたいと思い、わざわざドジョウスクイの本場の安来市(やすぎし/島根県)観光課に問い合わせてみました。すると宇田川さんという名人の踊りのビデオテープや、安来節の道具一式5万円を紹介してくれたのです。それ以来、私のドジョウスクイは、どこでも安心して踊れるものとなり、様々な場所で踊ることになりました。ここでは、その中の思い出深い2~3の踊りとその背景についてご紹介したいと思います。
(金原注)写真は、1975年頃、息子(西郷章さんの弟さん)の結婚式でドジョウスクイを踊る西郷市松さん。西郷章さんが、お父さんの踊る姿を見たのはこれが最後だったとか。
 
一時代に繁栄した「突き棒船」とは
 ドジョウスクイを踊った特徴的な場面を紹介する前に、前置きしました「突き棒船」と当時の私の家庭事情についての話をしたいと思います。
 突き棒船は、「突きんぼ船」とか「突き船」とも言われ、海面に浮上するカジキを手投げモリ(樫の木で作った丸棒で、長さ5メートルくらいの先端に3本の矢じりのついたもの)で仕留める勇壮な漁法で、原始的漁獲法と言われていました。船の先端(棚)に構える突き方(矢じりをカジキに突き刺す者で一番方と二番方が構えていたと思います)や、マストの上でカジキを見つけて機関長や突き方に合図をする者が中心となり操業します。この漁法の由来は、明治3~4年の頃から大分県豊後水道一帯で、私の部落の板知屋(いたちや)などが中心となって始められたもので、その頃は当然エンジンなどはなく、櫓櫂(ろかい)や帆立てが動力源でした。その後、臼杵市・中津浦の板井五三郎がカジキマグロを樫棒の先につけたモリで突く「突きん棒」漁法を編み出し、やがて明治末期から大正初期にかけて帆船による突きん棒漁業が発達します。大正10年頃からは、動力源が内燃機関(焼き玉エンジン)に代わったために操業範囲も飛躍的に広範になり、夏から春にかけて長崎県沿岸から朝鮮近海まで出漁し、春からは豊後水道で操業しました。昭和10年頃からは、宮崎県油津沖合から北海道・三陸沖合までの漁場に出漁し、さらに広範囲に出かけるようになりましたが、第2次世界大戦でいったん壊滅してしまいました。 その後は、戦後復興とともに漁船は大型化し、乗組員も一船が十数人規模になり、私が中学に入る頃最盛期を迎え、30トン~50トン級の船が私の部落を中心に60隻くらいに増えました。しかし、北陸あたりの仕掛け網による大型大量漁獲法が取り入れられるようになると、原始的な突き棒船は急速に自然消滅へと追いやられ、昭和52年にはついに全滅してしまいました。

先を見越して運搬船に乗ったオヤジ
 オヤジは、私が中学生の頃(突き船の最盛期の頃)には既に先を見越して突き船から降りて、義兄弟の持つ貨物船で生計を立てるようになり、その船も幾年もしない間に降りて、自分で運搬船を持つようになりました。けれども、貧乏人が借金をして持てる船は、中古の木造船が関の山でした。仕事も決して楽ではなく、積み荷は四国の多度津などから西大分へ土管を運ぶ仕事で、その土管の積み降ろしは、私も中学の夏休みや冬休みの時に経験しましたが、1本1本手渡し作業による過酷なものでした。しかし、会社のように命令されて仕事をする訳ではなく、1本1本の手作業をやればやるほど必ず自分の利益になるのがせめてもの救いでした。
 この家業のために、臼杵の水産高校を出て、北九州の若築建設(現・東証1部上場)に就職していた5つ上の兄貴が呼び戻され、また私より4つ下の名古屋のグンゼで働いていた三男も呼び戻され、やがて四男もという具合に、私を除いては男の子は3人とも船乗り稼業で生計を立てるようになりました。子供たちが、いやいやながらも割にすんなりと親の意思に従ったのは、家父長制の名残によって、子供というものは親の言うことに従うものだという育て方に影響された点が多分にあったと思います。私だけが会社勤めをしたのは、船に酔いやすいという体質的な弱点があったからかもしれませんが、男の子は1人くらいは陸(おか)働きをさせておかないと、船乗りの身に何かあった時に家が行き詰まってしまうからという、これも親の意思が多少なりとも働いていたようなことをオヤジに聞いたように記憶しています。
 運搬船の事業もだんだんと軌道に乗ってくると、もう少し儲かる取引先として大阪まで足を延ばすようになりました。大阪からの積み荷は、チリ紙やトイレットペーパーなどの原料となる雑誌やボロ紙でした。それを大分の製紙会社に納入するために、西大分港の荷役場まで運ぶのです。西大分港の思い出は、まだ土管しか運んでいなかった中学生の頃のことしか覚えていませんが、冬休みの時に手伝いに行って、夕方仕事が終わると寒い町中に行き、そこで入った銭湯が暖かくて気持ちが良かったこと、また、ご褒美にジャンバーを買ってもらったのはいいが、生地がビニールのようなものでできているために、ひどく蒸れて、さすがの着るもののない私でも不快な思いをしたことが思い出されます。また、その後の大阪の荷役場は、大正区の川沿いにあり、当時、私は和歌山の住金(現・新日鉄住金)に入社して間もない頃でしたので、時々は船着き場まで親兄弟に会いに行きました。今でも大正区の川沿いが懐かしいのはそのためです。

