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伊藤宏さん(和歌山信愛女子短期大学教授)の論文「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと(2005年)」を読む(前編)

 今晩(2017年1月27日)配信した「ルマガ金原No.2705」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
伊藤宏さん(和歌山信愛女子短期大学教授)の論文「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと(2005年)」を読む(前編)

 来る2月4日(土)午後2時から、和歌山市のアバローム紀の国(2階「鳳凰の間」)で開催される「憲法と平和・原発・沖縄問題を考えるシンポジウム」に、シンポジストの1人として登壇される伊藤宏さん(和歌山信愛女子短期大学教授)は、おそらくシンポの「欲張った」テーマのうち、「原発」問題を中心に発言されるのだろうと思います。勤務校ホームページの研究者情報にも、「研究内容・研究テーマ 原子力報道の検証、原子力政策および地域振興策等の検証」とありますし、伊藤さんが編集委員を務めておられる新聞うずみ火のホームページには、「共同通信青森支局時代、六ヶ所村核燃料サイクル基地問題の取材中、警備員ともみ合う反対派をフェンスの内側から見ている自分に気づき、「自分の居場所は違う」と直感。その日のうちに辞表を書いたという「熱い記者魂を持った男」である。」とまで書かれているのですから。
 
 ところで、私が伊藤さんのプロフィールを調べていて気になったことがありました。それは、新聞うずみ火ホームページに「好きな怪獣ゴジラをテーマにした論文も」と触れられていたこと、さらに伊藤さんにFacebookの「友達リクエスト」を送った際に気がついたのですが、自己紹介の欄に「大学教員の仕事をしながら、原子力問題に関わり続けています。原子力報道の検証、怪獣ゴジラウルトラマンの研究がライフワークです。」と書かれていたことです。

 そこで、「伊藤宏/ゴジラ」でGoogle検索をしてみたところ、昨年8月下旬から10月初旬にかけて、市民のための人権大学院・じんけんSCHOLA(すこら)というところで「原発と人権」と題した4回連続の講座を伊藤さんが担当されており、その第2回のテーマが「怪獣ゴジラ原発」であったことを発見したのです。

 というようなことで、伊藤宏さんとゴジラ、特に「怪獣ゴジラをテーマにした論文」というのがどうにも気になるということをブログに書いたりしたのを伊藤さんが読んでくださったのか、伊藤さんが、2005年に書かれた「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと」という論文を、1年前(2016年1月26日)に、Facebookノートとして公開済みであることを教えてくださいました。
 一読、非常に読み応えがあり、感銘を受けましたので、「2月4日のシンポを聞きに来てくれる人に是非事前に読んで欲しいので」全文を私のメルマガ&ブログに転載させていただきたいと申し入れたところ、伊藤さんから、「シンポの内容とは全く関係ありませんが…それでもよろしかったら公開していただくことは歓迎です」(文字化けの恐れがあるので顔文字は省略)とご快諾いただき、ご紹介できることになりました。
 ただ、相当な大作なので、一気に読み通していただくのは難しいと考え、前後編の2回分載とすることにしました。まず本日は前編として、1954年の『ゴジラ』(第1作)から1975年の『メカゴジラの逆襲』(第15作)までの時代を論じた部分をご紹介します。
 なお、お読みいただく前にいくつか補足説明を。
 
〇この論文は、2005年8月に、伊藤さんも編者の1人となった論文集『子どもへの視点』(聖公会出版)に収録されました。

 ちなみに、この論文集に収録された論文は、国立国会図書館サーチによれば以下の7編でした。
「保育と実践 子どもの声に聴く保育の実践的検証」渡辺のゆり
「乳幼児の虫歯予防対策について」佐藤由美子
「「病後児保育」と小児保健」佐藤由美子
「子どもと文化 『エミール』の教育思想と宗教論」中村博武
「子供の想像力、大人の想像力」西尾宣明
ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと」伊藤宏
「幼稚園実習における保育学科学生のピアノ伴奏(演奏)での問題点の傾向と対策」作野理恵

 こうしてみると、伊藤さんの論文は相当異彩を放っていたように思えます。
 
〇元々の論文「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと」には、全部で58の脚注が付されていたようであり、転載した論文にも脚注番号が付いていますが、Facebookノートで公開する際、注釈の掲載は省略されていました。
 
〇「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと」は、論文冒頭の記載で明らかなとおり、2004年12月に公開された『ゴジラ FINAL WARS』(第28作)までの半世紀にわたるゴジラ史を振り返るというスタンスで書かれています。
 従って、『シン・ゴジラ』(2016年)や、海外作品ではありますが、2014年のギャレス・エドワーズ監督による『GODZILLA ゴジラ』をどう位置付けるのかについては、直接伊藤さんにお伺いするしかない訳です。
 
