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「原発がこわい女たちの会ニュース」第101号が届きました~祝結成30年!

 今晩(2017年4月15日)配信した「メルマガ金原No.2783」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
原発がこわい女たちの会ニュース」第101号が届きました~祝結成30年!

 松浦雅代さんから、「原発がこわい女たちの会ニュース」の第101号が届きました。
 前回、第100号をお送りした時、とりたてて100号を祝賀する記念号とはならず、「普通の100号」が届いたことをご紹介した上で、「この流れでいけば、3ヶ月後には「普通の101号」が届き、半年後には「普通の102号」が届くのでしょうね。」と予想しました。
 その予想は半ば当たり、半ば外れました。
 増頁もせず(いつものように8頁立て)、ことさら外部から祝辞を貰ったりすることもなく(松浦さんからの依頼であれば喜んで書いてくれる方はたくさんおられるはずですが)、普段着のままの編集ぶりであり、まさに「普通の101号」でした。
 けれども、今回は、松浦雅代さんに加え、梅原清子さん、山本美佐子さんが、「原発がこわい女たちの会」結成30年にあたっての所感を寄稿されており、武藤類子さんを招いた「結成30年のつどい」の告知と併せ、いつもと違う特別号的雰囲気が漂っています。ただし、それは、ニュース100号到達によってではなく、結成30年という節目の年を迎えたからということですが。
 
 ところで、その「原発がこわい女たちの会結成30年のつどい」です。
 福島原発告訴団団長、ひだんれん共同代表などの重責を担われている武藤類子(むとう・るいこ)さんの存在が、多くの国民に知られるようになったのは、2011年9月19日に東京の明治公園で開かれた「さようなら原発5万人(6万人)集会」での武藤さんの衝撃的なスピーチがYouTubeにアップされてからだったと思います。
 感動のあまり、スピーチ全文を文字起こしした人が何人もおり、実は、私もその1人でした。といっても、私の場合は、「みんな楽しくHappy♡がいい♪」に掲載された文字起こしをベースにして、これを厳密に校正しただけですが((必読!)スピーチ書き起こし9/19「さようなら原発5万人(6万人)集会」)。
 私のブログから、スピーチ書き起こしを本稿末尾に再掲しておきますので、是非お読みいただければと思います。
 
 さて、その武藤類子さんの和歌山での初めての講演なので、是非とも駆け付けようと思いますが、ここではたと困ったことに気がつきました。開催日である5月28日(日)の午後といえば、先月このメルマガ(ブログ)でもご紹介した「第一回 ラブ&ピースライブ和歌山~平和を祈るコンサート」がライブハウス「オールドタイム」で開催される日ではありませんか。それも、時間帯ももろにバッティングしている(速報・第一回 ラブ&ピースライブ和歌山~平和を祈るコンサート(5/28@ライブハウスOIDTIME)/2017年3月12日)。
 正直、私としては「一体どうしたらいいんだ?」と頭を抱える心境です(身体が2つ欲しい!)。私と同じ心境の人も多分少なくないと思いますよ。
 
 そういう困った事態は事態として、それでは「原発がこわい女たちの会ニュース」第101号をお届けします。是非じっくりとお読みください。
 

原発がこわい女たちの会ニュース NO101号・2017年4月11日発行
事務局 〒640-0112和歌山市西庄1024-15 TEL・FAX073/451/5960松浦雅代方
新ブログはこちら⇒原発がこわい女たちの会ブログ 
http://g-kowaiwakayama.seesaa.net/

原発がこわい女たちの会結成30年のつどい
福島原発事故7年目の今
ゲスト・
武藤類子さん
  ◯日時:2017年5月28日(日)14:00~16:30
  ◯会場:和歌山ビック愛9階 会議室C
  ◯会費:無料 だれでも参加できます。

 
武藤類子さんは現在福島県の三春町(みはるまち)にお住まいです。
101号武藤類子 2011年9月19日「さようなら原発集会」(明治公園)における武藤類子さんのスピーチは感動させるものでした。女の会76号に全文載せました。(私たちは静かに怒りを燃やす東北の鬼です)という言葉が入っています。
 福島原発の責任を正す告訴運動⇒東電の責任を追及する運動にかかわってこられ、現在福島原発告訴団長として活躍されています。この6年間大変なご苦労をされてきたと思います。和歌山で初めて講演していただきます。福島県で何が起きているのかを、お聞きしたいと思います。是非参加下さい。
 なお、写真は、2014年10月24日和歌山県日高町阿尾(元原発予定地)に立つ武藤類子さんです。
 大阪の女たちが武藤類子さんを少し骨休みさせようと、関西での講演の前に日高町方杭の「波満乃家(はまのや)」に招待した時の写真です(撮影・松浦)。
 
