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伊藤宏さん(和歌山信愛女子短期大学教授)の論文「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと(2005年)」を読む(後編)

 今晩(2017年1月28日)配信した「メルマガ金原No.2706」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
伊藤宏さん(和歌山信愛女子短期大学教授)の論文「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと(2005年)」を読む(後編)

 伊藤宏さんの論文「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと」の後編です。
 後編では、ゴジラ誕生30周年の1984年、9年ぶりに製作された第16作『ゴジラ』(論文では『新・ゴジラ』と呼称)から、誕生50周年の2004年に、「これで打ち止め」という触れ込みで製作された第28作『ゴジラ FINAL WARS』までが論じられます。
 ゴジラをめぐる研究書は多数刊行されているようですが、論文のサブタイトルにあるように、「ゴジラ」シリーズが「原子力」をどのように描いたかという観点から読み解いた(おそらくは)ユニークな論文だと思います。
 
 伊藤さんの「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと」は、2004年公開の『ゴジラ FINAL WARS』までを対象として2005年に書かれた論文ですから、当然のことながら、2014年公開のレジェンダリー・ピクチャーズ製作『GODZILLA ゴジラ』(ギャレス・エドワーズ監督)や東宝が12年ぶりに製作して2016年に公開した『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、樋口真嗣監督)には触れられていません。今度、伊藤さんにお会いしたら、是非この両作に対する評価をうかがいたいと思っています。
 
 伊藤宏さんは、この論文の「おわりに」において、「論文における記述としては甚だ不適切であることを承知の上で、ここで改めて、ゴジラの立場になって、どうして五十年もの間、日本を襲い続けたのかについて考えてみる。」という問いを立てておられます。その答えをここに引用することはしませんが、読者の1人1人が、そのような問題意識を持ちながら、もう一度この論文の冒頭から読み直していただければと思います。
 
 なお、前編を紹介するに際して付した緒言の内の一部を再掲します。
 
〇この論文は、2005年8月に、伊藤さんも編者の1人となった論文集『子どもへの視点』(聖公会出版)に収録されました。


〇元々の論文「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと」には、全部で58の脚注が付されていたようであり、転載した論文にも脚注番号が付いていますが、Facebookノートで公開する際、注釈の掲載は省略されていました。
 
〇「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと」を読み進むための手引きとして、ウイキペディアの「ゴジラ映画作品の一覧」から、タイトル、制作年、監督名を抜き出しておきます(ハリウッド作品は除く)。
(引用開始)
第1作『ゴジラ』(1954年)本多猪四郎
第2作『ゴジラの逆襲』(1955年)小田基義
第3作『キングコング対ゴジラ』(1962年)本多猪四郎
第4作『モスラゴジラ』(1964年)本多猪四郎
第5作『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)本多猪四郎
第6作『怪獣大戦争』(1965年)本多猪四郎
第7作『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(1966年)福田純
第8作『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)福田純
第9作『怪獣総進撃』(1968年)本多猪四郎
第10作『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』(1969年)本多猪四郎
第11作『ゴジラヘドラ』(1971年)坂野義光
第12作『地球攻撃命令 ゴジラガイガン』(1972年)福田純
第13作『ゴジラ対メガロ』(1973年)福田純
第14作『ゴジラ対メカゴジラ』(1974年)福田純
第15作『メカゴジラの逆襲』(1975年)本多猪四郎
第16作『ゴジラ』(1984年)橋本幸治
第17作『ゴジラvsビオランテ』(1989年)大森一樹
第18作『ゴジラvsキングギドラ 』(1991年)大森一樹
第19作『ゴジラvsモスラ』(1992年)大河原孝夫
第20作『ゴジラvsメカゴジラ』(1993年)大河原孝夫
第21作『ゴジラvsスペースゴジラ』(1994年)山下賢章
第22作『ゴジラvsデストロイア』(1995年)大河原孝夫
第23作『ゴジラ2000 ミレニアム』(1999年)大河原孝夫
第24作『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』(2000年)手塚昌明
第25作『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年)金子修介
第26作『ゴジラ×メカゴジラ』(2002年)手塚昌明
第27作『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』(2003年)手塚昌明
第28作『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)北村龍平
第29作『シン・ゴジラ』(2016年)樋口真嗣庵野秀明(総監督)
 

  ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと
      映画に描かれた「原子力」を読み解く

                       伊 藤   宏
 
前編から続く)
 