大黒様・恵比寿さんになったオヤジ
 しかし、長年の運搬船事業も止めるかどうかの転機が訪れてきました。船の痛みもひどくなり、新しい船を買うにも相当な借金をしなければならず、それで採算がとれるのか、など考えた後に廃業することになりました。
 ところがその時に、思いもよらぬ福の神が舞い込んできたのです。船は処分しなければなりませんが、解体料こそ取られても古すぎる船自体は三文の値打ちもありません。だが、時はバブルの絶頂期で、関西空港建設のために海上の埋立てが盛んにおこなわれており、埋立てには多くの船が必要でした。船には権利があり、船を持つためにはその船の大きさ相応の権利を買わなければなりません。オヤジの船には権利という価値があったのです。その当時、ゴルフの会員権に法外な値段が付いたように、オヤジの船も貧乏人にとっては驚くほどの値段が付いたのです。かつて村一番の貧乏人と言われてもおかしくなかった両親は、たちまち金持ちになり、まさに大黒さんが舞い込んだような身分になりました。
 母親は、生前にその当時のことを振り返って「儲けた金には毎月利子だけでも相当額付いててきた」と言っていました。その余裕から、私が帰省すると必ず、少額でも小遣いをくれており、それは私が50歳近くになるまで続いたと思います。私は「いい年をして小遣いをもらうなどは恥ずかしいから止めてくれ」と言いながら貰っていたのを憶えています。
 オヤジは、船を売る何年か前から家業は子供たちに任せ、自分は隠居しながら小型漁船で好きな魚釣りをしていましたが、思わぬ金を手にしたことで、その一部を使い、村で一番速い船を新造しました。その漁師としての姿は、誰よりも遅く出漁し、だれよりも早く帰港して、誰よりも多くアジを釣る、アジ釣りの名人「市ちゃん」として釣り仲間に頼られる存在でした。私は、人一倍アジを釣るその秘訣をオヤジに聞いたところ、「どんなエサにアジが良く食いつくかエサのことをいつも考え研究している」と教えられましたので、私の生活にもこれを応用して、「人と仲良くしたり、人に好かれるには良いエサを撒くことが肝心だ」と考えてこれを実行するようになりました。そのおかげで、思想信条の違いは別としても、少なくとも人様にはあまり嫌われることはなかったのではないかと思っています。
IMG_0003(1995~6年 市ちゃんの船に乗る孫たち) さて、オヤジの釣った魚は網カゴの生けすに入れられて市場にもって行くまで生かされます。ある時、私は生けすにあるアジ、イカ、イサギ、サバ、タイを刺身にしてもらって食べ比べたことがありますが、その中で一番うまかったのはサバでした。サバは、関サバ(臼杵湾を出た半島の近海で捕れるサバ)も他のところで捕れるものも美味しさはあまり変わらないとオヤジは言っていました。
 子や孫が遊びに来れば、生の魚をどっさりと食わせてくれ、喜ばれるオヤジは正に大漁の神さん、恵比寿さんのような存在でした。その親父も、とっくに亡くなり、母親も金に不自由することなく老人センターなどを利用して、天寿を全うしました。その後、兄弟たちは別々に雇われ船員としての船乗り生活を経て、今では皆んな良い年になり、年金生活者として暮らしています。
 私は家業を手伝った訳ではありませんから、大黒様(金を儲けたオヤジ)の恩恵は少ししかありませんでしたが、その分、恵比寿様(魚釣り名人のオヤジ)の釣った魚は帰省した時には存分に食べさせてもらい、「ドジョスクイ」と「魚を釣るにはいいエサ」の秘伝を教わり、今もそれを実践していますので、これはいい財産をもらったと思っています。
(金原注)写真は、1995年頃、西郷市松さん自慢の“快速船”に乗って喜ぶお孫さんたち。
 
初めての中国でドジョウスクイを踊る
 私たち夫婦は3人の、それぞれが3つ違いの男の子に恵まれました。一番下の子が3歳の時、満蒙開拓団の一員として満州に渡っていた義父の長女で、敗戦の混乱の中、生き別れて残留孤児となった妻の姉の身元がようやく分かり、和歌山在住の姉の家族ともども総勢10名で再会のために中国に行くことになりました。中国の行き先は東北部の瀋陽市(旧・満州奉天市)です。上海から国内線で北京を経由して東北行きの飛行機に乗り換えるのですが、北京市内はこの頃(1985年)から道路も整備され、3~4車線の車道の他に同じような幅の自転車道と歩道が建設されていました。そして、初めての中国訪問ですから、名所見物も兼ねて、魯迅の活躍した場所や、最後の女帝の別荘や紫金城、万里の長城なども見物しながら瀋陽へと向かいました。瀋陽の姉の家につきますと、まず義父に代わり、私から、中国の養父に対し、長年我が子同然に可愛がり、育ててくれたご恩へのお礼と感謝の言葉を述べ、姉と再会することになりました。しかし、物心つく頃に親子は離散しましたから、言葉は通じません。あまり言葉を交わすことなく、互いの手を握りしめて姉は涙を流し、顔を見つめ合っているだけですが、義父は離散した当時に思いをはせていたことでしょう。
 離散した当時、和歌山県御坊市から娘を連れて先妻とともに満蒙開拓団員として入植した義父は広い土地を与えられたそうです。しかし、義父の遺品の中には、最下級の兵隊の位が書かれた身分票がありましたから、実際は満鉄沿線の警備を兼ねた食糧生産兵の役割をさせられていたのかもしれません。開拓団は入植した当初から軍のために苦しい生活を強いら、そして敗戦間際には、鍬(くわ)しか持ったことのない手に銃を持たされ、戦場と化した田畑、荒野を逃げ回ったのです。その後は、お定まりのソ連軍の捕虜となり、夫婦・親子はチリジリとになります。捕虜のシベリアでの生活は過酷なもので、1日に何百グラムのパンしか配給されずに飢えと寒さに耐えきれずに死んでいくものも多くいたそうです(その当時はソ連も食糧危機で自国民にすら十分に食料を供給できなかったと聞く)。そのような過酷な受難を生き抜いた義父は、4年前後の捕虜生活から解放されて運よく帰国できたのです。ついでに付け加えますと、義父が生前、私たちと一緒に暮らした和歌山では、近所に同じ境遇(ソ連の捕虜)を生き抜いてきたクニちゃんというオジサンがいて、2人は意気投合して、昼間からでもよく酒を飲んでいました。その義父は真冬でも素足の生活が平気でした。
 さて、中国の姉さんと再会した私たちは、3日ほど近くの公団住宅に泊まることになりました。そして、その間は親戚筋の料理の得意な人が食事を作ってくれました。日本とは当然生活習慣の違う中国のサラリ-マンの集合住宅での生活は、まず給水制限があり、朝の数時間と昼休み時間と夕食時しか水道が使えません。中国の家庭は夫婦共働きが普通で、仕事場での昼休みは2時間あるため、自宅に帰って昼食をとり、昼寝をするのだそうです。私たちが訪れた時期は真夏で、瀋陽は湿度が高く、私たちが「風呂に入りたい」と言うと、住宅街の一角にある小さな風呂場に案内され、洋式の狭い風呂で水浴びをする程度の入浴しかできませんでした。何も知らない私たちは、湿度が高く気持ちが悪いので、毎日風呂を使いましたが、現地の人たちは、何万人住んでいるかわからない広い団地での風呂は共用で数も少なく、市民はみな毎日風呂に入る習慣はなかったのではないかと後で気が付きました。
 瀋陽では、姉や義兄弟、親戚とようやく打ち解けた頃には、お別れをしなければなりませんでした。姉さん夫婦とその子供たちが北京空港まで同伴してくれました。そして、北京空港での別れの宴席で、私は初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになったのです。道具は食卓にあるお皿だけです。それを持つと義父が♪やすき~めいぶつ~♪と歌いだし、その歌に合わせてゆっくりと皿を両手にもってドジョウを救う真似をして踊るのです。そして時折、♪アラ、エッサッサ~♪の掛け声の時には皿を頭の上に乗せる格好で片足を上げて1回転するのです。こんな、たわいない踊りでしたが、中国の兄弟は大喜びでした。少し大げさですが、私はこの経験から、ドジョウスクイは世界でも通用すると実感しました。しかし、いまだに世界の檜(ひのき)舞台で踊ったことは一度もありません。
 さて、すっかり気を良くした私は、茅台酒(マオタイ酒)を飲みすぎて前後不覚となり、いつ飛行機に乗ったのやらわかりません。気が付くと機内は騒然としており、飛行機はよく揺れているのです。そして、その揺れは羽田空港近くまで続いたと思います。しかし最後に無事に着陸した時には、乗客は一斉に拍手を交わして喜び合いました。なぜそんなに感情的になったかと言いますと、この頃は丁度、御巣鷹山日本航空機墜落事故があって1週間もしない時でしたから、激しい揺れで御巣鷹山事故を連想し、恐怖心がわき、パニック寸前のさわぎになったのだと思います。私は、今まで飛行機には10回くらいしか乗っていませんが、揺れたからといって大騒ぎしたのは、後にも先にもこの時だけです。
 そのような出来事からしばらくして、中国の姉さんは夫婦で帰国し、その子供たち(2人の娘さん)も日本で一緒に住むようになり、それから 早くも30年近くが経ちました。姉さんたちは、和歌山の私たちの近くで貧しいながらも幸せに暮らしており、上の娘さん(私の妻の姪)夫婦は、中華料理店で細々と身を立てて暮らしています。
(金原注)西郷さんの奥様の姪御さん夫婦が営んでおられる中華料理店には、西郷さんに連れられて私も何度かおじゃましましたが、とても美味しい料理がリーズナブルな値段で食べられる大衆的なお店でした。
 
