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石橋湛山『大日本主義の幻想』(大正10年)を日本ペンクラブ電子文藝館で読む

 今晩(2017年4月12日)配信した「メルマガ金原No.2780」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
石橋湛山大日本主義の幻想』(大正10年)を日本ペンクラブ電子文藝館で読む

 私には、内閣総理大臣まで務めた政治家の文章を読みたいというような嗜好は全くなく、回想録の類などとんと読む機会がありません。本当は、そのような著作を系統立って読めば、それなりに得るものはあるでしょうし、近代日本政治史を勉強しようという人にとっては、必須の素養かもしれませんが、いかんせん、私にはそのような時間がありません。
 ただし、そんな私にも、かつて1冊だけ、元内閣総理大臣の回想録を読む機会がありました。ただし、その回想録が書かれたのは、執筆者が内閣総理大臣に就任する5年以上前のことだったのですが。
 
 その回顧録というのが、自由民主党第二代総裁、1956年(昭和31年)12月、鳩山一郎の後を継いで、内閣総理大臣に就任したものの、翌年1月、急性肺炎で倒れ、翌月、首相の職責を果たせないとして内閣総辞職を選択、在任期間わずか65日間であった石橋湛山(いしばし・たんざん)が、1951年(昭和26年)に毎日新聞社から刊行した『湛山回想』です(歴史上の偉人として、あえて敬称は省略します)。

 私が読んだのは岩波文庫版ですが、「読んでみたい」と思ったきっかけは、同じ石橋湛山の、政治家に転身する前のジャーナリスト(主に東洋経済新報で健筆をふるった)としての主要な評論をまとめた『石橋湛山評論集』(松尾尊兌編/岩波文庫)を一読し、非常な感銘を受けたことによります。

 私の手許にある岩波文庫版『石橋湛山評論集』は、1992年10月15日発行の第16刷ですから、私が入手して読んだのは、おそらく発行から1~2年以内のころ、私が弁護士になってまだそれほど経っていない駆け出しのころだったはずです。
 
 岩波文庫版『石橋湛山評論集』の表紙カバーには、以下のような惹句が掲載されています。
 
(引用開始)
明治44年から敗戦直後まで、『東洋経済新報』において健筆を揮った石橋湛山(1884-1973)の評論は、普選問題、ロシア革命、三・一独立運動満州事変等についての評論のどれをとっても、日本にほとんど比類のない自由主義の論調に貫かれており、非武装・非侵略という日本国憲法の精神を見事なまでに先取していた。39編を精選。
(引用終わり)
 
 幸い、同書は品切れにはなっていないようなので、いつでも入手可能です。
 廉価で入手できますので、是非通読していただきたいのですが、どんなことが書かれているのか、そのほんのさわりですが、全39編のうちの12編の読みどころが引用されているサイト(一般財団法人 石橋湛山記念財団)があります。
 その12編のタイトルを掲げておきます。

  
国家と宗教及び文芸
  維新後婦人に対する観念の変遷
  青島は断じて領有すべからず
  禍根をのこす外交政策
  一切を棄つるの覚悟
  大日本主義の幻想
  行政改革根本主義
  市町村に地租営業税を移譲すべし
  世界開放主義を提げて
  敢えて婆心を披瀝し新内閣に望む
  更正日本の針路
  日本防衛論
  
 ここでは、晩年の昭和43年に発表した「日本防衛論」の有名な一節のみご紹介しましょう。

(引用開始)
 
重ねて言うが、我が国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす。したがって、そういう考え方をもった政治家に託すわけにはいかない。政治家の諸君にのぞみたいのは、おのれ一身の利益より先に、党の利益を考えてもらいたい。党のことより国家国民の利益を優先して考えてもらいたいということである。
 人間だれでも、私利心を持っている。私は持っていないと言ったら嘘になる。しかし、政治家の私利心が第一に追求するべきものは、財産や私生活の楽しみではない。国民の間に湧き上がる信頼であり、名声である。これこそ、政治家の私利心が何はさておき追求すべき目的でなければならぬ。そうでないなら、政治家をやめて他の職業に変わるがいい。もしも政治家諸君がこのような心構えを持ってくれたら、国民の政治に対する不信感は払拭され、愛国心もおのずから湧き上がる。言論機関は、このような政治家を声援し、育成する努力を払ってもらいたい。
(引用終わり)
 
 さて、政治史的な観点からは、湛山らが首唱した「小日本主義」を語るべきなのでしょうが、それだけの準備も見識も持ち合わせぬ身としては、是非、『石橋湛山評論集』、なかんずく「小日本主義」を代表する論文「大日本主義の幻想」を読んでくださいと言うにとどめるしかありません。
 ・・・なのですが、実は、この「大日本主義の幻想」全文をフリーで公開しているサイトがあることに最近気がついたのです。
 石橋湛山の没年は1973年であり、50年の著作権保護期間が切れるまでまだ数年待たねばなりませんので、いくら「青空文庫石橋湛山」で検索しても一編もヒットしません。
 ところが、日本ペンクラブが運営する「電子文藝館」にこの「大日本主義の幻想」(大正十年七月三〇日・八月六日・一三日号「東洋経済新報・社説」)全文が掲載されていたのです。
 「電子文藝館」に掲載された作品には様々なものがあるようですが、著作権保護期間内の作品は、著作権者(同継承者)の許諾を得た上での掲載であることは言うまでもありません。詳しくは「電子文藝館」のトップページをご覧ください。
 