「平和利用」にも踏み込んだ『新・ゴジラ
 ゴジラが再び姿を現わしたのは、一九八四年十二月公開の第十六作『ゴジラ』(第一作と同一タイトルであるため、以下『新・ゴジラ』と表記する)であった。前作から約十年のブランクを経ての復活だったが、その間に原子力をめぐる状況は大きく変化していた。特に「平和利用」に関してはおおよそ以下のようにまとめられる*43。
 一九七六年五月にスウェーデンで反原発国際会議が開かれるなど、この頃は世界的にも反原子力の気運が高まっていった。日本でも同年十二月、関西電力美浜原発一号炉にで燃料棒折損事故が起こっていたにも関わらず、四年間隠ぺいされていた事実が明らかになり、これが国内の反原発の動きをますます加速させていく。そして一九七九年三月、アメリカペンシルバニア州スリーマイル島原発(TMI)で、放射能を含んだ蒸気が噴出するという大事故が起こる。その後の調査で炉心の核燃料の半分近くが溶融し、残りの部分の大半が粉々に崩れていることが分かり、当時としては史上最悪の原発事故となった。原発の危険性が現実のものとなったわけで、TMI事故は日本はもちろん世界中を震撼させた。国内でも同年七月には関西電力大飯原発一号炉でECCS*44が商業用原発史上初の誤作動を起こし、十一月には関西電力・高浜原発一号炉で大量の冷却水漏れ事故が起き、原発の危険性は決してアメリカのみの問題ではないことが明らかとなる。さらに一九八一年四月、原子力政策が抱える問題点を一挙に噴出させるような出来事があった。日本原子力発電敦賀原発放射能漏れ事故を起こしたのだ。それまでに他の原発などで起こっていた放射能漏れのトラブルが全て施設内だったのに対して、敦賀原発の場合は付近の海草や土砂などから異常に高い放射能が検出されたため大問題となった。このように、『新・ゴジラ』公開に至るまでの期間は、事故によって原発の危険性が表面化すると共に、運転によって生み出される放射性廃棄物の処分問題、原発労働者の被ばく問題等々、それまでは見えなかった数々の問題点が次々と明らかになってきた時期であった。しかし、国の原子力政策が変更されることはなく、むしろ確実に進展していたのである。
 『新・ゴジラ』は、冒頭の嵐で遭難した船に乗り込んだ新聞記者・牧吾郎が巨大なフナムシに襲われる場面から始まる。フナムシの巨大化について、生物物理学者の林田信は政府関係者に「たかが数センチのフナムシがどうして巨大化したかといえば、ゴジラに寄生していたからです。ゴジラの体内から発する放射性物質を絶え間なく浴び続けることで巨大化したんでしょう」と説明する。また、牧の「ゴジラは動物なんですか。放射能が作り出した怪獣、化け物、ほとんどの人がそう思っていますが」という問いに対して、林田は「その化け物を作り出したのが人間だ。人間の方がよっぽど化け物だよ。ゴジラはいわば核兵器のようなもんだ。それも生きた核兵器だ。勝手気ままに動き回り、破壊を繰り返す。そのうえ、ゴジラの生命は不滅ときている」と応じた。
 ゴジラが最初に確認されたのは、ソ連のミサイル原潜が撃沈された際であった。これについて林田は牧に「ゴジラがその食性に従い、エネルギー源となる核分裂物質を求めてソ連原潜を襲ったのは明らかだ」と解説。さらに、牧が日本本土から一旦離れていることを指摘すると「しかし来るよ。必ず来る。ここにはゴジラの餌がある」と述べる。一方、ゴジラ出現を受けた政府の対策会議の席上では、統幕議長から新兵器「スーパーX」*45についての説明がされていた。「外装はチタン合金。集積回路にはプラチナを多量に使用して、かなりの高熱にも耐えることができるよう設計されている」「さらに現在、対ゴジラ作戦のためカドミウム砲の装備を急いでおります。カドミウムは原子炉の核反応を制御する働きがあり*46、ゴジラに対して有効と確信しております」というものだった。
 ゴジラの日本上陸地点は静岡県の井浜原発(仮名)*47であった。ゴジラは、原子炉建屋に至るとそこから炉心の容器を取り出す。それを見ていた林田は「あれは原子炉の炉心だ」と指摘。そして放射能測定器に走り寄ると中のオシログラフを見入る。何の異常も感知していない。さらに林田は「ゴジラが全部吸収してしまったんだ」と叫んだ。炉心容器を抱えたゴジラの背びれが青白く発光する*48。ところで、林田は原発襲撃の際のゴジラの行動から、その帰巣本能を利用して特殊な超音波で三原山に誘導する作戦を考案した。その一方で林田は、牧たちに「原発で君たちは感じなかったか。三十年前、大戸島に現われたゴジラは伝説の怪獣と同一視された。世の中が乱れる時、天変地異が起こり怪獣が現われる。これは世界各地の伝説にみられることだ。ゴジラはまさしく人類の滅びへの警告なんだ。私はせめてゴジラを故郷へ帰してやりたいと願っている」と語る。
 ゴジラ対策として米ソの駐日大使、特使が三田村清輝首相を訪ねる。両国とも「アメリカはゴジラに対する有効な武器として、戦術核兵器の使用を決定しました」「ソビエト核兵器ゴジラに対抗することを決定しました」と通告し、核兵器の使用についての了解を求めた。ソ連特使は「ゴジラ撃滅の方法は戦術核の使用以外にない。貴国の同意を求めます」「爆発はごく狭い地域に限られ、精密な慣性誘導装置により正確にゴジラを葬れるのです」と主張するが、三田村は黙って聞き入るのみであった。その後の閣議では、次のようなやり取りが行われる。
官房長官:米ソの言う戦術核兵器というのはどの程度の規模のものですか?
防衛庁長官:えー、核威力は双方とも十キロトン。広島型原爆の約半分と聞いてます。
官房長官ゴジラが東京へ上陸したと仮定した場合どの程度の被害が予想されますか?
国土庁長官:えー、予測は不可能です。
官房長官科学技術庁長官、戦術核の場合は?
科技庁長官:三平方キロの地域が完全破壊されます。しかし、住民等の避難誘導さえうまくいけば…。
大蔵大臣:つまり、戦術核を使用した方が被害が少なくてすむ。この際、やむを得ないんじゃないかな。
通産大臣:大蔵大臣、そう簡単に結論を出さんでほしい。核を使用した場合の放射能汚染の問題はどうなるのかね?それにゴジラに対して絶対に核が有効だという保障は?
大蔵大臣:万が一首都圏が壊滅すれば経済的にも日本は半身不随だ。通産大臣はそこのところがおわかりになっとらんらしい。
通産大臣:私が申し上げてるのは、戦術核が本当にゴジラに対して…。
自治大臣:それは誰にも分からんだろう、やってみなければ。
統幕議長:よろしいでしょうか。戦術核というものは、実戦の小規模な戦闘に使われてこそ初めて効果のある兵器です。ところが米ソは、これまで何度もチャンスがありながら、実戦では使いそびれてきました。つまり…。
官房長官:米ソは実験をしたがっていると。
統幕議長:そうです。
自治大臣:なるほど、それで足並み揃えたってわけか。
外務大臣:総理、米ソの申し入れを蹴った場合、日本が外交的に孤立するということも。
 
