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トランプ大統領が誕生しても安心できない「著作権保護期間70年への延長問題」~青空文庫の主張を読む

 今晩(2016年11月17日)配信した「メルマガ金原No.2633」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
トランプ大統領が誕生しても安心できない「著作権保護期間70年への延長問題」~青空文庫の主張を読む

 米国大統領選挙において、TPPからの脱退を明言するドナルド・トランプ氏が当選したことにより、同条約の発効の見通しが立たなくなったという観測が一般的であり、他の面における影響はともかく、とりあえずTPP発効を阻止するという一点からは、トランプ大統領誕生は歓迎できると思っている日本人も少なく
ないかもしれません。
 けれども、ことはそう単純ではないというのは、仮に米国が脱退して(批准せずでも同じことですが)条約が発効しないとしても、TPP合意の過程で、とりわけ米国に譲歩した個別の案件について、米国の新政権から履行を迫られる、あるいは、迫られずとも、日本政府が独自の思惑によって、TPP合意の線で「国内法整備」を行うという可能性は否定できないからです。
 
 その中で、私が一番懸念しているのは、著作権保護期間著作者の死後50年から70年への延長問題です。
 たしかに、世界的に見れば、著作権保護期間を日本と同じ50年に据え置いている国は多いのですが(ほとんどが著作権使用料の出入りに関しては赤字の国です~日本もそうです)、ことOECD加盟国に限定すると
圧倒的少数派となってしまいます。
 従って、TPP合意がなくても、かねてより著作権保護期間延長に対する「圧力」は内外からあったのであり、以下のニュースにあるとおり、文化庁などは勇んで国内法整備の方針を打ち出した(今年の「2月」
にですよ)ほどです。
 
知財情報局 発信:2016/02/25(木)
TPP合意対応、保護期間延長や非親告罪含む著作権制度見直し案まとまる

(引用開始)
 環太平洋経済連携協定(TPP)の合意に対応する国内の著作権制度の見直しについて、文化庁の文化審議会著作権分科会が2月24日に開催され、著作権保護期間の延長や非親告罪の導入を含む法制度の整
備についての方針が固まった。
 見直しのポイントは、(1)音楽・書籍の著作権保護期間を現行の著作者の死後50年から70年に延長、(2)著作権者の告訴がなくても警察が海賊版を取り締まれる「非親告罪」の導入、(3)著作権侵害民事訴訟
損害額の立証ができなくても、最低限の賠償金を請求できる「法定賠償」制度の導入、等となっている。
 これらのポイントのうち、非親告罪の導入については、「パロディー」など二次創作活動を委縮させる問題を避けるため、元の権利者の収益に影響を与えない二次創作や、漫画の一部を複製する行為などは除
外することが了承された。
 また、法定賠償制度の導入については、米国の損害額の3倍賠償制度などのような追加的賠償制度は導入せず、著作権管理事業者が定めた使用料の規定を目安とするなどで、米国のような乱訴は起こらないよ
う配慮された。
 政府は、この文化審議会の考え方に沿って、今国会で著作権法改正案を成立させ、2018年以降に予想さ
れている協定発効時期に施行する方針を固めている。
(引用終わり)
 
 ここで、「50年」と「70年」を比べてその利害得失を云々する能力は私にはありませんが、私個人は、著作者の死後「50年」とする現行著作権法のままで良いと思っています。・・・というだけでは説得力がないでしょうから、少し古いものですが(2013年6月)、著作権について造詣の深い福井健策弁護士による論考をご紹介するとともに、青空文庫が、文化庁著作権課からの求めに応じて提出し、2015年11月4日開催の文化審議会著作権分科会:法制・基本問題小委員会(第6回)で配布された資料の総論部分を、少し長くなりますが引用します。私個人としては、青空文庫のこの意見に大いに共鳴するのですが、皆さんはいかがでしょうか?
 