〇「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと」を読み進むための手引きとして、ウイキペディアの「ゴジラ映画作品の一覧」から、タイトル、制作年、監督名を抜き出しておきます(ハリウッド作品は除く)。
(引用開始)
第1作『ゴジラ』(1954年)本多猪四郎
第2作『ゴジラの逆襲』(1955年)小田基義
第3作『キングコング対ゴジラ』(1962年)本多猪四郎
第4作『モスラ対ゴジラ』(1964年)本多猪四郎
第5作『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)本多猪四郎
第6作『怪獣大戦争』(1965年)本多猪四郎
第7作『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(1966年)福田純
第8作『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)福田純
第9作『怪獣総進撃』(1968年)本多猪四郎
第10作『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』(1969年)本多猪四郎
第11作『ゴジラ対ヘドラ』(1971年)坂野義光
第12作『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』(1972年)福田純
第13作『ゴジラ対メガロ』(1973年)福田純
第14作『ゴジラ対メカゴジラ』(1974年)福田純
第15作『メカゴジラの逆襲』(1975年)本多猪四郎
第16作『ゴジラ』(1984年)橋本幸治
第17作『ゴジラvsビオランテ』(1989年)大森一樹
第18作『ゴジラvsキングギドラ 』(1991年)大森一樹
第19作『ゴジラvsモスラ』(1992年)大河原孝夫
第20作『ゴジラvsメカゴジラ』(1993年)大河原孝夫
第21作『ゴジラvsスペースゴジラ』(1994年)山下賢章
第22作『ゴジラvsデストロイア』(1995年)大河原孝夫
第23作『ゴジラ2000 ミレニアム』(1999年)大河原孝夫
第24作『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』(2000年)手塚昌明
第25作『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年)金子修介
第26作『ゴジラ×メカゴジラ』(2002年)手塚昌明
第27作『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』(2003年)手塚昌明
第28作『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)北村龍平
第29作『シン・ゴジラ』(2016年)樋口真嗣庵野秀明(総監督)
 

  ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと
      映画に描かれた「原子力」を読み解く
 
                       伊 藤   宏
 

はじめに
 二〇〇四年十二月、『ゴジラ FINAL WARS』が公開された。制作会社の東宝はこの映画のPRで「集大成にして最高峰。〝これが、最後だ〟」としており、一九五四年公開の第一作から半世紀にわたり作られ続け、一億人に迫る観客数を動員してきたゴジラ・シリーズは、二十八作目にして文字通りの「FINAL」を迎えたことになる。ゴジラは、「わが国ばかりでなく海外でも人気を博し*1、すでにゴジラは国境と世代を越えた永遠不滅のキャラクターになっているといっても過言ではない」*2存在で、一九六二年生まれの筆者にとっても、幼少時代から今日に至るまで常に身近にいて影響を受け続けた怪獣であった。そのゴジラが、ついに銀幕から姿を消すことになったのである。
 ゴジラがその存在を通じて我々に伝えてきたメッセージは、個々の作品が上映された当時の世相などを反映し、実に多種多様なものが考えられる。だが、その出生や生態、攻撃における武器*3等から明らかなように、ゴジラが一貫して発し続けたメッセージは「核」と、それに連なる「原子力」に関するものだった。そして実は、ゴジラが歩んできた五十年間は、まさに日本の原子力政策が歩んできた五十年間でもあったのだ。周知の通り、日本はエネルギー政策において原子力開発・利用を「国策」と位置づけ、原子力発電を強力に推進してきた。その結果、現在五十二基の原子力発電所(以下、原発)が稼働中で、総発電量の三〇%余りを原子力が占めるまでになっている*4。さらに日本は、原子力開発・利用の要として核燃料サイクル*5の確立を目指しており、まさに「原子力大国」への道をひたすら突き進んでいると言えよう。そうした現実に至る過程において、ゴジラは果たして「原子力」についてどのようなメッセージを我々に送ってきたのであろうか。
 ところで、ゴジラ映画は「怪獣映画」であるが、それが「子ども向け映画」と言えるのかどうかについては、議論が分かれるところであろう。確かに第一作は、明らかに大人向けの「社会派映画」であったし、第十六作(一九八四年公開)以降は往年のゴジラファン(少なくとも「子ども」ではなくなっている)を強く意識した作品になっている。しかし、有川貞昌*6が『キングコング対ゴジラ』(第三作・一九六二年公開)について、「この映画の頃は、怪獣映画が子ども向けに定着していましたからね、子どもを意識して撮りましたね」*7と、また川北紘一*8も「怪獣映画を観るのは七歳から十三歳くらいの子どもたちがメインです」*9と述べているように、少なくとも制作者側は常に、その当時の子どもたちを観客として想定していたことが伺われる。つまり、ゴジラが発するメッセージの主たる受け手は、子どもたちだったのだ。ゴジラが発したメッセージを検証するに当たって、この視点を欠くことはできまい。中村桂子は「子どもと科学について考えるには、科学技術時代の持つ価値観の中で、大人と子どもの関係を考えることが重要」*10と述べている。制作者側(大人たち)は子どもたちに、原子力についてのメッセージをどのような内容で、そしてどのような方法でゴジラに託したのであろうか。さらに、そこから浮かび上がってくる問題点は何なのだろうか。映画における原子力の描かれ方の検証を通じて、それらを明らかにしていくことが本稿の目的である。
 
