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wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

司法に安保法制の違憲を訴える意義(9)~東京・差止請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告(田中煕巳さんと小倉志郎さん)による意見陳述

 本日(2017年1月8日)配信した「メルマガ金原No.2685」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
司法に安保法制の違憲を訴える意義(9)~東京・差止請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告(田中煕巳さんと小倉志郎さん)による意見陳述

 昨日は、昨年12月21日(水)に開かれた安保法制違憲・差止請求事件の第2回口頭弁論から、被告・国の答弁書に対して反論した「準備書面(1)」についての古川(こがわ)健三弁護士、平和的生存権の権利性・被侵害利益性について主張した「準備書面(2)」についての黒岩哲彦弁護士の各陳述をご紹介しました。
 
 今日は、同口頭弁論で意見陳述されたお2人の原告、長崎原爆被害者で被団協事務局長の田中煕巳(てるみ)さんと元原発技師の小倉志郎さんの陳述内容を、裁判後の報告集会で配布された資料から引用してご紹介します。
 
 田中煕巳さんは、元東北大学工学部助教授、元十文字学園女子大学短期大学部教授、工学博士。昨年のオバマ米大統領の広島訪問を前に被団協事務局長として日本記者クラブで会見し、記者の質問に答えたことを記憶しておられる方もいるかもしれませんね。
 
 
田中煕巳 被団協事務局長 「オバマ広島訪問」① 2016.5.19(1時間21分)
 

 また、元東芝原発技術者であった小倉志郎さんは、3.11後、国会事故調の協力調査員として事故原因の究明に協力されたりしていますが、実は、3.11の4年前である2007年に、「リプレーザ」という季刊誌に山田太郎という筆名で『原発を並べて自衛戦争はできない』という論文を発表したことで
知られています・・・と言っても、正直、広く知られるようになったのは3.11後のことでしょうが。
 3.11後、安全保障の観点から原発の即廃炉を主張する言説は多くの人が口にするようになりましたが(私もそうですが)、2007年の時点で、原発技術者としての長年の経験・知識に裏打ちされたこれだけの論考が書かれていたというのは驚かざるを得ません。筆者の了解の下、インターネットに転載されたものがいくつかあるようですが、3.11から1ヶ月余り後という時点で「ちきゅう座」に掲載された
ものが、最も読みやすいと思います。
 
 
 原発が存在するということ自体、日本が絶対に「戦争ができない国」であることの最も重要な根拠の一つであることを非常に説得力豊かに解き明かした論考として、全国民必読と言っても言い過ぎではないと思います。
 
 なお、東京地裁での安保法制違憲訴訟の資料(訴状、答弁書、準備書面など)は、「安保法制違憲訴訟の会」ホームページの「裁判資料」コーナーに、「国家賠償請求訴訟」「差止請求訴訟」に分けて収録されています。
 
 また、差止請求訴訟の「請求の趣旨」(原告が求めている結論)及び被告・国の「請求の趣旨に対する答弁」は、昨日のメルマガ(ブログ)に引用していますのでご参照ください(司法に安保法制の違憲を訴える意義(8)~東京・差止請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告訴訟代理人による陳述)。
 
 それから、当日午後1時から参議院議員会館において行われた報告集会の動画を、もう一度ご紹介しておきます。
 
2016年12月21日 『安保法制違憲訴訟差し止め請求訴訟』傍聴&報告集会(1時間35分)
 
冒頭~ あいさつ 寺井一弘弁護士
8分~ 古川(こがわ)健三弁護士 「準備書面(1)」について
15分~ 黒岩哲彦弁護士 「準備書面(2)」について、法廷でのマイク問題について、口頭弁論での
原告意見陳述について
21分~ 原告・田中煕巳(てるみ)さん(長崎原爆被害者、被団協事務局長)
33分~ 原告・小倉志郎さん(元原発技師)
42分~ 原告・東京大空襲被災者
52分~ 原告・父が関東軍で悲惨な体験
58分~ 原告・船員(外洋航路)
1時間05分~ 福田護弁護士 差止訴訟の現状と今後
1時間17分~ 原告・志田陽子さん(憲法研究者・武蔵野美術大学教授)
1時間27分~ 原告・飯島滋明さん(憲法研究者・名古屋学院大学教授)
1時間33分~ 閉会 司会・杉浦ひとみ弁護士
 