(金原注)2011年9月19日に明治公園で開催された「さようなら原発5万人(6万人)集会」には、和歌山からも何人もの方が参加されましたが、その内、故・寺井拓也さんと松浦雅代さんの参加記を私のメルマガに転載させていただき、その後、ブログに掲載しています(寺井拓也さんと松浦雅代さんの『さようなら原発5万人(6万人)集会』参加記)。
 

◇報告・3月4日(土)深刻化する福島の状況 
フォルテワジマ6階ボランティアサロンC会議室にて
 
福島の人たちの苦しみ ~健康相談から見えること~
 として山崎知行氏(医師)に話していただきました。
     
※山崎知行氏は、和歌山県岩出市に岩出診療所を開設されています。チェルノブイリに何度も赴き原発事故の被害に向き合われた方。3.11の後は、日本キリスト教団大阪教区より派遣されて、毎月欠かさず数日間を福島で子どもの健康相談に応じて来られました。
 
101号山崎知行講演会福島県の「県民健康調査」における甲状腺がんの診断とその問題点。福島県で多発している小児甲状腺がんですらも、福島県原発事故との関連を否定し、子どもたちを切り捨てる健康検査縮小のキャンペーンが行われようとしている。
チェルノブイリ原発の現状を参照すると、甲状腺がんには放射性ヨウ素以外の核種の影響も疑われ、また事故の影響は小児甲状腺がん以外の白血病、肺がんなど多種のがん、循環器系、消化器系疾患など非がん性疾患が疑われている。
〇福島では空間放射線量20ミリシーベルト/年未満という汚染地域の避難指示が3月末で解除されようとしている。これはチェルノブイリでは強制避難ゾーンであり、原子炉施設等で立ち入りが規制される放射線管理区域ですら5ミリシーベルト/年であるにもかかわらず。廃炉作業中の東京電力福島第一原発構内を福島の高校生に車窓より見学させるなど、原発事故の被害を極力小さく見せたい国の意図が透けて見える「福島のエートス運動」も問題である。
 
CIMG6930山崎さんは、むこうでの自分の役割は専門的な医療相談というよりも、「生活レベルでの交通整理」と言われます。原発事故によって、様々な無数の心配事をかかえ込まされたお母さん方。その心に寄り添うという行為がいかに必要とされていることか、しかしその態勢がいかに不足していることか。「復興」の妨げになるような言動は表面的には一切出てきません、と言われるような息苦しい社会がすでに強固に存在するのです。
 
そんな中で被災者の心に寄り添う営みを長い間続け、信頼関係を確かなものにしてこられたのです。「(福島から遠く離れた)私たちはどうすればいいのか、なにができるのか」という私たちの問に、「たとえば子どもたちの保養を引き受け、とにかく福島の人たちと関わり続けることです」と明快でした。
 
お話の前に視聴したスベトラーナ・アレクシェービッチさん(ノーベル文学賞受賞者)の昨年福島訪問時ビデオとともに、何ができるかを考え続けたいと思います。
 
●山崎さんから是非読んでくださいと書籍紹介
『心の除染という虚構』 著者・黒川祥子氏 集英社 (2017/2/24発行)

  
この記事のブログは下記にあります。
 
(金原注)この日は私も参加し、当日の私のブログでも少し触れています。山崎先生の写真は、私のブログから転載しました。
 

3・11甲状腺がん子ども基金
未公表の4歳児へ給付
 
投稿者: ourplanet 投稿日時: 金, 03/31/2017 - 01:58
 
99号甲状腺がん子ども基金マーク 甲状腺がんの子どもを支援しているNPO法人「3・11甲状腺がん子ども基金」は31日、福島県の公式データには含まれていない事故当時4歳児に、療養費を給付したと発表した。同基金の崎山比早子代表理事は、「現在、福島県で公表されているデータは、福島県で発症している小児甲状腺がんの一部にすぎないと強く認識した。」と批判している。
 基金によると、子どもは事故当時4歳の男児で、福島県民健康調査の2巡目の検査で2次検査を受診。経過観察を経て、2015年に穿刺細胞診で悪性と診断されたという。昨年の前半に、すでに甲状腺の摘出手術を終えている。
 