メッセージが凝縮されていた第一作
 第一作『ゴジラ』は一九五四年十一月に公開された。この年の三月一日、静岡県焼津港所属のマグロ延縄漁船「第五福竜丸」が、アメリカのビキニ水爆実験による放射能を浴びるという大事件があり、これに触発されて第一作が制作されたという事実は有名である。また当時、各国の度重なる核実験の影響で、日本各地で放射能を含んだ雨が観測されたことも重なり、核実験および核兵器に反対する世論が、またたく間に拡がり日本全国を覆っていった。しかしその一方で、同じ年に日本の原子力政策にとって重要な出来事があったことを知る人は少ない。三月二日、改進党(当時)の中曽根康弘らが予算修正案として、原子炉構築予算二億三千五百万円*11を提出したのである。原子炉を構築する何ら具体的計画もないままの突然の予算提出について、中曽根は原子力開発・利用について慎重姿勢だった日本学術会議のメンバーに「学者がぐずぐずしているから、札束で頬をひっぱたくのだ」と語ったという*12。そして四月に予算は可決成立し、日本の原子力開発・利用が事実上のスタートを切ったのである。原子力の「軍事利用」と「平和利用*13」それぞれに関わる大きな出来事を背景に、『ゴジラ』は公開されたのだった。
 『ゴジラ』では原子力に関わる描写が、ほぼ全体を通じて行われている。それは、ゴジラが大戸島に上陸した直後に行われた調査シーンから始まった。破壊された建物などの跡を、ガイガーカウンターで調査する田辺(博士)の姿があった。ガイガーカウンターの反応を確認した上で、田辺は「当分の間、この井戸水も使わないで下さい。危険ですから」と宣告する。同行した尾形秀人が「先生、放射能の雨だとしたら*14、向こう側の井戸だけが助かるなんてことはあり得ないはずですね」と尋ねると、田辺は「うーん、そうなんだよ。どうしてこの付近の井戸だけが放射能を感じるんだか。どうも腑に落ちないね」と答える。巨大生物の足跡とみられる大きな窪みを流れる水に対しても、ガイガーカウンターは反応した。古生物学者の山根恭平は田辺と顔を見合わせ「この足跡に放射能が…」と絶句する。見守る住民たちに対し田辺が「皆さん、危険ですから近寄らないでください」と言い、同行者が「立入禁止」の木札を立てた。ところで、この時の調査団の服装であるが、田辺と助手のみが雨合羽のような防護服(?)を身に付けゴム手袋をしており、他の関係者は全て背広などの普通の服装であった。足跡とみられる窪みで三葉虫を見つけた際、山根はそれを素手で取り上げ、田辺から「先生、直接手を触れない方がいいです」と注意されている。その後ゴジラが再び上陸し、人々の前に初めてその姿を現わしたのだった。
 大戸島から戻った山根らは、国会の委員会(と思われる)で目撃したゴジラについて「ジュラ紀から白亜紀にかけて、極めて稀に生息していた海生は虫類から陸上獣類に進化しようとする中間型の生物であったとみて差し支えないと思われる」とし、日本近海に出現した理由について「おそらく、海底の洞窟にでも潜んでいて、彼らだけの生存を全うして、今日にまで生きながらえておった。それが度重なる水爆実験によって彼らの生活環境を完全に破壊され、もっとくだいて言えば、あの水爆の被害を受けたために、安住の地を追い出されたと見られるのであります」と説明する。その際、出席者の間ではざわめきが起こり、中には笑い声を上げる者までいた。さらに、ゴジラと水爆実験との関連について根拠を問われた山根は「その粘土(足跡から発見されたもの:筆者注)のガイガーカウンターによる放射能検出定量分析によるストロンチウム90の発見。後ほど田辺博士から詳しくご説明がありますが。つまり、ゴジラに付着していたこの砂の中に、水爆の放射能を多量に発見することができたのであります」と説明した。そして「これらの物的根拠からして、ゴジラも相当量の水爆放射性因子を帯びているとみることができます」と続ける。その後、事実を公表するか否かをめぐって議場は大混乱に陥るのだが、その様子を目の当たりにした山根たち科学者は、あきらめたような表情で肩を落とすのであった。結局、事実は公表される。電車内でそれを伝える新聞記事を読む人々の中で、一人の女性が連れの男性に「いやね、原子マグロだ放射能雨だって。その上今度はゴジラときたわ」「いやなこった。せっかく長崎の原爆から命拾いしてきた大切な身体なんだもん」と話していた。