 最後に三田村は「皆さんのご意見は承りました」と述べて席を立つ。
 閣議後、再び米ソ大使らと会談した三田村は、「我が国には非核三原則というものがあります。核は作らず、持たず、持ち込ませず。今度の場合も、私はこれを順守したいと考えます」と述べる。するとソ連特使は「あなたの国のエゴイズムだ!」と怒り「現に我が国の原潜はゴジラに撃沈されている。我々には報復する権利がある」と主張。アメリカ特使も「今は原則論を語っている時ではない!」と抗議すると、三田村は「こういう状況だからこそ、私は敢えてこだわるのです。安全な核兵器などあり得ません。そして一度使われてしまえば、抑止力としての均衡が破れ、世界の破滅につながります。それが核というものです。非核三原則が我が国のエゴイズムだと言われるのなら、それは認めざるを得ません。しかし、核を使いたがるのもアメリカとソ連のエゴイズムではないでしょうか」と述べた。最終的に三田村は米ソ最高責任者と直接話し、核の使用は避けられる。「米ソ両首脳にはどのように話されましたか?」という官房長官の問いに、三田村は「もしあなた方の国、アメリカとソ連ゴジラが現われたら、その時あなた方は首都ワシントンやモスクワで、ためらわずに核兵器を使える勇気がありますかと。両首脳は納得してくれたよ」と答えたのであった。
 ついにゴジラは東京に上陸した。その際に、東京湾に入港中のソ連工作船が大破し、核ミサイルが誤射されてしまう。一方、林田は自身の作戦の完成を急いでいた。スーパーXの出撃を受けて牧が「カドミウムの溶液をゴジラの体内に吸収させると言ってますが、効果ありますかね?」と問うと、林田は「私はゴジラが原子炉だとは思ってない。その方法に興味はないよ」と答える。ゴジラに対して、スーパーXが口中にカドミウム弾を打ち込んだ。液体を吸収したゴジラの動きが止まり、ビルにもたれかかるようにして倒れる。作戦が成功したことを喜んだのも束の間、誤射された核ミサイルが東京に迫っていた。米軍の嘉手納基地から発射された迎撃ミサイルが命中し、東京での核爆発は免れたが、直後にオーロラのようなもので空が夕焼けのように染まって全ての電源が止まる。それに対して科技庁長官が「先ほどの異常事態ですが、宇宙空間や成層圏で核爆発が起きた場合、電磁衝撃波というものが生じ、その結果あのような…」と説明した。核爆発の影響で発生した落雷によって、ゴジラは再び目覚め今度はスーパーXを撃破する。誰もがあきらめかけたその時、林田の作戦が発動しゴジラ三原山へ誘導されていった。そして、最後は火口に飲み込まれていくのであった。
 『新・ゴジラ』における原子力に関する描写は、以上のようなものであった。第一作を強く意識した作品ということもあり、ゴジラ核兵器放射能を改めて結びつける描写が目立っている。さらに、新たな視点としてゴジラ原発を結びつけたことは注目に値するであろう。そして、映像技術の進歩ゆえに、一つ一つの描写が非常にリアルであったことが強く印象に残る作品でもあった。だが、映画を観終えた後で筆者は大きな違和感を覚えたのである*49。それは、核兵器をめぐる描写では様々な問題提起がなされていたのに対して、原発をめぐる描写では何ら問題点の指摘がなかったことに起因している。ゴジラ原発襲撃後の林田の「人類の滅びへの警告」という台詞も、どのような「滅び」を意味するのか、少なくとも作品中では曖昧だった。その違和感から、二つの大きな疑問が導かれてくる。一つは、原子力に関心のない人々(大人も子どもも含めて)が、果たしてどこまで映画で描かれた世界と現実とを結びつけ得たのかということだ。そしてもう一つは、そもそもこの映画でゴジラが伝えようとしたメッセージは何だったのかということであった。
 