 
青空文庫
文化審議会著作権分科会法制・基本問題小委員会(2015年11月4日(水))
審議用意見提出資料

(抜粋引用開始)
 青空文庫では、知的財産に関する今回のTPP協定の合意と今後の著作権法改正が、自分たちに対してのみならず、パブリック・ドメイン著作権保護期間の満了した公有財産としての作品)を共有していく新し
い文化のあり方にも、大きな影響を与えるのではないかと危惧しております。
 TPP大筋合意との報道に際して、先日当文庫のサイト上で公開した文章でも触れておりますが、青空文庫に関わるボランティアは、その多くが作家や作品のファンであり、また少なからぬメンバーが、自分たちの好きな本がいつまでも読み継がれ、世界じゅうで自由に分かち合われ、これから先も公有財産として大切にされてゆくことを強く願うだけでなく、共有された知や文化が社会に循環され、次の新しい創作物が
生まれて未来の文化が育まれてゆくことを心から祈って、日々の作業に取り組んでおります。
 著作権法ではその第一条に、権利を定めて保護を図る一方で、作品が広く公正に使われることにも意を払うこと、保護と利用、双方を支えとして文化の発展を目指すことが謳われています。だからこそ保護に期限を設け、社会の資産として広く活用されるよう願って、あるところで個人の手を離れるように定めて
います。
 この文化の共有を公的に保証するあり方は、インターネットを得てはじめて、実効性のある仕組みとして機能しはじめ、そして簡便な電子端末を得てようやく、その益を広く享受できはじめています。延長が現実のものとなれば、青空文庫含め、自分たちの文化を社会で共有していく試みが制約され、自由な文化
は確実に狭くなっていくでしょう。
 著作権の保護期間が満了するまで経済的価値を持つ作品はごく少数です。その数少ない作品の利益を守るために、そのほかの作品が社会で再発見され、再び人々に共有されることを妨げるのは、作品の公正な利用という側面からも問題があるものだと考えられます。多くの作品を長く社会や文化のなかで大事にしていくためには、保護と利用のバランスを考えても、そうした再発見や再活用の可能性をできるだけ大き
くしておくことが必要です。
 青空文庫はよく、文学作品が無料で読める、という形で言及されますが、同じ「フリー」でも、この一件は、単に「モノが無料で手に入るかどうか」ではなく、「文化が自由であるかどうか」の問題であると
考えております。
 当文庫はインターネット図書館というよりはむしろ、ボランティアや読者、さらに活用する人たちで作
る、ひとつの共有文化のようなものです。「自由」に「見てほしい」「読んでほしい」「残ってほしい」、そして「活用してほしい」と、ボランティアひとりひとりが思った作品を自ら電子化し、青空という共
有の棚へ並べてきました。
 また活用する側もこれに応じるように、自分から「こう読んでみたい」「こう届けてみたい」と考えて、自由なやり方でパブリック・ドメインを扱い、ネット上での朗読だけでなく、携帯端末のアプリや耐水
性の本、視障者向けの読書支援、用例検索サービス、または二次創作など様々なことをしてきました。
 つまり青空文庫を初めとするデジタル・アーカイヴで公開されるパブリック・ドメインは、ただ単に読まれるだけでなく、自由に朗読されたり、あるいは教育利用としてテキストやテスト問題等に活用された
り、視障者向けの音訳本や点字本・拡大本に活用されたり、海外にいて日本語コンテンツを手に入れづらいユーザーや研究者の益に供されたり、またビジネスでも新技術や新サービス等(お風呂で読める本やオーディオブック、オンデマンド本)が開発された際のPR用のコンテンツとして用いられたりすることがあ
るわけです。
 また、これまでにも朗読コンテストや漫画化コンテスト、表紙絵コンテストなどが、各種団体や企業で独自に実施されており、若いクリエイターが名作の肩を借りて競うことも行われています。もしこのまま進んでいけば、創作者たちがさらに多くの作品と自由に触れあうことで実力を伸ばし、より豊かな文化が
生まれていくことでしょう。
 さらに青空文庫などでパブリック・ドメインが電子化されれば、埋もれた作品に再び光を当てることに
もなります。作家の死後50年ましてや70年後まで、市場に流通する作品はごく稀です。しかしながら、作品が電子化されてインターネットで合法的に共有されることで、作品と出会いやすくなり、そこから再発見される作家は少なくありません。作家は何よりも自分の作品が読み継がれることを望み、そして芸術の愛好者たちも、自らの愛する作品がより広く愛されることを望んでおります。青空文庫を初めとする各種
デジタル・アーカイヴは、そうした希望の受け皿ともなっております。
 芥川龍之介の「後世」という短文でも、五十年百年ののち価値観が変われば、自分の作品が読まれなくなっているかもしれないが、それでも図書館の隅にあるのを誰かが見つけ、一行一文字でも読んで、何かしらの幻や蜃気楼などを思い浮かべてはくれないだろうか、と切なる願いを記し、後の世に自身の本が保存されて読まれる可能性がせめて残ることを希望しています。
 こうした願いを受け止める形で活動してきた結果、今では在外邦人や、日本に興味を持つ海外の方々にとっても大事な読書・研究リソースとなっており、国内のみならず海外も含めて、貴重な文化的財産を国際的に共有するという文化ができあがって参りました。こうしたデジタル・アーカイヴは、インターネットを介することで、海外での日本の理解や友好を深める役割もあるわけです。
 著作権保護期間の延長は、ごく一部の著作権者の利益を増やすことができる反面、パブリック・ドメインから広がるこうした豊かな活用や、作家やファンの願いを、確実に狭めてしまうものでもあります。そのような立場からすれば、影響はただ青空文庫のみならず、日本ひいては世界の文化へ大きな害を与える
ものとなるではないかと、たいへん憂慮しております。
 当文庫は、開設の際の趣意書「青空文庫の提案」にもあるように、「青空の本は、読む人にお金や資格を求めません。いつも空にいて、そこであなたの視線を待っています。誰も拒まない、穏やかでそれでいて豊かな本の数々を、私たちは青空文庫に集めたいと思うのです。」として、読者の範囲を制限せずに活動を続けて参りました。ゆえに人々が自由に読むとともに、自由に活用できていますし、そしてそこから
新しい文化が生まれ、それが基盤となって新しい経済活動も生まれてくるのだと思います。
 今ようやく芽生えてきたパブリック・ドメインによる豊かで多様な共有文化が損なわれないような、柔
軟な著作権のあり方を切に望みます。
(引用終わり)
 