少年野球のコーチ、そしていつもヘルメットをかぶっていたH君
IMG_0004(1992年 少年野球最後(6年生)の二男) 中国に家族全員で出かけた2年後の1987年には、二男が小学校2年生となり、少年野球のお世話になるようになりました。それまでにも、妻は長男の頃からPTA(楠見地区では「育友会」と称していました)活動に非常に熱心でしたので、その付き合いの関係で、同じ楠見小学校のグランドを借りて行われている少年野球に誘われたのでしょう。そこへ私までもが駆り出されたのです。私は臼杵での少年時代、中学校から商業高校3年生まで、田舎野球ではありますが、一応6年間野球をやっていましたので、少年野球のコーチなら何とか務まるのではないかと思い、しぶしぶと承諾しました。ところが、実際にやりだすと責任感も出てきて熱心に関わるようになってしまいました。その頃、私は住友金属和歌山製鉄所の職工として3交代勤務でしたから、いつも練習などに出られるわけではありませんでしたが、極力出るように努めました。その時にコーチとして仲良くしていただいたIさんとUさんも、和歌山市内の化学工場に勤めており、私と同じように3交代をしながらコーチとしてお世話をされていました。少年野球の練習は平日もありますので、日中勤務のサラリーマンよりも、かえって3交代勤務の者の方が時間的に融通が利くのです。その点では、清掃事業に勤める職員も午後3時頃には勤務が終わりますので、指導するには時間的にも都合よく、彼らと私たちが主になって運営されました。
 少年野球は、自分の子供のために家族が総出で試合の応援をします。もちろん、私の家族もそうでしたが、一緒にコーチを務めていたIさんには、私の三男と同じ年くらいのH君という息子さんがおり、H君は応援の時、いつもヘルメットをかぶってグランドに来るので、余程野球が好きなのかな?と最初は思っていました。しかし、付き合っていくうちにそうではないことが分かりました。H君がいつもヘルメットをかぶってグランドに来るのは、頭にボールが当たったら困るからです。H君は、物心つく頃から脳腫瘍があることが分かり、それを治療するために頭蓋骨に穴を開けなければならず、そこを保護するための防具としてヘルメットをかぶっていたのです。
IMG_0006(1992年 少年野球の家族と瀬戸大橋巡りの旅館で) 私の家族はIとYさんに特に親しくしていただき、いよいよ少年野球も卒業する頃の秋に、3家族で瀬戸大橋の見物を兼ねて四国への一泊旅行に出かけたのです。その夜の食事の時に、私はあらかじめ用意していた小さなザルを持ち、タオルをかぶり、旅館の寝間着姿のまま、子供たちの前でドジョウスクイを踊ったのです。すると子供たちは大喜びです。もちろんH君も喜んでくれました。そのH君も、中学3年生の時にはかなくこの世を去ってしまいました。今でも、あの時に自己流ながらドジョウスクイを踊って子供たちが喜んでくれたことを思う時、ふとH君のはかない人生を想像してしまいます。
(金原注)1枚目の写真は、1992年、少年野球最後の年(小学校6年生)の西郷さんの息子さん(二男)。
 2枚目は、同じ年、少年野球の3家族が瀬戸大橋巡りの一泊旅行をした際の旅館でドジョウスクイを踊る西郷章さん。