 一方、災害対策本部でゴジラを倒すヒントを求められた山根は「それは無理です。水爆の洗礼を受けながらも、なおかつ生命を保っているゴジラを何をもって抹殺しようというのですか。そんなことよりも、まずあの不思議な生命力を研究することこそ第一の急務です」と述べる。山根はまた、ゴジラが東京に上陸した直後、尾形に「ゴジラを殺すことばかりを考えて、なぜ物理衛生学の立場から研究しようとしないんだ。このまたとない機会を…」と訴えた。尾形は「しかし先生、だからといってあの凶暴な怪物をあのまま放っておくわけにはいきません。ゴジラこそ我々日本人の上に今も覆い被さっている水爆そのものではありませんか」と応じるが、山根は「その水爆の放射能を受けながら、なおかつ生きている生命の秘密をなぜ解こうとはしないんだ」と怒り出してしまう。
 ゴジラは東京に二度目の上陸をし、口から熱線を吐くなどして中心部を焼け野原に変えてしまう。国会議事堂も破壊された。その襲撃から一夜明けた救難所の様子が描かれるが、少女(外傷はほとんど見られない)に田辺がガイガーカウンターを当てると強い反応が起こり、居合わせた山根恵美子と顔を見合わせた後、田辺は難しい表情で首を振る。また、母親の遺体の前で泣き叫ぶ少女など、具体的な被害者治療の様子が比較的長い時間描写された。後に再び触れることになるが、全二十八作のゴジラ・シリーズにおいて被害者、特に放射能汚染を受けた(被ばくした)被害者が具体的に描かれたのは、この第一作のみである。他の作品中で描かれたのは、ほとんどが外傷を受けたと思われる被害者だけだった。
 ゴジラを倒す有効な手段が見つからない中、芹沢大介が秘密裡に研究開発していたオキシジェンデストロイヤーが注目される。当初、芹沢は山根恵美子だけにその存在を明かすのだが、その際に「もしも兵器として使用されたならば、それこそ水爆と同じように人類を破滅に導くかも知れません。しかし、僕は必ずこのオキシジェンデストロイヤーを、社会のために役立つようにしてみせます。それまでは絶対に発表しません(中略)もしもこのまま、何らかの形で使用することを強制されたとしたら、僕は、僕の死と共にこの研究を消滅させてしまう決心なんです」と語る。だが、ゴジラによる被害を見かねた恵美子は、恋人の尾形にその存在を打ち明けてしまう。二人はオキシジェンデストロイヤーの使用を芹沢に依頼するが、その時の芹沢と尾形のやり取りは次のようなものだった。
芹沢:もしも一旦このオキシジェンデストロイヤーを使ったら最後、世界の為政者たちが黙って見ているはずがないんだ。必ずこれを武器として使用するに決まっている。原爆対原爆、水爆対水爆、その上さらにこの恐怖の武器を人類の上に加えることは、科学者として、いや一個の人間として許すわけにはいかない。そうだろう?
尾形:では、この目の前の不幸はどうすればいいんです。このまま放って置くよりしか仕方がないんですか。今この不幸を救えるのは芹沢さん、あなただけです。たとえ、ここでゴジラを倒すために使用しても、あなたが絶対に公表しない限り、破壊兵器として使用される恐れはないじゃありませんか。
芹沢:人間というのは弱いものだよ。一切の書類を焼いたとしても、俺の頭の中には残っている。俺が死なない限り、どんな事で再び使用する立場に追い込まれないと誰が断言できる。ああっ、こんなものさえ作らなければ…。
 結局、芹沢はオキシジェンデストロイヤーの使用を決断するが、研究書類を全て焼き捨てながら「これだけは絶対に悪魔の手には渡してならない設計図なんだ」と語った。
 ゴジラとの決戦の場となった東京湾上で、リポーターが「ただ今ガイガーカウンターは、はっきりゴジラの所在を突き止めました」と興奮気味に報告し、メーターの数値がどんどん上がっていく様子が描写される。最終的に、ゴジラオキシジェンデストロイヤーによって葬られたが、芹沢も自らの命を絶ったのであった。ラストは山根の次の言葉で締めくくられる。「あのゴジラが、最後の一匹だとは思えない。もし、水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また世界のどこかへ現れてくるかも知れない」。
 このように第一作は、核兵器に対する「怒り」が明確に主張された作品であった。同時に放射能被害(特に残留放射能の危険性)や、科学と政治との関わり、科学者の好奇心の問題、科学技術が軍事利用されることへの危惧、そして科学技術の発達に対する懸念など、二十一世紀に入った現在においても色あせない様々な問題提起が随所で、しかもはっきりと行われていた。また、ゴジラ自体に関して言うならば、その出自を明確な根拠に基づき説明したことに加え、口から吐く放射熱線のみならずゴジラの身体自体が放射能を帯び、通過した跡に放射能が残留するという特徴が描かれていたことは注目に値する。しかし一方、原子力の「平和利用」については、現実的に日本はもとより世界各国がその開発・利用に着手したばかりという事情からすれば当然であろうが、映画の中で描写されることは一切なく、特に問題提起もなされることがなかった*15。
 