決して触れられない社会の状況
 さて、『新・ゴジラ』から第十七作『ゴジラVSビオランテ』(一九八九年十二月公開)までには五年間のブランクがあったが、その間に原子力の「平和利用」をめぐって歴史的な大事件が起こった。一九八六年四月にソ連で起こったチェルノブイリ原発の核暴走爆発事故である。環境中に大量の放射能が放出され、それが周辺各国はもとより数千キロ離れた日本にまで降り注いだのだった。この事故をきっかけに、世界各国(もちろん日本でも)で原子力の「平和利用」に対する不安が増大し、さらには反対運動が急速に広まっていったのである。事故後三年で公開された『ゴジラVSビオランテ』は前作の続編という設定で、ゴジラが襲撃した直後の新宿からのテレビ中継に始まる。CCNのスーザン・ハーンが「東京都内の非常警戒体制は解除されましたが、西新宿一帯は立入禁止のまま。スーパーXの回収作業。残留放射能、汚染物質の調査が続けられています」とリポート。自衛隊員らが放射能防護服やマスクに身を包んで作業する様子が描かれた。ゴジラの皮膚組織を採取している自衛隊員はガイガーカウンターを片手に調査を進めていたが、放射能の存在を示す音は常に鳴り続けている、というシーンでスタートするのであった。
 この作品に登場するビオランテは、遺伝子工学の権威である白神(博士)が、ゴジラ細胞と植物、人間の細胞を操作して作り出した怪獣ということになっている。さらに、ゴジラを倒すために開発された武器が、同様に遺伝子工学によって製造された「抗核エネルギーバクテリア(以下、抗核バクテリア)」であるというように、全体を通じて流れるテーマは遺伝子工学、遺伝子操作の是非であった。自衛隊の黒木(特佐)らに、遺伝子工学の若きエース・桐島(博士)は抗核バクテリアについて「アメリカでは既に、遺伝子操作により石油を食べるバクテリアを完成し、海の石油汚染に対して実用化しています。同じように、原発事故などの放射能汚染に対する有効な手段として考えられたのが、核物質を食べるバクテリア、抗核エネルギーバクテリアなんです」と説明する。そうした設定がなされた作品であるため、原子力関連の描写は随所に現われるが、特に原発に関する描写を抜き出してみると次のようになる。
①大河内財団の総帥が桐島に「原発事故のような核汚染で、国家の存亡に関わるような事態が起こらない限り、永遠にゴジラ細胞は封印されるはずだった」と語るシーン。
ゴジラが消耗した核エネルギーを補充するために原発に向かうと黒木が指摘し、ゴジラの進路から最も近い原発を示すと、官房長官らが「高浜四、大飯二、美浜三、動燃ふげん一、敦賀二。全部で十二基*50。日本の原発の三分の一だ。そんなところに行かれちゃ…」「一つでも原子炉を破壊されれば日本は…」という会話を交わすシーン。
③若狭に進んできたゴジラ自衛隊が応戦するが、その行く手を阻むことができずゴジラは高浜原発に迫る。「高浜原発、緊急態勢」「高浜原発、緊急態勢最終段階」などの連絡と共に警報が鳴り響くシーン*51。
 チェルノブイリ原発事故の影響からか、ゴジラ・シリーズの中で初めて「原発事故」という想定が描かれたことは注目に値するであろう。また、作品の最後で白神が「ゴジラでもビオランテでもない。本当の怪獣はそれを作った人間です」と述べていることなどから、「科学技術の暴走に対する警告」というメッセージは明確に描かれていた。しかし、作品中で「チェルノブイリ」という言葉が一度も登場しなかった*52ばかりか、当時の日本社会で原子力の「平和利用」の是非を問う議論が盛んに行われていたという状況には、一切触れられてはいないのだった。さらに、大河内の「原爆とゴジラにひどい目に遭わされた日本が、ゴジラ細胞から核を超える兵器を作っても、決して悪いとは思わんがね」という意味深長な台詞すらあったことを付け加えておく。
 『ゴジラVSビオランテ』以降の作品については、原発をはじめとした「平和利用」に関連した描写のみを、以下に抜き出してみた。
●第十八作『ゴジラVSキングギドラ』(一九九一年十二月公開)
①二十三世紀の世界からタイムワープしてきた地球連邦機関のウィルソンが、日本政府に対して「我々がこのたび二十世紀の日本に来たのは、二十三世紀の日本が死滅してるからです」と述べ、さらにグレンチコが「一言で言うと核汚染です。二十一世紀、日本は再び活動を始めたゴジラにより致命的な破壊を受けます。都市の破壊はもちろんですが、特に原子力発電所の破壊による核汚染は、長い間にわたって日本全土に広がり、ついに日本のほとんどは人が住めなくなってしまうのです」と説明するシーン。
②消滅させたはずのゴジラが再び出現した際に、グレンチコが「二十世紀は我々の時代と違って、地球上の至る所に核がある。考えてみれば、どこに恐竜をワープしようとゴジラの誕生は避けられなかったかも知れないな。我々がせっかく抹殺してやったのに、愚かな時代。救いようのない原始人どもだ」と述べるシーン。
●第十九作『ゴジラVSモスラ』(一九九二年十二月公開)
関連する描写はない。