正調・安来節を覚えた中学PTA役員の頃
 安来節には2つの踊りがあります。1つは「女踊り」で、緩やかなテンポで♪出雲~名物~荷物にゃならぬ~♪と歌われ、踊り自体も上品さこそ感じても面白いものではありません。それに比べて「男踊り」は、♪オヤジ~どこ行く~裏の小川に~ドジョ取りに~♪と早いテンポで歌われ、踊りもそれに合わせてリズミカルに腰を振ります。私がこれまで自己流で踊っていた踊りは、「女踊り」の歌に合わせたものでした。そして、ローカルで踊られる一般的な昔からの踊りは、この「女踊り」の歌に合わせて、男が面白おかしく踊るものでした。それに比べて、本場の面白い安来節として覚えようとしたのが、テンポの速い「男踊り」だったのです。
 さて、小学校では少年野球とともに、妻の勧めで早くから育友会(PTA)のコーラス部に入っていました。男性が少ないために一度顔を出すとなかなかやめることができません。小学校育友会のコーラス部に参加する一方で、少年野球でお世話になった二男が中学2年生になる頃には、中学校のPTAの役員も掛け持ちするようになりました。正調・安来節を覚えたのはその頃ではなかったかと思います。ところが、二男と入れ替えに3つ違いの三男が中学に入ると、中学校育友会(PTA)の会長を務める羽目になったのです。楠見中学校は、楠見、楠見西、楠見東の3つの小学校区からなり、中学の育友会長はそれぞれの小学校が輪番制で受け持たねばならないため、会長に一番ふさわしいからとか、なりたいからといってなれるものではありません。たまたま順番が楠見小学校にまわってきて、その条件の中で、それまで2年間、他の役員を務めてきた私が会長にされてしまったのです。そして、会長になったこの頃に、ドジョスクイ(正調・安来節)を初めて育友会の宴会の席などで1~2回は披露したのではないかと思いますが、はっきりと覚えていません。
 私はその後、計3年間楠見中学校の会長を務め、最後の3年目には、和歌山市小中PTA連合会長にされてしまいました。市の会長になりますと、和歌山市は自動的に4人いる県PTА連合会副会長のポストが付いてきます。やはりドジョスクイで一番華やいだのはこの頃でした。宴会の時は必ず引っ張り出され、ある時には和歌山市教育長と一緒に踊ったこともありました。当時の市の教育長は坂口さんという方で、色々芸達者な方でしたが、その中の一つにドジョウスクイがありました。自己流ながらドジョウスクイの名人との評判があり、私はぶっつけ本番で2人踊りをやったのですが、ストーリーなどはなく、めいめいが勝手に踊るのです。ところが坂口さんは、本場安来市で踊った時に、そこの名人から「あなたは胴が長いからドジョウスクイにはピッタリです」と言われただけあって、その巧みな腰つきには唖然とさせられました。この2人踊りが評判となり、瞬く間に5名の女性の役員さんが弟子になってしまったのです。しかも嬉しいことに、皆さんドジョウスクイにはぴったりの美貌ぞろいで私も大満足でした。
IMG_0005(1997年 和歌山市PTA連合会最後の懇親会) いよいよ私のPTA活動も終わろうという時、年に1回の全国大会の開催地が大分県に決まったのです。順番からすれば熊本県のはずでしたが、あろうことか、に熊本県の幹部役員が会費を着服したことが発覚して、急きょ大分県に変わったのです。大分県は私の故郷ですから、こんな運のいいことはありません。何しろ、和歌山という遠いところに18歳で職工として就職し、その地で県PTAの副会長までさせていただき、その最後の年に、一生に一度回ってくるかどうかわからない故郷・大分県で全国大会が行われるわけですから。しかも、幸運はそれだけではありません。その時期、臼杵市の教育長は、私の中学時代に野球部の監督であった村上先生が就任していたため、あらかじめ村上先生に、「和歌山から20名ほどのPTAの役員が臼杵見物をしたいので、名所を紹介していただけないか」とお願いしたところ、快く引き受けてくださり、村上先生直々に、大友宗麟の城下町や、臼杵の石仏などを案内していただくことができました。この時ほど、誇らしく、大船に乗った気持ちになったことはありませんでした。そしてその晩は、ドジョウスクイで皆さんに臼杵の情緒を楽しんでいただいたことは言うまでもありません。ちなみに、この年の日本PTA全国協議会の会長は、なんと臼杵市にある高野山ゆかりの寺・興山寺住職の岡部観栄さん(奥さんは和歌山高野山の人)だったのですから、これも驚きです。かくして、PTA役員を務めた時代は、私のささやかな現場作業員人生の中で、ドジョウスクイのおかげで一番華やいだ頃であったと言えます。
 しかし、楽しかったPTA時代の思い出を語るときに忘れてならないのは、陰で私を支え続けてくださった楠見中学校の当時の校長、坂本晃清(こうせい)先生です。坂本先生は、那智勝浦町の出身で、和歌山大学在学中は、休みになると勝浦に帰り、漁船に乗って近海漁のアルバイトをして学費を稼ぐといった苦学の人で、誠実で温厚な人柄である上に、責任感が強く、部落問題にも良く理解を示し、育友会活動も熱心に指導してくださいました。そのため、私も思い切ってPTA会長の役職を務めることが出来、意気投合した活動の中で義兄弟のような気持すら持ちました。その坂本先生も、停年退職をして何年もしないうちに、それまでの生真面目な性格の心労がたたったのか、早くに亡くなってしまわれました。私は今、原発反対の仲間とともに、毎週金曜日の夕方、関西電力和歌山支店前に立つようになって4年以上になりますが、当初からの仲間に貴志公一さんがおられます。貴志さんと一緒に行動する中で、坂本先生が貴志さんと和歌山大学学芸学部(現教育学部)時代の同期生であることを知りました。その貴志さんからもまた、坂本先生と同様に筋の一本通った頼もしい先輩として、いろいろと教えを受け、楽しく付き合わせていただいていているところです。
(金原注)写真は、1997年、和歌山市小中PTA連合会最後の懇親会で(ちなみに、西郷さんの相方は坂口教育長ではなく、本物の女性だそうです)。
 