「軍事利用」と「平和利用」の切り離し
 第一作の大ヒット(観客動員数は九百六十一万人)を受け、わずか半年後の一九五五年四月、第二作『ゴジラの逆襲』が公開された。だが、この作品における原子力に関する描写はほんのわずかしかない。ところで、『ゴジラの逆襲』公開後、一九六二年八月公開の第三作『キングコング対ゴジラ』まで、ゴジラ映画には七年余りの休止期間があった*16。この間、原子力の「軍事利用」に関しては、一九五五年七月のラッセル・アインシュタイン宣言*17、同年八月の第一回原水爆禁止世界大会広島市)の開催、一九五七年七月の第一回パグウォッシュ会議*18開催等々、核兵器廃絶や核実験禁止を求める動きが活発化する反面、アメリカ・ソ連(当時)・イギリスは核実験を繰り返しながら核兵器保有量を高めていく。さらに一九六〇年二月、フランスが初の原爆実験を行い核保有国の仲間入りをするなど、米ソの冷戦を背景に核戦争が起こる危険性はむしろ増大していった。一九六一年には、日本国内でソ連の核実験の影響と見られる放射能雨が観測され大問題となっている。
 一方、世界中で原子力の「平和利用」は急速に進展していた。日本についてのみ見ても、原子炉構築予算が可決されて以降、一九五五年十一月の日本原子力研究所(以下、原研)の設立、同年十二月の原子力三法*19の公布、一九五六年一月の原子力委員会総理府原子力局の発足、同年三月の原子力産業会議の発足、同年五月の科学技術庁の発足、一九五七年六月の原子炉等規制法・放射線障害防止法の公布*20と、実用化に向けた動きが矢継ぎ早に進められていた。そして一九五七年八月、茨城県東海村の原研で、アメリカから輸入した研究炉(JRRー1)が臨界に達する。日本で初めて「原子の火」が灯った瞬間だった。JRRー1臨界の後、原子力発電の実用化に向けた動きはさらに加速していく。一九五七年十一月に日本原子力発電が発足し、一九五八年九月には原研が念願の国産原子炉一号炉の建設を始める。そして一九五九年十二月、日本原子力発電の東海原発一号炉に設置許可が下りた。さらに、一九五八年八月には日本原子力船研究協会が発足し、原子力発電の開発に加え原子力船開発も着手されていた。このような現実の動きを経た上で、『キングコング対ゴジラ』は公開されたのであった。
 ところで、柴田鉄治は当時の「原子力」に対するイメージについて「『原子力』という言葉が、いかに明るく、力強いイメージを持っていたか、それは、五五年秋の新聞週間の標語に『新聞は世界平和の原子力』というのが選ばれたことでも明らかだろう。少しでもマイナス・イメージがあったり、国民の間に意見の対立があったりしたら、こんな標語が選ばれるはずはないからである」と述べている*21。もともと、「核」とは物理学の用語で原子核を意味し、原子核の分裂反応によって取り出されるのが「核エネルギー」、すなわち「原子力」である。しかし、一般的に「核」は「核兵器」の意味で用いられる場合の方が多い(例:核廃絶)。それは、一九五〇年代後半以降の日本で、「原子力」という用語が「平和利用」の象徴となり、「原子力」の軍事利用面での用語である「核」あるいは「核兵器」と完全に切り離されて捉えられていたからに他ならない。そして、「平和利用は善、軍事利用は悪」という構図が、何ら問題もなく人々に受け入れられていたのだった。
 こうした状況は、わずかな描写であったとはいえ、『キングコング対ゴジラ』にも反映されていたと言えよう。ゴジラが日本に上陸した後の対策会議の席上で、自衛隊の東部方面隊総監が「国連では、このままゴジラを放置しておくことは世界の破滅になる。よって世界平和のため水爆攻撃の計画を考慮してほしい、という声が起っているそうだ」と深刻な表情で報告するシーンがある一方で、藤田一雄が桜井修に自分が開発した新製品について「鋼よりも強く、絹糸よりもしなやか。原子力時代の繊維ですよ」と説明しているのである。なお、『キングコング対ゴジラ』はゴジラ・シリーズにおいて最高となる千二百五十五万人の観客動員数を記録する、空前の大ヒットとなった。