 事故当時4歳の症例は、県民健康調査のデータとしてこれまで公表されていない。このため、同基金は給付に先立ち、県民健康センターに照会したところ、センターからは「2月20日の発表に間違いはなく、該当される方はいない」との回答があったという。さらにセンターは30日、ホームページを更新し、経過観察に移行している子どもは、県に報告しているデータに含まれていないことを認める内容を掲載した。
 甲状腺検査のあり方を議論している福島県民健康調査「検討委員会」は昨年3月、小児甲状腺がんの多発は「放射線の影響とは考えにくい」とする「中間とりまとめ」を公表。その理由のひとつに「事故当時5歳以下の子どもがいない」ことを挙げていた。また昨年12月には、日本財団が主催した国際会議を受けて、福島県医大副学長の山下俊一らが、福島県知事に提出した「検査縮小」を求める提言書でも、0歳から4歳の子どもがいないことが、「甲状腺がんの多発は被ばくの影響とは考えにくい」とする根拠の一つにあげていた。
 これについて、崎山氏は「低年齢の方にがんが増えていないことが、放射線の影響が考えにくいという根拠の一つになっていた。しかし、今回のように2次検査で保険診療に移行し、経過観察している方が2500人いる。この中にも手術した人がいるかもしれない。それが分からない状態になっており、非常に問題がある」と述べた。
 
 3・11甲状腺がん子ども基金は昨年12月から、甲状腺がんの子どもに療養費の給付を開始。2月末までの4ヶ月間に、計72人に830万円を給付した。これまでの給付状況は以下の通り。(金原注:「これまでの給付状況」一覧は下記リンク先でご覧ください)
※RIはRI治療(アイソトープ治療)適応患者の人数
◎注 数字はあくまで公募に応募した人の数字です。
 
(金原注)引用先のOurPlanet-TVの記事「未公表の4歳児へ給付~甲状腺がん子ども基金」はこちらです。
 また、上記記事の元となった「3・11甲状腺がん子ども基金」(崎山比早子理事長)による3月31日の記者会見の動画もご紹介しておきます。OurPlanet-TVによるダイジェスト動画と、木野龍一さんによるノーカット動画が見つかりました。
未公表の4歳児へ給付~甲状腺がん子ども基金(4分55秒)

3・11甲状腺がん子ども基金会見(ノーカット)(44分)

 

はじめて原子炉を見学して
                        西郷 香
 
 京都大学原子炉実験所は、JR阪和線熊取駅から山側に路線バスで10分のところにあります。ここは核エネルギーの応用と中性子等の粒子線・放射線の利用に関する実験・研究をする所で、広大な敷地の中に様々な施設が点在しています。
 原子炉の熱出力は最大5千kwで、発電用原子炉に比べればとても小さいものです。

 2017年2月2日、私達(「子どもたちの未来と被ばくを考える会」主催)は10人で見学しました。
 正門前に立つと、撮影禁止の表示と空間線量の測定器があり、鉄条網が張り巡らされ、ここが核施設であることがうかがわれます。
 入口の警備員室で、全員住所氏名年齢を書き身分証明書を見せて中に入ります。入口付近の会議室で施設全体の説明を聞いた後、放射線管理区域である原子炉建屋のある棟と液体廃棄物処理施設を見学しました。放射線管理区域への出入には必ず体の放射能を測定します。
 原子炉建屋へは分厚い2重の扉を開け入ります。燃料棒・制御棒の説明を受け、運転停止中だったので、鉄階段を上がり原子炉の内部ものぞき込むことができました。
 液体廃棄物処理施設では、放射線管理区域から出たものはすべて、クーラーの水も除染処理(放射性物質を薬品に吸着沈殿)して排水しています。沈殿した汚泥は濃縮しドラム缶に詰めて保管されていました。ドラム缶は行き場がなく増える一方だそうです。
 複雑な配管設備とこの小さな原子炉でも使用済み核燃料以外に放射性廃棄物が大量に発生するということが印象に残りました。 
 又、東京都北千住と福島県南相馬市川房の土壌中のセシウム137の測定の様子を見せていただきました。南相馬の数値は110万Bq/㎡で北千住の50倍以上でした。
 