カルタ取り「小倉百人一首」の名人、甥の西郷直樹君のこと
 私は5人兄弟の二男で、兄弟の子供たち(甥と姪)が合計13人います。その中で、1人ズバ抜けた頭脳の持ち主がいました。西郷直樹君といって、私より4つ下の弟の子供です。弟夫婦には2人の男の子がおり、大分の公団住宅で生活をしていました。そして、子供たちは、カルタの優れた指導力を持った先生に恵まれて、小学校の頃からカルタに打ち込んでいました。兄の拓也君が小学生の頃からカルタ競技を始めると、弟の直樹君もまだ幼稚園の頃からお母さんとともにそれを熱心に見ていました。そして、すぐさま自分でも競技をするようになりました。その腕前たるや、拓也君は小学生の部、中学生の部で日本一になりました。重い病気をしたこともあり、また学業に専念するために競技を断念しました。弟の直樹君も兄と同じように小学生の部、中学生の部と日本一になり、カルタ界では「西郷兄弟」と言われるようになったそうです。そして高校生の部でも日本一になり、早稲田大学に進学後も大学で日本一になり、カルタ大会では最高峰の名人戦に出場したのです。初挑戦となった1999年の名人戦(五回戦勝負)、二連敗の後に三連勝する大逆転勝利で、ついに史上最年少名人の座に上り詰めたのです。その後、5期連続で名人戦に勝利し、永世(えんせ)名人となり、その後も勝ち続けて連続記録や在位記録などのカルタ会のすべての記録を塗り替えました。
 ここで競技カルタについて説明したいと思います。詳しくはネットで、「百人一首入門」等を検索していただけばわかりますが、ここでは、私が10回以上競技場で観戦した知識なども基にしながら紹介したいと思います。競技カルタは、全数100枚のうちの「取り札」は無作為に50枚を抜き取り、対戦者双方の前に25枚ずつ置きます。そして読み札は100枚あり、読み方は、一回戦ごとに100枚全部を読みます。そして、読み方が最初の一言、二言と読んだときに相手より早く取る技を競うものです。、上の句の一言、二言、場合によっては3つも4つも同じ上の句で始まるものもありますから、競技者は、間違いなく相手より早く取らなければなりません、そこに幾つものルールがあって50枚のうちに先に多くとった方が一回戦の勝ちとなり、普通一試合で三戦を先に取った方が勝者となります。
 カルタ競技のことを知らない人は、十二一重(ひとえ)の着物を着たお姫様が楽しそうに笑いながら遊びに興じている姿を連想するでしょうが、実際は格闘技のようなもので、それは、瞬発力、暗記力、集中力、持続力のすべての体力や気力を必要とします。直樹君の瞬発力について、昔「夕陽のガンマン」か「荒野のガンマン」か忘れましたが、西部劇がはやった頃に、拳銃をホルダーから抜いて引き金を引くまでの時間が、0.3秒とかいう早業が人気になったことがありました。それと同じように、カルタを取る速さも、読み方が上の句を言おうとすると、すでに手が動き、カルタを払いのけるまでの速さが0・3秒なのです。また暗記力は、50枚の取り札を何分間かで暗記したのちに、それを裏返しにして、読み方が読む札を余程の間違いがない限りは、ほぼ50枚全部を当てる暗記力を持っています。集中力のためには試合時間中(場合によっては朝から晩まで)食事は抜いて水しか口にしません。直樹君はそのようなすべての力を駆使して前人未踏の記録を達成することになったのです。
 話をドジョウスクイに戻しますと、直樹君は、早稲田大学時代のカルタ仲間の女性と縁ができ、結婚をすることになりましたが、その東京での結婚披露宴で、私はドジョウスクイを踊ってお祝いしたことがあります。
IMG_0007(2001年 新春大会で3年連続名人(22歳)の頃の直樹君) そうして、彼の記録はその後も止まることを知らず、あまりの強さから、2012年に14年連続優勝したのを機に、自ら名人戦への出場を辞退して身を引きました。私は最後の1~2回は応援に行けなかったものの、それまではほとんど毎年、新年早々、名人戦とクイーン戦が行われる琵琶湖のほとりの近江神宮に応援に駆け付け、彼の偉才を目の当たりにしていました。もし辞めずに続けているなら、恐らく体力的にも技能的にもあと10年くらいは勝ち続けたかもしれません。
 記録を出し続けたその過程では、100年に1度出るか出ないかの偉才の出現を記念して、近江神宮の正門に向かって左横には西郷直樹と名前が刻まれた植樹がなされています。その樹木も今は相当大きくなっているのではないでしょうか。そして今は、忙しい仕事の合間を縫って、母校の早稲田大学での後進の指導や、自分の住む静岡県の子供たちの育成指導にも励んでいると聞きました。
(金原注)写真は、2001年の新春大会で3期連続名人となった22歳の西郷直樹さん。

ドジョウスクイを踊れる幸せ
IMG_0008(2010年 住金職場忘年会) 私は、職工時代には合理化などに反対したため、会社からはあまり好かれていなかったかもしれません。しかし、職場の中では、ドジョウスクイを踊ったり、アコーデオン伴奏をしたおかげで、多くの同僚には好意をもって接してもらうことができたと思っています。
 2000年頃の年の瀬も迫る夕方に、同じ会社で働いていた(職場は全然違います)同期入社のM君がやつれた格好で訪ねてきて、「寒い、今は普通の生活ができていない。」と言ってきたので、自分の着古した防寒着などを与え、ご飯を食べさせて、とりあえず一泊させてあげることにしました。しかし、その日は、泊まりがけの忘年会でしたので、妻に後のことを頼んで宴会場へ行くと、得意なドジョウスクイを踊ってみんなで忘年会を楽しみました。そして、次の日に自宅に帰ると、M君は自分の一別以来の人生を語りながら、「この冬をしのぐのに釜ヶ崎に臨時の宿泊所があり、そこは1万4千円払えば一冬越せるだけ泊まらせてもらえるから金を貸して欲しい。」と言うので、言われるままに金を貸してあげることにしました。すると、「この恩は決して忘れない。金は必ず返しに来ます。」と言って立ち去りました。私は、彼の言うことをほとんど信用していませんでしたから、金は落としたものとしてあきらめました。しかしその時、彼は本当にそう思っていたのか、その後、忘れた頃に手紙が来て、中身をみると熱心な文章で、お礼と必ず約束を守るようなことが書かれていました。しかし、次に彼から電話があったのは、それから1年ほど経った夏の夜中の2時頃のことでした。「今、京都のある駐在所で保護されているので、身元引受人になって欲しい。」との連絡でした。さすがに明日仕事があるのに、夜中の2時に起こされた私は、「いい加減にしてくれ、私は知らない。」と言って電話を切りました。彼はその後どうしているのか、生きているのかどうかも分かりませんが、それきり何も言ってこなくなりました。高校を卒業して九州から集団就職さながらこの地に来て、合理化の波にのまれ、要領を得ずしてあのような人生を送らねばならなかったのは決して彼が悪いわけではなく、私自身にも一つ間違えば起こり得る、誰にでも起こり得る過酷な運命と隣り合わせに生きていることを知らなければならないと思いました。
(金原注)写真は、2010年ころ、職場(住友金属)の忘年会で踊る西郷章さん。