※参考 青空文庫より
(全文引用開始)
 私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。
 公衆の批判は、常に正鵠を失しやすいものである。現在の公衆は元より云ふを待たない。歴史は既にペリクレス時代のアゼンスの市民や文芸復興期のフロレンスの市民でさへ、如何に理想の公衆とは縁が遠かつたかを教へてゐる。既に今日及び昨日の公衆にして斯かくの如くんば、明日の公衆の批判と雖も、亦推して知るべきものがありはしないだらうか。彼等が百代の後よく砂と金とを弁じ得るかどうか、私は遺憾ながら疑ひなきを得ないのである。
 よし又理想的な公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。今日の私の眼は、唯今日の私の眼であつて、決して明日の私の眼ではない。と同時に又私の眼が、結局日本人の眼であつて、西洋人の眼でない事も確である。それならどうして私に、時と処とを超越した美の存在などが信じられやう。成程ダンテの地獄の火は、今も猶東方の豎子(じゆし)をして戦慄せしむるものがあるかも知れない。けれどもその火と我々との間には、十四世紀の伊太利なるものが雲霧の如くにたなびいてゐるではないか。
 況んや私は尋常の文人である。後代の批判にして誤らず、普遍の美にして存するとするも、書を名山に蔵する底の事は、私の為すべき限りではない。私が知己を百代の後に待つものでない事は、問ふまでもなく明かであらうと思ふ。
 時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆うづだかい埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚(しみ)の餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし――
 私はしかしと思ふ。
 しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
 私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。
 けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。
 私は私の愚を嗤笑(しせう)すべき賢達の士のあるのを心得てゐる。が、私自身と雖も、私の愚を笑ふ点にかけては、敢て人後に落ちやうとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋々たる私自身の意気地なさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意気地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。
(引用終わり)
 
 ここで、著作権保護期間延長問題と青空文庫について、分かりやすくまとめたサイトもご紹介しておきます。
 
 
 上の記事にも書かれているとおり、昭和40年(1965年)に亡くなった江戸川乱歩谷崎潤一郎の作品が今年(2016年)1月1日からパブリックドメインとなり、青空文庫に順次作品がアップされ始めています。
 
 
 
 あれもこれもと目移りしながら、お薦め作品を選ぼうかとも思いましたが、それでは皆さんの「探索の楽しみ」を奪うことになってしまうでしょうから止めておきます。

 江戸川乱歩谷崎潤一郎のようなビッグネームであれば、あと20年、著作権保護期間が延長されたとしても、もしかしたら、作品の入手に不自由はしないかもしれません。けれども、彼らほどの大家であっても、全集の片隅に埋もれ、読む者もほとんどない作品というのもあるでしょう。実際、芥川龍之介が『後世』という文章を書いていることなど、私は今日初めて知りました。
 著作物が公有(パブリックドメイン)になるということは、その著作物に新たな生命が吹き込まれるチャンスでもあるのです。そのことと、著作者の子孫の経済的利益とのバランス点として、ベルヌ条約が定める最低基準の「50年」というのは、絶妙な期間だと思うのですが。
 
 著作権保護期間の延長は、最近でこそ、TPPとの関連で話題になっていましたが、(他のTPP合意の各分野でもきっとそうなのでしょうが)TPP交渉のずっと前から、様々な議論が積み重ねられてきた問題でもあるのです。従って、TPPが発効するかどうかということはもちろん大問題ですが、個別案件についての注意も怠らないようにしなければと思います。