 以下に、「大日本主義の幻想」の中から、とりわけ有名な箇所を引用しますが、是非「電子文藝館」で全文を読むとともに、岩波文庫石橋湛山評論集』を入手して通読されますよう、心よりお勧めします。
 
大日本主義の幻想  石橋湛山
(抜粋引用開始)
 
朝鮮台湾樺太も棄てる覚悟をしろ、支那や、シベリヤに対する干渉は、勿論やめろ。之実に対太平洋会議策の根本なりと云う、吾輩の議論 (前号に述べた如き) に反対する者は、多分次ぎの二点を挙げて来るだろうと思う。
(一)我国は此等の場所を、しっかりと抑えて置かねば、経済的に、又国防的に自立することが出来ない。少なくも、そを脅さるる虞(おそれ)がある。
(二)列強は何れも海外に広大な殖民地を有しておる。然らざれば米国の如く其国自らが広大である。而して彼等は其広大にして天産豊なる土地に障壁を設けて、他国民の入るを許さない。此事実の前に立って、日本に独り、海外の領土又は勢力範囲を棄てよと云うは不公平である。
 吾輩は、此二つの駁論(ばくろん)に対しては、次ぎの如く答える。第一点は、幻想である、第二点は小欲に囚えられ、大欲を遂ぐるの途を知らざるものであると。
(略)
 軍備に就ては、此頃、いろいろの説が流行する。けれども畢竟(ひっきょう)、之を整うる必要は、(一)他国を侵略するか、或は(二)他国に侵略せらるる虞れあるかの二つの場合の外にはない。他国を侵略する意図も無し、又他国から侵略せらるる虞れもないならば、警察以上の兵力は、海陸ともに、絶対に用は無い。さて然らば我国は、何れの場合を予想して軍備を整えておるのであるか。政治家も、軍人も、新聞記者も異口同音に、我軍備は決して他国を侵略する目的ではないと云う。勿論そうあらねばならぬ筈である。吾輩も亦まさに、我軍備は他国を侵略する目的で蓄えられておろうとは思わない。併し乍ら吾輩の常に此点に於て疑問とするのは、既に他国を侵略する目的でないとすれば、他国から侵略せらるる虞れのない限り、我国は軍備を整うる必要のない筈だが、一体何国から我国は侵略せらるる虞れがあるのかと云うことである。前には之を露国だと云うた。今は之を米国にしておるらしい。果して然らば、吾輩は更に尋ねたい。米国にせよ、他の国にせよ、若し我国を侵略するとせば、何処を取ろうとするのかと。思うに之に対して何人も、彼等が我日本の本土を奪いに来ると答えはしまい。日本の本土の如きは、只遣(や)ると云うても、誰れも貰い手は無いであろう。されば若し米国なり、或は其他の国なりが、我国を侵略する虞れがあるとすれば、そは蓋し我海外領土に対してであろう。否、此等の土地さえも、実は、余り問題にはならぬのであって、戦争勃発の危険の最も多いのは、寧ろ支那又はシベリヤである。我国が支那又はシベリヤを自由にしようとする、米国が之を妨げようとする。或は米国が支那又はシベリヤに勢力を張ろうとする、我国が之を然(そう)させまいとする。茲(ここ)繭(に)戦争が起れば、起る。而して其結果、我海外領土や本土も、敵軍に襲わるる危険が起る。されば若し我国にして支那又はシベリヤを我縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州、台湾、朝鮮、樺太等も入用でないと云う態度に出づるならば、戦争は絶対に起らない、従って我国が他国から侵さるると云うことも決してない。論者は、此等の土地を我領土とし、若しくは我勢力範囲として置くことが、国防上必要だと云うが、実は此等の土地を斯くして置き、若しくは斯くせんとすればこそ、国防の必要が起るのである。其等は軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起った結果ではない。
(略)
 以上の諸理由に依り吾輩は、我国が大日本主義を棄つることは、何等の不利を我国に醸(かも)さない、否啻(ただ)に不利を醸さないのみならず、却って大なる利益を、我れに与うるものなるを断言する。朝鮮、台湾、樺太満州と云う如き、僅かばかりの土地を棄つることに依り広大なる支那の全土を我友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我道徳的支持者とすることは、如何ばかりの利益であるか計り知れない。若し其時に於て尚お、米国が横暴であり、或は英国が驕慢(きょうまん)であって、東洋の諸民族乃至は世界の弱小国民を虐(しいた)ぐるが如きことあらば、我国は宜しく其虐げらるる者の盟主となって、英米を膺懲(ようちょう)すべし。此場合に於ては、区々たる平常の軍備の如きは問題でない。戦法の極意は人の和にある。驕慢なる一、二の国が、如何に大なる軍備を擁するとも、自由解放の世界的盟主として、背後に東洋乃至全世界の心からの支持を有する我国は、断じて其戦に破るることはない。若し我国にして、今後戦争をする機会が事あるとすれば、其戦争は当(まさ)に斯くの如きものでなければならぬ。而かも我国にして此覚悟で、一切の小欲を棄てて進むならば、恐らくは此戦争に至らずして、驕慢(きょうまん)なる国は亡ぶるであろう。今回の太平洋会議は、実に我国が、此大政策を試むべき、第一の舞台である。
大正十年七月三〇日・八月六日・一三日号「社説」
(引用終わり)
 

(付録)
『僕らは熊野(ここ)で歌ってゆく 笠木透さんに捧ぐ』 作詞・作曲・演奏:松原洋一
 
※紀宝9条の会、くまの平和ネットワーク、そして「わがらーず」の松原洋一さんによる演奏です。