●第二十作『ゴジラVSメカゴジラ』(一九九三年十二月公開)
①製造中のメカゴジラの現場で「核融合炉テスト開始30分前」のアナウンスがあり、さらに今井が「動力 はレーザー核融合炉。燃料は衛星軌道上に生成される重水素・ヘリウム3ペレット。外部装甲板は 超耐熱合金NT-1」と説明するシーン。
ベーリング海のアドノア島で発見されたプテラノドンの化石、及び卵の調査に来た大前(博士)らの前にラドンが出現した際に、大前と桂木が「プテラノドンが巨大化した。核の影響か何かで、ゴジラと同じ事がプテラノドンにも起こったんだ」「そういや、ここら辺は使用済み核燃料の墓場ですよ」というやり取りをするシーン。
●第二十一作『ゴジラVSスペースゴジラ』(一九九四年十二月公開)
関連する描写はない。
●第二十二作『ゴジラVSデストロイア』(1995年12月公開)
※この作品は、ゴジラの体内構造を原子炉に見立てた上で、その内部で核暴走反応が起き最後はゴジラの死に至るというストーリーであった。
原子力エネルギーの専門マービン教授が「ご存じの様に、ゴジラの動力源、つまり人間でいう心臓部は原子炉といわれている。その心臓部で、今、何かが起っている」と報告するシーン。
②「この海水温の高い数値は、ゴジラの中で正常な冷却機能をはるかに超える核分裂が起っていることを裏付けていると思います」という報告を受け、山根健吉が「ゴジラのエネルギーである核分裂は、体内の水分によって制御され、空気から吸い込む二酸化炭素で冷却されコントロールされていた。それが、バース島の異変によってバランスを崩し、核分裂が飛躍的に活性化した」と説明し、さらに「ゴジラは果てしなく暴走するか、あるいは核爆発を」「想像も出来ませんが、地球上のどんな核兵器よりも巨大な爆発エネルギーだと考えておいた方がいいでしょう」と説明するシーン。[ゴジラが国会 議事堂前で核爆発し、炎が燃え広がっていく想像場面]
豊後水道ゴジラが出現したことについて、健吉が「狙いは原子力発電所だ。核分裂が異常に高進しているのだから、核燃料を欲しがるのは当然です」と述べた際、麻生が「ゴジラ原発を襲うというのに、我々は何も手を出せんのか!」と言ったことに対し、国友が「ここで攻撃を加えてもし核爆発を誘発したら、原発一つの被害の何十倍、何百倍もの惨事です」と答えるシーン。
④スーパーXⅢについて麻生が「自衛隊が開発していた多目的の防衛攻撃能力を備えた新兵器で、原発事故や核兵器による攻撃を想定して、強力なカドミウム弾を装備しています」等と説明するシーン。
ゴジラに対するスーパーXⅢの攻撃を見て、健吉が「冷凍弾で冷却し、カドミウムで制御する。完璧な攻撃計画だ」と述べるシーン。
⑥健吉が「ゴジラ核分裂が制御され始めたようです。見て下さい。青いラインが正常、赤いラインが現在の状態。カドミウムが制御剤として効いているようです」と述べ、核爆発が避けられると安堵した瞬間、ゴジラの心臓部の温度が900度を超えているという報告が入る。健吉が「何だって?核分裂が制御されているのに炉心がそれだけの高温ということは、内部から溶け出している…」と青ざめ、「ゴジラはどうなる」という麻生の問いに、健吉は「メルトダウン」「ゴジラの原子炉である心臓部が溶け出し、放射能をまき散らしながら周りのものを溶かし…」「水素爆発を起こして地球に穴を開けてしまう」と答えた。それに対し、麻生が「チャイナシンドロームというやつか」と述べるシーン。[メルトダウンの様子がコンピュータグラフィックで示される]。
ゴジラが東京でメルトダウンした際の対策として伊集院が「万一、ゴジラメルトダウンした場合、被害を最小限にとどめるためには冷却するしか方法はありません。炉心融解の瞬間に、冷凍兵器の全てを集中させるんです」と助言するシーン。
メルトダウンが始まり、ゴジラが白っぽく発光しながら苦しみもだえる。計器のα、β、γ線を示す値が急上昇する様を見た黒木が「ものすごい放射能だ」とつぶやくシーン。
⑨伊集院が「ゴジラが東京を死の街にして溶けていく」と言ったのに対して、ゆかりが「これが私たちの償いなの?」「科学を、核を弄んだ私たち人類の…」と述べるシーン。
 こうして列記してみると、実に様々な描写がなされているようであるが(全く描写がなかった作品の存在については後述)、『ゴジラVSビオランテ』と同様「平和利用」の現実、つまり原発自体に関する社会的な状況はほとんど描かれていないのだ。『ゴジラVSデストロイア』では、ゴジラが原子炉そのものと直接的に結びつけられていたため、原発事故が起こった場合の恐怖が描かれていたとする見方が可能かも知れない。しかし、それを示唆するような描写はなく、最後に「核を弄んだ…」という台詞の「核」が何を指すのかが曖昧であった(一九九〇年代でも、「核」という言葉は「原子力」とは切り離されて用いられていた)。しかも、「原子力」に関する描写においては「現実」と「非現実」を、専門家でなければ見抜けないほど巧みに混在させているため、実際の状況を把握することをより一層困難にしているのであった。
 