 福島第一原子力発電所は、原子炉の熱出力が1~6号機計1419.7万kwで、京都大学原子炉の約3千倍ある核施設です。
 2011年3月、原子炉建屋が爆発、1~3号機が炉心溶融放射能が大量に拡散しました。原子炉には近づくこともできず、6年たってようやく一部確認された2号機の圧力容器下部の黒い塊、内部の放射線量は 数十秒で死に至るレベル、1~3号機のプールには使用済み核燃料が残されたままで、事故収束 には程遠い状態です。
 その中で、政府は年間20ミリシーベルト(職業被ばく限度の年平均)以下を条件に原発事故に伴う避難指示の解除を進めていて、この3月末から福島県の4町村を相次いで解除しました。それは、区域外避難者の住宅の無償提供の打ち切り、賠償の段階的打ち切りとセットになっています。
 私達が放射能測定して出入りした放射線管理区域(年5ミリシーベルト限度)以上、原発労働者と同じ基準の中で日常生活を送ることを子供も含む避難者に強いているのです。
 町村では除染(移染?)は行われていますが、除染土を詰めたプレコンパックが積み上げられたところがあり、山も海も除染はしていません。帰らないことを選択するのも当然のことです。国と東電が住めなくしてしまったのだから、どちらを選んでも支援を続けていく責任があります。
 
 4月6日今村復興相は避難者が戻れないのは「本人の責任でしょう。裁判でもなんでもやれば」と発言しました。帰還を急がせ、事故収束を見せかけたい政府の本音が現れています。
 

原発がこわい女たちの会」結成30年を迎えて
                            梅原清子

 
 私の記憶に残っているこの間のことを少し振り返ってみます。といっても、ずっと主体的に熱心に関わったともいいがたいので、まだら模様となりますが。
 1980年代前半、この会の母体となったといえる主婦の学習グループ「ぺんぺん草」の集まりに顔を出したのが始まりでした。いろいろなテーマで講師を招いて議論したり紙芝居をつくったり自主映画の上映をしたり…社会に物申す自由闊達な活動を目にしました。「原子力」もテーマのうちの一つでした。最初、「原発って危ないものなんやで」と聞いても、「ゲンパツって何?危ないって何が?」というのが私の現実でした。当時、和歌山県下でも原発立地に反対運動が続けられていたにもかかわらず、です。
 原発の危険性を実感したのは、1986年のチェルノブイリ原発事故でした。ウクライナの肥沃な穀倉地帯が放射能で汚染され無人化したこと、遠く離れた極北のラップランドにもホットスポットが生じたこと、などを慨嘆し、チーズやナッツなどヨーロッパからの輸入品は買い控えたことも覚えています。原発の恐ろしさに気付いた主婦が書いた『まだ、まにあうのなら』(甘蔗珠恵子、地湧社、87年)という小冊子がベストセラーになりました。
 原発がこわい女たちの会は翌87年3月に結成されました。会のネーミングについては、インパクトがあるということで決まりました。確かにおぼえてもらいやすい名称です。同時に「紀伊半島に原発はいらない女たちの会」のネットワークも結成されました。この88年~90年頃は、日高町原発立地をめぐり、日高町で事前調査を漁協が廃案、日置川、日高町長選挙戦など熾烈な住民運動が展開されました。ただし私自身は現地の運動にはほとんど関わることができず、世話人会への出席もなかなか叶いませんでした。私にできたことは、たまに会主催の講演会や催しに参加する、署名用紙が送られてくれば協力する、位のことに限られていました。
 それでも、女たちの会のメンバーも関わって被ばくしたウクライナの子どもたちを保養に招いた時(94年)には、わが家でもホームスティを受け入れました。娘と同じ15才の女の子で、一緒にピロシキを作ったり地域の中学校を訪問したりして、1週間足らずでしたが、それなりに交流を楽しみました。
 2011年3月の東日本大震災とそれに続く福島第一原発事故は、あまりの衝撃に夢を見ているような感じでテレビ、新聞を固唾をのんで見つめるだけ。東京に住む娘が電話口で、「(反対運動を)自分はなんにもしてこなかった…原発は危ないって知っていたのに!!」と涙声で叫ぶのを、黙って聞いていました。それは私自身のことでした。
 ちょうどこの年の3月末で退職となり、時間のゆとりもできて、いわば必然的に女たちの会の活動に向いていきました。
 30年のロングラン、正直なところ当初のメンバーは高齢化、転出や病気などあらがえない事情も生じています。運動体として盛衰はあれども、ともかく持続した。倦まず、ひるまずアンテナを高くして、その時々に力を出し合ってきた人たちがいた、ということでしょう。
 