 『キングコング対ゴジラ』の公開直後の九月、原研の国産一号炉(JRR-3)が臨界する。その当時の日本では、「おそらく一九七〇年代、もっとひかえ目に考えても、増殖型原子炉の技術が確立する一九八〇年代には、こうした分野での商業利用が普及するであろうし、月や火星、金星に向う原子力エンジンのロケットも、完成の域に達しているだろう」」*22というように、原子力の「平和利用」についてバラ色の未来が描かれていた。しかし同年十月、米ソの冷戦が頂点に達し核戦争の危機がまさに現実となったキューバ危機が起こる。幸いに危機は回避されたが、核兵器および核実験に対する世界的な批判がますます強まったため、アメリカ・ソ連・イギリスの三国は一九六三年八月、大気中・水中・宇宙空間での実験を禁止した部分的核実験禁止条約*23を結んだ。一方、日本では同年十月、原研の動力試験炉(JPDR)が日本初の発電試験に成功*24し、石炭や石油に変わるエネルギー源として原子力発電への期待が急速に高まっていくのであった。
 そして一九六四年四月、第四作『モスラ対ゴジラ』が公開される。この作品で特徴的なことは、「放射能」についての具体的描写が表れたことであろう。冒頭で登場する台風被害の取材現場で、酒井市郎と中西純子は虹色に光る物体を拾う(酒井は素手でそれを取り上げた)のだが、しばらくしてから物体を調査していた三浦(博士)の研究所に呼ばれた二人は、まず「放射能・立入禁止(放射性物質のマーク付)」の表示がある小部屋に入れられ、蒸気のようなものを浴びせられた。出てきた酒井と三浦は次のような会話を交わす。
酒井:一体何のまねです、こりゃぁ?
三浦:放射能の洗浄だよ。
酒井:放射能
三浦:でも心配はないようだ。
酒井:冗談はよしてくださいよ。
三浦:冗談じゃないよ。君たちが持ってきたアレね…。
酒井:何か分かりました?
三浦:まだ分からん。すごい放射能を帯びているんだよ。
 そして、ガラスケースに入れられた物体に向かって三浦がガイガーカウンターを当てると、強い反応が出る。酒井たちは物体を拾った場所に行き、辺りの地面に向かってガイガーカウンターを向けるが反応は出なかった。その時、現場(工業地帯造成地)の地面が動き、地面から水蒸気のようなものが湧き上がる。三浦がそれに向かってガイガーカウンターを向けると強い反応が出て、その直後に地中からゴジラが姿を現わすのであった。この描写によって、ゴジラの身体そのものが強い放射能を帯びているということを、改めて再確認することができたと言えよう。
 一方で、過去に核実験が行われた島の描写が初めて登場した。モスラゴジラ撃退を依頼するために酒井、中西、三浦は、かつて原水爆実験のあったインファント島に赴く。上陸すると、海岸には白骨化した動物の遺体が至る所にころがっており、その様子を見た三人は次のような会話を交わす。
酒井:すごいなぁ。こんな所に人が住んでいるんですかね。
中西:原水爆実験のためなんですか?
三浦:分かりやすく言えば、後遺症とも言えるのかなぁ。昔は全島緑の美しい島だったろうにね。
中西:何だか私、責任感じちゃうわ。
三浦:人間なら当然ですよ。
酒井:しかし、原水爆禁止のかけ声も、近頃じゃ耳にタコっていう感じだが、こう目の前に見せつけられるとそうじゃないですなぁ。(島の内陸に入り、改めて周辺を見渡した後)しかし、本当に人が住んでいるんですかねぇ。
三浦:こんな所に住まなきゃならないなんて、残酷以上だなぁ。
 また、原住民の族長には「(ゴジラの被害は)悪魔の火、もて遊んだ報いだ*25。我々は知らん」「昔、この島いいとこだった。平和な緑の島だった。それを、悪魔の火焚いたのは誰だ。神も許さぬ火焚いたのは誰だ。その日から、この島は受難の島になった。我々はこの島の人間以外信じない。信じたばかりに、今まで背かれてばかりきた」と語らせる。
 しかし、これらの描写には以下に示す重大な問題点がある。
①酒井が「すごい放射能を帯びている」物体を素手で取り上げていたこと。さらに、映画の中では描かれていないが、それを三浦の元に届けるまである程度の時間は所持していたわけで、現実的に酒井はかなりの放射線被ばくをしているはずであること。
②二人は物体を拾ってから、かなりの時間を経て「放射能の洗浄」を受けており、しかも拾った当時とは明らかに違う服装をしていたにもかかわらず、「洗浄」され「心配はないようだ」と言われていること。
③つい最近まで核実験場だった島に、三人がマスクや手袋などをしないで上陸しているこ
と*26。そして何よりも、その島に「人が住んでいる」ということ。
 放射能放射線について、特にその人体への影響について一般的にはほとんど知られていなかった時代の作品に対し、そのような問題点を指摘することは酷かも知れない。だが、これらの描写によって、「平和利用」であっても原子力には常に危険がつきまとうという認識が、相当に薄められたことは間違いなかろう。
 