 
1.私は、1932(昭和7)年生れで、84歳になります。
 2000(平成12)年から現在まで日本原水爆被害者団体協議会日本被団協)の事務局長をしています。
 私の父は元軍人で満州へ赴任したため、私は満州で生れましたが、父が、昭和13年に奉天瀋陽)で亡くなったので、母は私と兄、妹2人を連れて長崎に帰りました。
 長崎へ原爆が投下された1945年8月9日、私は13歳で旧制中学1年生でした。自宅は爆心から3.2キロ離れた山影の地形の所にありました。
 木造2階建の家で、私は2階に居て、突然、真っ白な強い光を感じ、慌てて2階から下に降りて伏せましたが、気を失ってしまいました。強い爆風が襲ったと思いますが、どうして気を失ったかわかりません。母子4人は、奇跡的に誰も傷を負いませんでした。家は爆風でかなり傷みましたが、修理して住むことができました。
 爆心地から1キロ以内に父方と母方の2軒の伯母の家があり、5人の親戚を亡くしました。爆心地と私が住んでいた街との間に大きな金比羅山という山がありましたので、私は原爆直後の惨状は知りませんでしたが、3日後に爆心地帯に入ったときには、亡くなった方が何百何千と散乱し、重症をおったままの方たちもあちこちにいました。これは本当に人間の世の出来事かと思いました。
 
2.終戦後、母子家庭の我家の生活は苦しく、働いて生きることで精一杯でした。私は、進学したかったのですが、高校卒業後1年間は市の保健所の臨時職員として働き、その後、上京して4年間働き、東京理科大学理学部に入学し、原子物理学を専攻しました。長崎では、被爆者が白血病で後になってどんどん亡くなっていくのを見ていました。原爆がどんなものか知りたかったのです。
 卒業間際に、東北大学工学部の助手の募集があり、幸い採用され、研究者と教育者の道に進み、その後埼玉の大学に移り、70歳まで勤務しました。私は、幸運にも無傷で生き残ったので、被爆者のためにできることを精一杯しようと考えて活動してきました。
 
3.原爆の被害が何だったのかを振り返るとき、特異な事としてまず思い出すのは、終戦直後から現地にアメリカが設置したABCC(原爆傷害調査委員会AtomicBomb Casualty Commission)が被爆データを収集していたことです。子どもはすべて連れて行かれ、ABCCで検査されました。妊婦がいるというと、助産婦協会が協力して、妊婦は連れて行きました。検査をするのです。被爆に苦しむ人が行っても治療をしてくれるところではありません。遺伝子レベルでの調査をしていたのです。私たちは嫌なところだと思っていましたが、占領下ですから私たちに「否」はありませんでした。私たちはモルモットだったのです。
 また、国内では被爆者であることによる根深い差別偏見がありました。長崎を出た者は「長崎出身」は口にすることができませんでした。イコール被爆者というレッテルが貼られるからです。被爆者の子ども世代の結婚にあたっても、親が被爆者であることや長崎出身であることは隠さなければいけないことでした。
 私たちは原爆によって体内に入った放射能のためにこのような苦しみをずっと負い続けています。力に
よる紛争解決は核兵器に行きつく可能性をはらみ、またこの日本では原発は格好のテロの対象になっています。70余年前の被爆の苦しみが解決されていないのに、再びその危険に踏み出す事になった安保法制は、私自身の平和的な生存も、私たち被爆者の人格としての尊厳も顧みないことです。そして、被爆者の一人として生きてきた自分の人生を振り返ると、同じ苦しみを誰にも味合わせたくありません。
 また戦後一貫して平和と被爆者の救済のために戦ってきた私にとっては、私たちの声を聴くことなく、
憲法9条を踏みにじる法律を制定した事に対して、主権者としての強い怒りを感じます。
                                        以上
 