結成30年に思う                      
                      松浦雅
 
 ぺんぺん草を入れると私の人生の半分以上は原発とかかわってきたことになる。
 なんとしても和歌山の原発を止めたいと思い必死になって仲間と動いてきた。誰一人として手を抜いていれば負けたであろうと言われたくらい厳しいものだった。現地の人たちが20年近く命をかけて、拒み続けて持ちこたえてくれていたからこそチエルノブイリの事故後の勝利を私たちも一緒に味わうことが出来た。
 
 2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が起き、危惧していたことが現実に起こってしまった。福島原発事故には大きな衝撃を受けた。原発の爆発事故が、この日本で起きているんだと戦慄を覚えながら、自分自身に言い聞かせていたのを思い出す。私は今まで何をしてきたのかという思いにも捉えられた。直ぐに避難指示が出された。私はただならぬことが起きていることは理解した。初日にメルトダウンしていたのに東電の発表は格納容器の冠水計画だと言っていた。小出さんがそのようなことは出来ない。とラジオ放送で発言していたのを聞いていた。5月15日になって初めて東電炉心溶融を認めた。
 京都大学原子炉実験所の今中さんに「まず情報を疑ってかかれ」と今までに何度も言われて来たのだが、こんなに嘘を並べられるのかと思うほど平気で「原子力ムラ」サイドのニュースをメデアは流した。あまりにもひどいNHKの話に私は抗議の電話を入れた。最初のころテレビに出ていた反原発派の人たちはすぐに見られなくなった。
 
 事故後しばらくは顔見知り程度の人からでも「松浦さんら、がんばってくれたんで、和歌山に原発建てられてないんやな、ありがとう」と言われた。「現地の人たちが長い間、闘ったから止まったんよ」と言いながら、私は戸惑っていた。日本でレベル7の原発事故が起きたことの重大さを考えてほしかった。小さな命が犠牲になることを止めることが出来ない。福島の原発事故はこれからが長い長い、始まりなのだと言いたかった。
 ぺんぺん草の時に京都大学原子炉実験所の反原発グループの専門家たちと出会えたのは、私たちにとっては幸運だった。手弁当で来ていただいて原発反対の正しさを学べたことは、会の継続につながったと思う。そのうえ中間貯蔵施設誘致や、白浜町日置に関電立地部が駐在している現実があった。
 そして福島の原発事故後の政府の対応は事故がなかったかのようだ。
 多発している甲状腺がんの子どもたちを原発事故のせいだと認めない。
 原子力の推進派はチエルノブイリから国際的な企みを学んだようだ
 「この事故は大したものではなかった」と結論づけたいのだ。
 そんなことさせないためにも、原発を止めるためにも、まだ死ねないですね。
 

原発がこわい女たちの会の30年に思うこと
                          山本美佐子
 
 2011年3月16日、私の娘は前月に生まれたばかりの子と2人、やっと取れた早朝の新幹線切符で東京から和歌山に来ました。東京駅は子ども連れの母親でいっぱいだったとのこと。私はすでに福島原発メルトダウンが起きていると確信していました。孫のことを思うと、いても立ってもいられない思いでしたので、ひとまず安心しました。翌日、和歌山の娘の携帯に東京の区役所から「水道水でミルクを作るのは止めてください。○○でペットボトルの水を配ります。」というメールが届きました。
 25年前に、『こわい女たちの会』では京大熊取原子炉実験所の先生達に何度も来てもらい原発について学習していました。特に小出先生は「地震列島の日本に原発は正気の沙汰でない」とまで言っていました。それなのに・・・
 福島の人達を思うと強い自責の念が湧きました。和歌山の原発建設が無くなり、それで終わったような気でいたと気がつきました。福島では避難するにも留まるにも、正確な情報と、それを受け取る側にも知識が必要でした。ところが、どちらもが無いか不十分という状態だったのだと思います。それぞれが難しい自己決断を強いられ、地域や家族の中で軋轢が生じ、避難しても無理解に苦しみ、それが今も続いています。
 母親の立場から自分たちが学んだことを多くの母親に知ってもらわないといけないのに、私は今まで何をしていたのか。全国に原発はあるのですから、根気強く問題提起すべきだったのです。今ならインターネットを駆使していろいろな情報にアクセスできます。しかしそれは問題意識をもってこそなのです。
 1年で東京に戻り、仕事に復帰した娘は、孫の手を引き宇都宮健児さんや山本太郎さんの選挙に手伝いに行ったそうです。しかし反原発は容易ではありません。『こわい女たちの会』がJR和歌山駅で日高原発反対の署名活動をしていた当時、ずっと私達を見ている目つきの鋭い男性がいて、私が「おたくどちらさん?」と問うたら「私服(刑事)ですわ」と答えました。そうか原発は国策なのだと、その時思いました。だからその後の福島の事故当時にテレビで話す東京電力幹部の様子が、どこか他人事のように私には見えました。
 身近な地域で、全国各地で、司法の場で、政治の場で怖さを語り、反原発を訴えないとと、あらためて強く思うのです。
 