消えていった「水爆怪獣・ゴジラ」のイメージ
 『モスラ対ゴジラ』の公開から約半年後の十月、中国が初の原爆実験を行い核保有国の仲間入りをした。また同年8月、日本はアメリカの原潜の寄港を承認し、十一月には原子力潜水艦シードラゴンが初めて長崎の佐世保港に寄港している。この時期から日本は、原子力の「平和利用」のみならず「軍事利用」とも次第に関わりを深めていくのであった。これに対し一九六七年一月、国連総会において採択された宇宙条約がワシントン・モスクワ・ロンドンで同時調印されるなど、核兵器に対して歯止めをかけようとする動きも相次いだ。しかし、核兵器保有国は核実験を相変わらず続けていただけではなく、核爆弾を搭載するミサイルや航空機等の開発および配備を競っていたのであった。
 一方で、一九六五年五月に日本原子力発電の東海原発一号炉が臨界し、十一月に初めての営業用原子力発電に成功する。これを機に、日本国内では民間の各電力会社も原発建設に向けた動きを本格化させていった。一九七〇年三月に大阪で万国博覧会が開幕し、同時期に営業運転を開始した日本原子力発電敦賀原発から初の送電が行われ、話題を集めた。そして、東京電力福島原発関西電力美浜原発が相次いで営業運転を開始し、新規の原発計画および着工が次々と具体化されていったのである。
 しかし、この頃の日本は、一九六〇年代後半から顕在化してきた四日市公害をはじめとする公害・環境問題が深刻化し、巨大科学技術の開発について疑問や批判が強まってきた時期でもあった。また、三月に原研の国産一号炉で燃料棒破損事故が続発していたことが明るみに出るなどした影響で、国民の間ではそれまでの「原子力ブーム」に翳りが出始めていたのである。世界的に大型商業用原発の稼働が増えるにつれて、事故やトラブルが相次いでいたため、原子力施設に反対する動きも各地で活発化していった。「軍事利用」面でも、核保有国の核実験が続けられていただけではなく、一九七〇年九月には訪米中の中曽根康弘防衛庁長官が有事の際の核持ち込み容認を発言するなど、日本の「非核」意識に重大な変化が起こり始めていた。
 こうした時代背景の中でゴジラ・シリーズは、第五作『三大怪獣・地球最大の決戦』(一九六四年十二月公開)から第十五作『メカゴジラの逆襲』(一九七五年三月公開)まで、ほぼ毎年制作されているのだが、原子力に関連した描写は徐々に減少していくのであった。確かに、一九六六年十二月公開の第七作『ゴジラ・エビラ・モスラ・南海の大決闘』は、物語の舞台であるレッチ島が陰謀団「赤い竹」の原爆秘密工場という設定だったし、翌年十二月公開の第八作『怪獣島の決戦・ゴジラの息子』では、合成放射能を用いた気象コントロールで島を凍らせる「シャーベット計画」という実験が行われるという設定であったが、それでも原子力に関する具体的な描写は非常に少ない。なお、各作品中の原子力についての描写は、おおよそ次のようなパターンであった。
①核実験の実施を伝える、あるいはそれを批判するというパターン(一九七三年三月公開の第十三作『ゴジラ対メガロ』で、冒頭に「一九七X年、アリューシャン列島のはずれの小島で第二回地下核爆発実験が行われた。その結果…」というナレーションが入り、爆発し島全体が崩落していく場面が流れたこと等)。
ゴジラなどの怪獣や外敵に対して核兵器の使用が検討されるというパターン(『三大怪獣・地球最大の決戦』で怪獣撃滅の手段を問われた防衛大臣の「問題は日本一国の問題ではございません。全世界の問題でございます。諸君はゴジララドンに対し、核兵器 を使用せよという勇気がございますか? もうこれ以上ご説明申し上げる必要もございますまい」という台詞等)。
ゴジラの存在を放射能の有無で探知するというパターン(一九六五年十二月公開の第六作『怪獣大戦争』で、X星人の指摘に従い明神湖でゴジラの調査をするシーンで、ガイガーカウンターを使用する。湖底に近づくにつれて隊員が、「隊長、放射能がますます強くなっています」と報告。その結果を報じる新聞の見出しが「明神湖々底に放射能」「ゴジラ存在は確実」というものであったこと等)。
④危険地域などに入った際に放射能の有無を確認するというパターン(一九六八年八月公開の第九作『怪獣総進撃』で、怪獣ランドの調査に向かった宇宙ロケット「ムーンライトSY-3」が到着後、隊員が艇長の山辺克男に「放射能、亜硫酸ガス、全て異常なし」と報告するシーン等)。
 さらに、この時期の作品ではゴジラの存在そのものが大きく変化している。第四作までは、「人類を破滅に導く脅威」という存在であったゴジラが、第五作からは人類のために、時には人類と協力しながら外敵(他の怪獣、宇宙怪獣や宇宙人、あるいは人類の平和に敵対する組織等)と闘う存在となり、さらに第十作『ゴジラ・ミニラ・ガバラ・オール怪獣大進撃』(一九六九年十二月公開)以降は「正義の味方」「子供たちの味方」という存在になっていくのだ。それに伴い、ゴジラの外観が次第に「お茶目で可愛い」と言っても良い程にデフォルメされていったばかりか、「シェーッ」*27(第六作)や「シアワセだなぁ」*28(第七作)のポーズを取るなど、本来の「水爆怪獣」としての脅威、あるいは恐怖というイメージが完全に払拭されていった。
 こうした変化について、佐藤健志は「お子様ランチ化」「シリアスな大人向け恐怖映画として出発したゴジラが、子供だましの怪獣プロレスへと凋落してゆく過程」*29とし、その原因として「観客の減少によって生じた予算的な制約や、観客対象を年少層に絞ることの必要性、あるいは副収入としてのマーチャンダイジング拡大(要するに怪獣のオモチャを売ること)の必要性などといった商業的要因が、ゴジラ映画の内容を幼児向けのものへと変えていった」*30という見解を紹介している。小林豊昌も「昭和二十九年から昭和三十九年四月までのおよそ一〇年間に作られたゴジラ映画は四本だったが、昭和三十九年十二月封切りの第五作目『三大怪獣 地球最大の決戦』から昭和五十年三月封切りの第一五作目『メカゴジラの逆襲』までの次の約一〇年間には、何と一一本のゴジラ映画が作られている。子供をターゲットとする商業戦略の中で、ゴジラ映画は粗悪品の大量生産・大量消費がなされてゆく時代へと入っていった」*31と分析しており、この時期のゴジラ映画に対する批評は概して厳しいものばかりであった。
 いずれにしても、核実験への批判や核戦争への懸念はそれぞれの作品(一部を除く)でメッセージとして伝えられていた(「触れられていた」という方が適切かも知れない)が、それがゴジラを通してのものではなくなってしまったのだ。それと同時に、原子力をめぐる新たな社会状況が作品に反映されることもなくなっていく。一九七四年は、五月にインドが初の核実験を行い六番目の核保有国になり、六月にはフランスが最後の大気圏内核実験を実施。その一方でアメリカとソ連が地下核実験制限条約に署名した。そして日本では九月、原子力船「むつ」が実験航海に出港した際に放射線漏れ事故を起こし、原子力政策に対する批判が一気に高まったという年であった。しかし、翌年三月に公開された第十五作『メカゴジラの逆襲』では、原子力関連の描写は全く出てこない。唯一のそれらしき描写は、ブラックホール第三惑星人がゴジラの所在を確認するために用いた機械が、「スーパーガイガー探知機」と呼ばれていたことぐらいである。敢えてゴジラが社会的なメッセージを発した作品を挙げるとするならば、一九七一年七月に公開された第十一作『ゴジラ対ヘドラ』(詳細については後述)ということになるのだが、それは原子力ではなく公害に関するものだった。
 