繰り返された「お子様ランチ化」
 度重なる引用になるが、前出・佐藤は『ゴジラVSモスラ』までのゴジラ映画の分析後、「このような焼き直し路線が、シリーズのさらなる行き詰まりを反映していることは疑いえない。(中略)このままシリーズを継続しようとすれば、何らかの形におけるお子様ランチ化は不可避に違いない」*53と予言していた。この予言は、まさに的中したと言えよう。つまり、ゴジラの存在理由である「原子力」を、核兵器のみならず「平和利用」(=現実に存在する原発)に結びつけたまでは良かったのだが、その「脅威」あるいは「恐怖」を描くことが『新・ゴジラ』のスタート時点から出来なかった。かつての「怪獣プロレス」は、SFXやCGを駆使した映像自体のリアルさ、カッコよさに取って代わり、それが再び子どもたちの「ウケ」を狙うことになっていく。また、「正義の味方」「子どもたちの味方」というゴジラ像も、『ゴジラVSメカゴジラ』以降、三枝美希を軸に主張された「ゴジラを好きになる」という捉え方で復活しているのである。
 さらに、かつての「お子様ランチ化」にはない要素が加わる。「原子力」の描写が全くなかった二作品においては、ゴジラとは縁の遠いテーマが、しかも非常に一般的なテーマがメインに据えられていたのだった。『ゴジラVSモスラ』では、深沢の「二酸化炭素上昇による温暖化、オゾン層の破壊、ただでさえ地球が危ない方向だというのに、人間は平気で森林を伐採している。その上に隕石の激突です。大気の異常、海水面の上昇、海底プレートへの影響、このままじゃ地球は本当に危ないところへ行ってしまいますよ」という言葉に象徴されるように、環境問題全般をテーマとしていた。『ゴジラVSスペースゴジラ』では、「宇宙の汚染」については何一つ語られていないにも拘わらず、最後に権藤の「宇宙が汚され続けてゆくなら、いつ第二のスペースゴジラが現われるかも分からない。私たち人類への警告だわ」という台詞が唐突に出されたのだった。これはもはや、ゴジラの存在理由の隠蔽と言っても過言ではなかろう。こうして、子どもたちの目はますます、ゴジラの本質からそむけられていくのであった。
 一方、高橋敏夫は「ゴジラの存在感は映画のたびに確実に希薄化しつづけていた」と指摘している。「新しい映画の目玉はゴジラではなく、つぎつぎに登場する『VS怪獣』または『対ゴジラ兵器』であった。新しい怪獣ビオランテの美しさと哀しさ、超能力少女の連続登場、自衛隊の首都防衛戦闘機スーパーXの堂々の出撃、かつての人気怪獣キングギドラモスラの復活、ゴジラ細胞のおそるべき活用、最初のゴジラ東京湾の海底に葬ったオキシジェン・デストロイヤーにかかわる謎の怪獣の出現等々…話題はいつも豊富すぎるほど豊富だった。新しい映画のたびに、新しい話題満載の大量の図解本が書店にならんだ。しかし、それはゴジラそのものをめぐる話題ではなかった」*54というのだ。筆者も全く同感である。すなわち『新・ゴジラ』以降の作品においては、ゴジラ自身から「原子力」に関するメッセージが何ら伝わってこないのであった。これは、かつて「水爆怪獣・ゴジラ」のイメージが消えていった状況とほとんど同じであろう。
 こうした傾向は、『ゴジラVSデストロイア』から四年のブランクを経て復活した、第二十三作『ゴジラ2000』(一九九九年十二月公開)以降の五作品*55でも、基本的に変わることがなかった。一九九五年十二月に高速増殖炉もんじゅ」でナトリウム漏れによる火災事故が発生し、一九九六年八月には新潟県巻町で東北電力原発計画に対して国内初の住民投票が行われ、原発反対が過半数を占めた。そして一九九九年九月、茨城県東海村ウラン燃料加工施設JCOで死者二人を出し、日本の原子力産業史上で最悪となった臨界事故が発生するなど、原子力政策の上で重大な出来事が国内で相次いでいたにも拘わらず、それが作品にはほとんど反映されなかったのである。唯一、問題提起を含んでいると思われたものは、第二十四作『ゴジラ×メガギラス・G消滅作戦』(二〇〇〇年十二月公開)の冒頭部分である。まずテレビニュースに「一九六六年茨城」の字幕が出た。「ゴジラの東京襲撃から十二年後、操業を開始したばかりの我が国初の原発東海村原子力発電所が、ゴジラによって破壊された」というナレーションと共に、ゴジラ原発を破壊する様子が描かれる。場面が変わり、首相官邸前からの実況で走り出てきた記者が「たった今、総理が決断しました」と報告。スタジオと「原子力発電の永久放棄ですか?」「その通りです」というやり取りが行われた。そして、国会の審議場面が映され「ゴジラ上陸の原因が原子力発電所放射能であるとの研究結果を受け、日本政府は原子力発電の永久放棄を決定したのである。その後、増加する電力需要に対処すべく、政府は水力、火力、ソーラー、風力などの発電に力を入れたが、原子力発電を補うまでには至らなかった。そこで…」というナレーションが流れるというものだった。
 しかしこの描写の場合は、直前の映画ニュースの中で「(一九五四年のゴジラ東京襲撃後)首都は大阪に移され、新生日本は力強く歩み出したのであります」というナレーションと共に、大阪城に隣接して国会議事堂が建っているシーンが挿入されるという手法で、観客に対して「フィクション」であることが予め明確に示されていたのである。さらに、ゴジラの破壊を受けない、原子力に代わるクリーンなエネルギーとして「重水素を原料とするプラズマ発電を完成させた」というエピソードが、なぜクリーンなのかという説明もないまま続く。結局、そのプラズマエネルギーを開発した施設もゴジラによって破壊される…という長いイントロダクションの後で本編に入るのだが、二〇〇一年の東京には新幹線の代わりにリニアモーターカー*56が走行しているのであった。せっかく、新しい視点の問題提起をしていたにも拘わらず、文字通り「子どもだまし」の設定や描写によって台無しになっている。このような描写から浮かび上がってくる深刻な問題は、以前の「お子様ランチ化」は子どもたちでも見抜けるものであったが、新たに繰り返された「お子様ランチ化」は、子どもはもちろんであるが、大人たちでさえある程度の予備知識がなければ気付かないほど、巧妙になっているということだ。
 