 
1.私の人生と原子力発電所とのかかわり
 私は1941年(昭和16年)5月に生まれ、3歳の時に現在の大田区でB29による大空襲の真下にいました。たった一晩のことですが、いまだに我が家の地域が大火災になった光景が鮮明な記憶として残っています。
 その後は、食料をはじめ物資の不足する中を家族の努力のおかげで、無事に大学院(修士)までの教育を受けることができました。
 1967年(昭和42年)4月に日本原子力事業株式会社(後に東芝に吸収合併される)に技術者として入社し、原子力発電所の建設に携わることになりました。まさに日本の高度成長期で、エネルギー資源の乏しい日本は、原子力発電所(以下、原発)の導入を始めたばかりで、先行する米国産業界とライセンス契約を結び、原発の技術を学ぶのに必死でした。私は最先端技術を学び、日本の安定したエネルギー源確保に貢献できることに生き甲斐を感じていました。
 原子炉の炉心の安全を守るシステムに13年関わり、その後、柏崎・刈羽原発1号機の建設現場で働きました。岩盤まで掘り下げた地面の上に一個の巨大で複雑な原発が姿を現してくるのを目の当たりにして、圧倒される思いでした。ここで3年を過ごした後、既に稼働をしていた福島第二原発の現場に移動となり、原発の定期点検、修理工事、運転中の原発内のパトロールも行いました。パトロールは原子炉建屋、タービン建屋、屋外、中央制御室など人が近づける部分は全部観て回り、運転状態に異常がないことを自分の感覚を使って確認します。原発は1基でも一日では回りきれない大きさです。原発は海水温度や大気温度などに敏感に反応して、炉心の出力が変わり、建屋の空調設備の運転が周期的に変動するなど自動制御によって行われるために、現場にいると原発が巨大な生き物であるかのような錯覚を覚えるほどでした。
 
2.原発の危険性と平和の関係
 2002 年(平成14年)3月に定年退職をしました。高度成長期に仕事に埋没していた私は、自分が安全に、平和に生きることへの危機感など持たない生活を送ってきましたが、この間に、1979年(昭和54年)のスリーマイル島、1986年(昭和61年)にチェルノブイリ原発事故がおこり、原発が人間や生態系に想像を絶するような打撃を与えるものでありながら、あまりに脆弱なものであることを知りました。退職してからは、その危険性については強い危機感を抱くようになりました。そして、原発にかかわる仕事に携わった者の責任として、この国に、健康で安全に暮らせる環境を残さなくてはいけないという、強迫観念に近いような強い思いにとらわれるようになりました。季刊誌に「原発を並べて自衛戦争はできない」という論文を投稿したのは2007年のことでした。その内容は、①武力攻撃に対して脆弱な原発を海岸線に50基余りも並べた日本は、これを軍事力などでは守れない。②一たび原発が武力攻撃されたら、日本の土地は永久に人が住めない土地になり、再び人が住めるように戻る可能性がない、ということです。
 この結論は、3.11で震災による福島第一原発が大事故を起こしたことで証明されてしまいました。
 原発は、ミサイルなどの巨額な兵器によらなくても携帯可能な小型の兵器により原子炉を冷却する電源系統、あるいは海水系統を破壊すれば、炉心損傷のような過酷事故にいたる脆弱なものなのです。昨年11月にフランスでテロが起こった時、フランス政府は原発への攻撃を恐れ、警戒したと報道されたのはその証左です。
 
3.私たちの声を聞かない憲法違反の法制定
 昨年の秋、「成立したとされる」安保法制法は、多くの憲法学者たちも「違憲」だと明言しました。ま
た、国会内で十分な議論もされないまま多数派による強行採決によって成立させられました。平和でなければ原発は守れません。この法律は、他国との間に憎しみを生み、原発への攻撃の危険性を招くものです。私のような経験を持つ者の声や、大勢の知恵が全く反映される機会もなく、しかも憲法違反の法律が作られたことは許せません。今、この日本に住む私たちだけでなく、将来生まれて来る子どもたちが安全に、健康に暮らせなくなるのです。もっともっと議論されるべきだったはずです。原発の実情を知る私は、このまま刻々と過ぎる時間は、ちょうど時限爆弾を抱えたような感覚で、激しい焦燥感に駆られ、苦しんでいるのです。
                                        以上
 

(弁護士・金原徹雄のブログから)
2016年9月3日
東京・安保法制違憲訴訟(国賠請求)が始まりました(2016年9月2日)
※過去の安保法制違憲訴訟関連のブログ記事にリンクしています。
2016年9月6日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(1)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述
2016年9月10日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(2)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述

2016年10月4日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(3)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述
2016年10月5日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(4)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述

2016年12月9日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(5)~東京・国家賠償請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告代理人による意見陳述
2016年12月10日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(6)~東京・国家賠償請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告による意見陳述

2017年1月5日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(7)~寺井一弘弁護士(長崎国賠訴訟)と吉岡康祐弁護士(岡山国賠訴訟)の第1回口頭弁論における意見陳述

2017年1月7日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(8)~東京・差止請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告訴訟代理人による陳述