子どもにとっての『ゴジラ
 一九六二年生まれの筆者が、最初に観たゴジラ映画は『怪獣島の決戦・ゴジラの息子』だったと思う。そして、前出・川北が怪獣映画を観る年齢としていた「七歳から十三歳くらい」が、ぴったりと「お子様ランチ化」したゴジラ・シリーズの上映と重なっていた。その時期、新作が公開される度に映画館に足を運んでいたのだが、なぜかスクリーンで観た記憶が鮮明に残っているのは第一作『ゴジラ』なのだ*32。確か小学校三年生前後であったと思うが、父親に連れられて観た『ゴジラ』から受けたインパクトは強烈であった。もちろん、観ている最中に「シリアスな大人向け恐怖映画」の内容をきちんと理解できたはずはなく、ただただゴジラの怖さだけを感じて映画館を出てきたはずだ。映画の中で交わされる「大人たちの会話」はほとんど意味不明なものであったし、既に見慣れていた「人類の味方」であるゴジラとはあまりにかけ離れたその存在を、すぐに受け入れることができなかったからである。確かに、第一作は子どもにとっては難解であった。
 しかし、映画館を出て家に帰り着く頃までに、おおまかな内容を理解することができていたようだ*33。それは、帰り道で筆者が内容を思い起こしながらした様々な質問に、父親が一つ一つ答えてくれたからに他ならない。原水爆に関すること、戦争に関することはもちろん*34、ゴジラ出現の報告がなされた委員会と思われる席上で、議員たちが混乱する最中に「馬鹿者、何を言うか」という発言が出たシーンについて、実際に「バカヤロー解散」*35というものがあったことまで説明してくれたのも覚えている。また、まだ放射能雨に対する関心が高かった頃、雨が降ってきた際に傘をささずにいると周囲の大人たちから「頭が禿げるよ」と注意された幼少時の体験が、映画の内容にリアリティーを感じさせる糸口となっていたと思う。そして確実に言えるのは、その時点でゴジラから核兵器に対する「怒り」というメッセージを受け取り、後に筆者が原子力問題に関わっていく際の強力なモチベーションの一つになったということである。
 前出・小林は、「お子様ランチ化」していくゴジラについて「造形もおちゃめになり、『子どもたちが親しみをもてるように』デフォルメしていくという、大人の愚考を実践していく。大人が、子供たちに媚びる時代の始まりであったかもしれない。子供は、自分たちに媚びる大人を軽蔑しているのに、大人たちはそれに気づかず独善を続けていた」*36と述べているが、非常に鋭い指摘ではなかろうか。中野昭慶*37の「映画は基本的に娯楽でしょ、それにゴジラ映画は子どもが観るものです。(中略)人を傷つけてはいけないとか、物を盗んじゃいけないとか、家族でふだん話し合っていることを逆なでする映画を作っちゃいけない、とね」*38「子どもにウケる映画って、コミカルなタッチであること、そして子どもが耐えられる一時間三〇分ほどに収めることが大切です」*39という主張の是非はさておき、少なくとも第一作を観た後の筆者にとっては、それ以前のように「正義の味方」であるゴジラを素直に受け入れることはできなかった。テレビの普及による映画産業自体の衰退等、様々な事情が考えられるであろうが、ゴジラの観客動員数は第四作が七百二十二万人であったのに対して、年々減少し(一時的に増加する時期はあった)第十五作では九十七万人にとどまっている*40。大人たちが提供した「お子様ランチ」が、子どもたちの口に合わなかったことは間違いあるまい。一方で、第一作は「大人向けの料理」ではあったが、決して「子どもに食べられない料理」ではなかったとも言えよう。
 ところで、減少を続けた観客動員数を一時的に増加させたのは『ゴジラ対ヘドラ』である(前作の百四十八万人に対して百七十四万人)。実は、筆者にとって第一作と同様、子ども時代に強く印象に残ったものだった。ゴジラ・シリーズの中で特に異彩を放つこの作品は、公開当時の評価が大きく分かれていた(マイナス評価の最たるものは、子どもに観せるには残酷なシーンがあった*41というもの)。制作者側も、前出・中野が「やはり、あの映画は残酷すぎました。当時は公害をアピールするんだなんて気概があって、エスカレートしちゃった。(中略)僕らは、子ども向け映画なのに大人の視点で撮っていた」*42と認めている。だが、この制作者側の「誤算」が幸いして、『ゴジラ対ヘドラ』は「大人が子どもたちに媚びる」映画ではなくなったばかりか、子どもたちにメッセージを分かりやすく伝えることにも成功したのではなかろうか。
 この作品に登場した怪獣ヘドラは、宇宙から飛来した地球外生物がヘドロと化合して生まれた「公害怪獣」という設定になっている。その名が示す通り、公害・環境破壊をテーマとしたものであり、原子力(主に核実験によって生じた放射能)はその一部として描かれていた。この作品の特徴を挙げるとすれば、以下の三点になるであろう。
①主役的登場人物の一人が、小学校二年生の子どもであったこと。ゴジラ・シリーズの中で、子どもが主役的役割をしている作品は、『ゴジラ・ミニラ・ガバラ・オール怪獣大進撃』等、一部を除けばほとんどない。しかも、この作品では子どもを特別扱いすることなく、社会の構成員として大人と同様、もしくは対等に扱われていたのである。
②難解な部分についても、父子の会話という形で作品中で分かりやすい説明がなされていたこと。例えば、矢野研と父親の徹との間で、次のような会話が交わされる。
徹:(ヘドラが飛行できる理由について)研、核爆発って知ってるか?
研:原爆や水爆のこと?
徹:そう。物質の原子が核分裂を起こして別の原子に変わる時、膨大なエネルギーを放出するんだ。宇宙には原爆や水爆どころか太陽の何億倍もの大爆発が起こってる。
[説明の最中に、原子核などのイラストや、銀の原子核爆発の映像などが流される]
研:バーン。すごいなぁ。
徹:ヘドラは核爆発によるエネルギーで飛ぶようになったんだろう。金属で出来た宇宙生物だからね。放っておくと、どんな武器を備えるか分からない。
 研と徹とのこうした会話が、実写やイラストを伴ってしばしば登場している。
③怪獣同士の闘いなどによる「被害者」が具体的に描かれていたこと。ヘドラによって倒れる人々が描かれていただけではなく、テレビニュースでアナウンサーが「怪獣ヘドラゴジラによる被害は死者三十五名、負傷者八十一名、倒壊家屋三百二十に上っております」と述べるなどしている。ゴジラ・シリーズの中で、ここまで具体的に被害者が描かれた例は他に見当たらない。
 これらの特徴は、「子ども向け映画とは何か?」「子ども向け映画はどうあるべきか?」等という点について、多くを示唆していると考えられるが、その検証は別の機会に譲る。
 いずれにしても、第一作および『ゴジラ対ヘドラ』という「子ども向けとは言えない」二作のみが、子どもたちに明確なメッセージを伝え得たという事実は重要である。ただし、「原子力」について言うならば、その二作においてさえ「平和利用」に関する何ら具体的な描写は登場してきていない。第一作によって、子供たちが核兵器に対する怒りを強めることができても、「平和利用」に対する批判的視点は持ち得なかった。むしろ、「平和利用」については何の疑問も持たずに、夢や期待を馳せていたくらいであろう。そして「平和利用」について何も語らぬまま、ゴジラは一旦スクリーンから姿を消したのであった。
 
(後編に続く)