◇3月17日(金) 前橋地裁判決・原発事故避難・国の責任を認める。
 福島第一原子力発電所事故後に福島県から群馬県に避難した住民ら137人が国と東京電力に一人当たり1100万円の損害賠償を求めた集団訴訟の判決が17日前橋地裁であった。原道子裁判長は請求の一部を認め,国と東電に賠償を命じた。「国は津波の到達を予見できた。国が事故を防げなかったのは違法」として国の責任を認めた。
(金原注)この前橋地裁判決の評価については、まず「福島第一原発事故損害賠償請求事件 前橋地裁判決 弁護団声明」をご一読いただきたいと思います。
 
◇3月28日(火)高浜原発3・4号運転禁止仮処分裁判は大阪高裁で運転容認の判断。
◎高浜原発運転禁止仮処分滋賀訴訟申立人団・弁護団声明を同封。
(金原注)上記の「声明(高浜原発運転禁止仮処分滋賀訴訟申立人団・弁護団)」はこちらです。
 
◇3月30日(木)伊方原発3号運転差し止め仮処分裁判が広島地裁で却下。
伊方原発広島裁判原告団声明を同封。
(金原注)上記の原告団声明「広島地裁伊方原発3号機運転差止仮処分命令申立却下に寄せて」はこちらです。
       
裁判への声明文を同封しました。
いくつも原発裁判が行われています。とても分かり易いので読んでください。
 

◇4月4日(火)復興庁の今村大臣は、31日で住宅支援の打ち切りを迎えた「自主避難者」に対し、国に責任はなく、「自己責任」だと明言。「裁判でも何でもやればいい」と声をあらげた。最後は「二度と来るな」「うるさい」と怒鳴りながら、会見室を退室した。その後今村大臣は発言の取り消しと、お詫び参りをしているようだが、あの発言と、あの態度はどのようにして取り消せるのか。(この様子は映像で見られます・Ourplanet-TV)
(金原注)そのOurplanet-TVの動画です。
自主避難は「自己責任」~復興大臣明言(6分58秒)
 
 

◇2011年3月11日に原子力災害対策特別措置法に基づいて発せられた原子力緊急事態宣言は未解除のままです。
「避難指示の解除等に併せて」「緊急事態応急対策を実施すべき区域」だけが縮小中。
これってどういう意味かな? 
(金原注)上記文章の意味を理解するためには、原子力災害対策特別措置法の第15条(特にその2項)を読む必要があります(読んでも分かりにくいとは思いますが)。
原子力災害対策特別措置法(平成十一年十二月十七日法律第百五十六号)
原子力緊急事態宣言等)
第十五条 原子力規制委員会は、次のいずれかに該当する場合において、原子力緊急事態が発生したと認めるときは、直ちに、内閣総理大臣に対し、その状況に関する必要な情報の報告を行うとともに、次項の規定による公示及び第三項の規定による指示の案を提出しなければならない。
一 第十条第一項前段の規定により内閣総理大臣及び原子力規制委員会が受けた通報に係る検出された放射線量又は政令で定める放射線測定設備及び測定方法により検出された放射線量が、異常な水準の放射線量の基準として政令で定めるもの以上である場合
二 前号に掲げるもののほか、原子力緊急事態の発生を示す事象として政令で定めるものが生じた場合
2 内閣総理大臣は、前項の規定による報告及び提出があったときは、直ちに、原子力緊急事態が発生した旨及び次に掲げる事項の公示(以下「原子力緊急事態宣言」という。)をするものとする。
一 緊急事態応急対策を実施すべき区域
二 原子力緊急事態の概要
三 前二号に掲げるもののほか、第一号に掲げる区域内の居住者、滞在者その他の者及び公私の団体(以下「居住者等」という。)に対し周知させるべき事項
3 内閣総理大臣は、第一項の規定による報告及び提出があったときは、直ちに、前項第一号に掲げる区域を管轄する市町村長及び都道府県知事に対し、第二十八条第二項の規定により読み替えて適用される災害対策基本法第六十条第一項 及び第六項 の規定による避難のための立退き又は屋内への退避の勧告又は指示を行うべきことその他の緊急事態応急対策に関する事項を指示するものとする。
4 内閣総理大臣は、原子力緊急事態宣言をした後、原子力災害の拡大の防止を図るための応急の対策を実施する必要がなくなったと認めるときは、速やかに、原子力緊急事態の解除を行う旨及び次に掲げる事項の公示(以下「原子力緊急事態解除宣言」という。)をするものとする。
一 原子力災害事後対策を実施すべき区域
二 前号に掲げるもののほか、同号に掲げる区域内の居住者等に対し周知させるべき
事項
 