おわりに
 筆者は冒頭で「ゴジラが一貫して発し続けたメッセージは『核』と、それに連なる『原子力』に関するものだった」と述べた。しかし、これまで述べてきたように、大人たちの子どもたち対する一方的な思い込みによって(「平和利用」に関しては政治的配慮という別の思惑が働いていたのかも知れないが…)、そのメッセージがある時は歪められ、ある時は全く覆い隠されてしまい、主たる受け手だった子どもたちにはほとんど届かなかったというのが実態であろう。その結果、未だに「核の脅威」は去らず、原子力政策も見直されることがないまま日本は「原子力大国」への道を突き進んでいるのだ。それだけではない。それらの現実が存在することすら知らない大人たち(かつての子どもたち)が、時代と共に増え続けているのである。
 論文における記述としては甚だ不適切であることを承知の上で、ここで改めて、ゴジラの立場になって、どうして五十年もの間、日本を襲い続けたのかについて考えてみる。一九五四年の初上陸の時点で役割を終えたとも言われ、時には本論で触れたように識者たちの酷評に遭い、時にはその存在理由さえ脅かされながらも、ゴジラは繰り返し日本にやって来た。それはなぜか。筆者は、ゴジラがどうしても子どもたちに自分の発するメッセージを伝えたいがためだったと思うのである。「核」というもの、「原子力」というものと、どのように向き合っていけば良いのか、子どもたちに考えるきっかけを与えたかったのではなかろうか。「人間は、勝手だと思います。特に大人は、かってだと思いました。原子力は、安全だといっておきながら爆発して、動物たちを殺して、安全だといって、汚染された食べ物があることをだまっといて、本当に勝手です。またそのもれた放射能を私たち子供たちに片づけてもらおうなんて…。(6年七組 江田かずみ)」*57。こうした感性を持った「子どもたち」なら、必ず理解してくれるものと信じて、ゴジラはメッセージを発し続けたのであろう。作品のエンディングでは、ゴジラが海に帰っていくシーンが最も多い。その後ろ姿が、どことなく寂しげで、時には悲しげに見えてしまうのは筆者だけであろうか。それは、メッセージを届け得なかったゴジラの無念を表しているのかも知れない。
 「核(核兵器)」の問題はもちろんだが、「原子力」の「平和利用」については解決せねばならない問題が山積している。原発事故の危険性は言うに及ばず、老朽化した原発廃炉問題、技術者の空洞化の問題、余剰プルトニウムの処理問題、高レベル放射性廃棄物*58処分の問題等々…。そしてこれらの問題は、次世代、次々世代、場合によっては遠い未来の世代まで影響を及ぼすばかりか、これから生まれてくる子どもたちにも、既に解決する責任が負わされているものなのだ。だが実際には、原子力施設などの当該地域周辺を一歩離れたところでは、人々の間に原子力政策に関する議論はおろか関心すら存在していない。そして、未来を担う子どもたちの多くは、重い責任を負わされているにも拘わらず、問題の所在を知る機会すら持っていない(持たされていない)のである。最後に、『ゴジラ2000』のエンディングで篠田が発した「ゴジラは俺たちの中にいるんだ」という言葉について、筆者なりの解釈を述べておく。それは、「日本には、少なくとも五十二頭のゴジラが生息しており、何かのきっかけで突然、私たちを襲ってくるかも知れない。しかし、ゴジラを日本に呼び寄せ、育てているのは私たち自身に他ならないのだ」というものだ。ゴジラは、今も私たちの身近に在るのである。