その場その時で臨機応変に踊る
 ドジョウスクイを踊る場所は、その時々により全部違います。ですから、踊る直前にその場を見定めて、あそこではこう踊る、ここはこうすると、あらかじめ自分で計算しておかなければなりません。といっても、踊り自体は基本の動作を4~5回程踊るだけですからきわめて単純です。出来るだけお客さんの近くで、与えられたスペースを計算して踊りの順序を間違えなければ、ほぼうまくいったと言えるでしょう。狭すぎるところ、広すぎるところと色々経験しましましたが、一つ変わった場所で踊ったことをご紹介しましょう。市民運動の仲間で、和歌山の隣りの市で市会議員をやっているОさんの選挙の時でした。
Оさんは、ずいぶん前まではある民間労組の組合長をしており、その時によく歌った『頑張ろう』という歌を出陣式で歌いたいということで、私がアコーデオンで伴奏をすることになったのですが、それだけではなく、事務所の前で私にドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれたのです。なぜドジョウスクイなのかとОさんに聞きましたところ、「ドジョウをスクウ=票をスクウで縁起がいいからです。」との答えが返ってきました。それにしても、私はドジョウスクイをお座敷で踊ったことは何回もありますが、お土敷(砂利の上)で踊るのは初めてです。お座敷ですら、真剣に踊れば、知らないうちに必ず向う脛(すね)のあたりが赤くむくれてしまうのに、石ころだらけの土の上でまともに踊るとどうなるか、経験的、直感的に身の危険を察知しました。そのおかげで、危ないところでは手加減をして怪我をすることなく踊り終えることができたのです。
 そして、その後に嬉しいことがありました。私の踊りを見ていた前の後援会長の奥さんと1週間ぶりに会った時、奥さんは、亡くなられたご主人の仏前で、私の踊りのことを「いいものを見せてもらった」と報告しましたと言ってくれたのです。一見場違いに思えるところでも、そんなに喜んでもらえる人がいたことに、どこで踊っても決して無駄ではないと自信を持ちました。
 その市会議員のОさんから2016年の8月下旬に電話があり、「私の住むI市では、10月初旬に市長選がある。現職は5期20年務めており、これ以上市長をやらせることは市政のマンネリ化に拍車をかけ、市民にとって決して好ましいことではなく、市民の方を向いた政治をするため、また無投票当選を防ぐためにも私が市長選に立候補するからよろしく頼む。」と言ってきました。Оさんが市長選に立候補するのは今回で2度目であり、先日事務所開きに行ってきました。ところが最近になって、「出陣式の時に元気の出る歌なら何でもいいからアコーデオンを引いてくれないか。」という依頼のメールが届きましたので、快く了承したものの、今年の3月、郡山市で開かれた「3.11反原発福島行動’16」で弾いて以来全く触っていなかったので、9月25日の出陣式に向けて慌てて練習をしているところです。今回の出陣式では、「三百六十五歩のマーチ」を歌ってもらおうと思っていますが、残念ながらドジョウスクイはお呼びがかかりませんでした。

福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して
 3・11福島第一原発事故があり、それから1年が過ぎた頃から、今は亡き親友の寺井拓也さんの努力により、福島の被災者の皆さんとの交流が生まれました。そして、そのような関係の中から、「3.11反原発福島行動’14」の会場でドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれることになり、大きな会場で踊ったことのない私は、そのリハーサルも兼ねて、福島(会場は郡山市)での集会の2日前に和歌山城西の丸広場で開催されたイベント(フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション)に出させてもらいました。和歌山では、その後も、“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”という大きなイベントなどでドジョウスクイを踊る機会をいただいたりしています。
飯舘村民仮設住宅を慰問して ところで、2014年3月の反原発福島行動に参加することになった私は、「被災者の皆さんが避難をされている仮設住宅に慰問に行きたい」と現地の友人にお願いしたところ、その希望がかない、アコーデオンとドジョウスクイの道具一式を持参して飯館村の高齢者の皆さんが暮らしておられる仮設住宅を訪問することになりました。その時、目的地に向かうタクシーの中で、運転手さんが話されたことが印象的でした。「ドジョウスクイですか。福島はドジョウがたくさん取れるところです。1時間もしないうちにバケツ一杯も取れます。今でもたくさん取れます。しかし、それを食べることはできません。」ということでした。慰問先の仮設住宅の皆さんは、よく笑ってくれました。しかし、大成功かに見えた慰問でしたが、1つだけ気がかりなことがありました。それは、最後に『故郷(ふるさと)』という歌をみんなで歌ってもらった時のことです。歌詞の3番♪こころざしを果たして~いつの日にか帰らん~♪の歌詞に差しかかりますと、皆さんの声が聞こえなくなったのです。それで私は、「もう一度大きな声で歌いましょう。」と合図をしながら歌ったのですが、なぜあの時に声が途切れたのか、その理由を案内の人に聞きました。するとその人は、「飯館村の人たちは、東電や国が情報を隠して知らせなかったために避難するのが遅れてしまい、その後も毎年もうすぐ帰れると行政に騙され続け、帰れないことを体で知ってしまったのです。だから3番は歌えないのです」と言ったのです。その話を聞いた時には本当にショックを受けました。その後も、希望をなくしたお年寄りは、帰れない故郷のことを思いながら次々に亡くなっていきます。そして政府や行政は、「安心、安全、大丈夫だ。」と言いながら飯館村にも帰還政策を推し進めていますが、この人たちのことを思うときに本当に切ない気持ちになります。
 私はこの10月で古希(満70歳)を迎える年になりました。しかし、世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。
(金原注)写真は、2014年3月、福島県伊達市仮設住宅飯舘村の方が避難)を慰問してドジョウスクイを踊る西郷章さん。
 なお、今のところ私が西郷さんのドジョウスクイを生で見た最後の機会となっているのが“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”です。その写真レポートを私のブログに書いており、西郷さんのステージ(この年は土の上)姿の写真も掲載していますのでご参照ください(写真レポートで振り返る“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”)。
 