◇記
昨年の11月「汐見文隆さんを偲ぶ会」後の懇親会も終わり、参加者が帰ってもしゃべっていたのが「女の会」のメンバー5人でした。その後、月一で「編集会議」という名の集まりを続けています。今のところおしゃべり会ですが、今回そのメンバー4人が結成30年の一言を書きました。編集会議は誰でも参加可。今のところ集まりは夜の時間帯です。
 
◇5月28日(日)は福島県の武藤類子さんに来ていただきます。
原発がこわい女たちの会結成30年のつどい」会場はビック愛です。間違わないようにお願いします。
 
◇会計報告を同封します。今年度の会費を納入してください。
会費は一口1200円です。何口でも可です。振込用紙も同封しています。
カンパも集めています。
 郵便振替口座 01070-9-35841
 口座名 原発がこわい女たちの会
 

【「さようなら原発5万人(6万人)集会」での武藤類子さんスピーチ全文書き起こし】
 福島のみなさん、どうぞ一緒に立ちあがって下さい。
 みなさんこんにちは。福島からまいりました。今日は福島県内から、それから、避難先から、何台もバスを連ねて沢山の仲間たちとやってまいりました。初めて集会やデモに参加する人も沢山います。それでも、「福島原発で起きた悲しみを伝えよう」「私たちこそが原発いらないの声を上げよう」と声を掛け合い、誘いあってやって来ました。
 初めに申し上げたいことがあります。
 3.11からの大変な毎日を、命を守るためにあらゆることに取り組んできたみなさんひとりひとりを深く尊敬いたします。
 それから、福島県民に温かい手を差し伸べ、つながり、様々な支援をして下さった方々にお礼を申し上げます。
 ありがとうございます。
 そして、この事故によって、大きな荷物を背負わせることになってしまった子どもたち、若い人々に、このような現実を作ってしまった世代として、心から謝りたいと思います。
 ほんとうにごめんなさい。
 さて、皆さん、福島はとても美しいところです。東に紺碧の太平洋を望む浜通り。桃、梨、リンゴと果物の宝庫の中通り猪苗代湖磐梯山の周りに黄金色の稲穂が垂れる会津平野。その向こうを深い山々が縁取っています。山は青く、水は清らかな、私達のふる里です。
 3.11原発事故を境に、その風景に目には見えない放射能が降り注ぎ、私達は被ばく者となりました。大混乱の中で、私達には様々なことが起こりました。素早く張り巡らされた安全キャンペーンと不安のはざまで、引き裂かれていく人と人とのつながり。地域で、職場で学校で、家庭の中で、どれだけの人が悩み悲しんだことでしょう。
 毎日毎日否応なく迫られる決断。逃げる、逃げない。食べる、食べない。子どもにマスクをさせる、させない。洗濯物を外に干す、干さない。畑を耕す、耕さない。何かに物申す、黙る。さまざまな苦渋の選択がありました。
 そして今、半年という月日の中で次第に鮮明になってきたことは、
 「事実は隠されるのだ」
 「国は国民を守らないのだ」
 「事故はいまだに終わらないのだ」
 「福島県民は核の実験材料にされるのだ」
 「莫大な放射能のゴミは残るのだ」
 「大きな犠牲の上になお、原発を推進しようとする勢力があるのだ」
 「私達は捨てられたのだ」
 私達は疲れとやりきれない悲しみに深いため息をつきます。でも、口をついて出てくる言葉は、
 「私達をバカにするな」
 「私達の命を奪うな」
です。
 福島県民は今、怒りと悲しみの中から静かに立ち上がっています。「子どもたちを守ろう」と、母親が父親が、おじいちゃんが、おばあちゃんが、「自分たちの未来を奪われまい」と若い世代が、大量の被ばくにさらされながら事故処理に携わる原発従事者を助けようと労働者たちが、土地を汚された絶望の中から農民が、放射能による新たな差別と分断を生むまいと障害を持った人々が、一人ひとりの市民が、国と東電の責任を問い続けています。