[文中敬称略・引用は原文のまま・映画の登場人物は配役名]
 
【参考文献】
小林豊昌『ゴジラの論理』、中経出版、1992
高橋敏夫『ゴジラの謎・怪獣神話と日本人』、講談社、1998
佐藤健志『さらば愛しきゴジラよ』、読売新聞社、1993
ミック・ブロデリック編『ヒバクシャ・シネマ』、現代書館、1999
田中友幸他『ゴジラ・デイズ ゴジラ映画40年史』、集英社、1993
野村宏平編『ゴジラ大辞典』、笠倉出版社、2004
名取弘文『子どもと話そう原子力発電所』、農文協、1989
中村桂子『科学技術時代の子どもたち』、岩波書店、1997
武谷三男原子力発電』、岩波新書、1976
野真典和他『ゴジラ研究読本』、パラダイム、2000
サーフライダー21『ゴジラ研究序説』、PHP、1998
サーフライダー21『ゴジラ生物学序説』、ネスコ、1992
柳田理科雄ゴジラVS柳田理科雄』、メディアファクトリー、2004
川北紘一監修『僕たちの愛した怪獣ゴジラ』、学習研究社、1996
和泉正明『公理的ゴジラ論』、アートン、1998
未来防衛研究所ゴジラ自衛隊』、銀河出版、1998
 

(弁護士・金原徹雄のブログから)
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