天国の親友に捧げたドジョウスクイ
 私は、2015年の暮れから2016年の春にかけて2人の親友を相次いでなくしました。一人は、若いときの職場の同僚で、千葉から和歌山の住友金属に入社した友人でした。彼は、近い将来茨城県の鹿島工場が操業した時に、即戦力となる技術を身につけるために和歌山工場に来たのでした。おとなしい性格の彼とは良く気が合い、私のアパートで一杯飲んだり、お互いの故郷のことなどを語り合い、親しく付き合っていました。
 やがて、彼も鹿島転勤の時が来て、故郷の銚子に帰って行きましたが、それから幾年もしないうちに結婚の知らせがありました。その後、千葉から鹿島まで通っていた彼は、製鉄所の仕事を辞め、近くの個人企業に勤めるようになり、給料は減ったものの家庭は平凡ながら幸せに暮らしていたようです。それから数十年の時を経ても、私たちは、ずっと年賀状だけは自分の近況を書き添えて届け合っていました。そして、2016年の春先に奥さんから「実は主人が昨年末に肺がんが転移して亡くなりました」という手紙が届いたのです。私は、「近いうちにお悔やみに伺います」と約束をして、5月の妻が連休の時に2人で軽自動車に乗って、銚子の犬吠埼(いぬぼうさき)近くのお墓にお参りしてきました。お墓は彼の家のすぐ近くにあり、奥さんは毎日墓参りをしているものの、「それでも急に寂しくなりました」と言っていました。銚子は、私の先祖が遠洋漁業で世話になった特別の思い入れのある土地ですから、そのことのお礼の気持ちも含めて、彼のもとを訪ねることができたことに安堵感を覚えました。
 また、千葉の友人の墓参りに行く前の今年の4月半ば、和歌山では、市民運動仲間から、「田辺の寺井拓也さんが亡くなり、なきがらは病院へ献体するので、それに間に合うようにお悔やみに行きます」という知らせを受け、私も田辺へと駆け付け、少し細くなった彼の安らかな寝顔に接することができました。寺井さんもまた、直腸癌が肺に転移して半年もしないうちに亡くなったのです。
龍神村にて(寺井拓也さん、小笠原厚子さんと) 寺井さんと私は同じ昭和21年生まれですが、寺井さんは早生まれで学年は1つ上ということもあり、年は同じでも能力には大差があり、頼もしい寺井さんの市民運動での活躍に、私はいつも指導される方でした。その私たちが急速に親しくなったのは、2006年から2007年頃で、全国では憲法9条が危ないということで、多くの9条の会が発足した時期でした。その頃以降、私が紀南にゆかりの大逆事件の歴史を調べたり、「さようなら原発1千万署名」を進める上で、寺井さんから貴重な助言を得ることができましたし、9条を守る市民運動でも活発に交流するようになりました。そうした中、特に2人が意気投合して行動を共にするようになったのは、3.11福島第一原発事故から2年半を経た2013年9月に敢行した大間~福島の反原発交流ツァーにおいて、大間(あさこはうす)の小笠原厚子さんや、福島共同診療所の椎名千恵子さんたちと親交を結んだ頃からでした。そのような関係は、寺井さんが亡くなる前年まで続きました。特に2014年の福島訪問の際には、一度は仮設住宅に暮らす避難者の方を慰問したいという私の願いがかない、飯館村の避難者の皆さんが暮らす伊達市仮設住宅にドジョウスクイの道具とアコーデオンを持ち込んで慰問することができました。それらの行動の折に触れ、寺井さんは、「人生60年だ。あとの人生は儲けものだ。」と言われました。そして、70歳まで生きた寺井さんは、その言葉を行動で示すように、儲けた10年間の人生を、人々の平和と幸せのために、市民活動家として一直線に駆け抜けた純粋な人でした。また、謙虚で一本筋の通った寺井さんが無教会派の敬虔なるクリスチャンであることを、亡くなった翌月、「偲ぶ会」が行われる少し前に知りました。寺井さんは、クリスチャンとして明治の日露戦争主戦論に抗して非戦論を唱えた内村鑑三の教えを若い頃から人知れず実践していたのです。そして、私はといえば、中年を迎えてから、内村鑑三とともに万朝報(よろずちょうほう)で非戦論の論陣を張った堺利彦社会主義者)の影響を受けました。万朝報を去った2人の非戦論者がそれぞれの道を歩み、内村と堺の非戦論の影響を受けた私たちが、こうして出会えたのも、偶然にして必然であったのだと思いました。
 2016年5月28日に、寺井さんの地元、和歌山県田辺市の「ララ・ロカレ」で行われた「寺井拓也さんを偲ぶ会」では、私にとって生涯無二の親友であった寺井さんに天国から観てもらうためにドジョウスクイを精一杯踊りました。私は、今後も寺井さんに教わった「儲けた人生」を余すことなく使って、人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたいと思います。
(金原注)写真は、2014年4月、和歌山県田辺市龍神村にて。向かって右から、寺井拓也さん、小笠原厚子さん(あさこはうす)、西郷章さん。
                                         おわり
 