 そして、「原発はもういらない」と、声を上げています。
 私達は静かに怒りを燃やす東北の鬼です。私たち福島県民は、故郷を離れる者も、福島の地に留まり生きる者も、苦悩と責任と希望を分かち合い、支え合って生きていこうと思っています。
 私達と繋がって下さい。
 私達が起こしているアクションに注目して下さい。
 政府交渉、疎開裁判、避難、雇用、除染、測定、原発放射能についての学び、そして、どこにでも出かけ、福島を語ります。
 今日は遠くニューヨークでスピーチをしている仲間もいます。
 思いつく限りのあらゆることに取り組んでいます。
 私達を助けて下さい。
 どうか、福島を忘れないでください。
 もうひとつ、お話ししたい事があります。
 それは私達自身の生き方、暮らし方です。私達は何気なく差し込むコンセントの向こう側を想像しなければなりません。便利さや発展が差別と犠牲の上に成り立っていることに思いをはせなければなりません。原発はその向こうにあるのです。
 人類は地球に生きるただ一種類の生き物にすぎません。自らの種族の未来を奪う生き物が、他にいるでしょうか?私はこの地球という美しい星と調和した、まっとうな生き物として生きたいです。ささやかでも、エネルギーを大事に使い、工夫に満ちた豊かで創造的な暮らしを紡いでいきたいです。
 どうしたら、原発と対極にある新しい世界を作っていけるのか、誰にも明確な答えは分かりません。出来ることは、誰かが決めたことに従うのではなく、一人ひとりが、本当に、本当に、本気で自分の頭で考え、確かに目を見開き、自分が出来ることを決断し、行動することだと思うのです。
 一人ひとりにその力がある事を思い出しましょう。私達は誰でも変わる勇気を持っています。奪われてきた自信を取り戻しましょう。
 原発をなお進めようとする力が垂直にそびえる壁ならば、限りなく横に広がり繋がり続けていくことが私達の力です。
 たった今、隣にいる人と、そっと手をつないでみて下さい。見つめ合い、お互いの辛さを聞き合いましょう。涙と怒りを許しあいましょう。今つないでいるその手のぬくもりを日本中に世界中に広げていきましょう。
 私たち一人一人の背負っていかなければならない荷物が途方もなく重く、道のりがどんなに苛酷であっても、目をそらさずに支え合い、軽やかに、朗らかに生き延びていきましょう。
 ありがとうございました。
(動画)9・19「さようなら原発集会」~6万人が参加(46分)

※武藤類子さんのスピーチは36分~46分です。 
 

(付録)
『七夕の夜』 作詞・作曲・演奏:松原洋一
 
※紀宝9条の会、くまの平和ネットワーク、そして「わがらーず」の松原洋一さんの演奏をお楽しみください。
 
あっ、星が流れたね 七夕の夜
二人で歩いた 川原の道
風鈴の音 子どもの声
足を取られて 君がよろけた
 浴衣の裾が 風に揺れる
 君といつまでも 七夕の夜
 
あっ、花火が上がったね 七夕の夜
二人で歩いた 川原の道
下駄の音 屋台の賑わい
お面を被って 君がおどけた
 短冊に書いた 願いはひとつ
 君といつまでも 七夕の夜
 
あっ、風が出てきたね 七夕の夜
二人で歩いた 川原の道
列車の音 鉄橋の影
窓の灯りに 君が見とれた
 懐かしい歌を 口ずさんでいる
 君といつまでも 七夕の夜
 君といつまでも 七夕の夜
 
※非売品CD『僕らは熊野(ここ)で歌っていく 「帰ってきた新曲たち」LIVE from FOLKS』(松原洋一/2016年1月20日)ライナーノートより
「こんな時代もあったんだなあ…と時の流れの早さに苦笑いやら、ため息つくやら…。さらにこの歌を気に入ってくれて地元の若いシンガーソングライターの方がカバーしてくれています。いやあびっくりするやら、嬉しいやら…。」