(3回分載時のリード文)
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(前編)
 はじめに
 一時代に繁栄した「突き棒船」とは
 先を見越して運搬船に乗ったオヤジ
 大黒様・恵比寿さんになったオヤジ
 初めての中国でドジョウスクイを踊る
(リード文)「毎週金曜日の夕方6時から7時までの1時間、雨の日も、風の日も、雪の日も(―和歌山はあまり雪は降りませんが)、関西電力和歌山支店前の路上で、静かに脱原発をアピールする人々の姿を見ることができます。そして、よほどのことがない限り、その中には必ず西郷章さんの姿があります。
 また、「憲法を生かす会 和歌山」として、来る10月22日(土)には、和歌山市中央コミセンのキャパ200名の会場で「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」と題した講演会(講師は何と私!)を主催したり(開催予告10/22「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」(講師:金原徹雄弁護士)@和歌山市中央コミセン/2016年9月4日)、11月12日(土)には、ソプラノ歌手・前田佳世さんの和歌山市での初めてのコンサートを企画したりと、少しもじっとしていられない(?)活躍ぶりです。
 その活動ぶりについては、西郷さんご自身のFacebookで活発に発信しておられますが、西郷さんがFacebookを始められるまでの間は、しばしば「メルマガ金原」に寄稿していただいていました。それが、だいたい2011年から2012年にかけての時期だったでしょうか。その頃の西郷さんの文章は、その後、私の最初のブログ(wakaben6888のブログ)に転載しています(巻末にリンクしておきます)。
 その後、西郷さんはすぐさまFacebookに習熟し(動画投稿もお手のもの)、普段の情報発信はもっぱらFacebookを通じて行っておられます。
 けれども、2013年以降も、ほぼ年に1本の割合で、気合いの入った長文の原稿を執筆して「メルマガ金原」(及びブログにも転載)に寄稿してくださっています。以下のとおり。

2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる

※追悼特集の一部として西郷さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』を掲載。
 
 「ほぼ年に1本の割合で」と書きましたが、今年に入ってから執筆意欲が非常に高まったのか、かねて西郷さんから「書きたいと思っています」と予告されていた『ドジョウスクイ半生記』が遂に完成し、今年3本目の原稿として掲載できる運びとなりました。
 西郷さんの得意芸である「ドジョウスクイ」については、西郷さん自身が書かれた上記「3.11反原発福島行動’14」参加記を読んだり、また、折にふれて和歌山のイベントでドジョウスクイを披露された様子を直接見たり、私がレポートした文章を読まれた方も少なくないかもしれません。
 その見本(?)として、「3.11反原発福島行動’14」の2日前の3月9日、和歌山城西の丸広場で開かれた「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」に出演された西郷章さんのステージ写真を掲載した私のブログをご紹介しておきます(「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」を開催しました)。
 けれども、これからご紹介する『ドジョウスクイ半生記』は、西郷さんがまずドジョウスクイを見習ったお父さんの話から始まり、競技カルタの天才と謳われた甥御さんや、満蒙開拓団の一員として満州に渡った奥様のお父様、そして中国残留孤児として取り残され、その後家族との再会を果たして帰国された奥様のお姉様やその家族のお話、さらに、最近の親友との別れまで、ドジョウスクイを通じて自分と周囲の人々との交流を振り返る本格的な自伝となっており、いままで以上に読み応えがあります。それに応じて分量もかなりのものとなりましたので、前編・中編・後編の3回分載とさせていただくことにしました。
 前編の今回は、大分県臼杵(うすき)市で漁師として働き、その後、家族で海運業を営んだお父様を中心としたお話と、西郷さんが住友金属和歌山製鉄所で働くようになってから結婚された奥様のお父様や、中国に残されたお姉様のお話が中心で、そこにドジョウスクイのお話も散りばめられています。何しろ、奥様のお姉様と会うために中国を訪問した際の北京空港での別れの宴席で、「初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになった」というのですから。」
 
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)
 少年野球のコーチ、そしていつもヘルメットをかぶっていたH君
 正調・安来節を覚えた中学PTA役員の頃
 カルタ取り「小倉百人一首」の名人、甥の西郷直樹君のこと
(リード文)「西郷章さんの大作『ドジョウスクイ半生記』の中編をお届けします。3人の息子さんにめぐまれた西郷さんは、PTA活動に熱心であった奥様の影響もあり、少年野球チームのコーチ、PTAコーラスへの参加、さらにPTAの役員(和歌山市小中PTA連合会会長、和歌山県PTA連合会副会長まで)を務めながら、様々な場でドジョウスクイを披露していくことになります。
 さらに、ドジョウスクイとの関連はあまりないものの、競技かるたの世界で不世出の天才と謳われる永世名人(社団法人全日本かるた協会認定)西郷直樹さんが、西郷さんの甥(弟さんの息子)であることが明かされます。ちなみに、Wikipediaにも「西郷直樹」という項目がありました。
 少年野球を通じて交流のあった少年(H君)にドジョウスクイを見てもらえた思い出など、印象深いエピソードにもご注目ください。」
 
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)
 ドジョウスクイを踊れる幸せ
 その場その時で臨機応変に踊る
 福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して
 天国の親友に捧げたドジョウスクイ
(リード文)「西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)をお届けします。いよいよ最終編となる今回は、今まで以上に「ドジョウスクイと人生」が語られています。
 実は、西郷さんから最初にお届けいただいた『ドジョウスクイ半生記』の原稿には、「ドジョウスクイは平和の踊り」という小見出しのついたパートがありました。非常に魅力的なキャッチフレーズではあったのですが、本文の内容と符合しておらず、まことに「惜しい」と思いながら、別の小見出しに変更しました。
 私自身、西郷さんによるドジョウスクイの実演を拝見したのは全部で3回、会場は全て和歌山城西の丸広場でした。
 2014年3月9日 「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」
 2014年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”
 2015年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”
西郷章さん(ハッピーバースデイ憲法2014) 本来、お座敷芸として発展したドジョウスクイを踊るのにふさわしい会場とはとても言えない広いところで、それでも西郷さんが果敢に踊られたのは、「世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。」(本稿「福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して」より)という決意があったからでしょう。
 本稿が、今年の5月、「寺井拓也さんを偲ぶ会」での、平和・人権・脱原発に尽力して先立った亡き親友に捧げるドジョウスクイで締めくくられたのも、まことに感慨深いものがあります。
 私も、微力ながら、西郷さんとともに「人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたい」という思いや切なるものがありますし、本稿を最後まで読んでくださった多くの方も同じ思いを共有してくださるものと信じます。
(金原注)写真は、2014年の憲法記念日和歌山城西の丸広場の特設ステージでドジョウスクイを踊る西郷章さん(“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”にて/撮影:金原)。ドジョウスクイの写真にしては「凜々し過ぎる」かもしれませんが、西郷さんの平和にかける熱い思いの表れでしょう(もしかしたら、痛風の痛みをこらえていたからかもしれませんが)。
 

(「メルマガ金原」から後日「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)

2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します

2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)

2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)

2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』
 
(「メルマガ金原」から即日「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる

※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。